憂鬱な雨が響く頃 ④
雨音を切裂く程の奇声を発した次の瞬間、レイスの背後で不気味に笑うメファリスは……小さな声で囁いた。
≪──ネェ、アソボウヨ……≫
それはまるで、あの日の様に憂鬱で、絶望の音だけが鼓膜を震わせている……惨劇の夜を思い出させる様に、不確かな不安だけが荒波の如く、抗いようのない程の重圧で、それは押し寄せて来るのだった。
パトリシアの姿は傲慢の因子によって悪魔の様に成り果て、メファリスの意思さえもまるで、感じられない。
「……ミアなのか……ミア?」
レイスはゆっくりと振り返り、その変わり果てた異形の姿に絶望の表情を浮かべる。
咄嗟に霊素を左腕に纏わせるも、その小さな面影にピクリとも動けずにいた。
「ハハハッ! 見たかッ? あれが貴様らの望んだ結果だ。犠牲を払って得た代償があのザマだ! さて、どうするんだ? 殺すか? 然もなくば全員、死ぬぞッ!」
チェスターは高らかに笑い、結界の中で黒猫の姿へと変わっていた。チョッキを羽織り、ホコリを払う様にして身支度を整え始める。
「何をしている?」
「逃げ出す準備だよ……貴様らが死ねば、この結界も何れ消える。そうなれば、私は自由の身だからなッ!」
ジョゼフの質問に余裕な態度で受け答えをするチェスターはシルクハットを被り、黒煙の中からステッキを創り出した。
「嫌だ、私……死にたくないよ」
「落ち着いてよハンナ、大丈夫だ! 俺らがいる内はハンナに指1本、触れさせやしないから! 安心して俺らの後ろに隠れてなよ……だ、だよなッ、フリッツ?」
「リファネス……テメェ、カッコつけてる場合じゃねぇだろ!? この状況をよく考えて、物言えよ! 俺らはこのイカレ野郎を逃がさねぇ様に、この結界を何としても守り通さなきゃならねぇんだ! 他人の心配なんかしている余裕なんてある訳ねぇだろ!」
3馬鹿トリオはジョゼフと共に結界を破壊されない様に周囲で警戒を続けているも、不安と恐怖で見るからにビビり倒していた。
手足は震え、堕天に対して完全に恐怖が染み付いている様子である。
そして、セラとリズベットもまた恐怖に屈しながらも剣と薙刀を震えた手で構え、レジナルドを見詰めていた。
「レジナルド、アンタ……今回は裏切らないでよね。アレはアンタの知っている子じゃないわよ……無慈悲に人を喰い漁る、凶悪な化け物なの!」
「セラの言う通り! 生半可な気持ちで武器を握るのならレジナルドは、後ろに下がっていてよね」
「バカ言うなよ……この状況を作り出しのは、チェスターにまんまと踊らされた俺の責任だ。責任は必ず取るさ! セラもリズベットも、俺の隊の大切な仲間だ。アレクにもリアにも……ミアでさえも、誰一人として犠牲は出させないつもりだ!」
状況を把握し、己が何をすべきかを瞬時に理解する。
レジナルドにとって、メファリスの自我が失われている事など想定の範疇であったのだろう。
そして、チェスターの暗示した未来に奇しくも、なってしまったが故に──取るべき選択肢は、自ずと限られてくるのだった。
(やるべき事は分かっている! メファリスの行動を制御して、尚且つ意識を目覚めさせるだけの事だ……)
深層心理の闇へと堕ちたメファリスを目覚めさせる為には、心の中に誰かが入らなくてはならない。
それは、意識を他者の肉体へと移す事を意味し、霊素体を維持し続ける為にも、強い精神力が要求される。
そして、そんな芸当が出来るのもレジナルドの他に誰も居ないと、己が自らの運命を悟る。
「少しの間、俺の身体を頼めるか?」
「何をするつもり?」
セラの疑問に有無も言わさず走り出したレジナルドは、全身に電気を纏いメファリスの下へと一直線に走り出す。
≪──ネェ、アソボウヨ……≫
レイスに興味を示していたメファリスであったが、突然背後に現れたレジナルドに驚き、その表情を急に強ばらせて爪を突き立てた。
