第十一章参 黒蓮冥妃の影兵
天脊山脈を挟み、白陵国と蒼龍国が数万の軍勢を向かい合わせたまま、三月が過ぎようとしていた。
帳はきちんと張られ、幟は折り目正しく、日々の号鼓は寸分違わず鳴る。だが、規律の裏側で空気は乾き、兵の喉には見えない埃が積もる。矢をつがえる指には薄い皮膜のような苛立ちが生まれ、誰もが「まだか」と口には出さず、胸の奥で呟いていた。
その膠着を高みから眺める影があった。
黒龍宗副教主――黒蓮冥妃。
黒曜石の崖の縁に立ち、夜の風を纏った女は、山谷を渡る焔と鉄の匂いを鼻先で確かめるように、細い笑みを描いた。
「四冥将の牙で十分かと見たけれど……両国とも、思いのほか噛み応えがあるわね」
彼女が片手をゆるく振ると、足元に落ちる影が揺らぎ、墨汁に水を垂らしたように広がった。そこから、背の曲がらぬ黒い人影が次々と立ち上がる。
――影兵。
冥府の術で冥妃が生む、光を喰い、音を曖昧にする夜の兵だ。人の形をしていながら人ではなく、ただ命じられた方向へ、刃となって進む。
「同じ夜に、両の陣へ。前衛の天幕から火を起こし、歩哨を断ち、印を残せ。……これは“合図”。見誤らせ、怯ませ、疑わせるための。いいわね?」
返答はない。影兵は声を持たない。
けれど冥妃の足もとで影が凪ぎ、闇がうなずいたように見えた。
*
月のない夜が落ちた。
白陵国の前衛帯――。
細長い谷沿いに設けられた見張り台では、交代の刻限を告げる鈴が微かに鳴る。兵は白毛皮の襟を立て、槍の石突で地面を軽く叩いた。湿った土の匂い、遠い篝火の赤。いつもと同じ“静かな夜”。
その静けさの稜線を、先に越えたのは影だった。
黒い絵筆で夜空から塗り潰したかのような影が、見張り台の背後に縫い付く。歩哨の男が振り返るより早く、喉の前で空気が凍り、刃の冷たさだけが現実になった。
「――っ!」
声は出ない。重みのない一撃。兵は音もなく倒れ、槍が柱にもたれて乾いた音を立てた。それを合図にしたかのように、点在する天幕の端が、同時にぼうと灯りを含んだ。
火ではない、影が火を呼ぶ。
乾いた帆布が一枚、また一枚と炎をもらい、星のない空に、花のように赤が咲いた。
「火だ! 水を――水桶を持て!」
「敵影は? どこから来た!」
雪嶺大将の前衛指揮所まで、怒号が風に乗って届く。
凍昊中将が素早く外套を翻し、帯刀を確かめて駆け出す。夜目にも抜ける銀髪。彼が吠える。
「消火隊は東列から! 弓兵、火点の背を探れ! ……落ち着け、敵は風のように来て風のように去るぞ!」
火は大きくなる前に抑えられたが、倒れた歩哨が三、火傷を負った若い兵が四。
火点の近く、地面に黒く焼け残った模様があるのを兵が見つけた。
「……これは……」
指揮幕の下で灯りが揺れる。雪嶺は焙り出したような紋を覗き込み、口角に怒気を溜める。
歪み、絡み合う二匹の龍。――黒龍宗の紋。
「奴らが、来たか」
雪嶺の低い声に、凍昊は短く頷いた。
「影兵……ですな。『本体』は、入っておりません」
「わかっている。だが“刻んだ”。わしらに見せるためにな」
氷陵帝のもとへの使いが走る。夜気は冷たく、兵の肩には重い疲労が落ちた。
*
同じ夜、蒼龍国の陣でも影は伸びた。
麗月将軍は、燭台の片火で手紙を焼いていた。黒龍宗との古い糸――それを自らの手で断つ儀式のように。ふいに幕外がざわめき、白玲が剣を携えて飛び込む。
「将軍、前衛――火が!」
「消火隊を。親衛は私に続け」
麗月が立ち上がるより早く、影は幕の縁をなめた。ひやりとした闇の舌。麗月が外へ出た瞬間、夜の温度が変わるのを、肌が覚えた。
――いる。
「どこ」
呟きは自身に向けた針のようだ。
刹那、左右の天幕が同時に燃え、布の裂ける音と兵の叫びが重なった。白玲は迷いなく飛び込み、床に転がる水桶を掴んで炎へ。麗月は影の流れを目で追う。
「牙們!」
別方向から轟音。牙們将軍の近衛が、突如崩れた土塁の修復に走っている。土がえぐれた跡――それも影の仕業か、あるいは周到に仕込まれていた罠か。
「くっ……!」
牙們が歯噛みし、槍を地に突く。
「敵影は見えぬ。だが斬られた者はいる」
報告に、麗月の背筋を悪寒が這う。
その時、二人の視線が同じ一点で止まった。
黒い、焼き紋。
「……黒龍宗」
牙們の声は低く、重かった。
彼の脳裏に、血に濡れた夜と、泣く子の顔がちらりと灯る。そして、あの少女――曹華の凍てついた眼。
麗月は自分の指が微かに震えるのを、はっきり理解した。震えは恐怖ではなく、怒りでもない。
