19話目 痴話喧嘩
屋敷が見えて、ケイトは我にかえる。
「もう、大丈夫。降りるわ」
クリスに告げると、クリスは首を横にふった。
「いいえ。部屋まで送ります」
「いいわ。もう一人で歩けると思うから」
「駄目です。あんなことがあった後なんですよ!」
「だから、歩けるって」
「そうか、これが痴話喧嘩と言うものか」
淡々としたキャロラインの声に、ケイトはハッとする。
ミアとレインはクスリと笑っていて、クリスは照れた顔をした。
「いえ。キャロライン様、これは痴話喧嘩とは言いません」
ケイトもそう告げながら、恥ずかしい気持ちがわき出てくる。
「これが違うと言うなら、私には一生痴話喧嘩が理解できそうにないな」
「……別に理解しなくともいいんじゃないでしょうか」
レインの声は呆れている。
「なぜだ。私にだって痴話喧嘩がどういうものか知る権利はあるだろう!」
「いえ。特にそれについて知る権利はないと思います」
魔王と恐れられているキャロラインだが、すでに何ヵ月も一緒に過ごしているレインには、キャロラインへの恐れは見えなくなった。
「キャロライン様とお兄様のやってるのが、痴話喧嘩って言われるものだと思いますよ」
ミアはほぼ最初からキャロラインへの恐れはなく、こうやっていつもはっきりと告げる。
「何?! これが痴話喧嘩だと?」
目を見開くキャロラインだが、照れる様子はなく、純粋に自分がしていることへの驚きを見せている。
「ミア、変なことを言うな……これは痴話喧嘩ではなくて、常識を指摘しているだけだ」
レインはふい、とキャロラインから顔をそらす。それは、照れているようにも、呆れているようにも見えた。
ここ何ヵ月も続くやり取りに、ケイトはクスリと笑う。
旦那様と奥様が亡くなった時には頼りなかったレインも、今ではすっかり昔の姿を見せていた。
もうサムフォード家は大丈夫じゃないかと、ケイトは思う。
「もう痴話喧嘩はわかった。クリス、本人がいいと言ってるのだ、ケイトを下ろすがいい」
雇い主になるキャロラインに告げられ、クリスが渋々キャロラインを下ろす。
「部屋までは送りますから」
きっぱりと告げるクリスに、ケイトは肩をすくめただけで何も言わなかった。
気がつけばケイトの手はしっかりとクリスに握られている。
それも、ケイトはそのままにした。
「ケイト。あの男は捕まえたけど、危ないことが何かあるかもしれないし、一人で出歩くのはやめてよ?」
ミアがケイトを振りかえる。
ケイトは今度こそしっかりと頷く。あの男が捕まえられてケイトの問題はなくなったが、サムフォード家の問題はまだ解決した訳ではないからだ。
ケイトだって使用人とは言え、レインやミアに大切にされているサムフォード家はの一員なのだ。ケイトの気の緩みが、また迷惑をかけることになるかもしれない。
「ええ。気を付けます」
ケイトはしっかりと自分に言い聞かせた。
敷地に入ると、誰かが帰ってきたことに気づいたんだろう。屋敷の扉が開く。そこには、ほぼ全員といっていい使用人たちが集まっていた。
「ケイト、お帰りなさい!」
ローズが走り出してくる。ケイトはローズに抱きつかれた。ケイトを見上げたローズの目は潤んでいた。
「本当に、心配したんだから!」
「うん。ごめんなさい。……ありがとう」
「本当によかった!」
泣き出したローズを撫でていると、他の使用人たちもケイトの回りに集まってきた。
あのサリーの悪口に荷担していた使用人も、本当に心配そうにケイトを見ている。
いい仲間に恵まれている。
そう、ケイトが思った瞬間だった。
ケイトの視界の端に、誰かが走り込んでくるのが見えた。
「キャー!」
叫び声が、夜空に溢れる。ケイトの周りを囲んでいた使用人たちがバラバラに散らばって行く。
「ケイトさん!」
クリスの声がケイトを覆う。
「何で、この女がいいのよ!」
錯乱したような女性の声が紛れる。
「キャー!」
断末魔のようないくつもの叫び声が、ケイトの籠った耳にも届く。
ケイトを覆った体が、少しずつ離れていく。ドサリ、とスローモーションのように倒れて行ったのは、クリスだった。
ケイトは自分の横に横たわるクリスの姿に、呆然と立ち尽くす。何が起こったのか、理解できなかった。
「その女は、私に任せろ。レイン、クリスの手当てを!」
キャロラインの声に、ケイトは我に返る。
「クリス! クリス!」
ケイトはクリスに縋りつこうとするが、突き出たお腹がケイトの体を思うように動かしてくれない。
「ケイト、落ち着いて! 大丈夫、クリスは大丈夫だから!」
ミアがケイトを後ろから支える。
「でも、でも、私のせいでクリスが!」
ケイトの視界の端に映ったのは、ナイフを持ったサリーの姿だった。
ケイトは何もできずに、レインがクリスを助ける姿を見ることしかできなかった。