第十章 曹華伝五十九 首都の日々(一)
麗月将軍と牙們将軍が北へと発った日から、半月が過ぎた。
山脈の麓では二将軍が新たな陣を敷き、影雷将軍と土虎将軍は首都へ帰還の途上にある。あと三日もすれば、二人の将軍も 泰延帝の宮殿・蒼龍府 へ到着し、戦況の報告を行うだろうと伝えられた。
私はといえば、天鳳将軍の直轄部隊として首都での待機を命じられ、親衛隊の副隊長として日々を過ごしていた。
剣戟の響く訓練場では、隊士たちが汗を流し、私自身もまた彼らに混じって稽古に励む。
さらに、武具の手入れ、兵站品の再点検、次に備えた補給の確認――戦がないときこそ怠ってはならぬ務めが山のようにあった。
それでも心の奥では、どこか落ち着かぬ想いが渦を巻いていた。
(……次の戦では、私は留守居役になるのかもしれない)
前回、金城国への外征では雷毅が将軍府を預かり、私が前線に立った。
順序からすれば、次は私が将軍の留守を守る番。
副隊長として当然の輪番であることは理解している。だが、心のどこかで――姉や弟の姿が遠い北の空に重なるたび、自らの役目を見失いたくないという焦りが芽生えてしまう。
(……私は何を求めているのだろう)
勝ち抜く武も、戦を導く知も、いまの自分にはまだ足りない。
だが焦っても仕方がない、と天鳳将軍に何度も諭されたばかりだ。
ならばこそ、目の前の務めを一つひとつ積み上げるしかない。
私は深く息を吸い込み、鍛錬場の槍を再び握り直した。
空は夏めき、陽光は眩しい。
その光の下で汗を流し、心を引き締めることでしか、いまは己の居場所を証せないのだ。
その夜、親衛隊の訓練を終えたあと、私は槍を磨いていた。
夕暮れの光が差し込む隊舎は静かで、遠くからは兵たちの笑い声が微かに届いてくる。
「曹華、まだ鍛錬か?」
声をかけてきたのは雷毅だった。汗に濡れた額を布で拭い、剣を脇に抱えている。私と同じく訓練を終えたばかりのようだ。
「いい加減、休んだらどうだ。せっかくの休暇明けだぞ」
雷毅は苦笑交じりに言った。
私は槍の穂先を布で磨きながら答える。
「戦場に立つ者は、いつでも準備を怠ってはならない。休暇が終わった今こそ、気を緩めるべきではないわ」
雷毅は少し黙り込んだ後、私の手元をじっと見つめて言った。
「……お前はいつもそうだな。背負いすぎる。強くあろうとしすぎる」
その声音には、責め立てる色はなかった。ただ真っ直ぐで、温かさがあった。
私はふと手を止め、雷毅の視線を受け止めた。
彼の眼差しの奥にあるのは、戦友としての信頼だけではない。何度も感じてきた、言葉にならない温度。
胸の奥で微かに揺らぐものを、私は必死に抑えた。
「……雷毅。背負うしかないのよ。私には、やるべきことがある」
「わかってる。でも、俺たちがいる。お前がひとりで抱え込む必要はない」
雷毅の言葉は、重い鎧の隙間から差し込む光のようだった。
その光を受け止めることができたなら、私はどれほど楽になるのだろう。
だが、私はそれを自分に許すことができない。
「ありがとう、雷毅」
私は短くそう告げ、槍を布で包んだ。
彼はそれ以上何も言わず、ただ私の隣に腰を下ろし、黙って一緒に武具の手入れを始めた。
静かな時間。
戦場でも宮中でも味わえない、奇妙に心安らぐ沈黙だった。




