城の侍女、彼女達の不安
プロローグ
「彼がそのまま私を愛し続けてくれたなら、あなたは大変貴重なものになれたのにね。でももし私の勘違いだったなら、あなたはあなたにしかできないその使命を大事に果たして行くべきね。それは大変素晴らしいことなのだから。だけどこんなことを思う私はきっとあなたを抱いてはいけないの。」
土砂降りの向こう側
「お疲れさま。大丈夫だった?」
「屋根のように大きな傘なんだもの。」
「おかげで濡れはしなかったけど足元はぐしょぐしょみたいね。でも無事戻ってきてくれて安心した。」
「非常に?」
「ええ非常に。」
「ある人に会ったわ。会ったというよりは一方的に後を追われた感じになるのかしら?」
「まあ、それは物騒ね。」
「追われることになったその人は、私にこんな話をしてくれたの。」
「あなたは森の中を迷ってしまったということ?」
「実際そうかもしれないわ。そうなった私でしかそうする理由も無いものね。」
「こんな土砂降りの中、ちゃんとあなたの声は届いた様子?その相手の誰かに。」
「彼女が傘を持っていたものならそうはならなかったわね。おかげで二人の会話は非常にうまくいったものよ。」
「肩をくっつけるどころか顔と顔を寄せ合う感じであなたと彼女は、いいえ、彼女はどんな話をあなたにしてくれたって?」
「つい先程のこと、こんな光景を目にしたならあなたはどう思うもの?」
「このバケツをひっくり返したような激しい雨の中で?」
「その下で女性達が列を作っているの。とてもお行儀のよい長い列。それはなんだか葬儀のよう。だとしたら彼女たちが誰だかによってその中心にあるであろう棺の中身っていうのは決まるものよね。」
「逆もまた言えるかもね。」
「彼女たちはみな同じ黒い恰好をしていたわ。誰一人として乱れることなく。だけどそれがすべてに及ぶと、それは何か趣味的な色を帯びて見えるのよね。わかるかしら?」
「彼女たちの長い列は雨に打たれていたところまではいいわ。それで?」
「それでその人たちの後を追ってみたらね、お墓があるの。大きな大きなお墓。」
「そのように見えるものが?」
「ええ。彼女たちはその巨大なお墓のようななにかを前にすると、用意していたお弁当を広げてすぐに頬張り出したわ。一心不乱にでもなく、にこやかになにかの話題を口々にして時に笑いながら。」
「お弁当はおいしそうだった?」
「色とりどりのサンドイッチや空揚げや卵焼きやポテトフライみたいなのがあったとして、シャバシャバになっては食べられたものではなくはなくてもおいしいと感じることはあるものかしらね?」
「彼女たちはずぶ濡れになりながらそうしていたということ?」
「雨なのをいいことに声を気にせず笑っているのよ?おかしいでしょう?どうしてあの人達あんなに楽しそうだったのかしら?」
「本当にそう見えた?」
「どうして?」
「笑い顔って時々別の表情と間違われることがあるらしいの。それに彼女達の顔からなにかがあふれ出ていたとして、そんな感じでは確かめようも無いものよ。」
「そうだったのかしら?」
「大変ね、彼女たちも。」
「そうね、本当に大変なこと。でもね、彼女はそんな様子を思い浮かべている私の横顔のどこかをよく目で追いながら、こんなことを聞いてくるのよ。」
「忙しい人なのね。」
「そうしていれば時間はすぐに過ぎてくれるもの。そういうものでしょう?」
「ええ、そういうものね。」
「でもそんな用も持てず、ただ時間が過ぎるのを待つ人がいたとして、その人というのはどんな心境にあるものかしら?それはよくないもの?」
「なぜ?」
「時間が過ぎるのを待つなんてなんだか苦しそうに見えるから。その人はじっと今の時間を過ぎ去るのを待つの。今を生きていないとも言えるわ。未来に託しているようにも見えない。それは凌いでいるみたい。ただ冷たい風が止むように、それとも嫌な空気が消えてしまうのをひたすらじっとして待つの。目を閉じてもいい。それともその人はそんなそぶりも見せず、ただそういう気持ちを隠しているならそれもまたかわいそう。まあそうとは限らないのかしらね。」
「そうとは限らない?時間を待つことが苦痛とは限らないということかしら?」
「私はそういう人を知ってるもの。でもね、言いたくはないわ。その人のことは秘密。」
「私には?」
「あなたにも。」
「きっと大切な人なのね。」
「どんな意味で?」
「なにかしらの意味でもって。でも、一人で待つのはなんだか心細いわね。誰か話し相手でもなってくれればいいのにね。あなたはどう?」
「わたしもそうしてあげたいと思うかもしれない。」
「あなたにとってのその人だものね。」
