傲慢と因子の器 ①
パトリシアの共鳴に反応した堕天達が、地響きを鳴らして迫り来る。嘗てない程の絶望にレジナルドでさえも、剣を握る手が震えていた。荒唐無稽な恐怖に思考は疎か、生存する気概さえ失ってしまう。
「レジナルド君……君は早く、傲慢の因子を離隔させなさい! 私は出来うる限り、器となる魂核を死守します! この計画がエニスにバレたらそこで全ては終わりですよ!? この日の為だけに色々と画策してきたのだから……邪魔者は全員殺してでも、因子は確実に保護して下さい!」
チェスターは有無も言わさず黒煙となり、レジナルドの抱えたジュリアに手を伸ばす。
しかし、レジナルドはチェスターの声すらも聞こえていなかった。まるで、抜け殻の様に虚ろな瞳で、ジュリアを抱き締めている。それが、犠牲にしようと一度は思った相手であるという事も分からず……壊れた様に立ち尽くしてた。
「おい! しっかりしてくれ! 何を今更……」
「俺は……間違っていましたか? 教団に従い、正義の為なのだと言われ──今日まで真っ当ではなかったにしろ、それなりに正しい道を歩んできたつもりです。孤児院を存続させる為に、色々と汚い仕事もしてきました……アイツらが街で騒ぎを起こせば、俺が教団に見逃してもらえる様にと掛け合ったり……生活資金だって国からの援助がなければ、あの生活は成り立たなかった……世界は俗物に溢れ、澱みきっているんだ……誰かがその汚れ仕事を請け負わなければ、あんな孤児院……ずっと昔に消されていたんだよ! ジュリアを孤児院へ連れてきた時だって、教団に人知れず育てる様にと命令されて仕方なく……誰がすき好んで黒の孫なんか……」
『レジィ、いじわるパヴルス読んでぇ〜』
レジナルドの腕の中で、穏やかに眠る銀髪の小さな女の子は、よく笑う子だった。可笑しな絵本を自分の宝箱から取り出しては、読んでとせがむ普通の女の子。無垢な笑顔を振りまき、皆を癒してくれる掛け替えのない存在であったと、その寝顔に涙が不意に零れ落ちる。
「……っ……ゔっ……な、何で……で、出来るわけ……俺は、家族が大切で……リアを救いたくて……皆に幸せになって欲しくて……それで、ミアにだってもう一度、逢いたかったから! あれからずっと、ミアを取り戻す為に……でも、ジュリアも大切な家族だろ……なぁ……殺せる訳がねぇんだよ! ジュリアだけを犠牲にするなんて出来る訳がないんだよ! だからって、俺はどうすれば良かったんだっ? どうするのが正解なんだよ! なぁ……だ、誰か……頼むから、教えてくれよ……もう、訳がわかんねぇよ……」
心の中が無茶苦茶で、騒がしい程に色んな感情が入り乱れていた。これまで積み上げてきた研究も、教団での信用も、仲間に対する隊長としての自分も、自分の指示でオルギスを死なせてしまった責任も、リズベットを傷つけてしまった負い目も、セラに向けられた殺意も、全てが崩れ落ちる様にして、保ち続けていた冷静さと共に──脆くも、崩壊してゆく。
この施設で生まれ育ったレジナルドにとって、孤児院の家族は特別だったにも関わらず、どこかボタンを掛け違えたかの様に歪み始めた世界で、その本質を見失ってしまった。精神世界は螺旋の様にグルグルと宙を回り、胃袋を締め上げられる様な吐き気に襲われる。
苦しくて、逃げ出したくて、血に塗れた自分自身の手を軽蔑した。
「はぁ、はぁ、はぁ……っ……うっ、ぉゔっぉ……うゔゔおぉっ……」
そして、吐いた。
もう立っていられない程の磨り減った精神はやがて、迫り来る怪物達の地響きや奇声すらも届かなくなり、キーンと静寂の中で甲高い音だけが鳴り響いている。レジナルドは全身の力を抜く様にして横たわり、ジュリアの頰に優しく手を当てて微笑んだ。
「ごめんな……俺が兄貴で……アイツだったら、もっと違う未来があったのかも知れない。あの時、死ぬべきは俺の方だったんだろうな……」
