第十三章弐 白陵国側の静かな刃
――俺が、この国を正すのだ。たとえ手にかけるのが小娘であろうとも。
彗天中将の胸に棲む言葉は、いつしか呟きではなく決意に変わっていた。だがその決意は、激情に駆られた猖獗ではない。冷ややかで、計算された沈黙であった。激情が叫ぶ場面であれば、彼は既に手を出していただろう。しかし今は、刃を抜く時ではない。刃は正しく研ぎ澄まされ、いつでも振るえるように手元にあるが、それは見せてはならぬものだった。
彗天は、現状の自らの立場を巧みに利用していた。皇族警護の総責任者としての任は、表向きには重責を誇るだけの職務である。しかしその職務の名の下に、彼は白陵京の随所に手の届く網を張り巡らせた。皇帝の行路、玉座の間への出入り、白華と興華の動線。僅かな時間帯、食卓の配置、夜の警護交代表――些細に見える事柄こそが彗天の策略の要であった。
昼は堂々と、夜は静かに。彗天はいつでも視界に入る場所に陣取り、まるで忠実な執事のように振る舞う。氷陵帝の側近として、皇子皇女の護衛に携わる。白華が宰相や大司徒との会議へ向かえば、その通路に立ち、にこやかに礼を交わす。興華が近衛兵の訓練場に顔を出せば、彗天はわざと高みの位置から命じるように見守り、その動きを記憶する。まるで、全てが自然に回っているかのように――だがその自然の裏に、彗天の目は細かな地図を描いていた。
彼の部下たちは概して彗天を高く評価していた。硬骨で、軍律を重んじ、公私の区別を明確にする将だと。皇族たちに対しても礼を欠かさぬ。だが、彗天はその評価を利用する術を心得ていた。信頼を得ることが、最も鋭利な武器になるのだと知っているからだ。誰もが彼を「忠義の将」と呼び、彼の振る舞いに疑いを抱く者は少なかった。
だが、すべてが順風満帆というわけではない。雪嶺大将の鋭い眼は、彗天の熱心さをただの責任感以上のものとして感じ取っていた。老将の目は、長年の戦の勘と人を見る力を宿している。ある昼下がり、雪嶺は彗天に面談を申し入れた。会議室は狭く、窓の外では宮廷庭園の松葉が淡く揺れている。二人だけの時が滲んでいた。
「彗天」――雪嶺の声は静かだが確かだ。「お前、最近、皇族の警護に過ぎる熱意を見せている。何か気になることでもあるのか」
彗天はゆっくりと頭を下げ、柔らかく応じる。表情に波はない。 「大将。皇族の安全は国家の礎でございます。私が懸命に当たるのは当然のことと存じます」
雪嶺は少し目を細め、彗天の手元にある書類を指で弾いた。書類は彗天自らが整理した警護勤務表と、玉座の間への出入り記録だ。彗天の筆跡は正確で、事務は行き届いている。だが、雪嶺の眼には「行き届き過ぎ」に映る部分があった。出勤の僅かな時間差、護衛隊の交代順番の変更理由。どれもが合理的に説明できるが、その合理性はやや説明的で、計算された匂いを放っていた。
「職務に忠実なのは結構だ」――雪嶺はゆっくりと言葉を紡ぐ。「だが、忠誠が偏れば見落とすものもある。特にここ数月、陣営の外で妙な風が吹いている。黒龍宗の気配だ。お前は何か知っているのではないか?」
彗天の掌に汗はない。問いは重いが、答えは用意されていた。 「大将、私が知るところは、すべて上に報告しております。外部の怪しげな気配は、諜報にて対処すべきものと存じます。私の立場は、護衛にあります。護衛に徹する――それが私の務めです」
その一言を、彗天は凛とした口調で放った。表面的には潔い。だが雪嶺はその言葉の背にある「考え隠し」を嗅ぎ取った。老将の胸に、小さな波紋が立つ。
「ふむ」――雪嶺は頷き、だが言葉は続けた。「ならばよい。だが、何か変化があれば直ちに知らせよ。殿の側は戦より難しい。お前のような者が本当に忠義ならば、その目を曇らせるな」
彗天は深く礼を取った。口元には柔らかな笑みを浮かべる。だが内心は冷たく固まっている。雪嶺の疑いは、彼にとって想定の範囲内だ。むしろ老将の警戒心が強いうちは、露骨な動きは取りにくい。だからこそ、彗天はますます用心深く、静かに準備を進める。
――真の仕事は、今夜から始まる。
彗天は面談から離れると、暗い廊下の端に立ち止まり、短く鋭い息を吐いた。雨に濡れた瓦の匂いが、淡く鼻腔をくすぐる。彼は周到に用意した「諜報網」とわずかな「盟友」を思い返していた。密使から渡された袋、路地裏で接触した男たちの顔。いずれも小さな駒だ。駒は一つずつ動かせば、それはやがて大きな亀裂を生む。
それでも彼は、自らの手が血で汚れることに躊躇はなかった。白華が帝席の光の下で微笑うたび、興華が稽古場で汗を拭うたび、彗天の胸にくすぶるものは深く、そして個人的だった。彼の「正しさ」は、国のためではなく、深い怨恨と拗れた誇りから生まれているのだと――彼自身が一番よく知っていた。
雪嶺大将の面談は、彗天にとっては一つの試金石に過ぎなかった。彼は老将の懐疑心を上手くかわした。しかし、雪嶺の目はまだ彗天を追っている。老将が真に危惧するものは何か――彗天はそれを探り、そして利用する。暗い決意はますます強固になり、白陵国の石畳に小さな影が一つ、静かに落ちていった。




