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三華繚乱  作者: 南優華
第十二章
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第十二章壱 闇に蠢く密使

天脊山脈の北も南も、春の名残を飲み込みながら夏へと傾きはじめていた。だが、季節の移ろいなど無縁の闇があった。冥府殿にて黒蓮冥妃の命を受けた二つの影は、月の薄明を背に分かれる。片や白亜の城壁そびえる白陵京へ。片や青き瓦の連なる蒼龍京へ。彼らは「密使」と呼ばれる。歩むのではない、闇と同じ速度で流れるのだ。



---


 白陵国の都、白陵京。夜の尖塔は星を突き刺すように立ち、巡邏の兵が槍の石突で石畳を叩く音だけが規則正しくこだまする。

 ひとりの影が城下に入った。旅の薬種売りに姿を変え、荷車の軋みを演出し、くぐもった咳を本物の病のように混ぜる。冥府の術は、眼を欺くために「ありふれた疲労」を纏わせることを知っている。


 昼間、彼は市場で何人もの舌を解いた。

 「宮中で評判の書記官がいるらしい。手は早いが出世は遅い。宰相にも大司徒にも気に入られぬ妙な男だ」と。

 密使は耳を傾けるふりをし、わざと高い薬を値切られるままに売った。貧を装うと、人は安心してよく喋る。


 夜半、白陵宮の外郭に連なる役寮のひとつ。油の匂いと紙の埃が混じる薄暗い部屋で、その男――薄井という中年の文官――は筆を止め、燭台の火を見つめていた。

 扉が二度だけ、軽く叩かれる。合図は事前の「買い物」で済ませてある。

 「遅くまでお勤めで」

 薬種売りの声が、扉の隙間から滑り込んだ。

 薄井はわずかに身を強張らせ、しかし鍵はかけなかった。


 「……何の用だ」

 「咳止めを、と言われたでしょう。ついでに、胸のつかえに効く薬も」

 密使は荷袋を開き、粉薬の包みを卓に置く。薄井の目は薬ではなく、男の指先の動きを見ていた。異様に無駄がない。文官は直感した。――ただの商人ではない。


 「胸のつかえ、ですか」

 「仕事が滞る。手は動くのに、上が詰まっている。手柄は他人の皿に盛られる。いつも、お前の箸だけが空を切る」

 薄井は笑い、すぐに笑みを引っ込めた。

 「見知らぬ男が、よくもそこまで言うものだ」

 密使は軽く肩をすくめた。

 「どの宮廷も似た病に罹る。処方は同じです。――力に繋がる手を持つこと」


 その言葉に、薄井の喉が動いた。

 「……どこの誰だ」

 「名は不要。ただ、一つだけ確かなものを持ってきた。書付一枚で転ぶような浅い誘いではない。あなたの筆が、都を動かすことすら可能になる“管”だ」

 密使は懐から小さな黒い糸巻を出した。糸とも煙ともつかぬものが微かに揺れる。

 「これは?」

 「人と人の間に、通路を作る。あなたが書く文は、しかるべきところへ届き、しかるべきところから戻る。誰にも見えない管だ。……望むなら、あなたの名を隠したまま、敵対する派の弱みを集めることもできる」


 薄井の耳に、遠くの更鼓が響く。

「白陵は、清廉であるべきだ」

「理想は必要。だが権力は理想で動かない。――あなたは、白陵を“より清廉に”したいから不満なのだろう?」

 密使の声音は冷たくも熱を帯びていた。薄井は目を伏せ、長く息を吐く。

 「私は……皇帝のために働いている。都合のいい道具じゃない」

「ならば、皇帝のために使えばよい。あなたの手で、停滞を崩す。私が欲しいのは、あなたの“誓い”ではない。“行為”だ。――次の宰相会議の議題と、特に反対しそうな者の名前。それを“管”に流せ」

 薄井は躊躇した。だが、灯心の赤い火が揺れたとき、彼は小さく頷いた。

「……一度だけだ」

密使は微笑に似た影を作り、糸巻を卓に置いた。

「それで充分。始まりはいつも“一度だけ”から」


 密使が去ると、部屋には紙の擦れる音だけが残った。薄井は震える手で筆を持ち、ふと窓の外を見やった。月が雲に隠れ、都の塔は闇の刃のように沈んでいる。

 (私は、白陵を――)

 彼はまだ、自分がどちらの闇に踏み込んだのか知らない。



---


 南の都、蒼龍京。青い瓦は昼には陽を弾き、夜には水面のように光を吸う。

 密使のもう一人は、外郭の野営地から忍び込み、まず酒場を選んだ。剣も文も、酒場の噂に勝てはしない。


 「北の件で、将軍様はよくやったもんだ」

 「よくやった? 何も始まらず、何も終わらずだ」

 「黒い連中が絡んだらしいじゃないか」

「しっ、口を慎め。耳は壁にも地面にも生えてる」


 密使は酒をゆっくり舐め、疲れた旅人のふりで相槌を打つ。やがて、店の隅に座る男に目を止めた。髭は整えられているが、鎧の肩革だけが新しい。古手の兵が、新しい隊へ移ったばかりの印。

