罪人、暴食の怪蟲 ②
シェルディは瞬時に剣を構えたが、それよりも更に早く堕天は空を裂く。飛び掛かった先にはベンとマーシェルが逃げており、薙ぎ払った右手にマーシェルの両足がスパンッと綺麗に切断された。とめどなく溢れ出る血液に慌てふためく一同。
「あ゛ああっ! 足が……足がぁ……」
「捕まれ、マーシェル! 俺が担いでっ……」
ベンが必死にマーシェルを担いで逃げようとするも、堕天は無慈悲にもベンの下腹部を突き刺した。鋭利な爪はベンの肝臓を抉り、吐血するベンを捕食する為、その身体をニコリと掴む。
「や、やめて下さい……喰わないで……い、嫌だ……マーシェル、助けて……」
「…………」
助けようとしたマーシェルに目をやると必死に床を這いずり、1人逃げようとしている姿を見てベンは悟らざるを得なかった。人間の心理。自分の命が最優先されるこの状況下で、恐らく自身がまだ希望を持っていたのだと思い知らされる。
助けなければいけないという正義信。仲間を見捨てないなどという幻想に囚われ、希望があるのだと信じた自分への後悔が募っていた。最初から裏切りを想定した試験なのだから、マーシェルに非はないのだとベンはそっと微笑み、生きる事を諦めた。
(自分がこんな死に方をするなんて、想像もしていなかったな……俺が喰われているうちに少しでも遠くへ逃げてくれよ。じゃなきゃ……俺が死ぬ意味がないだろ……)
大きな口は涎に塗れ、鋭い牙が無数にベンの方へと向く。人間程の頭なら一口で噛み砕けるであろうその大きさに震えながらも、血肉の匂いを耐え忍び、自身が死ぬ瞬間を覚悟して目を見開く。
「皆! 今のうちに行けぇー!」
「──放せよ……クソがっ!」
「っ……⁉」
死を覚悟したベンの目の前に振り下ろされた剣は、堕天の両腕を切り落とし、瞬時に駆け付けたレイスが堕天の顔面に向かって強烈な一撃を放った。
「今度は、くたばれぇー!」
空気は先程よりも更に大きく揺れ、吹き飛ばされてゆく堕天は入り口に積み上げられた瓦礫の山に頭から突っ込み、埋もれてその動きを止める。
「くそ、顔面は胴体よりも固いのか……」
「当たり前だろうが! そもそも俺ですら、首を斬り落とすのに相当集中しなきゃ無理なんだよ! 胴体ぶち抜いた位で堕天の頭部も破壊できるなんて、テメェは調子に乗りすぎだ!」
「おいおい、あの2人……あのバケモノ相手に圧倒してやがるぜ……」
「シェルディは分からなくもねぇが、レイスってあんなに強かったのかよ」
「今のうちに助けるぞっ!」
階段を駆け上がり、堕天から距離を取っていたリファネス・フリッツ・ジョゼフの3人は一度、皆の元へと引き返してベンとマーシェルに肩を貸す。その後にハンナが続き、リズベットの手を引いてレイスがその後を追っていた。最後尾には警戒を続けるシェルディが剣を構えて、ゆっくりと全員が3Fへと向かっている事を確認しながら進んでいると、不意に物陰から何かが現れるのを視認する。
「しまった……おい! 全員後退しろっ! クソチビ、横だっ!」
「誰がクソチビだっ……」
レイスがシェルディの罵声に横を向くと、そっちは真っ黒に染まって何も見えやしない。ゾゾゾッと以前にも感じた違和感に背筋が凍り、ゆっくりと顔を上げる。堕天だ──どこから湧いて出たのか想像もつかないけれど、ソレは正しく堕天だった。不敵な笑み、紅蓮の大きな瞳。耳の聞こえていないリズベットはまだ気が付いてもいない。
「全員、走れっ!」
≪キャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!≫
レイスが叫ぶと同時、共鳴するかの様に奇声を上げる堕天は、レイスへの攻撃を交わされると瞬時に大きく跳び上がり、フリッツが背負っていたマーシェルの胴体を掴んだ。
「えっ⁉ 嫌だ……フリッツ!」
「おい、マジかよ! ご、ご、ごめん……マーシェル。は、離してくれっ!」
取り乱したフリッツは背負っていたマーシェルの必死にしがみつく手を振り解き、悲愴な表情で振り返る。助けるなんて選択肢はフリッツの中に芽生える事すらなかった。自身が助かりたいが一心の残酷な決断。ハンナもマーシェルが捕まっている横を我先にと走ってゆく。誰も助けようとはしない。
「リズベット、走って!」
レイスもまた、リズベットを連れて階段を上るのに必死になっており、シェルディのみがマーシェルを助けに剣を振るっていた。どれだけシェルディが強かろうとも、余りにも多過ぎる戦力外に守り切れないと匙を投げたのはジョゼフであった。
「行こう……今の内なら俺達5人だけでも……助かるかも知れない」
「レイス達も置いてくの⁉」
「何でレイスはリズベットを助ける? レイスだけなら……シェルディもマーシェルを置いてこっちに来いよ!」
フリッツの心無い叫びはシェルディにもレイスにも、届いてはいなかった。心配そうに見つめるハンナも助ける訳でもなく、ただ遠くから眺めているだけ……リファネスはベンを担ぎ、ジョゼフに至ってはもう戦意を失い、何故2人があんなバケモノに立ち向かっているのかすら理解できずにいた。
そもそも何故、自分がこんな所にいるのかすらも忘れてしまう程に、ジョゼフの心理状況は恐怖に呑み込まれて我を失っている様だった。そして、マーシェルが階段の下に転がり落ちてゆく光景を見て、どう足掻こうとも堕天には敵わないのだと悟る。
シェルディが必死になってマーシェルを救い出したにも関わらず、両足を失っている状態のマーシェルに階段を自力で上がる術はない。リズベットに至っては誰かの補助なしでは未だに平衡感覚が不安定なままだ。
この状況下で何故、2人は彼らを見捨てないのか、ジョゼフには理解が出来ない。
「──レイスッ!」
館内に響き渡るシェルディの声が絶望へと染まる。標的をリズベットに切り替えた堕天が物凄い形相で階段を駆け上がり、再生した両腕で鋭い爪を何度も突き立てる。レイスはリズベットをかばいながら、何度も何度も堕天の攻撃を避けていたのだが、リズベットが不意に階段を踏み外した。
「あっ……!」
一瞬の緩み、レイスが咄嗟に身を盾にして堕天の前に立ち塞がる。想像を絶する恐怖を目の前にレイスは堕天の瞳を真っ直ぐに見つめていた。紅蓮の大きな瞳。吸い込まれる様な深黒の瞳孔はレイスを見据え、勇猛果敢なその勇姿を無慈悲にも貫く。
「あっ……はぁあっ! そんな……」
「ぐふぁっ……はぁ……はぁ……はぁ……ミァ」
振り返ったリズベットは自身をかばったせいでレイスが貫かれてしまった事に大きなショックを受ける。レイスにとって見知ったばかりのリズベットに命を懸けるだけの義理はない。けれど、レイスは“死者”に憑りつかれていたのだろう。リズベットと孤児院の家族を重ね、倒れ込むレイスはリズベットの頬に手を当てて清らかな表情を浮かべていた。
そして、朧げな視界にメファリスの儚げな笑みを魅ると力は抜け落ち、そっと静かに眠りへと就いた。




