ジョセフという人
就業後、足早にオフィスを出ようとしたらドアの前でハリーが愁傷な顔で立っていた。
何か悪いものでも食べたのか、珍しい。
今朝の意趣返しではないけど、思わず言葉をかけた。
「あら、ハリーが大人しいなんて大雨が降りそう」
そう茶化す私に、いつものように冗談で返してこないハリーに不思議に思う。
ハリーは上を向いて下を向いて、最後にようやく私の顔を見る。
「あの、さ、アシュリー、今日、一緒に夕飯食べないか?」
「あら、ハリーからの誘いなんて珍しい。
本当にやだわ、明日は大雨かしら?
でも残念。私、今日は予定があるの。ごめんね」
そう言ってハリーの横を通り抜けて外に行く。
ハリーがハリーらしくないのは、ちょっと変だとは思う。
だけどそんな事よりも、早く彼に会いたいという思いで一杯だった。
オフィスから出て気が付いた。
私達は、どこで待ち合わせをするかすら決めていなかったことに。
何処へ向かえばいいのか、彼が滞在しているホテルか。
それとも彼は昨日と同じ場所で待っているのかも。
勢いが余ったせいか踏鞴を踏む。
ぐらりと体制が傾いで、転ぶ、と思った瞬間だった。
「危ない」
グッと腕を掴まれて、体制が崩れないですんだ。
振り向くと、綺麗なアッシュブロンドを後ろで結んでいる、灰色の瞳の整った顔の男の人が立っていた。
仕立ての良いグレーのスーツを着こなし、皮の靴は磨かれたばかりなのかピカピカだ。
「助けてくれてありがとうございます。
お陰で転ばずにすみました」
お礼を言って、ハッとした。
その人、は、私を助けてくれたはずなのに、私に対して敵意があるような目で私を射抜くように見たからだ。
初対面の人間に、こんな憎々し気に見られたことなんか今まで一度もなかった。
恐怖で一瞬身がすくむ。
なのに、彼は私の腕を掴んだままで。
「あの、腕を…」
離してくれませんか、と言おうとして止まる。
「お前、がティムの…こんなのが…」
ブツブツと、その男の人が小さく呟く言葉も意味不明だ。
「アシュリー!」
「…ハリー?」
「…面倒な…おい、ティムと待ち合わせしてるの、お前だろ?
アシュリー・ウィンストン。ティムの変わりに迎えに来た。
いいか、俺と話を合わせろよ」
その男の人は、私の腕を掴んだままだったが、いきなり雰囲気を和らげて顔に笑みを浮かべた。
ティムと待ち合わせをしている、そうか、彼の代わりに迎えに来た人なのか、この人は。
私は彼を見上げる。
先ほどの眼差しが嘘のように、その瞳は柔らかく、優しい。
睨むように見られたのは気のせいだったのか、と思うくらいに。
「愛しいアシュリー、この方はどなたかな?」
「え、えと…?」
いきなり彼から「愛しいアシュリー」というセリフが出たのも驚いたが、本当に私を大事そうに、愛しそうに呼ぶその声音に思わず感心すらしてしまう。
役者かしら、この人。
なら、納得。
顔が良いものね、この人。
ちらりとハリーに視線を移すと、ハリーの顔が驚愕の表情に変わり、姿勢を正した。
「失礼ですが、ジョセフ・ブラッドリー卿でいらっしゃいますか?
お初にお目にかかります、私、ブライトン・タウン・ニュースの記者をしていますハリソン・ビーゼルです。
アシュリー、いやアシュリー嬢と同僚です」
その名を聞き、私は驚いてジョセフと呼ばれた人物を見上げる。
芝居めいた笑みを浮かべた男は、私に笑む。
傍から見たら、きっと恋人に甘い笑みを浮かべる男に見えるだろう、笑みだ。
「おや、そうかい。よろしく、ハリソン君。
君のご推察通り、私の名はジョセフ・ブラッドリーだ。
君が担当しているのはどこかな?
部署によっては良い記事を君にプレゼントしよう。
では、僕達はこれから晩餐を共にするのでね、これで失礼するよ」
ジョセフ、は、右腕を私に差し出す。
エスコートする、というのだろう。
一瞬、躊躇したが、素直に左腕を伸ばす。
「では、愛しいアシュリー。行こうか」
蕩けそうな笑み、だ。
先ほどの、射抜くほどの視線さえなければ、一瞬彼は私を好きなのではないかと勘違いしてしまいそうになるくらいには、甘い笑み。
「貴方、役者なの?」
「お姫様がお望みであれば」
「ねぇ、なんであの人は今日迎えに来れなかったの?
お仕事?
昨夜、咳をしていたわ。体調を崩してしまったの?」
私ははやる気持ちを抑えることが出来ず、質問を飛ばす。
だって、本当は彼が迎えに来てくれるはずだったのに。
「ティムは、君を迎えに行こうとしていたよ。
止めたのは、僕だ。彼は忙しいからね。
君だって、新聞社に籍を置く人間だ。
ブラッドリー商会の会長と言えば、彼がどんなに多忙な人間かは分かるだろう?」
それは、随分と小馬鹿にした言い方で、腹が立つ。
「随分な言いようね?
心配するのはいけない事?
だけど、教えてくれてありがとう。一介の新聞社の社員では、想像もつかないほど多忙なのでしょうよ」
厭味ったらしい口調になってしまうのは仕方ないだろう。
彼は器用に方眉を上げて私を見た。
値踏みするような見方だ。
不快でたまらない視線。
「随分と不躾な視線なのね。貴方、本当にジョセフ・ブラッドリーなの?紳士でも何でもないじゃない」
ジョセフの瞳が一瞬揺らいだ。
もしかして、本当のジョセフではない?
では、彼の迎えというのは嘘なのだろうか。
そう気が付いた瞬間、不安になる。
彼は私のオフィスに迎えに来ていて、私がいなかったら、と気が付くと、気が気でならない。
彼のエスコートから離れて、踵を返そうとする私をジョセフは押しとどめる。
「おいおい、どこに行くんだよ、不躾な視線は悪かった。
俺だってティムにお前を連れてくって役目があるんだよ」
いきなり砕けた発言に、訝し気にジョセフを見る。
彼は左手で髪の毛をくしゃくしゃとかきあげて上を見た。
「あー、すまない。
悪かったよ、今さら取り繕っても仕方ないよ、な。
では改めて。
俺はジョセフ・ブラッドリー。
お前が会いたいと思っているティモシー・ブラッドリーは、俺の恩人だ」
「そっちが素なのね、その方が、らしいわよ。ジョセフ・ブラッドリー。
私はアシュリー。アシュリー・ウィンストン。
って、そういえば、貴方、私の名前知っていたわね。彼から聞いたの?」
ジョセフは曖昧に頷く。
「知っている。詳しくはティムから聞けよ」
「貴方が私を不快にしなければ、それでいいわ。私は彼に会いたいだけだから」
早く会いたい。
早く、彼に。
自然足が早足になる。
「今日は、俺は送り届けるだけだ。
だが、明日は俺も一緒の場で話し合う。
それだけは覚えていてくれ。
ティムは嫌がっているが、これはティムに必要な事だ。
さっきも言ったが、俺にとってティムは大切な存在なんだ。
彼を傷つけたくない」
その言い方は私を傷つけた。
まるで私の存在が彼を傷つけるようではないか。