第十二章陸 影の報せ
雨がしとしとと降り続き、白陵国の宮城の瓦を濡らしていた。
昼間の政務を終えた白華が帳簿を整え、興華が近衛兵たちの訓練を終えて兵舎へ戻るころ、ひとつの影が静かに首都を離れていった。
それは黒龍宗の密使。冥府殿に報せを届けるためである。
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冥府殿に戻った密使は、黒蓮冥妃の前に跪いた。漆黒の広間に響く声は、冷えた雨を思わせた。
「冥妃様。ご命じられた観察の報告にございます。白華と興華は、氷陵帝の庇護のもとで地位を固めつつあります。白華は政において宰相や大司徒をも凌ぐ才を示し、興華もまた近衛の兵をまとめ、若き将のような振る舞い。器としての成長、順調にございます」
冥妃は薄く目を細めた。その瞳は紅玉のように冴え、氷の奥に燃える炎を宿す。
「……やはり、あの二人は器に違いない」
密使はさらに言葉を重ねる。
「しかし、直接の手出しは時期尚早かと。帝や雪嶺大将の庇護の下、守りは固い。ゆえに周囲を探りましたところ、ひとつの影を見出しました。彗天中将――」
その名に冥妃の眉がわずかに動く。
「彗天……あの男か」
「は。彼は白華に対して強い敵意を抱いております。国境で捕えた際に受けた屈辱を、いまも根深く恨んでいる様子。しかも、白華が帝に寵を得た今、その憎悪は日に日に膨らんでいる。……凍昊よりも、はるかに使えましょう」
冥妃の唇に冷ややかな微笑が浮かぶ。
「凍昊は氷陵帝と雪嶺の古き友。利用価値はあるが、もはや役目は終わりつつある。ならば――彗天をけしかけ、凍昊を処分させるのも一興だ。雪嶺も巻き込めばなお良い」
「御意」
密使の背筋に冷気が走った。冥妃の言葉は、雪嶺という巨石すら崩そうとする冷徹な企みを孕んでいた。
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一方、蒼龍京に潜むもう一人の密使もまた、報せを携えて冥府殿へ戻っていた。
「蒼龍国においても、観察は続けております。件の娘――曹華。将軍府の副隊長として若き兵をまとめ、天鳳将軍の帰還を支えました。その才覚と胆力、冥妃様が注目されたのも当然のこと」
冥妃は静かに頷く。
「……やはり、あの娘も器のひとりである可能性が高い。だが、まだ確信には至らぬ」
密使はさらに報告した。
「我らは曹華の周囲に網を広げつつあります。“空の袋”を与えた馬成は、天鳳将軍の親衛隊に属する兵。彼の心には牙們将軍への未練が残っており、少しずつ乾き始めた剣のように利用可能。さらに、街の路地裏で出会った奇妙な男とも繋ぎを取りました。……この二人を通じて、曹華の動向を監視しております」
冥妃の目が光を増す。
「面白い。曹華の器の真偽を見極めるには、彼女の心の揺らぎを測るがよい」
「は。報告の中で、ひとつ気づいたことがございます。曹華は雷毅という若き武人と、互いに心を寄せているように見受けられます。まだ淡い情にすぎませぬが、器であるならば、その心の揺らぎこそ隙となるやもしれません」
冥妃は口元に微笑を浮かべ、紅の爪を顎に添えた。
「若き娘の恋心か……。器といえど、人の子に違いない。愛もまた、力を崩す楔となろう。良い。引き続き監視せよ。曹華を揺さぶる隙は必ず訪れる」
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二人の密使が退いた後、冥妃は玉座に凭れ、ひとり静かに目を閉じた。
闇の中で、白華、興華、曹華――三つの影が心に浮かぶ。
「三つの華。いずれも器の候補……。ならば、我が冥府に招き入れねばなるまい」
その声は、氷の刃のように鋭く、同時に炎のように熱を孕んでいた。
「だが、拙速は許されぬ。器を壊すことは、我が目的を損なうのみ。まずは裂け目を広げ、国を揺らし、彼らの心を孤独に沈めるのだ」
冥妃はゆるやかに立ち上がると、闇に向かって片手を掲げた。
その手のひらに、炎のような黒い蓮花が咲き、ぱちりと音を立てて散った。
「彗天よ……。お前の憎しみが、やがて雪嶺をも呑むか。曹華よ……。お前の恋心が、やがて剣を鈍らせるか。……人の情こそ、冥府を呼び寄せる道となろう」
冥妃の低い声が広間に響き、闇はその囁きを飲み込んだ。
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白陵国では、新たに彗天という駒が揺らぎ始めていた。
蒼龍国では、曹華を中心にした観察の網が着々と広がっていた。
冥府殿では、黒蓮冥妃の冷ややかな企みが、三つの華を狙い澱のように深まっていった。
雨はやむ気配なく降り続き、その滴はまるで天から落ちる黒き種子のようだった。
やがて芽吹くのは希望か、それとも破滅か――誰も知らぬまま、運命の歯車は静かに軋みを増していった。