咄嗟に腕を振り抜き、切り裂こうとするもレイスがそれに反応して左腕の義手で危うくも防ぐ。
「……クッ! 危ない所だよ……ロブ、今だ!」
そして、レジナルドの思考を理解し、咄嗟に動いたレイスはレジナルドの間合いから距離を取り、アレクへと目線を向けた。
「……あぁ、分かってるよ! そういうのはレジナルドの専売特許だっだよなぁ! いつもリーダー顔で仕切りやがって、どいつもこいつも勝手なんだよ! ランドールすまない、ジュリアを頼むぞ!」
付き合いの長い2人だけが状況を理解し、瞬時に行動を始めてる。
まるで、打合せをしていたかの様な迅速な連携。
「電達操作──自覚乖離」
レジナルドがメファリスに触れた瞬間、2人の間に電気が走り、それと同時にレジナルドの霊素体がメファリスの肉体へと入ってゆく。
そして、ピタッと動かなくなった2人を見計らい、レイスはレジナルドの崩れ落ちる体を咄嗟に支え、アレクはメファリスの身柄を取り押さえた。
「ロブ、頼んだよ……ミアを連れ戻してきて」
メファリスは意識を失い、抜け殻の様になった小さな身体をアレクが上に跨り押さえつけている。
「押えたぞ! 誰か捕縛を……」
「──おいクソガキ、テメェ……何で、そんなに楽しそうにしているんだ?」
馬乗りになり、アレクが叫んだ瞬間である。
赤い髪の男がセラとリズベットの間を物凄いスピードで過ぎ去り、アレクの目の前に立っていた。
アレクの顔を覗き込むようにして猫背に屈み、不敵な笑みを浮かべている。
その手には血塗れになったコーデリヴァスが瀕死の状態で引き摺られており、意識は微かに残っているものの掠れた声を出すのがやっとといった感じである。
「……に、逃げろ……コイツらには、か、勝て……ない」
「コーデリヴァス……」
アレクが恐怖で固まっていると、男の背後に2つの影が突然現れる。
咄嗟に走り出したセラとリズベットが、武器を振り上げて相手の意表を突こうとしていたのだ。
しかし、次の瞬間には2人の身体から鮮血が吹き出し、無惨にも倒れ込んでしまう。
「セラ! リズベット!」
「誰一人として動くな! 大人しくしていたまえよ。僕らは傲慢に用があるだけなんだから……」
そう言い、飄々と姿を表したのは正にメルティである。
怪蟲の羽音を響かせ、横たわる2人を見下ろす。
「まだ息はあるね。強欲、程々にしてここを離れるよ。ガキ共の相手をしている暇はない」
「あぁ、妹も待っているしな……それと、俺をその名で呼ぶなよ、メルティ!」
2人の会話に誰一人として動けずにいた。
まるで、隙だらけの2人であったが、動こうという意思が綺麗に削ぎ落とされたかの様に、全身が固まって動かない。
それどころか、男がアレクの首を軽々と片手で掴み、何度も何度も殴り続けている光景をただ呆然と眺めていた。
「悪かったよ、ラファロ」
「そうだ、最初からそう呼べよ。罪の名で呼ばれるのは嫌いなんだ。欲深い奴みたいで、俺様の品格が下がる」
「……おい、お前ら……何が目的なんだ?」
不意にそう問いかけたのは、ジョゼフである。
微かに感じていた違和感と現実との差異。
身近に感じる存在の2人に対して、抱く疑念。
「……誰だテメェ!?」
ラファロはアレクの首を締め上げながら、威圧的にジョゼフを睨みつける。
「あぁ、ここに居たのか嫉妬。僕らは君と彼女を迎えに来たんだ……そんな連中なんて放っておいて僕らと共に行こう。黒様が待っているよ」
「……先ずは、その手を離せ!」
「コイツが例の……まだガキだなぁ。俺達と来ればコイツらの命は助けてやるよ。だから、大人しく着いて来い」
ジョゼフの声色を伺う様にラファロは、アレクを離して気だるそうに鼻で笑った。
そして、ラファロがメファリスを担ぎ上げると、メルティは不敵に笑い、ジョゼフへと手を差し伸べる。
「さぁ──僕らと共に……罪人よ」




