第十二章拾参 二国に並行して忍び寄る影
秋雨が石畳を濡らし、首都は一面の鈍色に沈んでいた。宮廷の政務はいつも通りに進んでいたが、その裏側には、密やかに流れる違和感があった。
白華は政務補佐として帝の傍らに立ち、宰相や大司徒と共に国政の要を担っていた。興華もまた、近衛兵たちを率いて新しい規律を根付かせ、若者らしい清新さで周囲の兵から慕われていた。二人は皇族たちとの交流も深まり、華稜皇子や天華皇女らと宮中で言葉を交わすことも増えている。
――だが、その光景を苛立ちの眼差しで見ている者がいた。彗天中将である。
(あの小娘……。国境で取り調べをしたときの、あの無礼な態度を忘れたわけではない。それが今や、帝の傍らで寵を受けているだと? 俺が血を流し、剣を振るってきた年月を、あの若造どもが一瞬で掻き消してしまったのか……)
胸奥に渦巻く嫉妬と怒りを、彗天は押し殺していた。だがその表情は鋭く、密使の目には容易に読み取れる。
闇に紛れる黒龍宗の密使は、彗天の心の亀裂を確かに見ていた。
「……駒としては、凍昊よりも使えるやもしれぬ」
夜の報告で、密使は冥妃にそう告げた。
凍昊は既に長年、白陵国内で密かに繋がりを持ってきた。しかし彼は慎重すぎ、時に冥妃の命にも従わぬ節がある。対して、彗天は感情に脆い。嫉妬と屈辱を巧みに突けば、より大胆に動かせるだろう。
「いずれ、彗天を焚きつけ、凍昊をも処分させればよい。雪嶺大将も巻き込めればなおよし……」
冥妃の声は、氷の刃のように冷ややかであった。
密使は深く頭を垂れ、ひとつの駒が新たに配置されたことを確信した。
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その頃、遥か南の蒼龍国。都の外郭に広がる訓練場では、曹華が雷毅と共に稽古に励んでいた。槍と剣がぶつかる音は鋭く、兵たちが見守る中で二人は互角の攻防を繰り広げていた。
「はっ!」
雷毅の剣を弾き返し、曹華が素早く踏み込む。槍の穂先が喉元を掠めた瞬間、雷毅はわずかに笑った。
「……参ったな。やっぱり曹華には敵わない」
曹華は息を整えつつ、わずかに頬を染めた。
(雷毅……。彼の眼差しの中にあるものを、私は見てはいけないはずなのに)
その様子を遠くから見ている影があった。黒龍宗の密使である。
彼はすでに「空の袋」を渡した馬成と繋がりを持ち、さらに街の路地裏で出会った奇妙な男をも利用して、曹華の情報を集めていた。
「……あの娘と雷毅の関係。若さゆえの淡い心情。冥妃様が言われた通り、器の可能性は十分にある。だが、心の揺らぎを掴めば、崩すこともできるやもしれぬ」
馬成は、かつて牙們将軍の下にいた古参の兵であったが、いまは天鳳将軍の親衛隊に移された。密使は彼の不満を上手く突き、曹華の動向を監視させている。馬成自身も、曹華の強さに複雑な感情を抱いていた。尊敬と、そしてほんのわずかな苛立ち。
一方、路地裏の男は陰湿で猜疑心に満ちた性格で、街の噂話を集めることに長けていた。密使は二人を異なる「目」として使い分け、曹華を多角的に観察していた。
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こうして、白陵国では彗天が嫉妬の炎を胸に燻らせ、蒼龍国では曹華の周囲に見えぬ視線が幾重にも重なっていった。
冥妃は冷ややかな笑みを浮かべる。
「白陵国と蒼龍国――二つの器を囲む土壌に、ようやくひびが入り始めた。駒は揃い、盤は整った。あとは時を待つのみ」
その声は、冥府殿の暗き空間に溶け、重く響いた。
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帝の傍らで政を担う白華。
兵を率いて清廉な姿を見せる興華。
剣と槍を交わしながら成長する曹華と雷毅。
誰もが、それぞれの役割を果たし、未来を信じて歩んでいた。だがその歩みの背後には、確かに「忍び寄る影」が迫っていた。
まだ小さな違和感。まだ言葉にできぬ亀裂。だが、それはやがて二国を揺るがす嵐の前触れであった。