――“狙い”。
こちらと向こうの両方へ同時に刻む、その浅ましい笑みの軌跡が、はっきり読めた。
「白玲、負傷者の収容を最優先に。火は外から潰せ。……牙們、夜明けまでの交代を倍に。見張り台は二重、合図は光と音を併用。敵は“影”、合図を奪われぬ工夫を」
「承知」
短いやりとりの中に、二人の将の拮抗が一瞬だけ溶け、同じ方向を向いた。
*
白陵の天幕で、氷陵帝は報告を受けていた。
雪嶺と凍昊が跪き、影兵と焼き紋の件を簡潔に述べる。帝は目を閉じ、すぐに開いた。
「……刻んでいったか。余と泰延に、“ここにいる”と」
「挑発にございます」
凍昊が言い、雪嶺は苛烈な笑みを一瞬だけ見せた。
「だが浅い。影兵だけで済ますなら、こちらは眠りを削るだけで済む。次があるなら――、それを待つ」
「待つだけではない」
帝は静かに続けた。
「哨の網を広げ、人心の揺れを抑えよ。兵は噂を喰う。夜明け前の“説明”が士気の差だ。黒龍宗が相手でも、兵の背を守るのは我らの務めだ」
「御意」
その声は迷いがない。白陵軍の夜は、秩序を取り戻すための手順で埋められていった。
*
同じ頃、蒼龍京。
泰延帝の寝所に近い小廊で、天鳳将軍はひざまずく伝令からの文を受け取った。蝋が垂れ、黒い龍の紋の描写が視に刺さる。
――黒蓮冥妃。
「陛下へ」
天鳳が短く言うと、伝令は頷いて走った。
彼の視線は窓外の闇を貫き、心の内では、盤面の石を一つ置いた。
(四冥将の局所、そして副――“格”を示すには充分。白陵へも同様。……狙いは、疑心の増幅と、夜を削る疲弊)
彼はそのまま筆を取り、麗月と牙們への迎撃と再編の、最短の手順を書き並べた。
(朝には補給。油と水、火消しの布、合図用の笛を増やす。昼には噂を断つ。夜は――影ではなく、恐怖を斬る)
天鳳の横顔には、怒りも焦りもない。ただ、計算と責務があった。
*
――影は、まだ留まっていた。
冥妃は両陣の混乱が収束する過程を、闇の縁から冷ややかに眺めていた。
燃えた天幕の端、濡れた土、泣く若い兵の肩に置かれる上官の手。それらが次々に秩序へ回収されていく様子に、冥妃は小さく肩をすくめた。
「やはり両国とも、骨は通っている。……けれど、骨にも疲れは溜まる」
その声が消える前に、彼女の姿は夜の目に溶けた。
*
夜明け。
白陵の陣では、雪嶺が負傷者の寝台一つ一つに目をやり、凍昊が夜営配置図に赤と青の印を加えていく。氷陵帝は短い言葉で兵を集め、恐怖よりも“誇り”を与えた。
「ここに刻まれた紋は、敵が我らを怖れる故の狼煙だ。……ならば応えよ。狼煙には盾で、恐怖には矛で」
蒼龍の陣では、麗月が夜の震えを押し戻すように指示を飛ばし、牙們が少し乱れた土塁を二重に積み直させる。白玲は疲れ切った若い兵の背に薄い布をかけ、水を手渡した。
「見たものは忘れない。けれど、見たから強くもなる」
誰の言葉でもなく、彼女自身の奥底から浮いた思いだった。
*
昼前。
白陵・蒼龍、双方の幕僚の机に、同じ文言が並んだ。
――夜間、正体不明の影兵による襲撃。前衛天幕一部焼失、歩哨死傷若干。陣地機能に重大な支障なし。地上に黒龍宗と思しき紋様の焼き付けあり。
――敵主力の侵入なし。副教主・黒蓮冥妃の関与の可能性・大。
文を読みながら、白陵の氷陵帝は軽く目を細めた。
蒼龍の泰延帝もまた、無言で椅子の背にもたれ、ひとつだけ深く息を吐いた。
それは「同じ夜に、同じ印が刻まれた」という、冷たく確かな事実を、両国の頂に置くための報告だった。
黒龍宗はいる。
二国の間だけでなく、二国の「上」にも。
*
その夜、冥妃は独り、天脊の陰に座していた。
流れる霧が衣を撫で、遠くの篝火が星のように瞬く。彼女は爪の先についた煤を、つまらなさそうに払った。
「さて――“合図”は十分。両国は警戒を上げ、疑いも深めた。次に欲しいのは、“引き金”」
誰に告げるでもなく、冥妃は目を閉じる。
耳を澄ませば、山脈の芯のほうから、眠る龍の息のような微かな脈動が聞こえた。
龍脈。
それは黒龍宗の糧であり、白陵と蒼龍が血の上に立つ大地そのものでもある。
「龍の寝返りは、ひとつの石で足りるのよ」
唇の端に、愉しげな弧。
影の裳裾がゆっくりと伸び、また縮む。
膠着の静けさは、もう静けさではない。
それは“沈黙の前口上”に過ぎないと、彼女だけが確信していた。
そしてその確信は、夜明けをまたいだあと、白陵と蒼龍の両方に、じわりと沁みていくことになる。
――黒龍宗の影は、ただ示されたのではない。
“刻まれた”のだ、と。




