第十章 曹華伝五十七 泰延帝の一つの決断
白陵国が天脊山脈の麓に軍を留め、越境せぬまま睨みを利かせているとの報は、再び蒼龍京に緊張を走らせた。
泰延帝は、広間に天鳳将軍・麗月将軍・牙們将軍を呼び集め、厳めしい面持ちで口を開いた。
「……黒龍宗の影響は薄いはずの白陵国に、こうも振り回されるとはな」
帝の声音は低く、苛立ちを隠さなかった。廷臣たちが息を呑み、広間の空気が硬直する。
一歩進み出た天鳳将軍は、落ち着いた声音で応えた。
「陛下。白陵国の行動は確かに不可解ですが、必ずしも我らを揺さぶるためとは限りませぬ。……ただ一つ、可能性がございます」
泰延帝が鋭く目を細める。
「申してみよ」
「白陵国は、我ら蒼龍国の“黒龍宗との関わり”を見極めようとしているのではと。……国境に大軍を置き、あえて挑発することで、こちらの反応と、黒龍宗の動きを観察しているのかもしれませぬ」
広間に一瞬の沈黙が流れた。
その言葉に、麗月将軍と牙們将軍がわずかに身を強張らせた。
二人の視線が交錯し、すぐに逸らされる。わずかな変化だったが、泰延帝の鋭敏な眼には映っていた。
だが帝は、あえて何も指摘しなかった。
冷徹な眼差しを兵たちに向け直し、ただ一言を投げる。
「……ならば、こちらも少々“動いて”みるとしよう」
その言葉に広間の空気がざわめき、緊張はさらに高まっていった。
泰延帝は、冷たく研ぎ澄まされた声音で言葉を放った。
「……影雷、土虎。両将の働きはよくわかった。だが、長きにわたり国境を預けるのは酷でもある。次は――麗月、牙們。お前たちが北へ赴け」
広間がざわめきに包まれた。
麗月将軍と牙們将軍は一瞬驚きに目を見開いたが、すぐに膝をつき、深く頭を垂れる。
「御意……」
二人の声が重なり、石造りの大広間に低く響いた。
麗月の胸中には苦いものが走っていた。黒龍宗との過去の関わりを正直に告白し、命を繋いだのはつい先日のこと。その彼女が再び国境へ送られる――帝の真意を測りかねていた。
(……これは、私を試すつもりなのか。それとも……監視か)
一方、牙們将軍は、普段から感情を表に出さぬ男だったが、その目の奥にかすかな揺らぎが見えた。
(……白陵国の動き。黒龍宗の影。すべてが交錯するこの局面に、俺を向かわせるとは……)
だがどちらも、帝の前では一切を顔に出さなかった。
その様子を天鳳将軍は横目で見つめていた。
泰延帝の采配は苛烈にして冷徹だが、常に理に適っている。
「……黒龍宗に繋がる影を抱えた二人を、あえて北へ送るとは」
心中でそう呟きながら、彼はただ静かに帝の決断を受け止めた。
「白陵国はいまだ越境の意志を見せぬ。だが油断は許されぬ。……麗月、牙們。そなたらは影雷、土虎と交代し、国境を守れ。白陵国の真意を、余に報告せよ」
「ははっ!」
二人は声を揃え、恭しく頭を垂れた。
泰延帝の冷厳な眼差しはなおも鋭く、広間に緊張の残滓を残していた。
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泰延帝の勅命から七日後。
麗月将軍と牙們将軍は、選りすぐりの兵二万を率いて北へ赴くこととなった。
蒼龍京の城門前、二万の兵が整然と列を成し、鎧と槍が朝日を浴びて眩しく光った。城下の人々は軍列を一目見ようと集まり、祈るような声や別れの涙が至るところで交わされた。
麗月将軍は白馬に跨り、堂々と声を張り上げる。
「我らの務めは、国境を守り抜くことにある!白陵国の威容に惑わされるな。泰延帝の威を胸に、進軍するぞ!」
その言葉に応じ、二万の兵の鬨の声が天を震わせる。
一方、牙們将軍は寡黙に軍列を睨み渡していた。強き武勇で知られる彼の鋭い眼差しは、兵たちをただ一瞥するだけで引き締め、余計な言葉を必要としなかった。麗月の華やかな威令と、牙們の静かな威圧。その対照が軍を支えていた。
やがて城門が開かれ、蹄の響きと鎧の軋む音が重なり合って大河のような音となり、軍列は北へと流れ出した。旗指物が風にはためき、二万の兵が長蛇の列を成して進むさまは壮観であった。
曹華は天鳳将軍の傍らから、その行軍を見送っていた。
だが、胸の内は穏やかではなかった。
(……なぜ、この胸は素直に彼らを見送れないのだろう)
白玲という戦友を送り出す誇らしさもある。だが同時に、何かを置き去りにされるような、あるいは取り残されるような心細さがあった。白陵国の軍が未だ越境せずに国境で静かに構えている以上、この行軍が無用の火種とならぬことを祈らずにはいられなかった。
天鳳将軍は無言のまま軍列を見つめていた。その横顔に漂う落ち着きと決意が、かえって曹華の胸を締め付ける。
やがて麗月と牙們の率いる大軍の背が遠ざかり、城門の影に消えていった。曹華はただ拳を握りしめ、胸の奥で静かに呟いた。
(……どうか、無事で)




