Folder 001: calling for spilt milk(2)
凡百の人間ならうろたえる状況だろう。だが、花凪彩は違った。
「なるほど。目も慣れてきた。音も聞こえない。停電というわけではなく、私自身が試着室とは別の空間に飛ばされたということか」
一万人の仮想人生――政府によって提供された人生のモデルコースを一万通り追体験した彩は、冷静に自分の置かれた状況を分析することができた。
「空間転移は、さっきスノウドロップがやったから充分可能性がある。問題は、今私が置かれているこの空間の正体だ」
夜目が利くようになった彩は周囲を見渡した。一面黒の背景に、ところどころ白いものがちらつくのが分かる。目をこらすと、それらは紐でぶら下がっているようだ。彩は白い物体の一つに近づく。折れ曲がった細い棒が太い幹に接がれているような形状。さらに歩を進めると、全容が明らかになる――
脚のないマネキンの数々。それらは、この漆黒の空間に整然と吊されていた。
その異様な光景に彩は臆さなかった。彩は一度だけ手を叩く。反響の度合いから、密室にしては空間の体積が大きいことを悟る。
「なら、まずはこのマネキンの意味を考えるか」
マネキンは高く吊されており、彩の身長でも降ろすことは不可能だ。だとすると、観察して分かるマネキン自体の特徴から推理するしかない。
「吊されたマネキンは、脚が切断されている。脚がないということは、移動できないことの暗喩。この場合移動手段を確保するには簡便なものだけで八通りの方法があるが――」
彩はマネキンの林を歩く足を止めた。
「どうやら一番単純な方法が正解だったみたいだな」
首吊りマネキンに取り囲まれるように手術台があり、その上には五体満足なマネキンが横たわっていた。
「時間のロスは痛いが、調べる前に他の可能性を否定しておこう。この空間の性質を理解できれば、自分の選択により確信が持てる」
彩はスノウドロップが選んだ服を手術台に置くと、まっすぐ前へと歩き出す。数十メートル歩を進めたところで、彩は目の前に服が置かれた手術台を再発見した。
「やはりループしているな。拍手の反響がおかしいとは思ったんだ」
道中に怪しいものはなかった。調べられるものは手術台のマネキンだけである。
脚を注視すると、腿から上で取り外しが可能なようだ。周りの吊されたマネキンと同じマネキンであることを確認し、彩はその脚を引き抜いた。ガシャン、と音が鳴る。マネキンたちが一斉に落ちたのだ。その中で一体だけ、吊されたままのマネキンがあった。
「見つけた。あれが鍵だ」
彩は手に入れた脚を抱えて、吊されたマネキンの元へと踏み出す――彩は自分の身体が浮かび上がるような感覚を覚え、次の瞬間、地面に打ち付けられた。腕からこぼれ落ちた人工の脚は、ひとりでに歩いて遠くに行ってしまう。自分の脚を振り返ると――大腿の真ん中から向こう側が、完全に消失していた。
「嘘、そんな……っ」
一万人の経験が、彩にこう告げていた。
――失敗したのね。もうあなたに生きる価値なんてないわ。
「やめろ……まだ可能性はある。理屈はわからんが出血もしていない。匍匐前進なら」
両脚を失ってなお進もうとする彩の前に、大きな白い柱が突き立てられた。
「何だ、これ……」
それは、彩の経験にも存在しないものだった。
「巨大な、マネキン……?」
フリルスカートで着飾った全長十メートルに及ぶ両脚が、彩の前に立ち塞がった。
――生きる価値なんてないわ。
マネキンの脚が、彩を踏み潰さんと振り上げられる。彩の脳内に過去の記憶が巡り始める。最初に浮かんだのは、顔も覚えていない母親でも父親でもなく、
『やっと会えましたね、彩!』
『すごくかわいいですっ!』
『わたしはここで待ってますから。何かあったら名前を呼んでください』
よりによって、今日出会ったばかりの奴の台詞だった。
もう、どうにでもなればいい――彩は思い浮かんだその名を叫ぶ。
「スノウドロップ!」
巨大なハイヒールの靴底が迫る。彩が睨むその視界の先に、黒のワンピース・ドレスに白い大鎌を構えた少女――一輪の希望の花が、絶望の前に咲き誇っていた。