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三華繚乱  作者: 南優華
第十二章
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第十二章弐 曹華を量る密使

蒼龍京の夜は、白陵京よりも柔らかい。青瓦に月が溶け、城門を守る松明の火は、氷の都のように鋭くはない――と、密使は思った。

 黒蓮冥妃からの訓示は簡潔だった。「器の香りがする娘がいる。名は曹華。軽々に触れるな。だが目を離すな」。

 密使は頷き、一振りの薄刃と、情報を通す“空の袋”を懐に、都の呼吸へ溶け込んだ。



---



 最初の三日は、ただ歩いた。魚市場の朝、香草の匂い、革職人のハンマー、酒場の笑い。人は群れているとき、もっとも正直になる。

 「最近、親衛隊にすげぇ娘がいるってよ」

 「二十歳の副隊長だろ? 名は……ええと、曹の字がついた」

 「顔立ちが良いだけかと思ったら、槍の腕は男泣かせだとよ」

 「天鳳さまの将軍府に出入りしてるらしい。将軍のお気に入りって話も……」

 「おい、口に気をつけろ。あの黒羽の方々は、耳がよくお育ちだ」


 密使は笑い皺を作り、安酒をひと口。噂の輪郭はすぐに立ち上がった。――若い、武に通じる、親衛隊副隊長、天鳳の近く。

 器の徴は、武勇だけではない。人が自然と目で追い、言葉にせず「頼りにする」空気を持っているかどうか。密使は次の段階へ移る。



---



 親衛隊の訓練場は、朝霧を吸って白く煙る。見張りの目をやり過ごすのは難しくない。見つかっても「早起きの荷駄持ち」で押し通せる。

 剣戟の音が明けの鐘に先んじて鳴った。中央に立つ娘――曹華。

 密使は、まず歩を見た。足裏の運びに迷いがない。槍は長柄、穂先は既に幾百を討った鈍い銀。相対するのは、筋骨逞しい若い男――雷毅。二人は合図もなく間合いに入ると、刃が交差した。


 ――速い。だが、もっとも目を引くのは、速さの後ろにある「間の伸び縮み」だ。

 雷毅が踏み込む、その半歩前で曹華の体幹が沈み、穂先が「そこにくる肉」を迎えに行く。受けるのではない。未来の一点を少しだけ奪う動き。

 稽古が終わると、雷毅は一瞬だけ視線を長く置いた。尊敬とも、心配ともつかない温度。曹華は軽く笑って肩を叩き、水を差し出す。副隊長らしい節度で、しかし冷たすぎない距離感。


 (……なるほど)密使は心中で印をつけた。

 器の徴、その一。人の気を荒立てず、熱を生む。



---



 昼過ぎ、曹華は鎧ではなく、薄手の上衣で城下へ降りた。

 甘味屋に寄り、紙包みを抱える。店の娘に「ありがとう」と微笑むと、娘は頬を染める。

 古書舗では兵法と地誌の薄冊子を選び、代金を置くときに「これ、以前から気になっていて」と素直に言う。

 密使は屋根の縁に腰を下ろし、視線を落とす。

 (武に偏らず、知に伸びる。甘味を買う。――人の温もりから遠ざからない)

 器の徴、その二。鋼だけでなく、人の華を手放さない。


 夕暮れ、曹華は城壁の陰で足を止め、空を見上げる癖があるようだった。口は動かない。だが眼差しが遠くを焦がす。

 (誰かを想っている。良い。想いは芯になる。弱さでもあるが、刃にもなる)



