星騎士と霊星術師 ④
何もかもが色褪せた世界。
遠い過去の記憶も忘却の心髄に沈み、永遠に彷徨う流離い人は、それが儚くも漆黒が虚無であると知る。
音もなく、色もなく、ただ──闇だけが広がり、果ての無い道の先で声がした。
≪目覚めよ……傲慢……≫
不意に囁くは──綺麗な声だった。
透き通る様な優しい少年の声。
ドクンッ……ドクン……
その声に応えるかの如く、鼓動の音が次第に早くなってゆく。
まるで、心臓を握られている様な生暖かい感覚と、憎悪に呑み込まれてゆく恐怖がレイスの全身を襲った。そして、指先が不意に熱くなり始めると、血液が逆流する様な不安と高揚を溢れ出す。全てを呑み込む不気味な感情に自我が、次第に支配されてゆく。
≪解き放たれよ……目覚めよ……メファリス≫
ドクンッ……ドクン……
ドクンッ……ドクン……
ドクン……ドクンッ……
脈拍が鼓膜を打ち鳴らす様に止まぬ声が、耳元で段々と大きく響きだして──レイスを嘲笑う。
≪さぁ……童の声を聞け……メファリス・バーミリア!≫
その瞬間、全身に冷や汗をかいたレイスが飛び起きた。
「──はっ! はぁ……はぁ……」
現実味を帯びた悪夢にレイスはまだ暗い夜空を見つめ、月光に照らされた部屋の窓辺に白髪の美少年を見る。
純白で透き通る様な絹肌はまるで女性的な色気を醸しながらも、その瞳は不気味な程に綺麗な紅蓮色に染まっていた。まだ夢の中なのか朧気に瞼をこすると、夜風にレースが揺れているだけである。きっと、リハビリによる疲労が原因なのだろうと、レイスはそっと窓を閉じた。
(何だったんだろう……変な夢だった。まさか、幽霊だったのだろうか? それとも……いや、止そう。明日は義手の最終メンテナンスだからなぁ、早く寝て忘れてしまおう)
──コンコン
ベッドに戻ろうとしたレイスの背後で、閉めた窓を誰かが叩く音がした。
ゾッとした瞬間、咄嗟にレースを掴み、振り返るも……そこには誰もいない。
実に嫌な気分だった。まるで、揶揄われているような辛辣な苛立ちにその表情を歪ませる。
そして、感情を逆なでる様に再び、音がした。今度は部屋の内側から……床を踏みしめた様にギィッと軋む、鈍い音が背後で響く。
「誰!?」
慌てた様に音のした方へと目線を向けたレイスが、その姿を捉えた途端にレイスは口を噤んだ。
「ッ!?」
その影はニヤリと笑みを浮かべて背後に立ち、闇に不気味な笑顔だけを見せている。
「依頼の件、情報が入りましたよ……」
そっと歩み寄る黒猫はピョンッと窓辺の棚に飛び乗り、まん丸い瞳を月光に輝かせていた。
「彼女は現在、北方の極秘研究施設にいます。何でも、北方のその研究施設は堕天の研究を行っているのだとか。私の助手が王都で得た情報によると、どこぞの貴族が現在その施設へ護送されており、その男もまた堕天化した被検体なんだとか……」
(ジョゼフ=キールだ……彼が教団に保護されたキッカケは堕天化による突然変異。そして、アマンダも堕天化に繋がる何か手掛かりを知っている筈。ザック、ナルバ、ジュリアの3人がその因子である可能性も、だとしたら……寧ろ、アマンダは教団側にいるという事か? そうなると、あの手紙の内容とは少し、異なる様な……)
深まる謎はレイスを唐突に煽り、不安を抱かせる。アマンダは研究に加担していたのだろうか? それとも、ザック達を救う為に教団を頼ったのだろうか? そんな事はいくら考えても、答えの出ない無意味な空論。悪夢の事など既に忘れてしまったレイスは、チェスターの話に焦りを見せていた。
居場所が分かっただけでも、未来は少しだけ明るくなったと思えばいいと考えながらも、そこにあるのはジョゼフ=キールの末路を語っていたクロエ=ロッドの辛辣な発言だった。非人道的な研究の被験者として保護されたに過ぎないジョゼフと、アマンダのいる場所が一致する事実にザック達の安否が気になってしまう。
