Folder 001: calling for spilt milk(1)
東京都 花凪 彩について、特撰人材認定要件(ニ)を満たしたことを認証し、人材活用推進法(工和二十一年法律第二百四号)により特撰人材の免許をあたえる。
(ニ)一万人分の仮想人生を満二十歳までに修了すること
***
状況を整理したいと、そのとき花凪彩は思った。
彩は高校生として最低限度の義務を果たすべく、数日ぶりの登下校を終えたところだった。定期テストは消しゴムを一度も使わずに全て解けたので上々、帰り道の歩数は昨日より二歩増えたが誤差の範囲だろう。イレギュラーは何一つなかったはずだ。
――それが、なぜこうなった。彩が自宅マンションに入りクローゼットに手をかけるまで、一切の違和感は排除されていた。戸を開ける。収納していた服が不自然に揺れる。何かがいると気づいたときには、もう遅かった。
「やっと会えましたね、彩!」
飛び付かれ、組み伏せられる。飛び出してきた少女は彩よりも二回り小さい体躯だ。彩の高い背丈を加味しても、小学生、せいぜい中学生といったところか。彩はなんとか少女を自分の身体から引き剥がすと、
「何だ君は! どうやって家に入った?」
少女の髪は白銀で、髪以上に自己主張の強い瞳は星々を濃縮したように爛然と光っている。
「失礼、自己紹介がまだでしたね。わたしはスノウドロップ。本日付けで、わたしがあなたのシャペロンを務めます!」
シャペロン――辞書的な意味はこうだ。①社交界に出る若年女性に付き添う年上の女性。②生物がタンパク質を形作る際の『折り曲げ』の過程を助けるタンパク質の総称。
「いや、どう見ても年上じゃないだろ」
スノウドロップと名乗った少女はとぼけるように首をかしげる。その隙に彩は距離を取り、目の前に現れた存在を観察した。銀髪は二つのお団子に結わえられており、クラシカル・ロリィタのワンピースは黒を基調として髪色と対照を成す。華奢な脚に咲く靴もシックな黒のショートブーツだ。
屋内で靴を履くなという指摘は置いておくとして――彩の思い描いてきた、少女時代の憧れがそこにあった。そう気づくと、彩は自分の心の内にまで土足で踏み入れられたような気分になって、
「出ていって」
「でも、わたしはあなたの」
「出ていけ!」
彩はスノウドロップの両肩を掴むと、そのまま玄関の外へと押しやった。即座に扉の鍵を閉め、チェーンも掛けて完全に封鎖する。スノウドロップがピッキングできたとしても、これで侵入は物理的に不可能だ。マンションの一室は、ようやく静寂を取り戻した。
「非効率的な遊戯に付き合わされたな……」
彩は独りごつと、再びクローゼットの前に立った。幸い、荒らされた痕跡はない。もうほとんど着ることのなくなった、少女らしいフリルのついた服たちは沈黙している。
彩はクローゼットを観音開きにして、並ぶ衣服を眺める。
「……着られないのにね」
身長180センチを超えても、彩の嗜好は変わらなかった。さっきの不法侵入少女みたく小柄で華奢なら、きっと着こなせるだろう。でも、今の彩には……無駄に長く伸びた手足に視線を落とす。分かっていた。もう、絵本の中の少女ではいられない。
「でも、捨てたくはないんだよな」
陳列された愛らしいドレスたち。洋菓子のように柔らかいレースを指で撫でる。こんなにも近くにある愛らしさを、自分は身に纏うことさえ許されないのか。彩は伸びていく身長とともに、街中の人々の視線を集めるようになっていた。そんな状況下で、甘々のロリィタを着こなす勇気は失われてしまった。
「私も、さっきの子みたいに小さくてかわいければ……」
自然な嫉妬だった。そのまま台詞が虚無に溶けてしまえばよかったのだが、
「何言っているんですか! 彩は世界一かわいいです。だからもっと自信持ってください!」
嫉妬の対象は、彩のすぐ横に存在していた。彩の表情筋が、一瞬で凍りつく。
「どうして戻って来られたんだ」
彩はため息をつくと、冷静な口調で問うた。
「シャペロンの力ですよ。いつでもあなたに最善の状態で出会うこと。それがわたしの定めですから」
「君は私と接触するためなら、テレポートでもやってのけるって言いたいのか?」
「それはもちろん。伊達に人生捧げてませんからね。シャペロンはB級人材の中でも選りすぐりの存在。A級人材のサポートをするために魔法で変質し、心身ともにA級人材の従者となった者――つまり今日からあなたが、わたしのご主人様です!」
