ずっと側にいたいから
ティムが運ばれたのは、とりあえず控室だった。
椅子を並べて即席のベッドを作り、その上にティムを横たえる。
顔色は、相変わらず悪い。
控室の扉が閉まった途端、マリアさんは長手袋を外しながら言った。
「私は医者よ、安心して、アシュリーちゃん」
その言葉に、胸を締めつけていた不安が少しだけほどけた気がした。
自分には、ティムの手を握ることしかできない。
そう思うと、やるせなさがこみ上げる。
本当なら、ジョセフと一緒に会場の混乱を収めるべきなのは分かっていた。
でも、それはできなかった。
今のこの状態を認めたくはない。
でもこれは、否応なく突きつけられた現実なのだ。
マリアはすぐさまティムのシャツのボタンを外し、脈と呼吸を確認する。
その指先は驚くほど冷静で、素早い。
先ほども、だが、マリアという女性の引き出しの深さに驚くばかりだ。
「アシュリーちゃん、ティムの手を握っててくれる?
呼びかけもしてあげて。
彼は意識の淵にいるだけ、きっと戻ってこれる」
マリアさんの声は柔らかく、けれど力強い。
私は頷くと、震える手でティムの指を包み込む。
「ティム、聞こえる? アシュリーよ、ここにいるよ……ずっと、ここにいるから」
その声に応えるように、ティムの指がかすかに動いたような気がした。
いや、気のせいじゃない。確かにその微かな反応を感じ取った。
「マリアさん……」
言葉にならない言葉をこぼすと、マリアさんが優しく微笑んだ。
「大丈夫。彼は、そんなに弱くないわ」
そのとき控室の扉が開き、ジョセフが顔を見せた。
「こっちは……どうだ?」
顔を上げ、ジョセフを見てきっぱりと告げる。
「ティムはきっと、大丈夫。ね、マリアさん?」
「ええ、あとは、時間と運。それから、彼自身の力よ」
ジョセフは小さく頷くと、扉の向こうへ目をやった。
「……こっちは俺が何とかする。だから、お前はティムのそばにいてやってくれ」
力強く頷く。
ここが私の居場所。
私の隣には、いつだってティムが良い。
ジョセフがドアを閉めようとしたその時、ティムがゆっくりと目を開けた。
「…アシュリー…」
掠れるような小さな声。
でも確かに私の名前を呼んだ。
「うん、ティム、何?大丈夫、ここにいるよ」
必死に握る指に力はない。だが、目を覚ました。
大丈夫、彼は、まだ大丈夫。
ジョセフもティムに駆け寄ってきた。
「ティム、こっちは大丈夫だから、俺に任せてゆっくり休んでくれ」
ティムの視線はどこかを見てる。
私でも、マリアさんでも、ジョセフでもなく。
「君は、自由だよ、アシュリー」
ティムは苦しいのか一言一言をとてもゆっくりと話す。
「自由…?」
何を言い出すのか分からずに、言葉を反復する。
「そう、自由。長い間、君を不自由にさせて…すまなかったね…」
「…なに?一体何を言ってるの、ティム?」
会話の先が見えずに不安が募る。
「なにを言ってるの……? 不自由なんて、一度も」
そう言いかけた私の言葉を、ティムは握り返す手のひらの強さを変えて遮る。
「君を私に縛り付けた。君の思いを、ずっと私だけに抱かせてしまった。
こんな歪な形は、愛なんかじゃきっとないのだよ。
誰よりも愛しく思っている、それに嘘はない…が…」
ティムがそこで咳き込む。
一生懸命腕をさする。
ゼイゼイと肩で息をするティムを見て、私まで辛くなる。
「ティム!もう喋らないで、やめて」
マリアさんの慌てた声に緊迫感が増す。
なのにティムはその助言を無視して、言葉を続ける。
「君の心は、君だけのものだ。
誰のものでもない。
だから…私に捕らわれる必要もないんだ…」
ティムの表情は、どこか安堵すら含んでいるようだった。
「違う……それは違うよ、ティム」
私は思わず首を横に振った。
涙が溢れそうになるのを、必死にこらえる。
「私は!私の意思で貴方の側を選んだの。
貴方を見つけたの、あの雑踏で!
ずっとずっと側にいたいから!」
吐き出した言葉に、マリアさんもジョセフも黙ったまま視線を逸らす。
誰も、私達二人の間に入り込むことなどできはしなかった。
ティムは小さく微笑んだ。
それは、いつか見た穏やかな微笑みと同じで――でも、どこか、遠ざかっていくもののようだった。
「君が幸せなら、それだけでいいんだ。
ずっと、そう思ってきた。
やっと君を僕の手から、放してあげられるよ…」
そしてまた、静かに目を閉じる。
「ティム……お願い、話をしないで。
休んで。お願いだから」
彼の胸にそっと額を当て私は泣いた。
「あぁ、アシュリー。泣かないで。
君の笑顔をまた見れた…僕はなんて幸せ者なんだ」
ティムが弱弱しく私の手を握り返した。
そして。
そして、ティムはそのまま目を覚まさなかった。
ティモシー・ブラッドリーの最後、だった。




