星が導く夜明け ④
「……はぁ……はぁ……ゴホッ、ッ……」
星空が夜道を照らす、真冬の銀世界。街灯の薄明かりを頼りにヨロヨロと少女は、途方もなく霧にむせぶ夜を歩き続けていた。ボロボロの薄い衣服に、古ぼけた布切れを1枚だけ羽織り、凍えるその身を震わせている。
指先が見える程の大きく穴の開いた靴は、少女の小さな足にはあまりにも大きく。
霜焼けに赤く染まったその指先が、少女のこれまで歩いてきたであろう道のりの険しさを──無情に過ぎ去ってゆく時の経過を──踏み締めてきた人生という永い過去を物語る。
「……はぁ……ッ……」
吐く息は仮初に大気を白く染め、少女の視界を遮り、恍惚と意識を奪うのだ。
雪と霧に包まれた極寒の世界で少女は孤独を知り、嘗ての裕福で恵まれていた生活に──ふと後ろを振り返った少女は、虚ろな瞳で隠された世界に不安を抱く。
(何故、僕が……母上……父上……)
既に感覚すらもないその小さな身体は悲鳴を上げ、今にも倒れそうに朧げな意識を保ち続けていた。凍えたその身を一心に抱きしめて、何も変わらない現状に自然とため息がこぼれる。
「……はぁぁ……」
空腹にお腹が鳴り、少女は疲れ切った様子で近くの壁際に寄り掛かった。
レンガ調の外壁には手配書の貼紙がいくつも張られており、そのどれもが高額な指名手配犯ばかり。この中の1人でも捕まえられたのなら、あの頃の様に裕福な暮らしへと戻れるのだろうか。
歩き疲れた少女は悩ましげに手配書を見つめ、薄っすらと笑みを浮かべる。
「賞金稼ぎにでもなろうかなぁ……ははっ……黒双って呼ばれているコイツなんて世界規模で指名手配されてるじゃないか。ワールドバウンティなんて何をしたらなるんだよ……620億って、どんだけ極悪非道な……」
笑う気力もなく少女は、乾いた笑いで空腹を誤魔化す。どうせ、このまま凍え死ぬのだろうと半ば諦めかけていたその時、頭上に設けられていた大きな噴出口から勢いよく蒸気が噴き出し、唐突に少女を襲った。
「わぁっ!」
驚いて雪の上に尻もちをつくと、ヒンヤリとした冷たい感覚だけが背筋を覆い、慌てて立ち上がる少女。自身が思っていたよりも、遥かに俊敏な動きを見せた事で、思わず笑みが溢れる。
歩き疲れていたはずの足は、思っていたよりも軽く。消えかけていた全身の感覚も、次第に寒さと痛みを感じる程になっていた。まだ歩けると、少女は震える身体に鞭を打ち、再びその足を動かす。
行く当てもない少女の足取りは、霧の中に薄っすらと揺れる小さな明かりに誘われて、ただ前だけにその小さな足を進ませるのだった。
近くまで来ると、美味しそうな匂いと共に暖かい部屋の中で、団欒と食卓を囲む家族の姿が窓の外から見える。実に暖かそうな部屋の中で、自身と同い年くらいの女の子がとても幸せそうに猪肉を頬張っているではないか。
その光景に少女のお腹は“ぐぅー”っと音を鳴らし、羨ましそうに生唾をゴクリと飲み込んだ。
──コンコン。
少女は馳せる思いで扉を叩く。
何でもいい。
少しでいい。
恵んで貰えるのなら、今日を──この日を生き延びられる。
(お願い。この扉を開けて……)
そして、少女の思いが届いたのか、その扉が少し開くと、大柄な男が怪訝な顔を覗かせた。
男は少女を下から上まで舐める様に見ると、急に渋い顔をして「ちっ」と舌打ちを鳴らす。
そして、大きく瞳を見開き屈んだ男は、威圧するかの様に少女の髪をいきなり掴み、眉間にシワを寄せると、軽蔑したような眼差しで大声を上げたのだ。
「他所へ行きな! テメェみてぇな小汚ぇガキにやるモンなんざ、この家にはねぇんだよ!」