スノウドロップは彩に対しワンピースの裾を持ってお辞儀をした。彩はどこかぎこちないその仕草に数秒動きを止める。スノウドロップも姿勢を崩さない。
「君、人に仕えるのは初めてだろう?」
「は、はいっ! 何か失礼をしてしまいましたでしょうか?」
スノウドロップは慌てて顔を上げる。泣いてもいないのに少し潤んだ瞳と視線が合い、彩は細く長いため息を吐く。
「……いくらA級人材をサポートするのがB級人材の役目と言ったところで、同意無く住居に侵入するのは失礼以前に犯罪なんだが」
「いえ、わたしは罪に問われません。A級人材がしっかり自分の才能を発揮できるようにする。そのためならシャペロンは、社会の法律も自然法則も打ち破ることが許されるんです」
「なるほど。つまり国家直属の狗という訳か。ただのストーカーにしては手品が上手すぎるのも、政府からの援助を得ていると考えれば得心がいく。魔法の類も、奴らなら仕込めるだろう」
彩は自分の経験した無数の人生標本に、超常現象の例がいくつかあったことを想起していた。
「政府の力で、私は私の人生を降りて、シャペロンとして生まれ変わりました。だからこそ。私は新鮮さを失わずにあなたの元へ駆けつけられます」
「しかしなぜ私に……こう見えても私は特撰人材なんだ。A級人材の中でも最も才能を発揮した十二人のうち一人なんだぞ。政府に口出しされる覚えは」
あった。
彩がシャペロンによる矯正を要する理由。
特撰人材同士の会合を、全て欠席していること。
非効率的な人間関係を避けるため、高校も休みがちだということ。
政府からの給金を、一切着ないロリィタ・ファッションにつぎ込んでいること。
挙げればきりがない。彩の頬が引きつりはじめる。
「わかった。私に矯正が必要なのは認める。認めたから、今日のところはもう帰ってくれないか? 君との時間は煩雑すぎる」
「彩、わたしも人生を賭けてあなたの元へ来ています。ここで退くわけにはいきません。ご両親にも挨拶させてください」
「両親だって?」
彩の苛立ちが、明確な怒りへと色を変えた。
「え、そんな……申し訳ございません。彩は、特撰人材の権限でご両親と絶縁したのですね」
「絶縁? そんな手続きを踏んだ覚えはない。私の両親は最初からいなかった」
スノウドロップは初めて動揺を見せたが、すぐに開いた口を閉じ、笑みを作る。
「理解しました。やっぱり私、あなたのシャペロンになれて良かったです」
「こっちは良い迷惑だよ。まあ、国の方針に逆らうのは非効率的だからな。つきあってやるよ。だから今日は、もうこれで終いだ」
「はい。これからよろしくお願いします!」
彩はぺこんとお辞儀をするスノウドロップを見下ろす。自分が巨女であるということを突きつけられるこの瞬間が、注射針のように刺さる。
「あの、彩……」
気がつくと、スノウドロップは再び彩の顔を見つめていた。フリルに包まれた上目遣いがスノウドロップの愛らしさを一層際立たせている。その嬌態を目の当たりにして、彩は奥歯を噛み締めた。
「彩、クローゼットにあった服ですけど――」彩の血の気が一斉に引いた。
止めてくれ――分かっているんだ。似合わないことぐらい。私は君のようにかわいくなれない。ロリィタを何着持っていたところで、君のように着こなせる日は一生来ないんだって――彩はぎゅっと目をつむった。
「すごくかわいいですっ! 着てみてください!」
「は?」
拍子抜けした。そこには罵倒も嫌味もなかった。スノウドロップは硬直する彩に構わず、掴んだ彩の手を上下に振り目を輝かせている。
「最っ高ですよ! 彩は背がすらっと高くてクールなイメージが先行しがちですが、ロリィタも似合いますね。というか、これが一番良いまであります!」
スノウドロップは息を荒くして彩を絶賛した。その後もかわいいかわいいと、呪言のように繰り返している。
「いや、そんな……褒めたところで着ないから」
突然の褒め殺しに、彩は頬が上気するのを抑えきれない。
「じゃあ彩。わたしの分も含めて、今から買いに行きましょう」
「どうして君の分まで」
「これからシャペロンとして共同生活を送るんですよ。わたしは普段からかわいい服が着たいし、彩には常にかわいく、美しくあってほしいんです」
「はあ……」
