ジョセフの気持ち
家に帰るとメイドがお帰りなさい、と暖かく迎え入れてくれる。
こんな生活、確かにおかしい。
だって、私、ただの新聞社勤めの会社員だもの。
自嘲する。
ティムがいて、このような場所に引っ張り上げられた、ただの小娘。
飲み物を聞いてきたメイドに紅茶をお願いして、ティムの部屋に直行する。
ティムのお気に入りの椅子に座る。
仕事初日の緊張感は、既に飛んでいた。
今、胸を占めるこの気持ちは。
ハリーからの忠告は、とても素直に私の心に響いた。
顔を両手で伏せて項垂れる。
この関係は、仮の物。
ティムを守るもの。
最初から、そうだった。
だって、私は思ったはずだ、まずはジョセフと話さなくては、と。
この、歪な偽の恋人関係に終止符を打たなければいけない、と。
なのに、ジョセフが優しくて。
その優しさに縋って、ティムを亡くした穴を、ジョセフの存在で埋めようとしている。
それは、随分ずるくない?
そんな声が、心のどこかで響く。けれど、耳を塞いでしまいたくなる。
紅茶の香りがふわりと立ちのぼる。
けれど、その香りにも癒やされることはなかった。
「ずるいのは、わかってる」
ぽつりとつぶやいた声が、部屋の静寂に沈んでいく。
ティムがいたら、こんなふうに曖昧なまま、誰かに甘えることを許しただろうか。
ジョセフが優しければ優しいほど、その問いが胸を締めつける。
でも。
ティムを失った私が、誰かに寄りかかってはいけないのだろうか。
寂しい時に、誰かの気配があることを嬉しいと思ってしまってはいけないのだろうか。
背後でノックの音がした。
ゆっくり顔を上げると、扉の向こうからジョセフの声が聞こえる。
「……大丈夫か?」
その一言が、静かに胸の奥を揺さぶる。
でも。
駄目だ。今の私は、ジョセフの優しさに耐えられない。
自分がどんどんイヤな女になっていく。
そんなの、嫌だ。
「……どうして、来たの?」
声が震える。
「今日が初日だったから。心配で」
扉が静かに開き、ジョセフが部屋に入ってくる。
足音が近づくたび、呼吸が浅くなる。
お願い、来ないで。
そう言う前に、彼の手が私の肩にそっと触れた。
その瞬間、私の感情が爆発した。
「優しくしないで!」
叫ぶような声が、喉の奥から飛び出す。
「もう、演技しなくていいの、ティムはいない。
嘘をつき続ける必要なんてないじゃない……!」
感情が波のように押し寄せる。涙が止まらない。
ジョセフはただ黙っていた。
私のすべてを、静かに見つめていた。
「恋人ごっこなんて、もう終わりよ、ジョセフ・ブラッドリー。
あなたにはあなたの世界がある。
私は……私はもう無理なの」
その場から逃げるように後ずさろうとした時、
ジョセフが私の手首をそっと掴んだ。
「だからって、放っておけるかよ!」
予想もしなかった大きな声。
驚いて肩をすくめた私を見て、ジョセフがすぐに後悔の色を浮かべた。
けれど、その瞳には怒りではなく、哀しみと焦りが滲んでいる。
「……そんなこと、できるわけないだろ」
絞り出すような声だった。
怒っているわけでも、なだめようとしているわけでもない。
ただ、本音を、心の底から吐き出しているような、そんな声。
「演技なんかじゃない。
俺はずっと…ずっと…お前の事が…。
ティムの代わりになんてなれないってことくらい、わかってる。
…でも、それでも、俺がお前の側にいたいと思ってしまったんだ…」
ジョセフの声がかすれる。
「何を…あなた、自分が何を言っているのか…分かっているの?」
震えながら出た声は、自分でも情けないくらいかぼそくて。
こくん、とつばを飲み込む。
これは現実じゃない、そう思いたかった。
ティムが死んでから、世界はずっと狂っている。
私が思っていた以上に、もっと、ずっと。
そう思った瞬間、少しだけ冷静になれた気がした。
「ジョセフ、落ち着いて。
貴方もティムが死んで参っているだけよ、ちゃんと見てよ、私を。
単なる新聞社勤めの小娘よ。
そうね、取柄は悪筆を読み取れることと、タイプライターを打つ速さはちょっとしたもの、位の」
「よく食べる、が抜けてる」
思わずジョセフの顔を見てしまった。
困ったような、恥ずかしそうな、でもどこか照れてるような表情だった。
そんな顔、初めて見た。
「失礼ね、人を食べ物しか興味がないような言い方して」
自然に軽口が出た。
あぁ、そうだ。
私たちは、もうそんなふうに言い合えるくらいには分かり合えている。
この短い間でも、きちんと向き合えていた。
胸の奥から湧いてくるこの感情に、まだ名前はつけられない。
「そうだな・・・俺も、きっと俺もティムが死んでおかしくなってるんだろうな…」
その声は、私に答えを求めないための、優しい嘘だと分かった。
それでも、私はそれを否定できなかった。
ジョセフがそっと手を伸ばし、私の頬に触れようとする。
二人の視線が絡み合ったまま、時間が止まる。
「貴方といると、甘えてしまって、どんどんイヤな女になっていく気がするの。
そんなの、ずるいじゃない、そんなの、おかしいじゃない」
「ずるくていいよ、俺がいいって言ってるんだから。
むしろ、甘えてくれて俺は嬉しい。
どんどん頼って欲しい。
むしろ、悲しんで弱ってるアシュリーに付け入っている俺の方がずるい男だろ」
どうしてジョセフは、こうも私を甘やかすの。
心が軋む。
「…私はまだ、ティムのいない世界を受け入れきれていないの」
正直な思いだった。
ジョセフの気持ちは嬉しい。でもその優しさが辛い。
辛いのは、答えが出ないから。
「それでも、君が迷ってる間くらいは…側にいさせてくれないか?」
不安げな瞳が、真っ直ぐに私を見る。
どうしていいか、分からなくなる。
だって。
思わず下唇を噛む。
頭が真っ白になり、言葉が出てこない。
明確な答えは、出ない。
今は、まだ。
目を伏せる。
迷いながらも、私はただ、言葉もなく頷いた。




