小さな腕の代償 ②
「カ、カフラ……ス……」
茫然と立ち尽くすレイスに相反し、取り乱したアレクが炎を右腕にまとい、バケモノに向かって走り出した。
「うぅおおおおおおおっ!」
すると、一瞬でアレクの右腕が消し飛び、頭部をバケモノに鷲掴みされたアレクは、無情にも宙に持ち上げられる。
そして、暴れもがくアレクを勢いよく床に叩きつけたバケモノは、レイスの方を見つめてニヤリと薄気味の悪い笑みを浮かべて微笑んだ。
「アレク!」
その状況にダンが叫ぶと同時、物凄い早さでバケモノは再び、動き出す。
目の端で微かにその動きを追うレイスは、隣に立っているダンに何故か目が移った。すると、そこにある筈の銀髪が消し飛び、顎から上が抉れてなくなっている惨状に、レイスの思考は遂に停止する。
血飛沫がレイスの顔に飛び散り、でろーんっと垂れ下がったダンの舌。
丸見えの喉元からは大量の血が溢れ出し、コポコポッと変な音を出しながら痙攣する身体。
やがてその肉塊は倒れ、床を真っ赤に染めると糸の切れた傀儡の様に横たわる。その様子を直視してしまったレイスは現実から目を背ける為、そっと瞼を閉じたまま震える。
(もうダメだ。殺される。無理だ。誰も助からない。無理だ。死ぬんだ……)
クチャ……クチャ……
ムシャ……ムシャ……
クチャ……クチャ……
しかし、一向に襲われる気配はなく、ただ耳障りな音だけが突然に聞こえてきた。
立ち尽くしていたレイスにバケモノは、ちっとも見向きもせずにそのすぐ隣でダンの骸を貪り喰っている。ムシャムシャと肉を頬張り、嫌な音だけがレイスの鼓膜に響く。
レイスがその様子を伺う為に瞼を薄っすら開くと、バケモノは手探りで肉塊を探しては、美味しそうにその肉を喰い荒らしているではないか。ふと、レイスは思う。
(目が……見えていないのか?)
明らかに盲目のような仕草のバケモノに対して、レイスがおもむろに硬貨を右手に取り出した。そして、ギュッと握った親指でその硬貨を軽く弾くと、その音に反応してバケモノが硬貨に向かって飛びついたではないか。
(音に反応しているんだ。だから僕には目もくれず、殺したダンを……)
その時、微かに動いた2人にレイスの視線が止まった。フロドとアレクの2人だ。微かではあるが、まだ息をしている。しかし、出血量を考えれば、そう長くはもたないだろう。
(生きている! 僕が助けなきゃ……でも、どうする? 動けば確実に殺されるだろう。だが、この状況で2人が音を出してしまったら、それこそ助けられない……)
わずかに揺れる恐怖が、レイスの心を惑わせる。
(助ける道は1つしかない……けど、それは自殺行為と同義。いや、可能性は少なからずある筈だ。ロブとユアに賭けるしかないが、僕の脚力なら十分に逃げ続ける事も可能だろう! やるしかないんだ! 2人の為に今こそ勇気を、振り絞れ!)
咄嗟に動き出すレイスは再び硬貨を取り出して、正面入り口とは真逆の方向へとその硬貨を弾き飛ばした。弾かれた硬貨は2階中央の古時計付近に転がり、その音に反応してバケモノが2階へと物凄いスピードで向かってゆく。
それと同時にレイスが屋敷の扉を勢いよく開けて、森の中へと走り出す。
(少しでいい。少しのこの間が運命を変えるかもしれないんだ。走れ! 足が捥げようとも、フロドとアレクの2人からあのバケモノを遠ざけるんだ!)
