第九章 曹華伝四十九 麗月の黒き告白
夏の名残を残しながらも、風に秋の気配が漂う頃。
私たちの部隊は、長き撤退の末にようやく蒼龍国の首都へと辿り着いた。
街門の石畳は、懐かしいはずなのに、戦場を経た心には遠い異国のように映る。
天鳳将軍の采配の下、兵たちは整然と列を成し、城門をくぐった。
その背に漂うのは「帰還の安堵」ではなく、「生き延びた者の重み」であった。
私もまた、胸に静かな安堵を抱きながらも、砦での惨状が脳裏から離れず、心は重く沈んでいた。
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城門を越えた後、天鳳将軍は低く、しかし力強く号令を発した。
「――これより部隊を解散とする。各自、休養を取れ。次なる命を待て」
兵たちは深々と頭を垂れ、散っていった。
首都の空気に溶け込むその背中は、皆疲労に滲んでいたが、確かに生きて帰った者の重さを刻んでいた。
私は配下の兵たちを見送りながら、槍を握る手に力を込めた。
(……彼らを死なせずに済んだ。それだけでも、この撤退に意味はあったはずだ)
背後では、趙将が静かに天鳳将軍へと歩み寄り、言葉を交わしていた。
その姿に、戦場での信頼と絆を見た気がした。
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兵の姿が減り、夕暮れの空が街を朱に染める頃だった。
天鳳将軍の本営に、一人の女将が静かに歩み寄る。
麗月将軍。
その優美さはいつも通りであったが、目の下には濃い影が落ち、疲弊の色が隠しきれなかった。
「……天鳳将軍」
その声はかすかに震えていた。
彼女が誰の目も憚らず、ただ一人でここへ来るなど、今まで見たことがない。
天鳳将軍は、彼女の様子を一瞥し、静かに頷いた。
「……話があるのだな」
麗月は唇を噛み、やがて小さく、しかし決意を込めて言った。
「明日……お話をさせてください。……私自身のことを」
その瞬間、私は息を呑んだ。
彼女の背後に、長く伸びた影が揺れる。それは美しい仮面の奥に隠された“何か黒いもの”の象徴のように思えた。
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翌日、将軍府の一室。
厚い扉の向こうに、麗月と天鳳の姿があった。
私は直接聞くことはできなかったが、扉の隙間から漏れる声だけで、ただならぬ気配が伝わってきた。
麗月の声は震えていた。
「……私は、黒龍宗の影響下にありました」
沈黙が続いた。
そして、天鳳将軍の低い声。
「……やはり、か」
私は息を詰めた。
あの麗月将軍が……?
麗月は続けた。
「だが、私は……もう従うつもりはありません。黒龍宗は人の心を喰らう。美も、栄光も、すべてを利用し尽くす。……私は、ただその駒として舞ってきたに過ぎない。だが、金城の砦での惨状を見て……私は知ったのです。黒龍宗は……“国”そのものを蝕む存在だと」
言葉の端々に、深い後悔と決意が滲んでいた。
天鳳将軍の声は冷静だった。
「……告白を聞こう。だが、選ぶのは行動だ。口ではなく、この先で何を為すかで示せ」
麗月の息が震え、やがて小さく、しかしはっきりと応えた。
「……はい」
その声は、黒い鎖を断ち切ろうとする者の声だった。
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私は胸の奥でざわめく感情を抑えきれなかった。
麗月将軍の美しい仮面の裏に、そんな深い闇があったとは。
だが同時に、彼女が今、黒龍宗から背を向けようとしていることもまた、揺るぎない真実だった。
(……麗月将軍。あなたは……本当に、信じていい人なのだろうか)
秋の風が、首都の空を吹き抜けた。
その風は、麗月の黒き告白を未来へと運ぶかのように、冷たくも澄んでいた。