「だけどその人はまたいつまでもそうしていることはできないわ。物事には時間の締め切りがある。なににおいても決められた時間までに終わらせなければならないし、済ますことならちゃんと済まさなければならない。その人がやらなければいけないこともまた時間が決まっている。いつまでも躊躇していることは許されないわ。でもそれもまたそうだとは限らないのかしら。なにもしないでそれを待っていることもあったとして、それは決して消極的な態度とは言いきれないかもしれないのだもの。」
「その人が頭の中でなにを思っているものか、それは他人には知りえないことだものね。」
「悲しいことだけどそれが人との違いってことになるのよね。だからこそ人は他人を感じ、寂しくはないのだけどでも、やっぱり時間にとらわれない人なんていないのよ。時間はどう願っても進むのをやめてはくれない。状況だって変化しつづけるものだし、たとえ遅らすことはできたとして、それは完全に止まってくれることは決して無いのよ。」
「残酷なのね。」
「ええ、でもね・・、まあいいわ。このことは。私は思うのだけどあなたの話が聞きたいわね。いいえ、あなたのことじゃなくてもいいの。あなたに関してのことでは相当退屈してしまうものなら、あなたのことでないあなたが知っている話。」
「そういうことならいくつかあるわ。例えば宝石を液体に変える鳥の話とか。」
「どんな色の羽をしたそれが固い宝石をどのように?」
「そういうものがいるらしいというだけ。それがどのような見た目をしていて、いつからどんな理由をもってそんなことをしているものかは誰も何も知らないの。味気ないという顔をするのならそれはそうなのよ。物足りないというのなら姫のために旅をする王子の話でもしてあげた方がいい?」
「姫のなんのために王子は?」
「その姫はある日眠りについたまま目覚めなくなってしまったの。王子はそうなってしまう前の彼女が行きたいと語っていた場所を巡って旅をするわ。彼女が大事にしていた宝石を胸にして。」
「姫はどんなところに行きたいと語っていたものかしら?延々と続く田園風景のなかをひた進む列車の旅だったり?」
「そうね。彼女は冒険の本を読むのが好きだったようで、厄介なことに様々な場所を知っているわ。地中深くにあるという蛇の巣だったり、雲よりも高い石柱のてっぺんにある展望台だったり、目玉さえ凍ってしまう極寒の大地だったり。」
「王子はそう言った場所を目指すことになると。」
「この旅の話は広く国民に伝わる話。」
「人気なのかしら?」
「あなたの思う通りよ。人気というわけではないわね。すべての旅が終わったとしてその心が晴れることは無い、ちょっと大人向けの話だから。」
「王子が結ばれるべき人は目覚めることは無いの?」
「ええ、絶対に。王子の旅にはそれ以外の意味はなく、どこにたどり着いたとしてもその隣には誰もいない。だからこの話を知る人のうちの何人かは、いいえ、恐らく殆どの人はその旅先で誰かいい人と出会うことが無いものか、出会って王子の心変わりが起きないものかを期待し、そうあるべきだと暗に思っているのでしょうね。」
「あなたもそう?」
「あなただってそうでしょう?」
「ええ、きっとそうかもしれないわ。」
「それはそうよね。握りこぶし大の長方形をしたやたらと重い宝石だけを胸に抱いたって、なんにもなりやしない。でもね、それはそれでとても不思議な宝石ではあるのよ。」
「不思議?」
「それは奇跡を起こす石。」
「ねえ、靴が少しずつ乾いてきているのがわかるわ。だんだんと皮革部分が光沢を帯び始めているの。」
「それはよかったわね。」
「ええ、よかったの。でもところでその宝石ってなんだっけ?あなたが彼女に語ったその話の宝石っていうのは。なにかあった気がするのよね。」
「望むものを目の前に出してくれるけどとてもひねくれているとも、真実を見つめてくるとも言われるちょっとおしゃべりな宝石のこと?」
「ああ、自分を全知全能の存在だと言ってのけるあの石の話だったのね。」
「そう。それが語るに任せれば、自分にできないことはある意味で存在せず、気分が良ければ時間さえ超えてみせるとさえ宣言するのに躊躇しない。」
「王子はでも言うのよね。しかし君の言う君が持ちうるであろうそうした素晴らしい能力は果たして僕の旅に必要となるときは来るだろうかね?」
「必要だから私がいる。お前の旅には大きな困難が待ち構えていることをここで宣言してやろう。」
「大きな困難?なら君はそれを退けてはくれないのだろうか?」
「退けない。」
「なぜだ?」
「お前とこうして旅を続けることをもしも私が望んでいるならば、その私はどうするか。お前は考えたことはあるかな?」
