第十二章漆 違和感
蒼龍国の都、蒼龍京。
石畳に照り返す陽光は柔らかいのに、曹華の胸の奥にあるざわめきは晴れなかった。
ここしばらく――何かが街の空気を変えている。
それは言葉にできぬほど曖昧で、手を伸ばせば霧のように消える。だが確かに、いつもの日常とは違う「軋み」のようなものがあった。
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その日、曹華は数名の部下を率い、城門付近の警邏に出ていた。
兵たちは槍を肩に、いつも通りの調子で歩いている。だが曹華の瞳は、街路を行き交う人々のわずかな表情や仕草に釘付けになっていた。
屋台の主人が不自然に声を潜める。
子どもが走り抜けた瞬間に、路地裏の影がひとつ揺れる。
すべては偶然かもしれぬ。だが、何かが噛み合っていない――そんな不快な感覚があった。
「曹華殿、大丈夫ですか?」
傍らの若い兵が気遣うように声をかけてきた。
曹華は小さく微笑み、首を振った。
「ええ、何でもないわ。ただ……街の空気が少し、変わった気がして」
兵は首を傾げ、不思議そうに曹華を見たが、それ以上は問わなかった。
その背を見つめながら、曹華は心の中で呟く。
(白華姉様……興華。二人も、同じような違和感を感じてはいないだろうか)
彼女の願いは切実だった。白陵国に「正体不明の若者を氷陵帝が庇護している」という噂。それが姉と弟であると信じたい。
だからこそ、この胸騒ぎが無関係であるはずがない――そう直感していた。
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一方その頃、白陵国の首都。
政務の場で白華は宰相や大司徒に随行し、案件の整理を行っていた。
若き補佐官の姿は日に日に堂々とし、周囲の視線はますます熱を帯びていく。
だが白華自身は、どこか「流れの詰まり」を覚えていた。
文書は進むのに、会議は滞る。誰かの意図が水脈に石を落としたような、小さな澱みが広がっている。
「白華殿、これはどうお考えですか」
清峰宰相の問いに即答した白華は、内心でふと眉をひそめた。
(議題の筋は正しい。けれど……見えぬ手が絡んでいるような、そんな気配がある)
その夜、興華は訓練場で汗を流していた。
近衛兵を相手に模擬戦を終え、息を整えたとき、背筋を撫でるような視線を感じた。
「誰だ!」と振り返るが、そこにあるのは闇だけ。
「気のせいか……」
自分にそう言い聞かせても、胸の奥に沈む違和感は消えなかった。
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白陵国の宮廷を遠巻きに観察していた黒龍宗の密使は、ほくそ笑んだ。
「……器たちも、無意識に感じているか」
白華も興華も、すでに只者ではない。ゆえにこそ、小さな歪みも見抜き始めているのだろう。
蒼龍国でもまた、別の密使が市場の陰から曹華を見つめていた。
彼女が部下と笑顔を交わす姿を観察しながら、心中で呟く。
「この娘もまた“器”か……冥妃様が注目する理由が分かる」
街の空気に違和感を覚える曹華の感性。それは鋭い直感であり、ただの娘では決して持ち得ぬ資質だった。
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その夜。
蒼龍京の曹華は、城壁の上から月を仰いでいた。
(なぜかしら……胸がざわつく。白華姉様、興華……あなたたちは無事よね)
白陵国の宮廷では、白華が文巻を閉じて深いため息をついていた。
(政務は順調に見える。けれど、見えぬ流れが絡んでいる気がする……。これ以上、何も起こらなければいいのだけれど)
興華は兵舎の寝台で目を閉じられずにいた。
(誰かに見られている……。俺は鍛えられてきたから分かる。あれは……ただの錯覚じゃない)
三人それぞれが、違う場所で、同じ「影のざわめき」を感じ取っていた。
それは決して気のせいではなかった。黒龍宗の密使たちが、確かに三人の周囲で動き始めていたのだ。
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夜が更け、雨が石畳を濡らしていく。
曹華は胸騒ぎを抱えたまま眠りにつき、白華は灯りを消してもなお思索を止められず、興華は寝返りを繰り返した。
そして、遠く冥府殿では黒蓮冥妃が静かに笑んでいた。
「……器とは、やはり自ら気付くものだな。違和感は成長の証。ならば、もう少し揺さぶってみようか」
その言葉は冷ややかに闇へ溶け、やがて大陸全土を覆う嵐の前触れとなって広がっていった。




