黄金色の昼下がり ④
≪──ネェ、アソボウヨ……≫
ソレは不気味に笑みを浮かべながら、レイスの上に覆いかぶさっていた。すだれのように垂れ下がった長い黒髪。その奥には紅蓮の瞳が、ジーッと見開いたままレイスの眼光を見つめている。
「……………」
赤く染まったよだれをレイスの顔にポタポタと垂らし、生暖かい吐息と冷たい視線が息をする事さえ許さない。明らかに幽霊とは異なるその異様な姿に、レイスの思考は停止していた。全身が小刻みに震え、エミリアの酷たらしい死体だけが思考を埋める。
(死ぬ。殺される。あぁ……もう、僕は助からない)
そう自身の死をも、覚悟したその時だった。
「──レイス! 逃げろ!」
聞き慣れた声が突然、ソレの背後から聞こえた。咄嗟にレイスは、霊素を両足にまとわせる。ソレが廊下から叫ぶ声に一瞬、気を取られた隙を見計らって、レイスは床を勢いよく蹴り上げた。
霊素をまとった両足は、叩きつけられたゴムボールのように勢いよく床を弾き、丸く縮こまったレイスは寸分違わぬ正確さで、背後の小さな窓枠を捉える。まるで、跳弾した弾丸のように窓ガラスを突き破り、氷結したソレをしり目に2階という高さからその身を投げ出した。
レイスは地面に強く叩きつけられながらもすぐさま起き上がり、森の中へと一目散に逃げて行く。
(何がどうなっている? あのバケモノは何だ?)
薄暗い霧の中で視界も、足場も悪く、慣れた森と言えども最悪の状況だ。雨は既に上がっていたが、地面はぬかるみ、レイスは不意に足元をとられて前のめりに転んでしまった。
「あっ、痛ッ……」
地面に倒れ込んだレイスは、未だに震える自身の手足を見つめ、擦りむいた膝を抱え込みながら小さくうずくまる。そして、唐突に襲われた最悪の状況から、さも当然のように逃げ出した自分に思わず、不甲斐なさを感じて自身の唇を強く噛み締めた。
(僕は……臆病者だ。家族を見捨てて、1人逃げ出すなんて……最低だ。何をしているんだろう。今もこうしている間に、あのバケモノが大切な家族を喰い殺しているかもしれないって言うのに……エミリア……)
レイスは泥に塗れ、霧に閉ざされた空を仰ぎ見る。
≪ レイス…… ≫
その時、聞こえてきた優しい声は、起きた時にも微かに囁いていた様な気がする、あの無垢な声だった。温かくて透き通るような、繊細であらゆるモノを包み込む──そんな優しいエミリアの声だ。
「──エミリア?」
≪ ここだよ…… ≫
声のする方へと視線を向けると霊素体となった、エミリアの半透明な姿がそこにはあった。普段から見えている幽霊の類と同じ、無機質で朧げな存在。
霧の中に薄っすらと影を潜め、レイスの近くにそっと立っていた。
「エミリア……なの? でも……」
≪ 助けて…… ≫
幽霊なんて幻覚の一種だと思い込んでいたビビリのレイスは、目の前のエミリアに戸惑いながらも、それがエミリア本人であると素直に感じ取る。霊素が放つ穏やかな波動を感じ、生前に感じていたモノと同一である事は疑う余地もない。あの酷たらしい死体を見ていた事もあってか、レイスはもはや確信せざるを得ない。
幽霊は紛れもなくこの世に存在し、死して尚──その意思は残り続けるのだと悟った。そして、残された遺志を紡ぎ、引き継いでゆくのは現世に生きる者達の宿命であると不器用なりに理解する。
目の前のエミリアに手を伸ばし、そっと静かに歩み寄った。
「エミリア……ごめん。ごめんね。でも、エミリアはもう……」
≪ みんなを……家族を助けて ≫
そう言ってレイスに抱き着くとエミリアは、霧のように消えてしまった。
微かにエミリアの匂いや温もりを感じて、全身に鳥肌が立つレイス。まるで、本当に抱きしめられたかのように不思議な錯覚を覚え、そこにエミリアを確かに感じた。
生前から面倒見のよかったエミリアは誰よりも家族を思い、誰よりも家族を愛していた。将来はアマンダのような修道女になるのだと夢を語っていた彼女だったが、そんな儚い夢も、あの優しい笑顔も──もうこの世には存在しないのだと悟る。
(エミリアは──死んだんだ)
