第十二章拾 揺らぐ鼓動と影の眼
蒼龍京の空は秋の色を帯び、澄んだ青に乾いた風が吹き抜けていた。
曹華は槍を携え、訓練場の中央に立っていた。彼女の歳はすでに二十一。去年の今頃に比べて線の細さは和らぎ、鍛え抜かれた筋肉としなやかさが一体となった肢体は、兵たちの目に「女武人」という言葉を自然と想起させた。
その姿勢は凛とし、瞳は鋭い。だが、そこには冷徹さだけではなく、どこか人間らしい柔らかさが差すようになっていた。彼女の成長を、雷毅は誰よりも近くで見てきた。
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剣と槍がぶつかり、乾いた音が訓練場に響く。雷毅の剣が曹華の槍を払う。曹華はすぐさま体をひねり、槍を水平に走らせた。
「速い……!」
雷毅は後退して受け流したが、頬に一筋の汗が伝う。
「雷毅、手が止まっているわよ」
曹華は冗談めかしながらも、目は真剣だ。
「止まっているんじゃない、見惚れていたんだ」
口にした直後、雷毅は慌てて笑みを取り繕った。
曹華は一瞬、槍を構えたまま動きを止める。だがすぐに息を吐いて槍を引いた。
「……そういう余計な言葉は、剣に力を込めてから言うことね」
訓練を見守る兵たちの間から笑いがこぼれる。曹華も雷毅も赤らんだ頬を隠すように槍と剣を交差させ、再び稽古を続けた。
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訓練が終わり、兵たちが引き上げた後。曹華は槍を磨きながら、心の奥に波紋が広がっていることを否応なく感じていた。
(二十一歳になった今、私は「駒」であることを選び続けている。将軍府を支え、この国を守る。そのために感情は押し殺すと誓ってきた。だが……雷毅の言葉や笑顔に、心が揺れることがある)
その感情を「弱さ」と断じてきた。だが今は、それを完全に否定しきれなくなっている。
夜、寝所で独りになると、白華と興華の顔を思い浮かべる。そして同時に、雷毅の姿も浮かぶ。義務と人間らしさの狭間で揺れる自分に、曹華はまだ答えを出せずにいた。
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その姿を、影がじっと見つめていた。
黒龍宗の密使である。
彼は街の片隅で兵士たちと交わり、密かに曹華の行動を観察してきた。とりわけ「空の袋」の男――馬成を通じて、曹華の一挙手一投足が黒龍宗に伝えられている。
(……やはりこの娘は、ただの副隊長ではない。二十一にして将軍府の兵から慕われ、将軍にも信頼され、雷毅のような若者の心を揺らしている。冥妃様が目を留められるのも当然だ)
密使は口元を覆い、目を細めた。
「器の可能性……いや、それ以上に、人を惹きつける力を持つ娘。早まる必要はない。だが――崩すとすれば、恋心が最も脆い」
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その頃、馬成は親衛隊兵舎の片隅で革袋を開き、小さく浮かぶ文字を覗いていた。
《観察を続けよ。特に、曹華と雷毅の関わりを》
短い指示に、馬成は複雑な顔をする。
(俺は……ただの兵だ。だがこの袋を開くたびに、胸の奥がざわつく。曹華殿のような人を裏切ることなど、本当にできるのか?)
彼は自らに問いながらも、革袋を懐にしまった。
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もう一人の観察者――奇妙な路地裏の男も、曹華を追っていた。
彼は密使とも一線を画し、時に笑いながら呟く。
「恋に揺れる娘は、器にして駒。駒にして器。どちらに転ぶか、楽しみだな」
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その日、夕暮れの城門。曹華と雷毅は並んで歩いていた。訓練の帰り道、互いに言葉は少ない。
雷毅がふと口を開く。
「曹華殿。もし……いつか戦がなくなったら、あなたはどうしたい?」
曹華は立ち止まり、沈黙した。心の奥で抑えてきた願いが一瞬、顔を覗かせる。だがすぐに微笑んで答えた。
「……その日が来たなら、答えるわ。今はまだ、戦の只中だから」
雷毅は頷き、それ以上は問わなかった。
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遠くで鐘の音が鳴る。
曹華の背を、雷毅が見つめ、そして影の眼もまた見つめていた。
彼女の心が揺らぐほど、黒龍宗は嗤い、密使は記録し、馬成は葛藤し、路地裏の男は興味を深める。
――二十一歳の曹華。義務と恋情、冷徹と柔らかさ、その狭間で揺れる彼女の鼓動は、まだ誰にも知られぬまま、確かに強さと脆さを抱えていた。