「もしかしてその災厄とやらも君が用意するのだろうか?」
「ある意味ではそう言えることもあるかもしれない。私を所有することで、お前は人がすることのない体験や奇跡的な人生を歩んでいくことになるのだから。」
「君はそういうものなんだな。」
「お前が私を所有する前提に立つならば、お前が災厄に遭うことを予測することなど造作も無いこと。」
「僕は君を手放しはしないなら、手放さないと決めている時点で僕の旅の結末は決まっているようなものではないだろうか。」
「それはお前次第だろうが、私はお前に災厄に対する備えを与えるものだ。」
「備え?それはなんだったっけ?」
「宝石は王子に人を与えてよこすと言うのよ。」
「人って?」
「災厄に対処し得るような人。宝石は自分で考えることが嫌だったのかしらね。もしくは選択肢を残したのかもしれないわ。」
「選択肢とは?」
「その宝石は彼の旅の行く末を決定づけるようなことは避け、あくまでも旅の選択は彼に任せようとするもの。」
「もしもその人物と旅を続けたくなったならば、私自体を手放さなければならない時が来るかもしれない。私を持つ限り、そこに安定と安寧は存在しないのだから。」
「君は僕と旅をしたくないのだろうか?」
「私は選択肢を残すだけだ。旅はお前次第。お前がどう決めていくか。私がそれを決めることはできない。」
「君は僕の運命を縛り付けることはできないということだね。」
「私が用意したその人物とお前の二人でどうするか、その人物をお前がどのようにするか、旅はそれ次第だ。」
「まずもってその誰かなりと僕は仲良くできるだろうか?」
「それもお前次第。お前の気持ち次第だろう。」
「君もそうだね。」
「私は関係がない。」
「関係がない?なぜ?」
「その人物が現れたなら私はこうして話すのをやめるだろう。」
「やめる?なぜ?君は二人以上の人間と話すのが苦手なのかな?もしくは僕とその人物が話している様子に嫉妬してしまうことがあるかもしれない?それともそれもまた僕の想像に任せる?」
「ああ。」
「そんな感じの話が聞こえてきた、というか聞く気はなかったものの耳に入ってきて仕方がなかったの。そこは音がよく響くような場所だったし、話の主はちっとも声を抑えることなく言いたいことを言っている様子だったものだから。」
「災難だったね。」
「ほんと。でもその話を聞いた途端、私はその人の目の前に今すぐ姿を現すべきだと思ってしまったの。なんだか傲慢的に聞こえるかしら?私が現れたならその人は本来会うべき人と会うことができなくなってしまうかもしれないのにね。」
「そうかもしれない。でも君はそう思ってしまった。」
「その人には自分が必要なんだってね。そのかわいそうな人には。」
「かわいそう?」
「だってその人はその話を終始一人で喋り続けていたのよ。その見た目はなんだか滑稽でそしてひどくかわいそう。でもそう思うその人、彼女もまた自分がなぜそう考えたものかに思いをめぐらしたものなら、理由は別のところにあると思い至るもの。」
「別のところ?」
「自分のことについて思い起こしたのなら彼女はすぐに気づくのよ。自分こそなぜここにいるものか不確かなことに。」
「どういうことだろう?」
「彼女の記憶にあるのはどこぞの旅人が地べたに転がっている光景。彼女もまた旅をしていたものなら、自分はこんな場所、旅に生きるような人が行き倒れてしまうような本当に遠くのどこかに来たものだと感心することもあるかもしれない。満点の星空の下、そんなことを思っていると地面に服が落ちているわ。」
「服?例の旅人のものだろうか?」
「太陽と雲が旅人にちょっかいを出してなにかを競い合う、そんな話があるものでしょう?大して有名なのかどうか知らないけど、そういうことがここで行われたのかもしれないわ。いいえ、そういうこととその人は見るの。いいかしら?」
「そう見るのは彼女の自由さ。」
「その服が例の旅人のものだとしたなら、その人はどうなってしまったのでしょうね。あなたは想像できる?」
「どうだろう?」
「星々は後悔しているかもしれないわ。意図せずそういう間違いを起こしてしまったものだから。」
「意図せず?」
「その話によれば、星の他にもう一者の立場が必要になるでしょ?」
「星は太陽と雲のどちらなのだろうね。」
「そんなのどうでもいいことなのかもしれないわ。でも星々は多分そのもう一つの何かにそそのかされてそんなことをしてしまったの。」
「星々は普通なら旅人がそんなになることはしないと君は言うのだね。」
