第十二章肆 器の影を測る眼
雪解けの風が首都に流れ込む頃、白陵国宮廷は久々に落ち着きを取り戻していた。
戦乱の余韻はまだ残るものの、玉座の間には春めいた光が差し込み、政務の場に集う文官・武官たちの声は以前より和らいでいた。
その一角に、白華と興華の姿があった。
氷陵帝の傍らに控え、余計な言葉は口にせず、ただ静かに視線を巡らせる。
白華は二十二歳。しなやかな黒髪を結い、整った面差しにわずかな疲れを帯びていたが、瞳の光は揺らいでいない。
清峰宰相や霜岳大司徒が「白華殿がいなければ政務が進まぬ」と口を揃えるのも無理はなかった。政と知略において、彼女は既に宮廷の誰もが認める存在となっていた。
だがその胸の奥には、時折かすかな痛みが走る。
――曹華と興華と、あの山里で三人寄り添った日々は、今も胸にある。
妹は今、どこでどうしているのか。再会は叶うのか。
表情に出すことは決してないが、夜ごとふとした折に、白華の心は妹を求めた。
興華は十六歳。剣を帯び、姿勢は真っ直ぐ。幼さを残しながらも、軍の中で成長を遂げつつある。
近衛兵舎に通い、訓練の汗にまみれるその姿は、武人としての未来を確かに切り拓き始めていた。
けれど彼の心にもまた、姉への想いはあった。
――曹華姉様。どこかで生きているのなら、必ず会いたい。剣を鍛え、胸を張って再びあなたに並びたい。
ふたりの想いは、声には出されぬまま、宮廷の静謐な空気に溶けていった。
---
その宮廷の外郭に、ひとりの影が潜んでいた。
黒龍宗の密使。黒蓮冥妃の命を受け、白陵国へと忍び込んでいた者である。
彼は表の廊下を歩く文官を装い、時には書庫で写本の手伝いをしながら、目立たぬよう白華と興華を観察した。
黒蓮冥妃が「器」として確信している存在――それがこの姉弟。
直接の接触は避けねばならない。器は未だ育ちきっていない。拙速に手を出せば、逆に白陵国の守りを強めるだけ。
今はただ、彼らの成長度合いを測ることが使命だった。
白華の姿を見て、密使は心中で呟く。
――武の才はなくとも、知略と政務の才覚は群を抜いている。大陸の流れを読む眼は、すでに老練な宰相に匹敵する。
彼女が国の中枢に立てば、白陵国はさらに強固な基盤を得るだろう。
そして興華を見れば、まだ若い体つきながら剣を振るう姿には力強さがあった。
――十六にして、この胆力。武の器としての芽は間違いなく育ちつつある。
姉の影を背負いながらも、自らの道を歩み始めたこの少年が、将来どのような刃を振るうのか。
密使の眼差しは冷静でありながら、時折わずかな緊張を帯びる。
器とは、黒龍宗にとって絶対に見過ごせぬ存在。
しかし同時に、冥妃が口にした「慎重に」という言葉の重みを、彼は深く理解していた。
---
その日の政務の後、白華は宰相たちに囲まれ、矢継ぎ早に意見を求められていた。
「白華殿、この案件は――」
「いや、こちらの訴状を優先に!」
清峰も霜岳も声を張り上げるが、白華は一つ一つを冷静に整理し、的確に応じる。
ふとした瞬間、彼女の胸に去来するのは、やはり妹の姿だった。
――曹華、あなたならどう考える?
武に優れ、いつも真っ直ぐで、時に無鉄砲なあの妹。
隣で笑い合った日々を思い返すと、どうしても涙がにじむ。だが、ここで涙を見せるわけにはいかない。
一方、興華は兵舎で汗を流し、夜には焚き火の前で静かに剣を磨いていた。
「姉上、俺は必ず強くなります」
小さな声で呟き、刃に映る自分の顔を見つめる。
そこにもう一人の姉――曹華の影が重なって見えた。
---
密使はその夜、隠れ家に戻ると記録をしたためた。
白華――政務における才覚、器としての片鱗を確実に示している。
興華――武人として成長中、将来性は大。
ただし現状では、二人ともまだ「完全な器」ではない。
白陵国の庇護の下、着実に育ちつつある。
焦ることなく、時を待つべし。
彼の筆は冷たく走り、文字を刻んでいった。
(だが……もし芽吹きの時が早まれば、我らが手で刈り取らねばなるまい)
闇に包まれた密使の瞳には、わずかな光が映った。
それは決して温かな光ではなく、次なる嵐を告げる凶兆の輝きだった。
---
こうして白陵国の宮廷では、白華と興華がそれぞれの道を歩み、
一方で密使の影がその姿を測っていた。
器の存在を知る黒龍宗。
その眼差しは、静かな都の奥深くにまで忍び寄っている。
だが白華も興華も、まだその影に気づくことはなかった。
ただ、遠い空の下で、三人の姉弟が再び揃う日を願いながら、それぞれの務めに励んでいたのだった。




