物語の始まり
物足りなかった毎日が一変する、そんな事はないと思っていた。
友人たちが口々にのせる恋話。
失恋した、彼が振り向いてくれた、喧嘩した、プロポーズされた。
華やぐ恋愛談義はいつも聞き役で。
私には、恋愛感情というものがないのだと思っていた。
幼いころに母が語ってくれたお姫様と王子様が結ばれてハッピーエンドのお話に憧れていたけれど、年頃になった私には異性に対し、好意を寄せるという感情が理解出来なかった。
恋に泣き、恋に笑う友人たちを羨ましいという思いがある反面、自分には無縁の感情だと冷めた目で見ている自分もいた。
そのことに対し焦る自分がいたのも事実で、どうにも中途半端な感情を持て余してもいた。
そんな自分にだって、好きだと好意を持ってくれる人がいた。
恋というものが分からなかったが、もしかしたら人を好きになれるかもしれない、皆と同じような感情が持てるかもしれない、変われるかもしれないと思って付き合いだしても、結局同じ熱量が持てないままで。
申し訳なさだけが先立ってしまい、結局は上手くいくことはなかった。
そんな反省から、私は、恋というものを諦めた。
諦める、という言葉が正しいかどうかは、別にして。
いつも通りの毎日。
トラムに乗って、職場付近で降りて働く。
その繰り返し。
こうして人生が終わっていくのかもしれない、そう思っていた。
その日は、ついてなかった。
朝、寝坊していつものトラムに乗り遅れた。
昼、急いで作ったからか、お弁当のサンドイッチが崩れていた。
職場の紅茶缶が空だったから、コーヒーになってしまった。
一つ一つは小さなこと。
だけど、心にさざ波がたつくらいは、気が滅入ること。
そして、極めつけは、またもやトラムに乗り遅れた、事だろうか。
お昼に、紅茶缶が空だったから量り売りの店に行って足してもらった。
その分、帰りが遅くなったから。
朝は寝坊という自分のせいではあったけど、帰りは不可抗力。
いつものトラムに乗り遅れた私は、やさぐれた気分になっていた。
ため息を一つついて、ふと、視線を感じて私は周囲を見回した。
そこに、一人の男の人が立っていた。
会社帰りの人が多いこの時間、雑踏には沢山の人がいた。
なのに、彼はすぐに見つけられた。
あぁ、彼、だ。
彼が視界に入った瞬間から、世界が一気に色付く。
無色だった味気ない今までの生活は、全て彼に会うまでのスパイスでしかなかったのだと思うくらいに。
この込み上がってくる感情は何だというのだろう。
分からない。彼から視線がはなせない。
彼と私の視線が絡む。
自然に身体は彼のほうに足を向ける。
最後は小走りになりながら、彼の元に進む。
蕩けそうな笑みを浮かべ、私を真っ直ぐにみる。
「おかえり」
その声は震えて、見上げたら彼の瞳には涙が浮かんでいた。
初めて会った私に言う台詞ではない。
「ただいま」
だけど、私も初めて会った彼にそう答えていた。
もちろん、私の声も震えていて知らず涙が浮かぶ。
「ごめんね、待たせちゃって」
勝手に言葉が溢れでる。
彼は嬉しそうに、泣き笑いの顔でただ頷く。
「逢えたのだから、問題無いよ」
私に逢えて嬉しいと、心の底から思っていると全身で訴えているようだ。
そして宝物を大切に持ち上げるように、彼は私の手を取った。
「会いたかった」
「私も」
もう、言葉はいらなかった。
道の往来で、私達は人目も気にせずに抱きしめあった。
彼の温もりも彼の香りも、全てが全て思い出せる様に。
会えなかった時間を少しでも取り戻す様に。
私達は抱きしめあう。
もう2度と離れない様に、と。
二人で、手をつなぎながらカフェに向かう。
お互いに言いたいこと、話したいことが沢山あるのに頭の中がまとまらない感じだ。
カフェに入って、ホットチョコレートとロングブラックを頼む。
隅の方の席に座り、一息ついて改めて私と彼は対面で向かいあう。
ゆっくりとした動作で、来ていたジャケットを脱いで横に置く。
ふわりと、彼のオーデコロンの香りがした。
その香りに懐かしさを感じて泣きたくなる。
彼が視線でどうした?と問いかける。
それだけで、どうしてこんなに満たされた気分になるのだろう。
彼がここにいてくれる、それだけでこんなに嬉しい。
あまりにも嬉しそうに見つめすぎていたからか、彼が少し照れたような、はにかんだ笑みを浮かべる。
「僕はかなり変わったから、見つけてくれないかと思っていたよ」
「ううん、一目で分かった。貴方だって」
そう言って、改めて彼を見る。
微笑んだ彼の瞳の柔らかさ。
少し低めの声。
だけど、とても聞きやすい。
「君は、相変わらず綺麗だね。
すぐに、分かったよ。君だって」
彼に綺麗だと言われて、恥ずかしくなる。
だって、今日は寝坊した。
いつもよりも手抜きの化粧で。
洋服だって適当にそこにあったのを着ただけで。
会えるのなら、もっと綺麗な格好をしてお洒落をして出会いたかった。
彼の手が私の手に触れる。
一つ一つの指を確認するかのように、ゆっくりと触れる。
その手の動きがとても優しくて。
彼の手の暖かさに触れるだけで、感極まって泣きたくなる。
「僕は、今回は、見つけてもらえないなら、それで良いかと思っていた。
だって、こんなに、変わった」
ゆっくりと頭を振る。
私が私であるように、彼は彼のままなのだ。
「見つけられないなんて、そんな事あり得ないわ。
だって、私は私だし、貴方は貴方だもの」
そう言って笑うと、彼は嬉しそうに微笑んだ。
「また、僕を選んでくれる?」
「貴方が望むなら、何度だって」
店員が注文したものを持ってきて、お互い少し我に返って二人して照れ笑いをした。
ホットチョコレートは、今までの飲んだ中でも一番の味がした。
求めあう二人が出会ったのだから、自然の流れと言えば流れで、彼が滞在しているホテルにそのままいって、一緒に過ごした。
その滞在先のホテルは高級ホテルと言われる部類のもので、私には縁がない場所だったのに、彼と一緒なら無敵の気分で足を踏み入れた。
普段の自分なら、場違いじゃないかとびくびくしそうなのに、堂々と行動できた。
そんな自分にも、びっくりした。
夜はホテル内のレストランで一緒にとって、朝はモーニングを食べた。
ずっと一緒にいたくて、仕事を休もうか真剣に考えてしまったけれど、今日行けば明日は休みだから仕事に行くことにした。
彼は迎えに行くよ、と微笑んだ。