「それはそうでしょう。あんなに綺麗なのだもの。だからそうさせた何か、それは例えば谷間から見上げた場所にある高い崖の上のヤシの木の実だったり、もしくは長く生き過ぎたヤギのこれまた長すぎる眉毛の先端だったりするのかもしれない。」
「そこにはなにかしらがいたと。」
「星をそそのかして間違いを起こさせたなにか。きっとそれは意図的なことなのよ。悪意ともいたずら心とも取れる厄介なもの。死体を見ると相当な年月が経っている様子。だって骨が見え、その身体は腐り始めてしまっているのだから。いいえ、そうでもないみたい。生きている内からだって身体の一部がそういう風になる人は見たことがあるものでしょう?それはその人がそういう人なのではなくて、人の体はそういうものなのだということを示しているもの。」
「死体がそのように出来上がってから余り多くの時間は経っていないと彼女は思うかな。」
「そうだとすれば後ろを振り向きたくはないの。」
「なにかの気配を感じた?」
「いいえまったく。でもすぐそこにあっておかしくないと彼女は思ってしまうものなの。ちょうど屈んだところだし、その姿勢で後ろを振り返れば、正確には南南東の地平線を望む感じなのだけど、感覚としてはほとんど真上を見上げるようなものにはなるでしょうね。でもそのような姿勢を取ったのは実のところ死体をよく見るためにそうした訳じゃないの。」
「何のため?」
「その目をのぞき込むため。その目を通して背後の様子を確認しようとするの。だってそうでないと怖くて見ることができないわ。」
「かわいそうな旅人のように残酷ななにかしらをされる予感があるのだろうね。」
「星とはやり方が違うだろうし、残った残骸の形は違ったものにはなるのでしょうけど、彼女にとっての結果は同じなのだわ。そんなのに背を向けているのなら彼女は何ができるかしら?」
「彼女はその姿を見ることができただろうか?」
「星明りの下、潤いがまだ残った死体の瞳を返して?」
「そうだね。」
「見ることができなかったわ。彼女は見ているものが目でないことに気づくから。」
「目ではない?」
「いつからそうだったかまるで思い出せないの。気が付いたらそんな感じ。」
「どんな?」
「どんなと聞かれればそうね。見知らぬ洞窟の中って感じかしら。ちなみにその旅人が目を開けてくれていたものだからそう見ることができたものなのよね。非常に薄目だけど。でもものを見ている時って、集中してしまうとそれがまるで視界全体に広がったみたいな感覚になるときはない?感覚はなくても結果的にそういうことだったと思えるようなこと。」
「それだけが見えているということだね。」
「そう。もうそれだけしか見えないって感じ。見ているものが目の黒い部分なら彼女が見ていたのはやっぱり黒いものばかり。それでなんだかおかしいぞって感じたら、目の前にあったのは洞窟の中の水たまりだったわけ。彼女は自分の見ていたものはこれだったのか、なんて思いながら今のが夢でよかったなんても思ってね。安心しているのよ。壊滅的な夢を見た後って、そうじゃなかった現実にひどく安心するものよね。自分の不注意で友人や他人に対して一生に残る大けがを負わせてしまったりなんかした自分が、普通の人生を生きていた過去の自分をひどくうらやむ感じを思い起こしてもらえればわかりやすいかしら。」
「彼女は夢を見ていたということなのかな?」
「そう、きっと夢を見ていたのよ。でもそんなだったら、夢を見ていた自分はなんだったのかって思うでしょ?それが思い出せないのよね。思い出せるのはあんな夢のことだけ。」
「彼女はそんな風にして、自分の記憶を夢のようにしてしまおうとしたなんて思ったならそれもまたあなたの自由なのでしょうね。でもそんなことで彼女は自分自身もまた得体のしれないものだなって思うもの。だから彼女はすがろうするのかもね。もしくは彼となら不安を分かち合うことができるかもしれない。それとも他人の困難に寄り添っていれば、自分の悲惨な境遇を見ずに済むと思ったものかしら。」
「どんな動機であれ一緒に来てくれるのなら心強い。彼女は奇跡の宝石が用意した人になるのだから。」
「実際彼のために力と知恵を尽くすのでしょうけど、彼女自身やるべきこともわかっておらず、なんら特別な能力を持っていないただの女性であるとして?」
「それでもなおさ。」
「彼女と彼の旅はそれからどうなると思う?これから確実に二人にとって困難なことが待ち構えているものらしいじゃない?宝石の話しぶりからするとかわいそうなことにね。大変なことになるのよ。二人は。」
「そうだね。」
「少し冷えてきたわ。雨はちっとも変わらない。」
「変わるのを期待していたの?」
「いいえまったく。ちゃんと知っているもの。」
「そう。」
「それでどうなるの?二人は。」