屋敷を飛び出したレイスは次にその手にランプを取り出して、近くの木に放り投げた。すると、ランプが壊れて草木に引火。そこへバケモノも屋敷から丁度飛び出してきて、キョロキョロとレイスを探している。
「こっちだ! バケモノ!」
挑発にバケモノが反応すると、レイスは霊素を両足にまとって再び走り出した。
まるで、障害物など存在していないかのような滑らかな走りは、バケモノを引き離して森の奥へと突き進む。背後に迫るバケモノは物凄い形相で、バタバタと不格好に這いつくばりながらレイスを追いかけていた。
盲目で恐らくは嗅覚もそれ程はよくないであろうバケモノが、レイスの足音だけを頼りに森の中を追いかけて来る。
木々にぶつかりながら、その走り方はお粗末と言ってもいいだろう。
まさに、レイスにとっては絶好の逃げ場だった。森の中では障害物も多く、するりと走り抜けて行くレイスに対して、明らかに距離が離されてゆくバケモノ。
(森の中なら追いつかれる事はない。それに、相手が音に反応しているのなら、僕にだって勝機はあるかもしれない。音で攪乱しつつ、バケモノの首を狙う事だって……)
走りながらレイスが取り出したのは、5つの音響爆弾。スイッチを押して四方八方に放り投げると、同時に鳴りだす鼓膜を切り裂くような高音に、思わず驚いたバケモノがその場に立ち伏せる。
即座に木の陰に身を潜めたレイスが、ジッとバケモノの様子を伺い、その手にトンファーをそっと取り出した。
(よしっ! 動きが止まった。僕を見失ったようだな)
バケモノは両耳を抑えてヨロヨロと平衡感覚を失っている様だった。そこへ、レイスがなるべく物音をたてずに、そっと歩み寄る。
まじかでみるバケモノは意外にも人の様で、冷静になっている今だからこそ、その表情に少しの違和感を覚えたレイス。
(これが……コーランドさんの言う、堕天なのか? まるで、人じゃないか……)
≪オイテカナイデ≫
「…………」
その時、バケモノがボソッと呟いた。それは、実に悲し気で儚いようにも感じる。目の前のこのバケモノが一体、何者であるのかすら知る由もないが、レイスにバケモノを攻撃する気が失せたのも事実。
(いいのか? でも……このバケモノがみんなを殺したんだぞ。僕が……)
意を決し、トンファーを強く握り締めると再び、バケモノが呟く。
≪オイテカナイデ……リア≫
唐突にレイスの愛称を呼ぶバケモノに、レイスの表情が恐々と凍り付く。想像もしていなかった目の前の光景にレイスは茫然と固まり、固唾を吞んで息を静かに吸った。
「──ミア?」
≪キャァァァッアアアアアアアアアアアアアアア──≫
レイスが問いかけるとバケモノはガラリと目の色を変えて、静まり返った空気を裂くように襲い掛かって来た。咄嗟に持っていたトンファーで防いだがその勢いに圧倒され、吹き飛ばされるレイスは近くの樹木に激突する。
そして、ズキンッと強烈な痛みが走り、左腕に目をやるとそこにあるはずのレイスの左腕は捥げてなくなっていた。
(クソッ……油断した! 左腕が……)
ジンジンと熱が伝わり、捥げた傷口が神経を抉る様に痛む。しかし、音を出す訳にもいかないレイスは、必死にその痛みを噛み締めて、震える右手で傷口を抑えながら、ジーッと息を潜めて蹲る。
そして、レイスに近づく耳障りな足音。
その足音がレイスの近くでピタリッと止まる。そっとレイスは瞼を開くと、バケモノは笑みを浮かべながら不気味にレイスを見下ろしていた。そして、ゆっくりとしゃがみ込み、手探りでレイスの存在を探し始める。
(殺される……もう、流石にダメだ。ごめん、ロブ。せめてフロドとアレクの2人だけでも。クソッ……こんな所で死にたくない。みんな……)
薄れゆく意識の中で、レイスは孤児院で過ごした幸せな日々を走馬灯の様に思い返していた。
* * * * *
【数ヶ月前】
湖畔に揺れる木漏れ日は少女を照らし、その辺り一帯の霧だけが不自然に晴れている。
まるで、少女に後光がさしているような──そんなキラキラとした美しくも、可憐に舞い踊る少女は、長く綺麗な黒髪をふわりと靡かせて、儚げにほほ笑んでいた。