小さな不安
「大丈夫だよ、可愛いアシュリー」
ティムは、安心させるようにゆっくりと話す。
不安気な顔をしていたのを気が付いたのだろう。
「僕は、今までだってずっと大丈夫だったろう?
伊達に長く生きてはいないからね」
そう言って彼はクスリと笑う。
「それよりも、ここは気に入ったかい?
ホテル住まいは快適だけど、拠点があった方が君が楽かと思って買ってみたんだ。
君の部屋も、用意してある」
「私の、部屋?それに、買ったって…え?昨日の今日で?」
私の部屋を用意してくれたのが、素直に嬉しい。
だが、買ったっていうのがよく分からない。
普通に昨日の今日で買えるものなのだろうか?
この高級アパルトマンを???
そして当たり前のように、こんな高級アパルトマンを買ったなんて言わないでほしい。
庶民の私には、心臓に悪い。
「ジョセフから、何も聞いていないのかい?
僕の事も?」
大人しく頷く。
「彼が、ジョセフ・ブラッドリーという名前なのは、聞いたわ。
ねぇ、本当に彼がそうなの?
ブラッドリー商会の後継者と言われてる人物よね?」
「…そうだね、その通りだよ。
今の私は、ティモシー・ブラッドリー。
ブラッドリー卿と呼ばれてるよ」
「ブラッドリー商会の、会頭の…」
そうだ、ジョセフ・ブラッドリーだって言ってたじゃないか。
ティモシー・ブラッドリーって。
ハリソンだって、あんなに丁寧に挨拶していたじゃないか。
そして、ブラッドリー商会の会頭なら、即金で購入したって不思議じゃない。
いや、この建物自体が彼らの持ち物だったと言ったって驚きはしないだろう。
それくらいに、力のある商会だ。
確か、爵位だってあるはずだ。
立場や身分がある立場の彼に驚く私に、彼はなんのことないよ、という体で話す。
「そうだね、あそこも私の管理下においているね」
「ティムってしか名乗らなかったから…
知らなかった…」
「私達みたいなのは、そうそう居ないけど、まるっきりいないわけではないからね。
私たちも生きるためには働かなくてはいけないんだよ、場所を確保するためにも。
そして、もちろん、君に会うためにも」
私の目を覗き込むようにじっと見る。
「ジョセフは、私の甥だよ」
本当は違うのを、知っているよね?という含みをもった言い方。
そう、知っている。
彼に家族がいない事を。
いや、いるのかもしれない。
だけど、彼のそれは、私が考える家族の形をしていない。
だから。
「彼は、私に貴方は大切な人だって恩人だって言ってたわ」
「だから、口うるさくて行けない。
あれはするな、これはするな、人を年より扱いするからね。
困ったもんだ」
そう言って、冗談めかして笑うと、ティムは徐に立ち上がる。
おいで、と誘われ私の部屋という場所に来れば、クローゼットにはブラッドリー商会で取り扱うありとあらゆる質の良い服やドレス。
ドレッサーには化粧水から香水までありとあらゆるものが。
もちろん趣味の良いジュエリーもジュエリーボックスには収められていた。
いくらなんでも直ぐに揃えられるものではない。
嬉しさと、驚きでため息しか出てこない。
「気に入ったかい?」
「貴方が私に選んでくれたものならなんだって嬉しいわ。
でも、たった一日で、これほど揃えられるなんて…
信じられない…」
シンデレラストーリーも、真っ青だ。
いきなり大舞台に引っ張り上げられた素人。
だけど、与えられた役割をすんなりと受け入れられることが出来たのは、やっぱりティムと会って確信したからだ。
ティム以外に、こんなことされたら絶対に信じられないし、受け入れられないだろう。
「ねぇ、もし、私が貴方に気が付かなかったら、どうしていたの?」
「でも、僕に、気が付いてくれた」
そんなことはありえないだろう、という自信があるのだろう。
断言された。
そうね、私もそう思う。
気が付かない、なんてあり得ない。
真直ぐ見つめる瞳に、捕らわれる。
そうだ、私はとっくに捕らわれているのだ。
彼という男に。
何も言わずに抱き着くと、抱きしめ返してくれる。
ふわりと漂うオーデコロンの香りに、更に泣きそうになる。
「だけど、年々大変になっていくよ、僕達のようなものが共存していくにはね。
だから、僕も仕事をしてお金を稼がなくちゃいけないし。
甥の面倒を見て、甥を商売人として、僕の後継者として育て上げなくちゃいけない」
そこまで話すと、ティムはまた咳き込んだ。
顔色が悪い。
「大丈夫?お薬は?」
「薬はいらないよ、アシュリー。
ちょっと体調が悪いだけだ。
僕の時間は全てアシュリーに上げたいけれど、少し休む時間も必要なんだ。
アシュリーには寂しい思いをさせてしまうかもしれないね」
その、何気ないセリフに、違和感があった。
おかしい、何かがおかしい。
だけど、それが何か分からない。
私は彼と違って、全てを覚えていることが出来ない。
ずっとずっと覚えていたくても、忘れてしまう。
薄ぼんやりとした記憶で覚えているのは、生まれ変わっては必ず彼と出会って恋に堕ちて幸せになって、そして死んでいくこと。
どんな生き物に生まれ変わっても、それは変わらない。
彼を残して死んでいくのだ、毎回毎回。
彼と私は寿命というものが違うのだから。
私と、人ではない何かの彼とは。
だけど。
たった一つ言える事は、彼は私の運命の人。
いいえ、違う。
私の唯一の人。
生まれ変わって記憶がなくても、彼に一目会えば心が奪われる。
それくらいに大切な人なのだ、私にだって。
彼が大切なのは、貴方だけじゃないのよ、ジョセフ。
私も、また子供じみた嫉妬心をジョセフに対して持っているのかもしれない。
それに気が付いて苦笑するしかなかった。