虚構
『怖いって思うから、恐怖を感じるんだよ。』
これを“本社”の部下に言い出すと、「また始まったよ」と顔が曇ったり、はたまた苦笑いを浮かべる奴もいるのだが、オレは昔からそうだと信じている。
例えば、見知らぬ輩に手を上げられても、どのように対処すれば相手を捻じ伏せられるかを知れば、どんな相手に怖じ気付く事も無いだろうし、どんな心霊現象も、ほとんどが現代科学で説明が付く。
単なる光の反射だったり、湿度や環境等によって、変な物音がしたり、変な物が映り込むのがほとんどじゃないか。
要するに、“怖い”という気持ちは、“モノを知らない”から湧き上がるのだ。つまり己の無知が引き起こす、哀れで醜い感情。それが“怖い”というものなのだ。
小学校の頃、父親に流儀を叩き込まれながら勉強や武術を学び、警察官になってからは興味の無いジャンルも徹底的に知る事で、怖いという感情を潰して克服して生きてきた。
しかしながら59年間で、克服出来なかったモノもいくつかある。
その一つが“電車”だ。
狭い金属製の車内に豚箱の様に押し込められ、他人の体臭と負の感情を目や鼻から流し込まれ、“出荷”の合図とともに送り出される。嗚呼、嫌だ。嫌だ。この感覚が本当に嫌いだ。
あまりにも嫌いなので、休日の移動の際はハイヤーを呼ぶのだが、お気に入りの運転手が体調不良らしく、やむを得ず駅までタクシーを使い、相手に指定された通りに地下鉄の切符を買って乗り込んだ。
最近の電車も乗り心地は進化してるのだなと関心しつつも、早く着かないかとイライラする。車内は人で溢れ、おまけに先日梅雨入りしたばかりで、湿度の高さも相まって更に不快だ。不快指数が高まっている為なのか、ワイシャツの襟に包まれた首元が異常に痒い。
「どうですか?久しぶりの電車の乗り心地は?」
窓に映る漆黒を眺めながら首元を掻きむしっていると、苛ついている心情を逆撫でする様な、わざとらしい高めな声で背後から話しかけられた。
振り返ると、見知らぬ女性車掌だった。顔こそ制帽の“つば”に隠れてしまって見えないが、グレーの制服に包まれた体型が女性と誇示している様に思えた。
しかしながら、俺に車掌の知り合いは居ない。思い返しても一人も居ない。ましてや女性車掌なんて。
前述の不快感と相まって、俺は顔を外に向け、無視を選択した。おそらく、左隣の座席に座る冴えない中年男性に言ってるのだろう。
「お客さん、聞こえませんか?」
ちょっとしつこい車掌だ。冴えない中年も答えてやれば良いのに。
と、思いつつ目線を中年男性へと動かすも、ピクリとも反応が無い。
ならば右隣に立つ女子高校生かと目線を動かすが、死んだ様な目で虚構を見つめていた。今時珍しくセーラー服の“おさげ髪”で、スマホも弄ることなく、ただ「心此処に非ず」といった印象だった。
二人とも、まるで本当に魂が抜けた様だった。
「聞こえませんか?“お父さん”?」
しつこい車掌だと辟易していると、耳を疑うワードが聞こえた。
『お父さん』と。
少なくとも私に娘はいない。ましてや子供すらいない。それどころか結婚もしていない。
恥ずかしながら、克服出来なかったモノの中に女性関係もある。どうにも女性は苦手だが、今はそんな事どうでも良い。
何者なのだ、この車掌は。
「覚えてないの?お父さん。」
その声に堪らず、俺は振り返り「うるさいぞ」と野次を飛ばすが、女性車掌は言葉を続けた。
「いつまで、嘘を重ねるつもり?」
そう車掌が呟いた途端、向かいの扉に立つ茶髪の若者が私の方へと振り向いた。しかし興味本位で振り向いたのではないと、彼の顔色を見て一瞬で察した。
妙に血の気が無く、眉間に皺が寄り怒っている表情であった。
彼の振り向きに続いて、周りの乗客達も、俺の顔を睨みつける様に目線を向けてきた。老若男女。中には小学生ほどの子供や、ベトナム系やアフリカ系の人間も混じっていた。
座っている人は一斉に立ち上がり、窓際の人達は身体ごと向きを変えてこちらを睨みつける。
何だ。コイツらは。
俺が乗客の群れや車掌に戸惑っていると、一人の男と目が合った。
短髪に無精髭。間違いない。30年も前に事件を追っていた、所轄時代の相棒の鶴田巡査だった。その鶴田も周りと同じ様に睨み付け、私は堪らず震え上がった。
彼は、俺が始末したから。
「鶴田ぁ…?なんで…?」
俺は呟くように言葉を紡いだ。あらゆる知識を総動員しても説明が付かない現象に、俺が身構えながら狼狽えていると、さっきの茶髪の若者の事を思い出した。
9年前の女子大生殺人事件。私が手柄を上げ、捜査一課長の座に着く事となった事件。
手柄が欲しかった。上層部だって早期解決を所望していた。
仕方なかった。
ならば、おさげの女子高校生は?