「二人は?」
「彼らの話はそこで終わりではないでしょう?」
「ええ、きっと続くのでしょうね。その困難が具体的にどんなものなのか知らないけど、きっとその二人は引きはがされてしまうのではないかしら。」
「せっかくいいコンビになれたとして?」
「だからこそよ。きっとその辺をうまく突かれることになるわ。もちろん狙われるのは王子でしょうけどね。」
「その宝石を持っているのは王子だものね。」
「それでさらわれるか、もしくは閉じ込められることになるの。いいえ、立て籠もると言ったほうがいいのかしら。」
「王子は宝石を目当てにする恐ろしいものがギリギリ入り込めないような場所に入り込んで、そこで身を縮める感じ?」
「もしくはそこは人一人が生活するのに余裕はないとしてもちょうどいいスペースくらいはあってもいいかもね。王子はでもそこから出ることはできない。出たらすぐに掴まれてどうにかされてしまうから。」
「まるで甲羅に閉じこもったカメをヘビがとぐろを巻いて囲んでいるみたい?でもそこでパートナーの出番って感じ?彼女は宝石と彼の期待通り、そのような状況をどう打開するものか。彼女はそのために呼ばれたようなもの。いいえ、そのためにいるのだからね。」
「彼女はとても遠くにいるわ。」
「遠く?」
「恐ろしいものが匂いをかぎ取ることができないようなとても遠い場所。」
「逃げてしまったの?」
「ええ。」
「王子がそんな状況にいるのに?王子が狙われたのをいいことに自分は逃げたのね。でももちろんそれを非難することはできないわ。それに対してどう思うことも無い。自分の役割をわかっていないなんて言われたところでそれは仕方のないことだもの。」
「そうね。でも彼女は自分の役割をちゃんとわかっているわ。それに彼女にとってそうすることしかできなかったとして、それは彼女のやることだもの。二人の旅にとってそれは間違ったことではないかもしれない。」
「遠くに逃げることが?」
「事前に王子と二人して準備をしていたこともあるかもしれないじゃない?」
「準備?」
「なにかが起きるとわかっているのなら宝石が狙われることは明白よね。でも王子は宝石を手放すわけにはいかない。だからできることをしたの。その恐ろしいなにかは王子を捕まえたところで目的の物は出てこない。」
「宝石を持つ役目を彼女に入れ替えたということ?」
「王子のリュックはそのままに。彼女はお腹にでもその宝石を入れておけばいいのよ。抱っこ紐なんかでくくってね。」
「それでどうするの?その人が王子の意思を継いで旅を続けるということ?」
「いいえ、そうではないわね。そうすることがある意味で王子の旅を助けるということになるかもしれないけど、でも王子の旅はそれでは意味がない。たとえ王子はその人に引き継いだものと考えていても、その人はそうは考えないものよ。彼の旅や彼の旅の目的はもう全て知っているものなのだから。その人は遠くに行って、そして安全な場所、恐怖に邪魔されない環境に身を置くの。」
「そうしたら?」
「彼が助かる方法を探すのだわ。それは人に相談できないという制約があるのなら、彼女は一人でひたすら考えを巡らすのでしょうね。」
「コーヒーでも飲みながら?」
「ええ、高い集中力を持って。」
「もっと肩を寄せましょうよ。」
「降ってくる雨よりも、地面から跳ね返る水滴がギリギリ手首の裾に届いてしまいそう?」
「ええ。」
「もしくはこの厚い雨のカーテンのすぐ向こう側からなにかの視線を感じたり?」
「そうね。なんだかずっと見られている気分はあるわ。でも恐いと思ったことは無いの。それはきっと気のせいなのでしょうから。それもこれも全部この雨とこの小屋のせい。」
「ここは簡単すぎる小屋、いいえ、小屋でさえないものね。」
「外との境界が存在しないとても変わったちょっとした建物。また激しすぎる雨のせいで室内にいるような気分ではあるけど、私たちはやっぱり濡れてはいけないの。濡れて体温を奪われるようなことがあっては温めることができない。特にそれを抱いている今のあなたに関してはそう。生まれる可能性がなくなっては台無しだもの。」
「そうね。思ったのだけど、私が与えた熱量はこの中に入っているものに対して何かしら影響を与え得るものかしら?」
「あなたはどう思う?」
「なんら影響を与えることはできないかもね。熱ということなら、それは私の物でもあなたの物でも変わりないもの。」
「残念なことに?」
「どうかしら。」
「もしもあなたの熱量によらず。あなたの何かがその中に漏れ伝わって、それが何かしらの影響を及ぼす結果になり得るものならあなたはどう思う?」
「少し緊張してしまうかも。」