死してなお家族を思い、その優しさに包まれたレイス。震えていたはずの手足がいつの間か止まり、そこに居たはずのエミリアに深く両手を重ねた。頬には一滴の涙が零れ落ち、情けない自分をただ恥じた。
「もう、逃げないよ。エミリア……」
決意を新たにしたレイスは右手を宙に翳し、その手にトンファーを呼び出す。漆黒に染まるその武器は武術に於いて使用される棒状の武具であり、レイスの最も得意とする近接武器であった。
* * * * *
≪キャァァァッアアアアアアアアアアアアアアア──≫
ところ変わって孤児院1階の談話室では、6人がソレと対峙していた。不気味に奇声を上げて、その手に持った肉塊をおもむろに頬張っている黒いバケモノ。
足元には小さな手足が転がり、ユアが抱きしめている2つの骸はまさに──オルティスとニフロのモノであった。ほぼ原形をとどめていない、喰いちぎられた肉体からは大量の血が溢れ、床一面にその鮮血を染めている。
まだ6歳だった2つの小さな骸には、嘗ての好奇心に満ちた明るい笑顔を見る事はなく、双子だった2人はいつも行動を共にし、何に対しても一緒に興味を抱いていた。
「何で……オルティスとニフロがぁ……」
泣き崩れるユアは血塗れの両の腕で2人をギュッと抱きしめ、ソレから守るように風陣の防壁を隔てている。そして、ユアを背にアレクが燃え盛る炎をその右腕にまとわせ、肉塊を頬張るソレを鋭い眼光で睨みつけていた。
同様にソレを取り囲むフロドとカフラスとダン、それにレジナルドの4人。
ユアがそっと2人を寝かせ、風をまといながら静かに立ち上がると、6人はソレを見据えて身構える。冷気に満ちたフロドは眼鏡の下の涙をそっと拭い、カフラスは両腕の霊素を土に変換させて硬質化。ダンは自身にかかる重力を軽減し、宙に舞う。
そして、レジナルドの指先からはビリビリと電流が帯電し、腰の剣にその指を添えた。
「我が剣は──バケモノからみんなを守る為の盾となる!」
≪アソボウヨ……ネェ?≫
「遊ばねぇよ!」
ソレがニンマリと不気味な笑みを浮かべて囁いた次の瞬間、カフラスが正面から突っ込んだ。反射的に振り下ろされたソレの右手を硬質化した両腕で上手く弾き、懐へ潜り込むとさらに左足を硬質化させてソレの両膝をへし折るように鎮めた。
すると、蹴りでバランスを崩したソレは、すかさず左手で切り裂くかのようにカフラスを襲う。
「バケモノ過ぎんだろ……」
しかし、レジナルドが電光石火のような剣技でソレの左手を受け止めると、続いてダンがソレの頭上にふわりと跳び上がった。ユアが風を操り、カフラスとレジナルドの2人をソレから引き離すと、ダンが両手を下に翳してゴゴゴッと唸る重低音と共に重力波を放つ。
「フロド! アレク!」
宙を舞ったダンが叫ぶと、放たれた重力波はソレを床に抑え込み、背後に回り込んでいたフロドが一気に冷気を床に広げた。ソレの足元から燦然と咲き誇る睡蓮の氷塊は、崩れ落ちたソレの手足を封じ、間合いに詰め寄っていたアレクが炎をまとう右手をソレの額に当てて小さく呟く。
「くたばれっ……バケモノが」
アレクの右腕をまとっていた炎が掌に収縮すると次の瞬間、爆炎とともにソレの顔面を吹き飛ばした。空気が揺れる程の爆炎は孤児院の壁をも吹き飛ばし、ソレの顔面を焼き尽くした。黒焦げに焼け焦げたソレはピクリとも動かなくなったが、不穏な空気だけがその場を包み込む。
「死んだか?」
ダンが重力波を止めて床に降りてくると、カフラスが確かめる様に何度も、何度も、黒焦げになった顔面を殴り続けた。エミリアにオルティスとニフロの3人が喰い殺され、訳も分からぬままバケモノと対峙していた彼らにとって……全てが虚構。リアルもなければ家族の死すらも、惜しむ余韻もありゃしない。
「クソ、クソ、クソ、クソ! 何なんだよコイツは!」
「カフラス……」
レジナルドが殴り続けていたカフラスの腕を強引に引き止めると、そこにレイスがようやく駆け付ける。目の前には項垂れている6人と、冷たくなったオルティスとニフロの小さな死体が横たわっていた。
「そんなぁ……」