交番勤務の頃に、万引きの容疑で逮捕した娘。
証拠不十分だったが、刑事部長達とのゴルフのコンペがあり、早く片付けたかった。
仕方なかった。
では、隣の冴えない中年男性は?
痴漢容疑で手錠をかけた男。
ずっと否認していたから、仕方なく手を上げ自白させた。平凡な警ら勤務から抜けるには、手柄が早く欲しかった。
仕方なかった。
それでは、この女性車掌は誰だ?
「……思い出した?お父さん?」
力を持つと、群がる輩も居る。
権力や財力を持てば、尚の事。何もしなくてもすり寄ってきては、何人もが俺の身体や権力を求めた。
その中に、素晴らしく抱き心地の良い女が居た。
20年前くらいだろうか。
その女が、産まれてしばらく経った娘を連れて、俺の前に現れたのは。
「父になって欲しい」と、あまりにも鬱陶しいから、仲の良かった若頭に始末を頼んだはず。
「『妻子共に殺せ。』だったかしら。」
車掌が呟いた。あの時言った台詞を添えて。
まさか車掌は――。
そう思いかけたところで、背後のドアが、愉快なメロディを奏でながら開く。一定のリズムを刻む車両の騒音がより聞こえ、走行風が車内の吊り革を揺らし、俺や乗客の髪を乱す。
「さあ飛んで。お父さん。」
吹き込んだ走行風が車掌の帽子を吹き飛ばすのと同時に、素顔を顕わにした車掌が俺に静かに語りかけた。
車掌の顔は、あの妖艶な女と瓜二つであった。目元の泣きぼくろに、どこか寂しそうな眼差し。科学的根拠は無いが、あの女の娘だと感じた。
車掌が1足出す度に乗客も一歩前進し、俺を押し出そうと詰め寄ってくる。
怯むつもりも無い俺だったが、踏ん張るつもりで出した左足が、空を踏み抜いた。
慌てて乗降ドアの取手を掴むが、しばし遅かった。
軋む様な金属音を奏で、車両がフワリと揺れると、俺の身体は外に放り出されてしまった。
「あ゛ぁあっ!!!」
恐怖で思わず叫び声をあげながら目を見開く。
ホワイトノイズ。
そして曇天の空。
それが映ったかと思うと、ユラリと景色が揺らぎ、皮膚が、眼球が冷たさを感じ取る。
生きている。俺は生きている。
滝のように降り注ぐ多量の水が、顔を濡らし、眼球をなぞり、鼻孔をすり抜け喉を潤す。
雨だ。つまりは、屋外。
いや、違う。俺は地下鉄に乗っていたはず。
雨で濡れる顔を右腕で拭いたいが、思う様に力が入らない。
例えるならば、“他人の身体”の様だった。
「良い夢は、見れたかしら?」
あの鬱陶しい声色を、鼓膜が拾った。
なんとかして脱力した己の肉体を、よじるように頭を起こすと、あの女性車掌が少し高い場所に立っていた。彼女の服装は先程とは違い、グレーのパンツスーツ姿であった。
そんな彼女が、ケタケタと笑い声を上げながら黒い長髪をかきあげ、左手に持つ何かを見せびらかす。
「このお薬、とっても高かったんだよ〜!ちょっと痒かったかもしれないけど!」
ぼんやりとしていたピントが合うと、見せびらかしているソレが、注射器と分かった。
ならば、あの首の痒みは。
あの電車は。
ならば、今寝転んでいる場所は――。
そう思考したところで、娘の顔がにこやかな表情になると、俺に何かを呟いた。
すでに鼓膜が、インバーターのノイズを拾っていたから、よく聞こえなかった。
でも、昔学んだ読唇術で、辛う、じて、
読み解く、
こと、出来た、
『さよなら、お父さん。』
俺は、恐怖を、感じた。