「そう。」
「これはどれだけ温めればその殻を破ってくれるのかしらね?今にしては産まれ出るその理由を探してでもいるのかしら?」
「いいえ、そうではないわね。たとえ探していたとして、それは見つからなくてもいいの。それは時間が来ればいずれ生まれることが出来るのだから。」
「それは温めた量ではないということね。」
「そう、それは時間にならないとダメなもの。時間の経過のみがもたらすものではあるわ。もちろん温めることを前提とするものだけど。」
「何をするにも時間が必要なものなのね。」
「そうよ。移動するにも物を運ぶにも。その段取りを考えるのにも。また悩み、決断するのにもね。」
「ただ私たちがこんなに親身になって温めてはいても、結局はこれを孵すことはできないのよね。」
「ええ。孵らないことを前提として私たちはこうしているのだもの。」
「私たちの目的は何だったかしらね。何のために温めているのかしら?こうして抱いているのだから、どうしても産まれてほしいという想いが付いてきてしまうわ。」
「それも仕方のないことよ。それにそう求められていることでもある。私たちのそうした想いが台無しになってこそだもの。」
「産まれ得る条件をちゃんと用意した上でそれが産まれないことが重要なのよね。」
「そう、私たちの役目は重要。最もこうして二人いるのだし過酷なことは何一つないものだけど。」
「この何にもならない時間、それは私たちにとってどんな時間になるかしら?」
「ただ時間が過ぎるのを待つ時間。それは人を待つような、待ち合わせ場所で相手を待ち続ける、そんな苦痛めいたようなもの。」
「私たちにとってはそうですらないかもよ。」
「そうね。そこに期待はないのだから。これが私たちに与えられた罰。いいえ、そうではないわね。信じても無駄なことを信じ続けること、希望のないことの絶望を私たちは改めて教えられているのだものね。」
「ええ。私たちは信じ続ける罪の重さを知り、それを噛みしめないといけないの。」
「だけど私たちはこれを温め終わったとき、なにをどう考え方を変えていると思う?」
「それはその時の彼女たちにしかわからないものよ。」
「まるで別の世界の人たちのように言うのね。」
「そうよ。今この時とその先の未来は別の世界なの。だってそうでしょう?未来はずいぶんと退屈な時間を待たないと忘れたころにしかやってこないし、過去は相変わらずおぼろげにしか思い出せない不確かなものなんだもの。」
「そう言えないことも無いかもね。」
「あなたの気持ちがだんだんわかってきた気がするわ。」
「私のどんな気持ち?」
「激しい雨は心を落ち着かせるものの、ひどく孤独を感じさせるものでもある。周囲がまるで見えないし音も聞こえない。世界に自分達しかいないみたい。」
「ましてやこの中を私は一人待っていたものだものね。ただ私達だけではないことをちゃんと心得ていれば、その向こう側に広がる光景やそこにいるであろう人々の様子が頭に浮かんで、それはまた楽しいかもしれない。ほら、耳を澄ませば、遠くを走る列車がレールをこする音やもしくはその窓からこちらを眺める乗客の息遣いさえ聞こえて来ない?」
「雨の音しかしないわ。」
「でしょうね。」
「でもなんだか一人で車窓に顔を寄せる様子は寂しそう。隣に誰かいないものかしら?」
「いないことも無いわ。それはちょうどその人達の会話の節目に過ぎなかったかもしれないもの。」
「そうね。」
猛獣の檻、彼女の運命
「あなたのような立場の人たちが電車で移動する時ってこういう感じなのね。もしくはこれはあなただけのこと?貨物列車の猛獣運搬車両を借りてそこに隠れているなんて。それで檻の中に簡単な椅子と適当な大きさの絨毯を持ち込んだなら、電車の遠慮ない揺れに絨毯が部屋の隅にずれていく様子をぼーっと見つめる一人の世話係とあなた。椅子にちょこんと座りながら肩を揺らしているその姿はまるでそういう展示物みたい。」
「僕はこの方法しか知らない。」
「他の王子がどのような形でもって電車移動をさせられているかあなたは興味がないようね。他の人ならたとえ同じように猛獣の檻に隠れて移動するよう強いられてもその内装に気を遣い、豪勢な椅子やテーブルや倒れにくい花瓶やそこに生けられた花達や、それと似た草花が描かれた紅茶セットや檻の大きさにちゃんとフィットした絨毯を持ち込むものなのではないかしらね。十分な数の世話係を引き連れてでもって。」
「そうかもしれない。」
「そう言われて尚あなたは心外ではない様子。そんなことは別に気にすることでもなく、あなたはなにか他のことを考えるのに夢中なのかしら?だったならどんなことを考えていたりする?言いにくければ例えばそれはどういう形をしているかとか、そういうことでかまわないものよ。三角っぽい輪郭を持っているとかまたはそうね、完全な円に近いかそのものかとか。」