 「席、いいか」

 男は目を上げ、顎で空きを示した。

 「北は冷えたろう」

 「……知らないのか。俺は残りだ。留守番の方が寒い」

 乾いた返し。密使は笑い、「俺も留守番ばかりだ」と言って盃を置いた。


 他愛のない話を重ね、密使がようやく名ではなく“昔”を問う。

 「昔は、どの隊に?」

 「牙們さまの下だ」

 微かに誇りが混じった響き。密使は盃を持ち直した。

「今は?」

 「天鳳さまの親衛隊に移された。……いや、文句はない。だが俺の剣は、牙們さまの狼煙で抜かれるように鍛えられた。あの勢いを、俺は好きだった」

 「勢い、ね」

 「天鳳さまは強い。だが“考える”時間が増えた。俺のような鈍い剣には、たまに息苦しい」

 密使は一度だけ頷く。

 「剣は空気で錆びる。湿り気は敵だ。……乾いた風が要る」

 男の目が細くなった。

 「旅人、あんたの言葉は妙に胸に刺さる」

 「旅が長いと、何でも錆びることに気づくんだ。剣も、心も」


 密使はその夜、名も出自も明かさなかった。ただ、別れ際に小さな革袋を置いた。袋は空だ。だが内側に薄い墨が塗られている。触れた指に匂いは残らない。

 「何だ、これは」

 「空の袋だ。だが、時々“言葉”が入る。もし開けて、何もなければ忘れてくれ。もし開けて、文字が浮かべば、返事をくれ。たとえば――“風向き”とか」

 男は袋を握りしめ、訝しげに密使を見送った。

 (俺は何を受け取った? ただの皮ではない。……ただ、俺の胸の中の“湿り気”が、いま少し乾いたのは確かだ)

 彼はまだ、袋の内側に塗られた術が、書付を透かせる“管”の片端であることを知らない。



---


 白陵京では、翌朝から小さなさざ波が立ち始める。

 薄井が“管”に流した情報は、表ではない道筋でいくつかの机の上に乗り、逆に戻る情報と擦れ合った。誰も争ってはいないのに、机の端がわずかに重たくなる。

 薄井は手の震えを抑えつつ、初めて自分の文が「速く」動く快感を味わっていた。

 (これが、停滞を崩す力……)

 しかし同時に、白華が別室で清峰宰相の横に座り、問答のような政務整理を手伝っていることを薄井は知らない。白華の冷静な視線は、紙の動きの不自然さを早くも嗅ぎ取っていた。

 「宰相、ここ数日の文の流れが、いくらか“滑りすぎ”です。妙に通りが良い。……誰かが“管”を作っている」

 清峰は目を細めた。

「ほう。ならば、わざと一枚、逆向きの棘を流してみようか。どこへ刺さるか、見ておくのも策だ」


 一方、蒼龍京では、親衛隊の行軍表に微細な改竄が混じった。夜の巡邏が一刻ずれ、倉の警邏に若手が回される。ほんの薄い罅。

 雷毅は朝礼で紙を受け取り、首を傾げた。

 「……昨夜、俺が指示したのは“丁の二”の持ち回りだ。なぜ“丙の一”が倉に?」

 若い書記が慌てて紙束を見返す。

 「は、はい、昨夜まとめ直した控えでは――」

 雷毅は黙って紙を取り上げ、趙将の机に向かった。

 「隊長、些末ですが、紙が“滑って”います」

 趙将は短く唸る。

 「滑る紙は、誰かが油を塗っている。……曹華に目配せしておけ」

 曹華は頷き、冷たい水で顔を洗ったときのように意識を引き締めた。

 (黒龍宗……? まだ、私は噂の影しか掴めない。でも、ここで気を抜けば、三人で笑う日が遠のく)



---


 薄い波紋は、やがて目に見えぬ渦へと育っていく。白陵では、白華の提案で文の流路に“偽の狭窄”が挟まれ、誰かが作った管を詰まらせる仕掛けが施された。蒼龍では、雷毅と曹華が連携して小さな改竄を逆手に取り、逆探知の網を張る。

 密使たちはそれを見て、即座に手を緩めた。冥妃の命は「焦るな」だ。浸潤は、石に水を落とし続ける術。割るために、急いではならない。


 夜。白陵京の城壁に潮のごとく冷気が寄せ、蒼龍京の塔に風鈴のような鎖が鳴る。

 白華は帳の灯を落とす前に、窓外の尖塔に一つだけ長く視線を置いた。

 (流れは、誰かが作っている。けれど、流れはまた、別の手でも変えられる)

 興華は兵舎で寝返りを打ち、明日の鍛錬を思い描く。強くなることは、いまは剣の稽古だけを意味しないと悟りはじめている。

 曹華は将軍府の廊下でふと足を止め、月を見上げた。

(黒い影は、どこにでも伸びる。なら、僕は僕で――光る刃を研ぎ続けるしかない)


 その頃、二人の密使は同じ月を別々の屋根の上で見ていた。

 ひとりは糸巻を指で転がし、もうひとりは空の革袋を月光に透かす。

 (管は通った。だが、両国はいずれも鈍くない)

 (焦らず、深く。冥妃の御意のままに)


 都は眠るが、闇は眠らない。

 白の城も、蒼の城も、静けさの皮膜の裏で、黒い糸が音もなく編まれていく。

 その糸はやがて、器へ――白華、興華、そしてまだ名も姿も掴めぬ最後の一華へと伸びていく。

 誰も気づかぬうちに、明日の光の色を、少しだけ暗くするために。

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