パトリシアはレイスを担ぎ、急いで上空へと飛び上がった。チェスターも又、群れを成す堕天を見て姿を晦ます。
「こんな筈じゃ……クソッ、私の計画が……」
押し寄せる怪物達は荒々しく、レジナルド達が横たわっている一点を目指して集まりつつあった。
そして、レジナルドとジュリアの元にまで大群が押し寄せると、覚悟を決めた様にジュリアを抱き締めるレジナルド。
その恐怖は死より恐ろしく、生きたまま喰い千切られてゆく事よりも、ジュリアを救ける事さえも出来ない愚かしさに泣きながら、苦笑する。
そして、数多の怪物達がレジナルド達に群がる一歩寸前で、爆炎と共に怪物達が激しく──爆ぜた。
「──顔を上げろ……テメェが、情けねぇツラしてんじゃねぇ! 賢いくせに1人で、何でもかんでも抱え込んで、抱えきれなくなったからって、テメェが勝手に見切りつけて捨てんなっ! 生きようと踏ん張れよ! 零れ落ちた物、必死に拾うくらいの気概を見せろよ! その腑抜けた面、俺が殴り飛ばして、この俺様が全部! 死ぬ気で拾ってやる! だから、テメェは前だけシャンと見て必死に生きろっ!」
「あ、アレク……」
群がる堕天を吹き飛ばし、颯爽と現れた少年は赤く──業火の様に燃えていた。
義手の右腕に炎を纏い、レジナルドの胸ぐらを掴んで激高する。しかし、堕天の猛襲は止まる事を知らない。
「──アレク! 後ろ!」
咄嗟に上空からアレクの背後へと滑降するパトリシアが、レイスをレジナルドの方へと投げ飛ばし、アレクに襲いかかろうとしていた堕天を切り裂いた。
「パティ、何で降りてきた!」
「アレク1人じゃ……無理だよ! 流石にこの数を相手にするなんて!」
「安心したまえ、この俺も居る! というか、君は怪物達とは別と考えて良いのかな? アレク、答えろ……その小さな獣はアイツらとは別モノなのか!?」
「テメェは、いちいち細けぇーな! どう見ても味方だろうが! その秀才故の頑固な思考回路はどうにかなんねぇーのか? テメェを説得するだけで、どれだけの時間を無駄にしたと思ってんだ!」
唐突に現れたコーデリヴァスに、戸惑うパトリシアは2人のやり取りを見て思わず、笑みが零れた。
「何があったかは知らないけど、アレクが無事で良かった……けど、あれがアレクの言っていた頼りになる兄貴なの? 全然、そんな風には見えなかったんだけど、寧ろサジさんとよからぬ事を企んでいる様にも見えたよ」
「サジの奴……雰囲気変わったか? 前もあんな感じだったかな? 何が何だか訳分からんが、取り敢えず! 誰も死なせねぇ!」
「この俺が居て、死なせる訳がないだろう……寧ろ、この俺がここに居る事を感謝するんだな凡人共よ」
コーデリヴァス、アレク、パトリシアの共闘を見つめるレジナルドは、眠り続けるジュリアとレイスを抱いて何処か安堵していた。
「誰かこの秀才、黙らせてくれないか?」
「そもそも、支部に堕天が居る事自体、可笑しいと思うんだが……支部長は何を企んでいる?」
「この人、本当に秀才?」
「あー、その支部長の企みを暴く為に共闘してんだろうがっ! テメェは、面倒臭せぇな!」
「そんな事より、気を付けろ……直ぐ、後ろだ」
コーデリヴァスは淡々と近づく堕天達を素早く斬ってゆく。それは華麗に、靱やかで、微塵の隙も感じさせない。ただ、その誇張した動きが妙に、鼻につくだけである……。
「ダメだ……絶対コイツとは気が合わねぇ! スゲェ腹が立ってきた……隙があったら、ブッ殺す! そして、テメェらは絶対にブッ殺す!! どっからでもかかって来いやぁ! 全員、嬲り殺しにしてやるよ!」
完全に八つ当たりなアレクと息を合わせる様にしてコーデリヴァスと2人、群がる怪物達を次々に薙ぎ倒してゆく。
その圧巻の戦闘センスと類稀なるコンビネーションは、縦横無尽に宙を舞い──パトリシアの援護もあってか、100を超える群勢が一瞬で塵と化す。
気がつくと地上には──3人だけが立っていた。