---



 四日目の午後、密使は浅い波を起こした。

 裏道で、少年の手からパンを奪って逃げる「掏摸」を演じる者を二人。こちらの飼い犬のようなもの。

 曹華が角を曲がる時間に合わせる。

 ――案の定。

 音がした瞬間、彼女の体はもう走っている。叫ばない。無駄に威圧もしない。足を取った掏摸の手首を一拍で捻り、膝を折らせ、パンを拾って少年に返す。

 「怪我はない? もう少し人の多い道を通るのよ」

 少年の頭に手を置く指は、槍を握る時より柔らかい。掏摸役は逃げ、路地はすぐにいつもの匂いに戻る。


 密使は路地の奥から目を細めた。

 器の徴、その三。為すべきを、躊躇なく、過剰なく。



---



 五日目、密使は「空の袋」の男――親衛隊の古手兵へ再び接触した。

 男は少し目の下に疲れを抱え、袋を握る手に迷いを乗せていた。

 「……昨夜、“風向き”とだけ見えた。意味は?」

 「風は、変わる。新しい指示系統があると、古い風は淀む。君はどちらの風で剣を振るう」

 男は黙り込み、やがて低く答えた。

 「俺は、隊のために振るう。……だが、誰のための“隊”なのか、最近わからなくなる」

 密使はそれ以上掘らなかった。揺らぎは、いまは種。

 「返事は不要だ。ただ袋を持っていろ。必要なとき、袋が先に喋る」



---



 六日目の夜、密使は高い塔の屋根で、将軍府の灯の消え方を見ていた。

 廊下に沿って灯が一本、すぅっと消え、しばらくして別の棟の灯が点る。巡邏の脚と呼吸が見える。

 ――そのとき。

 庭の暗がりから、一陣の気が立ち上がった。静かな湖面に針を落としたような、繊細だが確かな波紋。

 密使は反射で身を伏せる。視線を向ければ、そこに佇む影――曹華であった。

 彼女は一人で庭に出て、空を仰ぎ、掌を胸の前で合わせる。祈りではない。呼吸を整え、心を鎮め、気の座を確かめる仕草。

 (……見えているのか? いや、感づいたのだ)

 曹華がゆっくりと目を閉じ、開いた。気配が一瞬だけ屋根へ向く。

 密使は息を完全に殺し、瓦と影に溶けた。視線は過ぎ、曹華は踵を返す。

 ――危うい。だが、良い証。器の徴、その四。無意識に、見えぬものへ手を伸ばす。



---



 七日目の朝。稽古場で、稀に見る練度の高い組太刀が始まった。

 相手は趙将。鋼のような目、剣は飾り気がない。

 「副隊長、遠慮は無用だぞ」

 「はい、隊長」

 打ち合いは十合で終わるはずが、二十、三十と伸びた。曹華は汗を流しながらも、呼吸は乱れない。最後の一合、趙将の剣先が一瞬だけ逸れ――槍の穂が喉元に止まる。

 趙将は笑った。

 「見事」

 周りの兵が自然と息を吐き、拍手ではなく、敬礼を送った。

 密使は胸中で短く結論づける。

 人は、彼女に“従って”いる。強さに。仕草に。背に。

 器の徴、その五。従うべき背の形。



---



 密使は宿の狭い部屋に戻り、窓を閉ざし、闇墨を磨った。灯は消す。闇に字を浮かばせるのが、この術の作法だ。

 《報》

 《対象:曹華》

 《年:二十前後/蒼龍国・天鳳将軍府親衛隊副隊長》

 《所見:

  一、武芸高水準。間合いの先取に長け、予見的対応あり。

  二、知への関心強し。兵法・地誌・古書を常に携行。

  三、市井に混ざることを厭わず、過不足なき介入を行う。

  四、夜半、気の座を整う仕草。感応性あり。

  五、部内に自発的敬意が成立。背中に従う者多し。》

 《判断:器の可能性高し。ただし確証なし。直接接触は時期尚早。

 《推奨:観測継続。周辺環境(雷毅・趙将・文官補佐線)の“湿り気”乾燥を促進。対象への圧は加えず、第三者経路から間接的揺動を試行。》

 《了》


 闇の文字は、墨が乾く前に空気へ溶けた。報は冥府殿の黒い管へ吸い込まれていく。



---



 その夜、曹華は遅くまで書架に向かっていた。外征の報告書、補給の帳面、そして古びた戦記の断章。

 ふと、窓の外の風が重くなる。胸の奥がかすかに疼き、彼女は顔を上げた。

 (……誰かが見ている?)

 振り向いても、部屋には蝋燭と自分だけ。

 「気のせい、よね」

 自分に笑ってみせる。だが槍に通う者の直感は、風向きの変化を覚えていた。


 廊下で雷毅に会う。

 「曹華殿、紙の流れがまだおかしい。趙将と仕切り直しを」

 「ええ。……頼りにしているわ、雷毅」

 言葉は短くても、視線は真っ直ぐで温度を帯びる。雷毅は一瞬だけ嬉しそうに、すぐ副隊長の顔に戻った。



---



 冥府殿。黒蓮冥妃は届いた報文を指先でなぞり、目を伏せた。

 「――やはり、香るわね」

 朱烈は唇を噛む。「妾に任せれば、ひと突きで――」

 冥妃は首を横に振る。「早い刃は、薄い。今は布を織るとき」

 玄鉄が低く言う。「観、を続ける」

 紫霞は小さく頷いた。「……三つは、揃うのですか」

 宵霞が冷ややかに笑う。「揃えば、折りがいがある」


 冥妃は立ち上がり、黒い管の口元へ指を伸ばした。

 「白も蒼も、いずれこちらを見ざるを得ない。――その時、『曹華』という名が、道になる」


 密使はその言葉を知らない。ただ、翌朝もまた蒼龍京の人波に混じり、遠くから一人の娘の歩を測り続ける。

 触れずに、削りもせずに、ただ“量る”。

 器を見極める術は、いつだって忍耐だ。

 夏へ傾く空は高く、都のざわめきはいつも通り。だが、薄い薄い陰だけが、娘の背に寄り添っていた。

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