「レッツゴー! ですよ、彩」
もう彩は説得に掛ける労力が惜しくなっていた。
「まったく、しょうがない奴だな」
彩はマニッシュなグレーのジャケットを羽織る。
「えっ! ロリィタ着ないんですか!」
「当たり前だ。あんな服で外に出られるか」
「良いじゃないですか。わたしは二人でかわいい服着たいですよ」
「君が良くても私が駄目なんだ。今着ているジャケットだって、悪いわけじゃないだろう」
「……まあ、かっこいいですけど」
スノウドロップが拗ねたように目を背ける。
彩は足早に玄関に向かった。その後をとてとてとスノウドロップが付いてくる。もしスノウドロップの説明に嘘がないとしたら、今ここで拒んだところで政府はまたスノウドロップをけしかけてくるだろう。ならば下手な抵抗はせず、むしろ如何にしてスノウドロップを懐柔すべきか考えるのが吉だ。
「この辺りで良いお店、知ってますか?」
「無くはないが、高いんだよな」
彩は代わり映えのしない街を歩きながら、底を突きかけた預金通帳に思いを馳せる。
「まあ、君にかわいい服を着られたら、私の尊厳が蝕まれるわけだし、ここはファストファッションで手を打とう――ってどこ行った?」
「彩ー! こっちこっち!」
声がする方へ目をやると、いつの間にか向かいの個人ブランド店に入ろうとしているスノウドロップの姿があった。
「おい! 従者なら付き従え!」
「早くー!」
声が届いていないのか、届いた上で無視しているのか……スノウドロップを飼い慣らすのは、彩にとって長い道のりになりそうだった。
信号を渡った頃には、既にスノウドロップは店に入っていた。仕方なく彩も後を追う。
一人で入る勇気がなく、彩にとって今まではショーウインドウに飾られた服を眺めるだけの店だった。初めて入った店内は期待通り愛らしい服で目白押しだった。心が弾む反面、スノウドロップの存在が彩の頭を重くしていた。
「確かにかわいいけど、こんな高い服買えないからね」
「店員さん。これとあれとそれください」
「ちょっと待て」
フリルのブラウスやスカートが店員の手に渡るのを、彩は直前で阻止した。
「すみません。ご迷惑おかけしました」
彩は頭を下げると、スノウドロップの腕を掴んで店の外に出ようとした。が、スノウドロップは動かない。小さな身体のどこにそんな力があるのか、彩もすぐには解明できなかった。
「ちょっと彩、勘違いしてますよ」
「してない。君には確かにかわいい服が似合うだろう。でもそれを好き放題買い与える余裕はない」
「早合点はよしてくださいよ。わたしだって、自分の服ぐらい自分のお金で買います」
「……なんだ。君、収入あるのか」
「月三十万ほどは」
「は? なんでB級の君が私より貰ってるんだ」
「爪を使わない鷹よりも、獲物を狩る鳶のほうが評価されるんです。少なくともこの社会では」
「非効率的だったな。君の金なら自由に使え」
「はい。ですから彩の外出用の服もわたしが調達しましょう」
「君の金でか?」
スノウドロップは会計を済ませると素直な表情で頷いた。
「呆れたよ。しかし私の服は間に合ってる。それに、こういうかわいさが前面に出た服は年を取る度に着にくくなるんだ。君だって例外じゃないんだからな」
スノウドロップは数秒困り眉になったが、笑顔を立て直すと、
「わたしは例外ですよ。何年経とうが関係ないです。あなたのためなら、ずっとかわいい『わたし』のままでいますから」
彩は奥歯を軋った――そういう強者の悪意無き自己顕示が、ファッションへの意欲を奪うのだ。自尊感情を当たり前のように築けた人間には分かるはずもない現実。なぜ、私は毎度苛まれる側なのだろう。
「とにかく、私は買わなくていいから」
「まあまあ、試着だけでもしてくださいよ。わたしが選んだセンス、正しいかどうか確かめたいんです」
会話を盗み聞いたのか店員が近寄ってきた。すかさずスノウドロップが試着を申し出ると、二人は試着室へと案内された。
「わたしはここで待ってますから。何かあったら名前を呼んでください」
「了解」
スノウドロップが選んだ服は、クラシカルなレースとフリルで飾られた真白のドレスだった。奇跡的に彩の長身にも合いそうなサイズのものがあった。似合うかはともかくとしてセンスは悪くないな、と彩は心の中で素直な感想を反芻した。カーテンを閉じて、鏡に向き直ると――視界は、突如闇に包まれた。