向き合いたい
仕事中も、ジョセフのあの仕草が頭を離れなかった。
「落ち着け、私」
何度も自分に言い聞かせるけれど、ふとした拍子に思い出して、頬が熱くなる。
それを見ていたルーシィが、不審そうにこちらを見る。
「何でもない、風邪気味」
苦し紛れの言い訳する。
ルーシィの目は、絶対嘘だ、と言っている。
私だってそう思っているのだから、当たり前だ。
タイプライターを打つ速度も波があり、まだ復帰2日目だというのに、散々だ。
ハリーがチラチラと私を見てくるのもあり、少し落ち着かない。
もし、あの忠告がなければ、私はあそこまで動揺してジョセフを詰ったのだろうか?
そんな思いも湧きたつ。
午後のコラム整理中、ふいにハリーが原稿を持って近づいてきた。
「……アシュリー」
声がかけられた瞬間、胸がひやりとする。
「これ、ちょっと手直し必要かな?
なんか、ちょっと自分でも今一つなんだよね、しっくりこなくて」
原稿を差し出す手はいつも通りだったが、その視線はどこか探るようだった。
「……いいわよ」
なるべく何も考えないように、紙に目を落とす。
自分でも、どこに気を取られているのか分かるほど、気が散っている。
ただ、ジョセフのあの一言とあの仕草が、ずっと胸の奥で反響していた。
恋人ごっこの時だってもっと親密な感じを出していたはずだ。
頬に触れそうなキスの振りだって、腰をぐっと引き寄せたダンスだって。
なのに、なのに。
あぁ、原稿に集中したいのに、頭の中がグチャグチャだ。
「紅茶でも、飲まないか?」
その軽い誘いに頷いた私は悪くないはずだ。
お湯を注ぐと、茶葉がゆっくりと揺れる。
ティーポットカバーをかけて、砂時計をセットする。
砂がサラサラと落ちていく、この音が好きだ。
何となく気持ちが落ち着く。
「…昨日はごめん…」
小さな声でハリーが言う。
「前も言われたよな、人の恋路を邪魔するやつは野暮だって」
言った、覚えている。
あぁ、もうそんな会話が遥か昔のように思える。
「そうね」
「それでも、俺は…俺は、アシュリーが心配なんだよ。
俺、どうしてもっと早くに自分の気持ちを言わなかったのか、どれだけ後悔したか…」
私は黙ったまま砂時計を見る。
砂時計はゆっくりと時間を刻む。
「…突然こんな事いってごめん、でも、アシュリーが苦しむところを見たくないんだ…
そんな、気持ちからだったのだけど」
そこで言葉を区切ると、ハリーは私の目を伺うように見る。
その瞳は、なぜか付き物が落ちたかのようにすっきりしていて、この場面のセリフとはだいぶ違う印象を受ける。
「今日のアシュリーを見て、俺の独りよがりだったんだな、と、いや、今更だよな、アシュリーはずっとジョセフ卿が好きでそれだけだったのに、俺一人が、俺の思いに凝り固まってさ…かっこわりぃ」
「え…」
私もハリーを見つめかえした。
「俺、アシュリーが入社した時からずっと好きだったんだよ。
あー、俺って馬鹿。今言えるなら、前だって言えたろうにさ。
本当、馬鹿すぎだろ。
悔しいけど、ジョセフ卿ならアシュリーを守るのだろうなって今日のアシュリーの態度を見ていたら分かったよ。
…これからもよろしく頼むよ、頼もしい同僚さん」
ハリーの好意に気が付いていなかった。
明確に気づけたのは、ティムと会ってからで。
私は、それまでそんな感情がなかったのだ。
紅茶を一口飲む。
やさしい香りと温かさが、胸に溜まっていた何かをゆっくりと溶かしていくようだった。
「ありがとう、ハリー」
ハリーはニコッと笑うと、背を向けて仕事場に戻っていく。
ありがとう、その言葉は、心からのものだった。
彼の想いに応えることはできない。
それは、もう、ちゃんとした理由があるから。
自分はもう、以前とは違う。
そう自然に受け止められるようになった。
「人を好きになること、人に好かれること」
以前の私は、その意味も重みも分かっていなかった。
今なら、分かる。
同じ熱量を返すことができなかった恋人の顔が脳裏に浮かぶ。
「誰かの想いに応えられないこと」が申し訳ない――
そう思う自分自身が、とても心苦しかった。
ティムと出会い、過ごした月日が。
そして、今、ジョセフから向けられた気持ちが。
それらが、確かに今の私を形づくっている。
机に戻ると、いつもの景色が少し違って見えた。
タイプライター、散らばる原稿、誰かの笑い声。
すべてが、少しだけ優しく、少しだけ鮮やかに見える。
「ありがとう、ハリー」と、もう一度心の中で呟いた。
タイプライターを打つ前に、軽く姿勢を正す。
ジョセフの事を、もう一度真剣に考えよう。
ちゃんと自分の言葉で伝えよう。
迷いながらでもいい。
ちゃんと向き合いたい、ううん、向き合わなくちゃいけない。
彼がくれた優しさにだけ甘えるのは、多分違うから。
午後の陽が、編集部に差し込んでいた。
その光の中で、アシュリーは小さく息を整えた。