「早く迎えに行かないと!」
「そう焦る事はない。私の助手も現在、王都のボールトン社に潜入して情報を集めている所だ。それに、その腕はもういいのか? 北方へ向かうならそれなりに用心しておいた方が良い。あそこは鉄壁の軍事力を整えた奈落の要塞だと謂われる場所だ。四大天の1人、北壁の知将が統治する残雪の都=エボーラ……君達は教団に追われている身なのだろう? 北方へ向かうのはまさに、自殺行為ですよ」
その異名にレイスは青ざめた様に固まった。
噂位なら聞いた事がある。北壁の知将──レジナルドがいつの日か話をしていた歴戦の猛者だ。
残雪を彩るは血染めの時雨。その将は知将と呼ばれ、残忍で冷酷な悪女だと聞く。部下を見殺しにした挙句、命がけの特攻も厭わない無慈悲な大将。逆らう者は皆殺しに……更には、捉えた囚人を拷問する事を生きがいとしているサディストだとか。
以前、王都へ一斉召集されていた際に見た事もあったが、その時は大きな甲冑に身を隠し、容姿は一切確認出来ていなかった。戦闘時にもその大きな甲冑でいる事からも、彼女が女であると信じる者は少ない。
「それに、極秘という事は恐らく潜入自体、まず不可能でしょう。どれだけ私が優れていようとも、彼女の前では塵と同じ。直ぐに捕まって殺されるのがオチですよ。流石に今回の一件は身を引くべきでしょうか……相手が悪すぎます」
「そんな……せっかくアマンダの居場所が分かったかも知れないってのに、諦めきれる訳ないじゃないか!」
「それでは今、君と行動を共にしている彼らも危険に晒しても良いというのですか? もう少し、慎重に物事を考えなさい。君1人でどうこう出来る問題ではないのですよ? 根は深い……世界の真相にすら辿り着くのではないかと思える程に、この一連の事件には教団さえも関与しているという事を忘れないで下さい。世界政府が秘密裏に堕天の研究を進めている事は明らかな事実。そして、四大天でもあったボールトン卿の失踪に、孤児院の惨劇……そして、極秘研究施設の存在と黒紫色の薬が持つ意味とは何か。その意味も、何も分からないまま無作為に突っ込むのは、余りにも軽率過ぎます。情報こそが唯一、この世で弱者が抗える力なのだと知りなさい」
「そうだ! それなら、サジに注射器を調べてもらうってのは? 分野は違うけど、研究者なら何かしら分かるかも」
そう言うと、黄昏から太陽の刻印が施された木箱を取り出し、中身を確認する。
「確かに霊星術の研究も行っているでしょうから、彼女の意見も聞いてみたい所ですけれど、彼女は教団と繋がりのある人間ですからね。下手にそれを見せた所でいい方へ転がるとは限りません。況してや、彼女自身を危険に晒すようなモノです。下手をすれば教団に消されかねない……これはそういう話なのですよ。その箱はまさに、パンドラの箱──関わる全ての人に厄災を齎す異物かも知れません」
「だとしたら、どうすればいいんだよ! このまま引き下がる事は出来ない。例えそれがいばらの道であろうとも、僕は彼女の元へと向かうよ。それが叶わないというのなら、僕に生きている価値など……無いに等しい」
レイスは儚げにチェスターを見つめ、この黒猫もまた世界に縛られて生きる道化なのだろうと、哀れみを抱く。この世の誰もが奴隷で世界の理不尽と不条理に抗う術を知らない。過去を捨てたレイスには、自身を戒める呪縛だけが、その痛みを教えてくれた。
例えそれが、逃れられぬ運命だったとしても、己が信念の赴くままに──レイスは悪意にだって順応するだろう。
「──レイス! 今すぐ、逃げるぞ! 追手が来てる! サジの両親が殺された!」
その時だった、パトリシアを抱きかかえたランドールと慌てた様子で部屋に駆け込んで来たアレクが叫ぶ。咄嗟にレイスも周囲の霊素を感知すると、複数の星騎士に取り囲まれている事実に気が付いた。




