第十二章参 影三つ曹華を視る
蒼龍京の朝は、薄い靄の向こうに瓦の青を滲ませていた。城外の練兵場では、親衛隊の号令が連なり、槍の穂先が一斉に空を切る。
曹華は列の前で静かに立ち、一本の槍を手に、最前列の足並みと呼吸を見ていた。声を荒げない。だが、視線が通り過ぎるだけで背筋が伸びる。二十歳の娘の細い影に、戦場を潜り抜けてきた実戦の気配が宿る。
その姿を、影の中から三つの眼差しが追っていた。
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ひとつめの影。密使。
彼は練兵場に隣接する土塀の陰に身を溶かし、鎧の継ぎ目や靴跡の向き、曹華の合図が波紋のように隊列の端まで行き渡る速度を測る。
(号令は僅か、所作は簡素。だが、伝わりが早い。これは……「信頼」がある時の動きだ)
書き付けに短く印を残す。不用意に筆を走らせないのは、黒蓮冥妃から言い含められた“慎重”のためでもあった。器の候補。だが確証はない。
(声を荒げず、兵を責めず、まず動きの要を見定める。……若さの内に、冷徹がある)
訓練がひと区切りつくと、曹華は列の後ろから駆け寄ってきた兵の肩に手を置いた。
「ここは焦らなくていいわ。足の送りが揃えば、腕はあとから付いてくる」
叱責ではなく、整える言葉。兵の顔に安堵が灯る。密使は瞼を伏せる。
(叩き付けるより、引き出す。器は“人を運ぶ器”でもある……か)
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ふたつめの影。馬成――空の袋の男。
昨日、酒場で出会った旅人の言葉が胸に残っている。「剣は空気で錆びる。湿り気は敵だ」。
(俺は、湿っていたのかもしれない)
牙們の下で鍛えられた剣は、勢いで抜いて、勢いで収める。それでよかった。だが天鳳の親衛に移ってから、考える間が増えた。手が早すぎて、視線が追いつかないことがある。
――今朝の曹華は、何を見ている?
彼は柵の外、民の見物に混じって立ち、曹華の横顔を見つめた。練兵場の砂が朝日に淡く光り、少女の髪の一房が風に揺れる。
(綺麗だ――いや、違う。綺麗だけで、兵は動かない。けれど)
彼女が目を細めると、列の最端にいた若い兵が、何も言われぬまま姿勢を正した。馬成の喉が小さく鳴る。
(見られていると分かる眼だ。俺は、牙們さまの狼煙の下で“見られる”ことを誇りにしていた。だが、この眼差しの下では……多分、誇り方が違う)
指先が衣の内側の革袋を探る。空の袋。けれど、いつでも言葉が入ると旅人は言った。
(風向き――それは何だ。俺の心か、都の噂か、それとも……この娘の、在り方そのものか)
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みっつめの影。路地裏の奇妙な男。
彼は元は文官の末席にいた。筆で世を治める夢を失い、いまは紙を売り、噂を買い、酒で夜を濁らせる。
(武が世を覆う。ならいっそ、武の中に一枚、正しさの紙を差し込めないか)
その浅ましい理屈を、彼自身が一番よく知っている。だが、それでも筆を捨てられなかった。
今朝、書役所に紙を届ける途中、練兵場の喧騒に足を止め、彼は曹華を見た。人々の噂に知る名。泰延帝の前で名を呼ばれた、若い副隊長。
(女の子じゃないか……だが、背が立っている)
彼女が兵に言葉をかけるたび、彼は自分が若かった頃の、信じていた言葉の手触りを思い出した。
(紙は、まだ乾くのだろうか。書けば、誰かに届くのだろうか)
胸の奥で沈んだ火が、小さく明滅する。
「おい」
背後から乾いた声。昨日の旅人――密使が、路地の影に立っていた。
「昼、また酒場で」
男は頷いた。半ばは怖れ、半ばは好奇心で。
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昼。市場。
曹華は鎧を脱ぎ、薄衣に外套を羽織って人の流れへ紛れた。副隊長として、兵糧と雑具の手配を自ら確かめるのも日課だ。