「だったならそうではないことは確かだと思う。」
「形を持たないものということ?」
「完全な円というものはこの世に存在しないんだ。」
「そうなの?」
「それはそう見えるもののその一端は必ず内側へ入り込み、もう一端は外側へ張り出しているのだそうだ。よくよく考えればこの世界の様々な現象はそういう兆候を現しているのに、このことに気づくのにどれだけの時間がかかったものか。」
「余程注意深く見たり感じ取ったりすれば私にもそう気づくことが出来るかしら?」
「僕なんかと違って世界の様々な場所を巡ることが出来たならきっとそうだろうね。」
「世界を巡る予定はないけど、そんなかわいそうなあなたの代わりに行ってほしい場所があるのなら、あとはどんなものを見てほしい?」
「ある加速器を作った偉大な国。」
「加速器?」
「そこに伝わる話の結末がどんなものなのか知りたいな。」
「どんな話?」
「その国の姫はある日のこと、身体のどこかから大きな宝石を排出するとしばらくして目覚めることがない長い眠りに入ってしまった。」
「そういう特殊な体質ということ?」
「姫には許嫁の王子がいた。彼女がそのようなことになり、彼には別の相手が用意されることとなった。」
「彼は諦めるよう言われたのでしょうね。」
「たぶん。だが彼はしばらくすると突然姿を消してしまった。あるものを持ち出して。」
「あるもの?もしかしてあれのことかしら?」
「姫の身体から出てきた宝石は城の地下で大切に保管されていたが、その宝石もまた消えていた。彼らに近しい人物は語る。姫はこの宝石によって国の形が変わってしまうことを恐れていた。その宝石は奇跡的な力を働かせると言われているものだったんだ。」
「姫の心配していたことはなんとなくわかる気がするわね。」
「王子はその姫が憂いだことにならぬよう、宝石を持ち出したと考えられている。」
「そういうことね。でもよりによって持ち出したのが国の大事な王子でなくてもいいのにね。」
「彼は彼女と一緒にいたかったのではないかな。」
「なるほどそうかもね。」
「ねえ、今のところの私ってあなたにとってどういうもの?」
「どうって?」
「あなたがこれまで会ったり話したりすれ違った女性達の中で、私はどの程度強く印象に残ることができているものなのかなって思ったの。もちろん今この時を言えばあなたの目の前に、いいえ、斜め前にしながら会話しているこの私にはなるのでしょうけど。」
「後で思い返した時、もしくは記憶の上ではということだろうか?」
「より強く記憶に残るにはなにが必要なのかしら?あなたの中においてこれまででそういったことが一番強い人、もしくは思いを巡らすことが多い女性ってどんな人になる?」
「そうだな。その人は記憶を取り戻しながら生きていく人になるだろうか。」
「記憶を取り戻しながら生きていく?」
「彼女はいずれすべてを思い出していく。ただそれは彼女だけに限ったものではないのかもしれない。彼女を思うとそんなことを考えてしまう。」
「そう。でもいいのかしら?私達って。あなたとはこういう話をしにきたのではないのよね、きっと。こういう大切な機会なのに。」
「たぶんそうなのだろう。」
「もっと終わりの時間を意識して話せばよかったかもしれないわ。そうしていたなら私たちはなにを話していたのでしょうね。こんなことは話していなかったもの?」
「そうかもしれない。」
「なんだか終わりの時間が迫ってきているみたいだからこれは言わせて。あなたはこれからいろいろな女性と出会い、話していくかもしれないわ。あなたの言う彼女にあなたは会えないのかもしれないけど、でもそういった女性の中のうち、誰かはとても引っ込み思案で・・そうね、異性の男性と話すのに自信がなかったり、大きく自信を失ってしまったりしたような人がいてね。そういうのにも関わらず、あなたとはペラペラと喋ることができて、そして理由もわからないうちからあなたのことを気に入ってしまったり。もしくはあなたのすぐ横を自分の落ち着ける居場所だとか、安心する位置だとかを勝手に思ってしまった人が最低一人はいたのだということをあなたには知っておいてほしいの。いいえ、そういう人もいるっていうことを覚えておいても損はないと思うわ。」
「そうだね。」
「無理のない程度にね。」
「ああ。」
彼と彼女の終わらない一日
「ほらあの辺、雨雲とその雨で巨大なクラゲが座っているみたいに見えない?」
「ひどい雨だ。」
