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出社して窓口のベルを鳴らすと、チン、と軽やかな音がする。
毎日のように聞いていた音。
この音が、こんなに軽やかに可愛らしい音だなんて気が付かなかった。
そんな些細な事につい苦笑しながら席につく。
「おう、アシュリー、今日はすごくご機嫌じゃないか?
昨日、良いことでもあったか?」
視線を上げると、いつもなんだかんだと突っかかってくる同僚のハリーだった。
「え?そう?フフ、そうかもね」
それを軽く受け流して、タイプライターに向き合う。
編集長のロドニーの悪筆を読みこなしてタイプできるのは、アシュリーだけだ。
相変わらずの右上がりの癖のある字。
沢山のメモを片付けながら、いつまでも視線を送ってくるハリーを見上げる。
「なによ?機嫌のよい私が珍しいのかしら?
いつまで見てるのよ?
それとも私が綺麗で見惚れちゃった?」
「な、馬鹿いってるなよ、そんなんじゃねぇよ」
いつもの軽口をかえしただけなのに、ハリーは慌てた顔をして出ていった。
「でも、今日のアシュリー、本当に違うわ。
なんていうのかしら?すごく溌剌としているというか、楽しそうというか、うん、綺麗よ」
隣に座っていた同僚のルーシィが、改めて私を見る。
「え?そう」
いつもなら、もう少し年相応のお洒落をしろ、恋をしろ、だのと辛口のルーシィに褒められて面食らう。
「やだ、ルーシィまでどうしちゃったのよ?
いつもの調子じゃないと、私の調子まで狂っちゃう」
冗談めかしてルーシィに返すと、ルーシィは苦笑する。
「恋人ができたんじゃないの?
ほら、恋すると女は変わるからさ」
「…恋?」
「違うの?肌艶もいいし、目がキラキラしてる。
なんていうか、上手く言えないけど、とても女っぷりが上がってると思ったから。
だから、ハリソンも焦ったんじゃないの?
男っ気がなかったアシュリーに安心して油断してたんでしょ」
「なんでそこでハリーが出てくるのよ。単に私に突っかかってくるだけじゃないの。
でも、そっか。
恋、か。
うん、そうなのか」
私は一人納得した。
今、私は終業後に彼に会えると思うだけでウキウキしている。
そのあと一緒に過ごせると思うだけで、ワクワクする。
昨夜の事を反芻する。
沢山、話をした。
手をつないで一緒のベッドに横になった。
彼の側にいられるだけで、とても幸せな気分だった。
自分の名前を言ったとき、彼は目を嬉しそうに細めて私を見た。
「アシュリー、可愛らしい名前だね。君にぴったりだ」
彼に抱き寄せられて、彼の胸に耳を寄せる。
ドクン、ドクンと規則正しく心臓が動く音がする。
本当の人間見たいだ。
「そういえば、私も名前聞いてなかったわ」
上目づかいで甘えて聞けば、優しい声が返ってくる。
「今の私は、ティモシー。ティムと呼ばれてるよ」
ティモシー。ティム。
口の中で名前を転がすように味わう。
彼の名前。
何度も嬉しくて名前を呼んでしまうと、彼は優しく返事をしてくれる。
それがすごく幸せで。
彼の胸に体を預けた。
彼は優しく抱きしめてくれたけど、時たま咳をして苦しそうで心配そうに顔をみると、彼は、仕事が忙しいからちょっと体調がね、全然問題はないから大丈夫だよ、と優しく頭を撫でてくれた。
安心して目をつむった。
彼が私にしてくれた行動の全てが愛おしい。
彼と会えた、それだけで笑みが浮かびそうになるくらいには浮かれている。
皆が言っていた、恋の浮遊感、というものがこれなのか。
「お昼休みに、詳しく話して頂戴ね、アシュリー」
ルーシィは軽くウィンクをして私たちは仕事を開始する。
タイプライターのカチャカチャという音が、窓の外から聞こえてくる雑踏と上手く調和を取りながらオフィスに響く。
昼休み。
ルーシィからの追及から始まった。
「で?どうなのよ?実際は」
「え?どうって言われても。
何も始まってないというか、なんというか」
実際に聞かれて、私は戸惑ってしまった。
口で説明できるような関係ではない、というか説明したら、きっと私は空想の恋人でも見つけたと思われてしまう。
一体なんて説明すればよいのだろうか。
「ひ、一目惚れしたの。
で、えと、カフェに誘って一緒にお茶したの」
焦りながらもどうにか事実を話す。全てではないけれど。
ルーシィは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして私を見た。
「はぁあ?」
「え、だから一目惚れ…」
「え?それだけ?
付き合いだしたとか、そんなんでもなく、一目惚れした相手とカフェ行ってお茶しただけ?」
「ええ、そうね」
「なんだ、それだけなの?」
がっかりした、というような顔をしたルーシィに私は苦笑する。
「それだけって、それだけでも私には十分なの!」
「そっか、そりゃそうよね、今まで色恋から遠ざかってきたアシュリーにしちゃ、それだけで十分過ぎるほど十分よねぇ。
ねぇ、でも一体どんな人なの?一目惚れするくらい素敵な人なんでしょ?」
「そうね、とても素敵な人よ」
だって、私は彼を一目で見つけた。
私は、きっと何度でも彼に恋をする。
しかし、どんな人かと言われたら。
沢山言える彼の長所。
優しいところ、
よく気が付くところ、
私を幸せにしてくれるところ。
だけど。
私は困惑する。
どんな人、と聞かれても、今の状況では説明のしようもない。
「まだ、なんて言っていいか、分からないの…」
素直に答えた。
だって、私がどうこういったとして、誰が信じられるというのか。
私だって、実際に私が体験していなかったらこんな胡散臭い恋愛なんて応援どころか反対だ。
断固として反対するだろうことが目に見えている。
私だってそうなのだから、いわんや他人なんて更にだろう。
「そっか、出会ったばかりだからか。
えー、でも心配だわ。変な男じゃないといいけど」
「それは、絶対にないから大丈夫よ」
「恋におちてしまった人が言う絶対、なんて言葉は意味ないのよ」
確かにそうかもしれない。
だけど、絶対に大丈夫なのよ。
彼は一度たりとも私を傷つけたことはないのだから。
だって、彼は私の絶対。
いくら熱弁をふるったとしても、他人が理解してくれるとは思えない。
理解してほしいとも、思わない。
私が、私だけが理解していれば、良いのだから。
だから、私は力なく曖昧に微笑むしかなかった。