第九章 曹華伝五十四 休暇(三)
その翌朝、私は紫叡に鞍を置き、久しぶりに遠乗りへ出かけることにした。
鎧は纏わず、軽やかな衣装に身を包み、腰には小刀を差すのみ。戦の重苦しさを脱ぎ捨て、ただ風を受けたいと思ったのだ。
紫叡は嘶き、首を振って応える。長き外征の間、共に戦場を駆けたこの駿馬もまた、伸びやかに走りたがっているのが伝わってきた。
城下町を抜けると、景色は一変する。
石畳の道が土道へと変わり、田畑が広がり、農夫たちが鍬を振るっている姿があった。麦の穂が風に揺れ、遠くでは水車がゆっくりと回っている。
人々は騎馬の私を見て驚き、すぐに笑顔で手を振った。私は手綱を軽く引き、彼らに頷き返す。
やがて、丘陵地帯へ入った。
紫叡は蹄を軽快に鳴らし、力強く坂を駆け上がる。
丘の頂に辿り着いたとき、眼下に広がるのは首都・蒼龍京の城壁と、白亜の塔が朝日に輝く姿だった。
(……あれが、私の守るべきもの)
胸の奥で静かに呟く。
戦場の血煙の中では見失いかけていた「守る理由」が、こうして自然の中で鮮やかに浮かび上がってくる。
紫叡の背に身を預けながら、私はゆっくりと息を吸った。
秋が近づく風は澄み、草原の香りを運んでくる。
心が洗われるようだった。
「紫叡……もう少し走ろうか」
軽く拍車を入れると、紫叡は応えるように一声嘶き、丘を下って駆け出した。
草を裂く風の音、鼓動と蹄のリズム。
それは戦場の喧噪ではなく、自由そのものの音色だった。
私は笑みをこぼした。
このひとときが、次に戦場へ立つ私の力となる。
そう信じながら、紫叡とともに首都の郊外を駆け巡った。
丘を下り、林を抜けると、やがて視界がひらける。
そこには、澄んだ水をたたえた湖が広がっていた。秋空を映し込み、青と白の揺らめきが波紋とともに広がっている。
紫叡は水の匂いを感じたのか、鼻を鳴らして湖へと歩み寄った。
「……行っていいわ」
手綱をゆるめると、紫叡は嬉しそうに水際へ進み、冷たい水を舌で掬うように飲みはじめた。その仕草が妙に愛らしくて、私は思わず笑みをこぼした。
湖畔に腰を下ろすと、背に柔らかな風が吹き、草の香りが頬を撫でる。城下の市場で買った包みを取り出し、中から香ばしいパンと干し肉、少しの果物を広げた。
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「いただきます」
一人つぶやき、パンを齧る。小麦の甘みと、ほんのりとした塩気が口に広がる。戦場で急ぎかき込む干し飯とは違う、丁寧に作られた味。
(……なんて温かい味なんだろう)
紫叡の背を眺めながら、果物をひとつ頬張る。湖の水面を揺らす風は涼しく、陽光に煌めく波は静かな音楽のように心を和ませてくれる。
戦場では決して味わえない、穏やかな時間。
私は深く息を吸い込み、胸いっぱいに湖の空気を満たした。
(……焦る必要はない。いまはこうして、人としての私を取り戻せばいい)
やがて木陰に身を寄せ、読みかけの本を開いた。ページをめくる音だけが、湖畔の静けさに溶け込む。紫叡の尾が草を払う音や、水を飲む音さえ、心地よい伴奏に思えた。
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日が傾きかけた頃、私は本を閉じ、湖面に映る自分の顔を見た。
戦士としての険しさではなく、ただの一人の娘の表情。
その姿に少し驚き、そして救われる思いがした。
「……白華姉さん、興華。きっとまた会える」
小さく呟き、紫叡に手を伸ばす。彼は安心させるように鼻先を私の手に寄せてきた。
こうして過ごした湖畔でのひとときは、戦場の荒波に再び身を投じる前の、かけがえのない休息となった。




