第十章 白華・興華伝六十 火種
白陵軍の陣営に急報が届いた。
――蒼龍国は影雷将軍と土虎将軍を下げ、代わって麗月将軍と牙們将軍が二万の兵を率いて北境に布陣した、と。
氷陵帝はすぐに軍議を招集した。
雪嶺大将、凍昊中将をはじめ、幕僚たちが整然と並ぶ中、氷陵帝の随行として白華と興華も列席を許されていた。
やがて、斥候や使者の報告が読み上げられる。
「蒼龍国は影雷・土虎両将を退け、新たに麗月将軍、牙們将軍を北方へ派遣したとのことです」
「牙們……」
白華は震える声で呟いた。肩が小さく震え、いつもの冷静な表情に陰が差す。
興華は奥歯を噛み締め、拳を握り締めた。
脳裏に蘇るのは、あの夜の惨劇。
――血煙の村、泣き叫ぶのを必死に堪える自分と興華。
――そして無力な曹華を嬲り、三姉弟を引き裂いた男の顔。
氷陵帝は二人の動揺を敏感に察した。視線を向けると、白華ははっと我に返り、深く頭を垂れた。
「……失礼いたしました、陛下」
「構わぬ」氷陵帝の声音は柔らかかった。「その名に覚えがあるのだな」
白華は答えを濁した。興華は沈黙のまま拳を膝に押し付けている。氷陵帝はそれ以上問わず、ただ二人を見据えた。
一方、軍議は続く。
「蒼龍国は白陵国の演習を挑発と見るやもしれませぬ。兵を交代させ、牙們将軍を差し向けたのもその一環かと」
「しかし、未だ越境の兆しはない。睨み合いが続くだけだ」
雪嶺大将が低く唸る。凍昊中将は冷ややかに頷いた。
「牙們か。名は聞くが、蒼龍の猛将と称される一人。だが彼らがどう出ようと、我らは命に従い動くのみ」
氷陵帝は静かに言葉を継いだ。
「蒼龍国は黒龍宗の影響下にある。今回の交代劇もまた、その影を測る策の一つやもしれぬ。我らもまた油断なく備えよ」
軍議の声が重く響く中、白華と興華は互いに視線を交わした。言葉にはしなかったが、胸の奥では同じ思いが燃えていた。
――牙們。
再びその名を耳にする日が来るとは思わなかった。あの日失われたもの、流された血、そのすべてを忘れることはできない。
白華の瞳は静かに揺れ、興華の拳はなおも膝の上で震えていた。




