10話目 触れたくない過去
「ケイトさん」
ケイトの存在に気づいたクリスのが目を見開く。
「あれ? お兄ちゃん、ケイトさんのことすぐわかったの?!」
驚くリズに、ケイトは苦笑する。
どうやらクリスはリズに伝えていなかったらしい。
「会ったことがあるのよ」
どうとでも取れる言い方で、ケイトはリズに告げた。
「本当に?! 運命みたい!」
目を輝かすリズに、ケイトは肩をすくめる。
「用があってサムフォード男爵家に行ったことがあったんだ」
クリスも経緯を告げにくいらしく、その程度の説明で留めていた。
「そのときは気付かなかったの?」
リズの問いかけに、クリスは苦笑した。
「似てると思ったんだけど……まさか本人だとは思わなくて」
その言葉で、ケイトはクリスが気づいていたのに言わなかったのだと分かる。だが、その理由がよくわからなかった。
「ねえ、お兄ちゃん。お兄ちゃんもお茶していって! ケイトさんも来てくれてるんだし」
はしゃぐリズに、クリスが困ったように首を横にふる。
「もう戻らないといけなくて」
そう言ったクリスは、ケイトに視線を向ける。話がしたいと言われている気がして、ケイトは立ち上がる。
「ごめんなさい、リズ。このあと用事があったのを思い出したの。次の金曜日、遊びに来てもいいかしら?」
次の金曜日は休みで、時間に余裕があった。リズは残念そうな顔をしたものの、大きく頷いた。
「待ってるわ。お兄ちゃん、ケイトさん送っていってあげてね」
「ああ」
兄妹が抱擁すると、ケイトもリズと抱擁した。そしてケイトはドアを開け待っていたクリスの後をついて家を出る。
玄関先で手をふるリズが見えなくなってから、クリスが頭を下げた。
いきなり頭を下げられたことに、ケイトはぎょっとする。
「ケイトさん、実はクォーレ公爵家に来たときに、ケイトさんだって気づいていたんです。でも……あの頃のことを思い出させることになるかと思って言い出せなくて」
クリスの言いたいことがすぐに理解できて、ケイトはうなずく。
あの頃の記憶は、楽しい記憶よりも辛い記憶の方が多かった。
「そんなことで謝らなくてもいいいのに。……でも、リズもクリスも安定して暮らせてるみたいで良かった。リズも明るく育ったわね」
クリスは顔をあげると、首を横にふった。
「リズは、辛い記憶を全部封印してしまっていて……楽しかったことしか思い出せないみたいなんだ」
思わぬ言葉に、ケイトは目を見開く。
「それって……大丈夫なの?」
クリスは途方に暮れたように首を横にふる。
「わからない。でも、そのおかげでリズはあんな風に明るく居られるんだと思うと、あまり触れたくなくて……」
ケイトはクリスの視線の理由が理解できて、頷く。
「私に、リズが昔の辛いことを思い出すような話をしてほしくないのね?」
クリスがコクリと頷く。
「これがいい方法なのか、それは分からない。だけど……思い出しても、辛い記憶ばかりになるから」
サンクックの街で隣に並ぶ家に住んでいたケイトは、頷く。
クリスたちの父親も、ケイトの父親も、ひどい父親だった。
ケイトとクリスたちが住んでいたのは、あまり裕福ではない庶民たちが住む場所だった。
幼いクリスたちは、いつもどこかしらにあざを作っていた。クリスたちの父親によるものだった。勿論、クリスたちの母親も同じようにぶたれていた。
そしてケイトは、自分の母親が嫉妬深い父親に汚い言葉でののしられたり、嫌がりながらも無理やり関係を持っている姿を幼いころから目にしていた。母親はお店の店員と話すだけでも父親に嫉妬されていた。ケイトの目から見ても、父親は病気のようだった。
母親が父親に逆らえず、逃げようともしない姿に、ケイトは何とかしたいと思っていた。だが、ケイトの言葉など、父親には全く届きはしなかった。父親はケイトに良くも悪くも全く関心を向けなかった。言ってしまえば、いないように扱われていた。理由は、妻にしか興味がなかったことだった。
ケイトを妻の愛情が向けられる邪魔な人間だとも思っていたんだろう。徹底的にケイトは無視されていた。
家に居場所のないケイトとクリスたちは、必然的に外で一緒に過ごすことが多かった。その時だけは、無邪気に子供みたいに遊んでいた。
だが、クリスとリズ、そしてクリスたちの母親は、ある日忽然と姿を消した。多分暴力のひどい父親から逃げたのだろうと思った。クリスたちの父親はしばらく暴れていたが、世話する人間がいなくなったことで、その生活は乱れに乱れ、ある朝、酒場の陰で亡くなっているのが見つかった。
殺されたわけではなく病気だろうと言うのが医者の見立てだったが、きちんと資格を持つわけでもない医者崩れの言うことが本当だったのか、ケイトにはわからなかった。
そして、クリスたちの父親が亡くなった後、ケイトの周辺にも変化が起こった。
ケイトの父親が、ケイトを男に売ろうと決めたのだ。どうやらケイトの姿を見初めた男が、父親に持ち掛けたらしかった。
初めてその男に会ったとき、なめるように全身を見られて、ケイトは全身に鳥肌が立った。いわれもない恐怖感を感じたし、心が殺されてしまうのだろうと絶望した。
ケイトは逃げることもできない状況に諦めていた。
だが、その日の夜中、ケイトは母親に起こされた。なけなしの金を渡され、逃げるようにと告げられた。
母親にサムフォード男爵家を頼るようにと告げられた。母親も昔、サムフォード家で働いていたらしいが、体を壊してサンクックの街に戻って来ていたのだと。多分、男爵様なら受け入れてくれるだろうと、手紙も渡された。
ケイトはその一縷の望みにすがるように、着の身着のままでサンクックの街を逃げ出した。
逃げるのは辛い真冬ではあったが、幸い、野生の獣が出てくるようなことはない時期だった。ケイトは休みもほとんど取らず、ひたすら王都へと道を急いだ。まだ15歳と若かったからできたことかもしれなかった。
数日後、やつれはてたケイトが辿り着いたサムフォード家は、ケイトの育ったあの家とは全く違う、温かい場所だった。
それからケイトは、ずっとサムフォード家のために働いている。