第七章 曹華伝四十四 天鳳将軍への報告
金城国の砦。
そこでは、天鳳将軍と麗月将軍が指揮を執り、撤退の準備を静かに進めていた。
表向きは持久戦を装いながら、実際には漸次的に後退する――天鳳の緻密な手並みである。
まず一次隊が負傷兵と余剰輜重を伴って砦を離れ、煙幕と烽火で陣容を誤魔化す。
全軍が「まだ戦意を保っている」と金城国に見せかけるためだ。
大広間では将兵たちが地図を囲み、冷ややかな指示が飛び交っていた。
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その時、外から伝令の声が響いた。
「天鳳将軍! 急報にございます!」
血に塗れ、息を切らした若い兵が駆け込む。
白玲が派遣した伝令兵だった。
「蒼龍国側の砦にて……異常事態発生との報! 詳細は未確認にございますが……ただ事ではないと……!」
将たちの間に低いざわめきが走った。
天鳳は手を止め、わずかに眉を寄せる。
「……何かがあったのは間違いないな。だが、報は抽象的すぎる」
冷静に言い放ち、再び地図へ視線を戻す。
兵たちはその落ち着きに、逆に息を整えるのだった。
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一次隊が出立して間もなく、さらに重い足音が近づいた。
「天鳳将軍! 曹華副隊長よりの伝令、急ぎ参上いたしました!」
駆け込んできた伝令兵は全身を煤で汚し、顔にはまだ恐怖の色を残していた。
兵たちは息を呑み、天鳳と麗月の視線が同時に突き刺さる。
「……申せ」
天鳳の短い言葉に、兵は震える声を絞り出した。
「砦の中は……地獄でございました……! 死体は焼け、黒く炭となり、建物の壁や床には……肉と血の痕が……!」
「ただの炎ではございません……人が……丸ごと……焼かれ……」
声は嗚咽に変わり、兵は言葉を継げなくなった。
だが、それだけで十分だった。
大広間にいる誰もが、背筋を凍らせるのを感じた。
麗月将軍の顔からは血の気が失せ、微かに肩が震えていた。
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天鳳はしばし沈黙し、やがて低く呟いた。
「……こんな真似ができるのは一人しかいない。黒龍宗の四冥将たる――焔冥将・朱烈」
その名を口にした瞬間、広間の空気が重く沈んだ。
兵たちには聞き覚えが薄くとも、将たちにとっては忌むべき災厄の名だった。
天鳳の瞳には冷静な光があった。
(しかし、何故だ。黒龍宗がこの局面で、朱烈を……。狙いは何だ? 金城国の支援か、あるいは蒼龍国を退ける口実を作るためか……)
一方、麗月の胸を支配したのは冷徹な分析ではなかった。
(朱烈……間違いない。あれは奴にしかできない……! だが、何故? 何故この場に……)
黒龍宗から何も知らされていない。
それどころか、まるで“切り捨て”を告げるかのように突然現れた朱烈。
(まさか……私は用済みで……処分されるの……?)
恐怖が全身を縛り、麗月の指先が僅かに震えた。
微笑で隠してきた仮面の下で、女の顔が恐怖に歪む。
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天鳳は全軍を見回し、静かに告げた。
「……まずは予定通り、漸次後退だ。曹華と白玲の隊には拠点の確保を急がせる。兵糧は砦の残り十七日分と、我らの携行分五日。時間は限られるが、秩序を保って退く」
その声は凛として揺るぎなく、兵たちの動揺を押し返す。
だが、将たちの胸には深い影が残った。
――黒龍宗の四冥将たる、焔冥将・朱烈。
ただ一人で砦を地獄へ変えた、業火の化身。
その影が、いよいよ戦場に姿を現したのだった。