露店の婆が焼く胡麻餅、桶に浮かぶ秋の果。子らの笑い声。彼女は一つ一つの値を聞き、必要な分だけを帳付けに記す。
「婆さま、その縄はもう少し太い方がいいわ。馬留めが切れると厄介だから」
「いけないねぇ、若いのに目が利くこと」
婆の笑い皺が深くなる。曹華は微笑みを返し、路地の端で物乞いに銅貨を二枚落とした。
(こういう指にも、剣の痛みは刻まれているのだろうか)
文官崩れの男が、少し離れてそれを見ていた。筆で書くべき行いが、そこにある。
(記すべきは、こういうひと欠片だ)
彼は袖の内に忍ばせた紙片に、震える字で短く書く。《曹華、銅貨二》。
密使は斜向かいの屋台から煮豆を啜り、視線だけで一団を追う。
(人の中、目立たない。だが目立つときは一点に絞る。器用ではない――正直だ)
彼は馬成に渡した空袋のことを思い出す。今朝、袋の内側に仕込んだ“墨導”は乾き、次の文を通す準備ができている。
(馬成。お前の風向きは、どこへ吹く)
馬成は市場の外れで立ち止まり、遠巻きに曹華の背を見送っていた。
(俺が見ているのは、情報じゃないのかもしれない。目を離すと、何かを失う気がする)
袋の口をわずかに開ける。何も浮かばない。安堵が走る。
(まだ何も、渡されていない。なら、俺はまだ……ただの兵だ)
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夕刻。将軍府の裏庭。
親衛の点検が終わると、曹華は一人、槍を持って庭に立った。夕陽が瓦を朱に染め、風が簾を鳴らす。
一太刀も振らぬまま、彼女は槍の石突きを土に立て、目を閉じた。呼吸が深くなる。
(焦るな――天鳳将軍の声。姉さま、興華……私は、私の歩幅で行く)
瞼の裏を、白い宮と、雪の尖塔と、噂の“二人”が掠める。胸が少し痛む。
(生きていて)
その祈りを誰にも見られたくはなかった。だが、影は見ていた。
密使は庭隅の槐の陰で、短く息を呑む。
(祈る器。権力のためでなく、誰かのために)
書き付けの端に、点をひとつ加える。それは彼自身の内心にも、同じ点を打つ行為だった。
馬成は塀の外、薄闇の中で足を止めた。
(俺の剣は、誰のために抜く?)
牙們の狼煙、天鳳の静謀、そしてこの娘の祈り。三つの風が胸中で絡み合い、彼は空の袋を強く握った。
(風向き――今はまだ、言えない)
文官崩れの男は、離れた路地で紙片を膝に広げていた。
“曹華、夕刻、独り、祈る”。
書く手が止まる。
(祈る――兵は祈るのか。いや、人は祈る)
彼はその言葉の重さに気づき、紙片を丁寧に折り畳んだ。
「良い筆だ」
いつの間にか、密使が隣に腰を下ろしていた。酒臭くない、乾いた匂い。
「あなたは、何者だ」
男は問う。密使は笑わない。
「ただの旅人だ。だが、君の書く線は、よく乾いている。……空の袋は持っているか」
男は眉をひそめ、首を振る。密使は小さな革袋を懐から出し、膝の上に置いた。
「空だ。だが、時に言葉が宿る。開けることも、捨てることも、君の意志だ」
男は黙って袋を見つめる。やがて、恐る恐る手に取った。
(筆を捨てたはずの私が、また“文字”と縁を結ぶのか)
密使は立ち上がり、薄闇へ溶けていく。
「風向きが変わる夜は、近い」
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夜。都に灯が満ちる頃。
曹華は帳場で日誌を閉じ、窓の外に目をやった。庭の槐が、風に一度だけ葉を鳴らす。
(何かが動いている――根拠はない。ただ、そう感じる)
彼女は蝋燭を吹き消し、静かに立ち上がった。足取りは軽くない。だが、迷いもない。
同じ夜、三つの影もまた、それぞれの灯の下で静かに息を整えていた。
密使は薄紙の上に、短く記す。《器、観察続行。周辺、三影確保》。
馬成は空の袋を胸に抱き、「まだ開けない」と呟いた。
文官崩れの男は紙片の束を紐で綴じ、胸元にしまい込んだ。
(書ける。まだ、書ける)
都は眠らない。瓦に月が映り、どこかで犬が一声だけ吠えた。
誰も知らぬところで、風向きがほんのわずか、変わり始めていた。




