第一章十六 天鳳と牙們
薄れゆく意識の中で、牙們の狂気的な怒声は、不意に切り裂かれた。
その声は刃よりも冷たく、凍り付くように静かだった。
「……こんなところで何をしているのですか、牙們将軍」
牙們の咆哮が止む。
彼は憎悪に満ちた目で声の主を振り返った。そこに立っていたのは、蒼龍国の将軍服を纏った一人の男――その気配は静謐にして威圧的、泥濘に転がる私や獣のように吠える牙們とは、まるで別世界に属する存在だった。
この男こそ、牙們が「忌々しい鼠」と呼び、復讐の機会を奪われたと恨み続けてきた宿敵――蒼龍国の名将、天鳳将軍であった。
牙們は怒りで震える喉から、かろうじて丁寧な言葉を絞り出す。
怒声に混じる獣性を抑え、本能的に敬語を選んでしまう自分自身に、さらに屈辱が募った。
「…これはこれは天鳳将軍……。この牙們に、何かご用でございますか?」
天鳳の眼差しは冷ややかだった。彼は牙們を見据え、次いで川面に視線を流す。
「用件はひとつ。――あなたの不始末です」
その声は怒りでも嘲笑でもない。ただ事実を告げる冷酷な刃だった。
「王族の居所を突き止めたこと、それ自体は功績と認めます。しかし……あなたは遊戯のように嬲り、任務を長引かせた。結果、王族の血筋を逃した」
天鳳の視線は、倒れる私ではなく、闇の激流に呑まれた白華と興華を示していた。
「狂犬のように吠え立てても、逃げた王族は戻りません。そして、あなたの私情がこれ以上任務を荒らすなら――不要となるのはあなたの方です」
牙們の顔が憤怒に歪む。顔の刀傷が痙攣し、血管が浮き上がった。
彼は唸るように言い放つ。
「天鳳将軍……。あの小僧は必ずこの手で殺す……! そして、あの小娘……! 私に一撃を入れた、あの屈辱は――!」
「黙りなさい、牙們」
天鳳は牙們の言葉を断ち切った。その声音には苛立ちすらなく、ただ冷徹な支配力があった。
「討伐隊を率い、村を占拠する。川の流れが生死を決める。いずれ答えは出る。――それまであなたに役目は残されている」
牙們は一歩踏み出しかけた。殺気が溢れ、今にも斬りかかりそうだった。
だが、天鳳の眼差しを見た瞬間、その殺気は凍り付く。
牙們は、全身を震わせながらも逆らえず、最後に私を睨みつけ、唾を吐くように呟いた。
「……覚えておけ、小娘。貴様が今日生き延びたこと、必ず一生後悔させてやる」
彼は怒りを抱えたまま背を向け、闇の中へと消えていった。
牙們の背が遠ざかるのを見届けると、天鳳将軍は初めて私に視線を落とした。
その双眸には怒りも同情もなく、ただ冷酷な計算の光だけがあった。
「……まだ生きているか。運の強い……あるいは、厄介な小娘だ」
彼は部下を呼び寄せ、命じる。
「拾え。この娘は殺すな。――生かしておくことに、価値があるかもしれない」
その声が私の耳に届いた最後の響きとなり、意識は完全に闇へと沈んだ。
【第一章 完】
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