「……なっ、何でもいいんです……お願っ……」
男の大きな拳が突然、少女の頬を打つ。
首がへし折れるかと思うくらいに後ろへと吹き飛んだ少女は、積雪に赤い斑点を飛び散らせてその身を雪の中に埋めた。その染み込んだ赤い斑点に少女は拳を握り、口から流れ出る血を拭って男の顔をジッと見上げる。
「何だその目は! さっさとどこかへ行け! この薄汚い鼠が!」
少女の中で沸々と湧き上がる殺意を他所に、男はドンっと扉を強く閉めた。
人間とは実に醜く、豪の強い生き物だ。自己の利益を優先し、不利益になる事には一切関わろうとはしない。故に貧富の差は開いてゆくばかりで、壁外のこの街も貧困に悩む者達が多いと理解はしていた。
しかし、あまりにも理不尽なこの街の住人達は、少女の古ぼけた身なりに軽蔑の眼差しを向けるのだった。誰からどう見ても奴隷の様な身なりに、助けを差し伸べる者など──いやしない。
少女はズキズキと痛むその頬に、この世界の不条理を知る。
まるで、生まれてきた事自体を否定するかの様に、大人達は少女を遠ざけるのだった。
忌み嫌い。罵り。理不尽に暴力を振るう。
優しいなんて言葉は嘘と偽りで塗り固められた、利己的な大人たちの偽善事業なのだろうと、少女は雪に染み込んだ赤い斑点を見つめる。
持たざる者へ与える優しさなど、この世には有りはしないのだから。
(僕は、何の為に生きているのだろう? いっその事、殺して奪おうか。持たざる者は奪う事でしか得られないのだとすれば、倫理的にもそうする他ないと世間は認めてくれるだろう。誰が悪い? この世界が悪いのか? あの男が悪いのか?)
そんな事はどちらでも、同じ事であった。
少女は抑えきれなくなった殺意を胸にゴミ置場を漁る。
(何でもいい。空き瓶、ペン、動物の死骸から骨を抜き取って削れば、ナイフにでもなるだろう。あの男さえ殺せれば、後の事なんてどうなろうと知った事か──)
≪ネェ……アソボウヨ……≫
背後から唐突に声がして、咄嗟に振り返った少女は、背後に立つその小さな黒い影に自身の醜さを見る。
いつも見えている黒い影よりも遥かに小さなその影は、およそ4歳児程度の男の子だと理解した。普段なら怖くて目を背ける筈のその存在に、不思議と今は安心感を覚えるのだった。
怯えた様に少女を見つめる黒い影は、まるで昔の自分を見ているかの様な気がして、繰り返すその言葉に自然と笑みが溢れた。
≪ネェ……アソボウヨ……≫
自分自身も飢えに、世界の不条理に──翻弄されながら、醜い大人達と同列な存在へと次第に変わりつつあるという事実に気がつく。それは今まで忌み嫌い、蔑まれてきた筈の大人達と同類であるという皮肉であった。
(恐らく今の僕は、この幻影よりも悍ましいのだろう。こんな時に限って、僕の脳内は意地の悪い幻を見せるものだ。ただの精神障害にしては些か、都合のいい幻影なんだな。普段の様に醜悪の影なら、どれ程よかった事だろうか)
ふと我に返り、漁る手が止まる。
その場にしゃがみ込み、震えている膝を抱え、静かに雪の上に横たわった。
人間とはいかに浅ましいモノか、自分がどれだけ醜い存在へと変貌してしまったのか。
(こんな人間が生きていても、仕方ないのかもしれない)と、少女はあの男を殺す事も、生にしがみつく事さえも諦めてしまった。
目の前の小さな黒い影があまりにも無垢で純粋な存在に感じられたのだろう。少なくとも醜い大人の様になるよりかは遥かに死を選択する事の意義を感じていた。
そして、純真なその影に少女の心は、疲労と混濁する意識の中でそっと眠りに就く。




