喪失の痛み
あの日以来、私はティムの部屋で眠っている。
それでも、ティムの匂いは、日ごとに薄れていった。
消えないで、と願っているのに。
まるで、何かが風にさらわれるように、少しずつ、確実に。
ジョセフやマリアさん以外の、誰とも会いたくない。
正直に言えば誰とも会いたくないし、言葉すら交わしたくない。
それなのに、毎日、ジョセフは来る。
ティムがいないこの部屋に。
忙しいはずなのに、他に山ほどすべきことがあるはずなのに。
まるでそれが当たり前のように、私に話しかけてくる。
「レディの部屋にずかずか入ってこないでよ」
そう文句を言っても、無駄だった。
「レディってのはな、毎日をきちんと丁寧に生きてる女性の事を指すんだよ。
お姫様のように部屋で泣いて過ごしている人間の事をレディとは言わない」
余りにも失礼な発言だけど、久々に聞いたお姫様呼びに思わず突っ込んでしまった。
「あら、またお姫様呼び?」
ふっと笑みがこぼれる。
ほんの少し、心が軽くなる。
「口癖だな、もう一種の」
ジョセフはちょっと照れたように笑うと頭をガシガシかく。
葬儀までの2週間、私は会社を休んだ。
その手配をしてくれたのは、やっぱりジョセフだった。
感謝してもしきれない。
新聞には、私やジョセフのことよりも「ブラッドリー商会会頭の急逝」の報道が大きく載り、私の存在は小さな記事の隅に追いやられていた。
ルーシィからの手紙によると、編集長のロドニーやハリソンが頑張ったらしい。
ただ、それだけじゃなく、ブラッドリー商会の力も動いたとは思うと書いてあった。
少し心配なのは、ジョセフが正式に後継者として落ち着いた頃に、きっとまた私の名前も取り沙汰されるだろう、と言われている事だろうか。
ティムがいない今、私にその覚悟があるのかと言われたら、答えられない。
ティムがいたから、頑張れた。
ティムがいたから、私はやり切れた。
私という存在は、ティムがいて初めて成り立つかのように。
毎朝、目覚めるたびに涙が頬を伝っている。
泣いているつもりはないのに、気づけばいつも。
胸の内に広がるのは、形のない、温度のない、どうしようもない喪失感だった。
だけど、ついに葬儀が終わった。
仕事に戻らなければいけない。
私は、ティムがいない私の人生を歩き始めないといけないのだ。
頭ではわかっているのに、心は置いていかれている気がする。
ぐるりと部屋を見回す。
そういえば、ここはティムから譲られたと聞いている。
ここだけではなく、多分働く必要がないくらいのお金も。
でも、それは、ティムがいないのなら何の意味もないものだった。
ジョセフの部屋を思い出す。
人がいないと随分と寒々とした雰囲気だ、と感じたが、今、まさにここが同じだと気が付いた。
こんな広い家に一人で居たくない。
それでも、まだ、私には毎朝訪れてくれるジョセフ、お昼に顔を出してくれるマリアさん。
手紙をくれるルーシィ。
手助けしてくれているロドニーやハリー。
支えてくれる人が沢山いるのだ。
ゆっくりとソファから体を起こし、窓辺に行く。
分厚いカーテンを開け、空を見る。
まだ、夜は明けきっておらず、暗いまま。
窓から冷気が忍び寄ってくる。
思わず身震いをするが、もう、寒くないか?と問いかけるあの声が響かない朝が続いていくのだと思うと、胸の奥がじんと痛んだ。
涙がまた零れ落ちる。
しばらく流れ落ちるままに、声も出さずに泣いた。
随分泣いて、鼻が痛くなってきたころ、私は顔を上げた。
乱雑な仕草で涙を拭う。
いつまでも、このまま甘えていたら、駄目よね。
まずは、あぁ、でも、まずはジョセフと話さなくては。
この、歪な偽の恋人関係に終止符を打たなければ。
いつまでも、籠の鳥のままではいられないから。
外に、羽ばたく時間がきた、という事だよね。
ティムが、きっと私を守ってくれる。
これからだって。
そう、立ち止まってはいけない。
彼の優しさに包まれていた日々は、前を向くための力をくれたはずだから。
鏡に映る空虚な瞳に、少しずつ力が戻ってくる。
「ティム、私、頑張るね」
彼が椅子に座るときに愛用していた膝掛けを手に、私はもう一度だけ顔を伏せて泣いた。




