第十一章弐 四冥将動く
Ⅰ 焔冥将・朱烈 ― 蒼龍軍前衛に走る火
夜。天脊山脈の麓、蒼龍軍の前衛天幕群。
乾いた風が草を撫で、見張り台の烽火は小さく、規律通りに間隔を保って揺れている。
最初の火は、誰もいないはずの薪置き場から上がった。
次いで、離れた器材天幕の梁が内側から爆ぜ、薄い布が一度に紅に染まる。焔は舌を伸ばし、隣の天幕へ、さらに次へと踊り移った。
「消火班! 樽を運べ! 火筋を切れ、縄を断て!」
牙們将軍の怒号が夜気を裂く。
彼は一歩で火前へ踏み込み、槍の石突で倒れかけた帆柱を叩き折って延焼の道を断つと、素手で樽の栓を抜き、水を叩きつける。部下はその背に続いた。
対照的に、後方指揮所にいた麗月は、即座に図上を改め、天幕列の“燃えやすい導線”を朱で引き直すと、
「器材と火薬、油類は逆風側へ移送。薬傷用の膏と包帯は医療天幕の外へ。――碧蘭、白玲、防火線の“穴”を塞ぎなさい」
と低く早口に指示を落とした。
やがて火は鎮まった。だが、火元はどこにも“人の痕跡”を残さない。
焼け焦げの芯は一点、灰の中にわずかな赤――まるで火が自ら芽吹いたような痕だけがあった。
麗月は、煤で薄く曇った鏡に映る自分の目を見て、短く吐息を落とす。
(……朱烈〈しゅれつ〉。焔冥将以外に、こんな“内側からの火”はあり得ない)
口には出さない。だが白玲の視線は、それが麗月の確信だと読み取っていた。
Ⅱ 獄冥将・玄鉄 ― 山道の土が落ちる
二日後の未明。蒼龍軍の補給路、山腹の切り通し。
荷駄隊が音もなく止まり、次の瞬間、山肌が低く唸って崩れた。
大木が根から抜け、そのまま土砂に抱かれて滑る。車輪が逆巻き、馬が嘶き、綱が悲鳴を上げて切れた。
「前列、負傷者を後送! 道を開けろ!」
牙們が瞬時に部隊を割り、崩れ止めの楔を斜面に打ち込ませる。
後方から駆けつけた麗月は、崩落線を一瞥すると、
「“自然崩壊”に見せた人為。斜面の芯が叩かれてる。――土を止める杭はここ、ここ、それから……」
と、崩れの“節”を寸分違わず指示した。
崩れは最小で封じられた。失われたのは乾糧数十と矢材、負傷者は軽重合わせて三十余。
現場検分を終えた碧蘭が小声で報告する。
「槌の跡はありません。斜面の“中”が砕けている……仙術の圧力痕に近い」
麗月は、冷たい山風の向こうを見た。(……玄鉄〈げんてつ〉)
補給の遅延は、兵の心に小さな棘を残した。
“火”と“土”――偶然が二度続く確率は低い。それを口に出せば不安は倍に膨らむ。
麗月は黙して、配給の割り付けを自ら再編した。
Ⅲ 幻冥将・紫霞 ― 白陵陣に降る睡
同じ頃、白陵軍本営。天幕の海に月明りが落ちる。
最初の異変は、交替直後の見張りが船を漕ぎ始めたことだった。
続いて、鍛錬帰りの若武者が天幕の前で膝から落ち、そのまま柔らかく眠り込む。
「寝るな! ――寝るなと言っている!」
凍昊中将の叱責は鋭い。だが、眠りは叱責では剝がれない。
雪嶺大将は火盃の匂いにわずかに眉を動かし、
「毒ではない。気の膜だ。天幕の継ぎ目から滲み込んでいる。――とにかく倒れた者は同封に集めろ。離すな。目が覚めた時、独りで怯えさせるな」
と静かに命じた。
夜半、氷陵帝にも報が届く。帝は眉を上げただけで、雪嶺と凍昊に対し“原因究明と隊形維持”を簡潔に下知する。
(幻冥将・紫霞〈しか〉の幻眠……痕跡を残さぬ揺さぶりか)
凍昊は警戒の輪を一段狭め、鼓手の刻を細かくし、哨戒の交替を短く切った。
翌朝、眠りこけた兵たちは一様に「甘い香り」を覚えていると言った。死者はなし――だが、陣は一夜で張り詰める。
Ⅳ 瘴冥将・宵霞 ― 兵糧に混じる微かな棘
白陵軍の炊事天幕。香草と獣脂の匂いに、わずかな苦味が混じる。
昼の配食の後、腹を押さえて蹲る兵がぱらぱらと出た。吐瀉は軽く、致命ではない。だが、数が多い。
「倉の封印、昨夜から朝まで、印は途切れていない」
管倉の兵が青褪めた顔で言う。
凍昊は舌打ちを堪え、炊事の水と鍋、匙まで総ざらいで洗浄を命じた。
雪嶺は一歩引き、静かに結論を置く。
「“死なせない”毒だ。混乱と疑心を育てるための……宵霞〈しょうか〉の手だな」
兵站官の顔が強ばる。「内部の手引きが……」
「口を慎め」凍昊が低く遮る。「仲間に疑いを向けるのは敵の思う壺だ」
雪嶺は頷き、医薬と湯の配り直しを命じ、炊事場の統制をより厳格にした。
傷は浅い。だが“心”に薄い罅が入る。
Ⅴ 薄氷に走る罅
四つの小さな刃は、どれも戦局を直接は動かさない。
だが、兵の睡眠、補給の律動、食の安心――“日常”を支える目に見えない柱を軋ませるには十分だった。
蒼龍軍では、牙們が火と土への対策を倍にして巡検を強め、麗月が配備図を何度も引き直して“穴”を埋める。
白陵軍では、雪嶺が隊伍の呼吸を整え、凍昊が内懐の疑心に蓋をする。
双方とも死者はほぼ出さず、布陣は崩れない――表向きは。
しかし、見えない“誰か”の手が盤上に触れている、という予感だけが、両陣に薄氷の罅のように広がっていった。
互いは互いを疑い、そしてどちらも、黒い影の正体を掴めずにいる。
高みに立つ者は、その罅がいずれ氷を割ることを知っていた。
黒蓮冥妃は、遠い稜線の向こうに揺らめく焔と、眠りの天幕、洗浄で荒れた炊事場、崩れを止めた山道を、まるで扇で撫でるように眺め、薄く笑んだ。
(よろしい。――次は、もうひと押し)




