番外編:マリア。物語の終わりに
「本当に、馬鹿。……大馬鹿だわ」
魂が抜け、静かに横たわるティムの前で、マリアはもう一度つぶやいた。
主を失ったその部屋には、静寂だけが満ちていた。
この場にいるのは、マリアとティムだけ。
…儀式を、しなくては。
冷静な思考が、次にすべき手順を思い起こさせる。
心の中で呪文を唱えると、周囲の空気がゆっくりと揺らぎはじめる。
世界がぼやけて、次第に色彩が滲み、やがて――
マリアは世界樹の根元に立っていた。
懐かしい空気が、頬を撫でる。
自分の故郷に帰ってきた安心と、ティムとアシュリーの物語が終わったという、どうしようもない喪失感が交錯する。
ティムの身体が宙に浮き、世界樹のもとへ導かれるように移動する。
マリアはそれをただ、ぼんやりと見つめていた。
世界樹のまわりには、二、三十人ほどの子供たち。
人間の年齢で言えば、赤ん坊から高校生くらいまでの年頃。
ティムの身体が、ある程度の高さまで昇ったところで、光の粒となって静かに溶けていく。
そして、その場所にはひとつの「送り石」が残された。
子供たちは我先にとその石に手を伸ばす。
しばらくすると、それぞれの手に、ころりとした琥珀色の飴玉のようなものが残されていた。
彼らはそれを迷いなく口に含む。
それが、食事であり、記憶であり、学びでもある。
マリアやティムのような種族は、世界樹から生まれ、世界樹へ還る――そういう存在だ。
親はいない。学校もない。
この「琥珀」こそが、すべてを教えてくれる命の教科書なのだ。
独り立ちする頃までに、どれほどの琥珀を食べてきたのだろう。
マリアは思わず数えようとして──やめた。
先代の記憶を受け取り、どう振る舞うのかを学んでいったあの頃。
当時の自分は、それを「そんなもんだ」としか思っていなかった。
でも──今は違う。
マリアも、できることならティムの記憶をのぞいてみたいと思う。
けれど、もう大人になってしまった自分には、両手でどんなに強く握っても、何も現れはしないだろう。
昔から、これはそういうものだから。
そんなことをつらつら考えているうちに、ずいぶん時間が経っていたのだろう。
全員に行き渡ったのか、一番年長の少女が送り石をマリアに差し出す。
本来ならそれはその場に置かれ、やがて土へと還っていくものだ。
だが、彼らが受け取った記憶の中に、「それは返すべきだ」と思わせる何かがあったのだろう。
マリアは静かに頷いて、それを受け取った。
ティムのいないあの世界に、また戻るのか。
いや、もうこのままここに残ってしまっても、いいのかもしれない。
そう思ってしまうほど、この場所は優しかった。
人間たちの世界では、「化け物」と恐れる目で見られていた。
魔女や妖精が自分の世界から出ようとしない理由が、今ならわかる。
マリアは自分の手を見つめる。
――どう見ても、人間と変わらない。
だからこそ、何が違うのか知りたくて、医者になったのだ。
興味は、それだけだったはずなのに。
……でも、まだ。
せめてジョセフたちがどうなるかを、見届けたい。
アシュリーの新しい物語の始まりを、見てみたい。
マリアはゆっくりと目を閉じ、そして開けた。
そこはティムの部屋。
手の中には、あたたかみを帯びた送り石があった。
用意しておいた小箱に入れた際に、自分の用意周到さに思わず笑みがこぼれる。
あぁ、そうね。
私も最初からコレを彼らに渡すつもりだったじゃない、と。
あの場に置いておく気なんて、最初からなかった、無意識にそう行動していた自分に少しだけ戸惑う。
マリアは箱に入れたビロードに包まれた送り石をもう一度見つめる。
きっとあの二人は、これを「天国へ送る石」だと思うだろう。
たとえ本当は「知識を送る石」だったとしても。
…黙っておいたほうがいい。
事実よりも、その方がきっと彼らの救いになるだろう。
それくらいの分別は、マリアにだってある。
マリアは小さく息を吐き、アシュリーたちが待つ部屋へと向かう。
胸の奥に、ほんの少しの心残りを抱えたまま。
そして物語は、静かに未来へと続いていく。
緩やかに紡がれる、新たな日々のはじまりと共に。
これでお終いです。
お読みくださり、ありがとうございました。




