憂鬱な雨が響く頃 ③
その日──運命は悪戯に狂い出した。
日が暮れ始めて、紅く燃えている不気味な空模様に急ぎ足で森を駆けるメファリスは、独り孤児院から離れて森の奥へと向かっていた。
孤児院で皆と別れた後、祖母と暮らす屋敷までの道中の事である。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
チラチラと後ろを振り返りながら、背後の気配に怯えて心臓をギュッと握り締めた。
森は静けさに満ちており、不穏な足音だけがピッタリと後を追って着いてくる。
風はザワつき、霧は虚ろに全てを覆い隠す。
(嫌な胸騒ぎがする……追って来る奴の姿は見えないけれど、恐らく人じゃない!)
息を切らしながら、メファリスは全速力で走り続けた。
噂に聞く──森の怪異なのだろうか?
霧の主とも呼ばれるその存在は、森に迷い込んだ旅人や街の子供達を惑わせて連れ去ると謂われている。
薄暗い霧の中で、道の分からない人間にとってはこのマハルの森を抜ける事はあまりにも困難であり、慣れたメファリスでさえも、その日の濃霧には困り果てていた。
グルグルと何度も同じ道を通り、怪異に化かされているのではないかと疑う程の濃霧である。
更に後を追う怪しげな物音のせいか、メファリスは次第に平常心を失い、森の奥へと迷い込んでゆく。
「ここは……さっきも通った様な……」
不安だけが全身を呑み込む様にして、メファリスのすぐ背後に付き纏う。
(駄目だ……弱気になったら、連れて行かれる)
ガサガサ……
ガサガサ……
ガサガサ……
「──誰ッ!?」
震えた手で真新しい杖を構えるメファリスは、杖先に霊素を集約させて身構える。
すると、木陰から見覚えのある男の人が現れた。
「すまない。君を怯えさせるつもりは、なかったんだ」
「あ、貴方は……」
星騎士の中でも四方を守護する偉大な1人。
式典の際に観た南方支部の統括支部長であり、謎多き人物である事はメファリスも承知の事実であった。
四方にはそれぞれの役割があり──
東方は戦術に長けた武闘派が多く、僻地への派遣や新兵の演習等を主に担っている。
西方は医療技術に長けており、戦地での補給や医療部隊の派遣、又は重傷患者の受け入れ等を主に担っている。
北方はあらゆる学術に長けた学者達を集め、研究機関を多く抱えている事から守備を得意とし、国防の要としての役割も担っている。
そして、この男が統括する南方支部は所謂──中央の極秘諜報機関に付随し、その活動や内部情報に至るまで公に明かされてはいないのだった。
「君に気付いて欲しかっただけなんだが、まさか怯えさせてしまうとは思わなくてね……すまなかったな」
「私に……気付いて欲しかった?」
「私は、フレデリック=マシュー・ボールトンという者で教団組織では異端者と呼ばれている」
「南方支部の……統括支部長ですよね?」
「そうだが、今はただのフレデリックだ。私は君をずっと探し求めていた。7人の内の1人──世界の特異点」
「特異点……何の事ですか?」
不意に知らされる自身の宿命にメファリスは口を閉ざして、男に背を向けた。信じられる訳もなく、犯してもいない罪を認める訳にもいかず、ただその場に立ち尽くすのみである。
「信じられないとは思うが……惨劇を未然に防ぐにはそれしかないんだ」
「私はもう……皆に逢えないの? おばあちゃんにも? リアや……ロブにも?」
「すまない。式典で君の気配に気が付いて、後を追ったのだが……私を怨むかい?」
「うん! 怨むよ……いきなり訳の分からない事を言われて、もう皆に逢えない? ふざけないでよ! 私の人生は私のモノでしょ? 運命だとか、宿命だとか、特異点なんて知らないんだから!」
メファリスは声を荒らげ、発せられた言葉とは裏腹にその表情は──儚く、悲しげであった。
自らの運命を呪い、一雫がゆっくりと頬を伝って落ちてゆくのが、その背中からも伝わる。
「君の身を守る事の方が大事なんだ……分かってくれ」
「…………」
メファリスは黙り、杖をギュッと握り締めていると、人ではない気配が急に背後へと現れた。
先程からメファリスの後を追って来ていた、不確かで、不穏で、不可解で……歪な存在。
霧の主が、まさに──真後ろに立っている。
「逃げろッ!!」
咄嗟にフレデリックが叫ぶも、メファリスは固まったまま動けずにいた。
ゾッと背筋を舐める様に耳元で囁く声が、全身の筋肉を緊張させて震えが止まらない。
『……迎えに来たよ──傲慢』
その声は優しく、あまた慈愛さえ感じる。
メファリスが振り返るとそこには、白髪の少年が立っていて、まるで病院から抜け出してきたかの様な簡易的な白い布だけを身にまとっていた。
裸足で、傷だらけの病弱な身体。
包帯は解れ、純白な肌を鮮血が伝う。
『……我と共に来い』
「ソイツの言葉に耳を貸すなッ!」
「…………」
メファリスは目の前の少年に釘付けとなり、フレデリックの言っていた未来も、あながち間違ってはいないのかも知れないと悟る。
『紡がれた因子が芽吹き、其方に──罪の名を与える』
「その子に触れるなぁああー!」
剣を抜き、駆け出したフレデリックを他所に手を伸ばす白髪の少年は、ジーッとメファリスだけを見つめて、神々しく微笑んでいた。
その腕がフレデリックによって、斬り飛ばされようとも眉ひとつ動かす事なく、その笑みを絶やしはしない。
まるで、痛覚など存在していないかの如く。
そして、吹き出る血飛沫に赤く染まったメファリスは呆然と立ち尽くし、惹き寄せられる様にして少年をゆっくり抱き締めた。
「……アナタは……何?」
『我は其方と同じ、迷える──罪人さ』
その後の記憶は定かではない。
少年に誘われてメファリスは、罪人へと堕ちた。
混沌の闇の中を彷徨い、惨劇は避けられぬ運命であったと思い知らされる。
不浄な体躯を黒に染めて、欲に塗れた怪物と化す。
赤き紅蓮の瞳は……何を視る……。
* * * * * *
そして、現在──惨劇は避けられぬ運命であると知る。
繭の中から姿を現すメファリスは黒紫色に染まり、その小さな身体で繭の外殻をぶち破った。
パトリシアの面影を残し、小さな悪魔は蛇の様な複数の樹木を操り、自身の周囲を纏わせてゆく。
邪悪な両翼を広げ、カチカチと牙を鳴らす。
そして、紅蓮の瞳でレイスをジーッと見つめていた。
「……ミア? ミアなんだろ?」
≪キャァァァッアアアアアアアアアアアアアアア──≫
鼓膜を劈く様な奇声に、誰もが一瞬怯んだ。
次の瞬間にはレイスの背後に立っており、ギョロリと見上げて不敵な笑みを浮かべる。
≪──ネェ、アソボウヨ……≫