「あれではあの下に暮らす動物や住人は何もできやしないわね。ひたすら雨が止むのを待っている感じかしら。でも違うのよ。」
「違う?」
「あそこの一帯は常にあのような雨雲に覆われていてね、あれは止むことが無いの。どうしようもない場所よ。一説にはなにか大規模な実験が失敗して、ああいう場所が出来上がってしまったのだって。あそこにいる人は自分が何をしなくても雨が降り続けているものだから自分が何かをしているように勘違いしてしまうのだそうよ。自分自身は何もしていないのにね。」
「僕はこうしている内、あの辺の景色をもう何回も見ているはずなにまるでそんなことには考え至らなかったな。」
「今乗っているのは環状線だものね。でもあなたは長いことずっと空を見ていたものだもの。しょうがないわ。」
「空?」
「いいえ、そうではないわ。あなたは太陽を見ているのよ。きっとそう。悪いけどあなたが思うよりもずっと長い間こうしてあなたを見させてもらっていたの。」
「そう見えたのかな。」
「ええ。まぶしそうに目を細めているもの。すぐにそうとわかってしまったわ。なにかを待ち焦がれているみたい。あなたの態度は潮の満ち引きを口をあんぐり開けながら眺めてしまう海水浴客たちより希少なもの。彼らだってそれは見ているだけ。太陽が流れるのを待つなんてこの世にあなたくらいなものではないかしら。それに今は太陽の動きが特に遅い時だもの。そうでしょう?」
「そうだったかな。」
「今日は本当に長い一日になるわね。その夕日からは太陽が生まれる、そう言われている一日だもの。太陽も古くなるから定期的に新しくならないといけないのでしょうね。でも一方でその太陽は絶対に生まれなくてはならないということでもない。」
「でも結局その太陽は生まれるんだろう?」
「いいえ、予定では生まれないことになっているらしいわね。その太陽が育みそれによって生まれるはずだったものはもう既に世に出ていて、それらがこの世界にどう影響を与えたか、それによってその太陽が生まれるかどうかが決まる。その審判がくだる時。その審判はしかし、その生まれるはずだったものが決めること。」
「そして予定通りなら生まれなかった太陽は冷えはじめ、手に持てるほど冷たくなったところで、唯一無二の価値を持つ宝となる。でもこの話って、私の記憶によればそれは太陽ではなかったような気がするのよね。他のなにかに読み替える必要があるのかも。でもこんな長い一日をみんなはどうしているのでしょうね。」
「僕はずっとこんな場所にいるものだからわからないな。」
「みんな今の間は一日分と一時間だけ多くを一日として過ごしているそうね。なんでも体内時計がそうなっているからなのだって。」
「こうなる以前はそういう身体の性質が、日々朝の光でリセットされていたということなのだろうか?」
「リセットなんてされないわ。わかるでしょ?みんな無理して目覚めていたことに。」
「そうだね。」
「それは罰だと言われているわ。人に課された罰だと。」
「なんの罰だろう?」
「諸説あるわね。いろいろと。数え切れないくらいに。でもしょうがないわよね。人はそれだけ心当たりがあるってことなんだから。私はそのどれもを知っているというわけではないわ。それほどがあるってことを知っているだけ。私が知っているのはそうね・・、でもこんなことをべらべらと、変な女だって思ってる?」
「いいや。僕こそタイミングを失ってしまっていたが、話し言葉を改めるべきだろうか?」
「さっきから気になっていたようだけど別にそのままでいいわ。私はその方がいい。年の違いを意識させられるのは疲れてしまうもの。特にこちらが女性とあってはよけいにそうよ。」
「そう。でも君とは別の機会にまた会いそうな気はする。」
「いつかどこかで偶然に?会わないわよ。世の中にどれだけの女性がいると思っているの?あなたはこれからいろんな女性、あらゆる世代の女性と出会っていくことになるかもしれないけどでも、それら全ての機会において一人として同じ女性はいないのよ。」
「そうなのかな?」
「同じ人のように見えて決して同じ人ではないのだわ。」
「違うように見えて年が経っただけの同じ人、ということもあるかもしれない。」
「年が違えばそうね、四年も経てばそれは別人だわ。」
「違う人のように変わってしまうと?」
「同じでは面白くないじゃない?それにいつまでも同じではいつまで経っても変われない人、ということになってしまうもの。人は常に自分を変えたいと思っている、そんな生き物でしょう?だから別人にならなくてはだめなのよ。特に女性は。いいえ、男の人もそう。」
「人はみんなそうなんだね。」
「ところで君はこれからどこへ行こうとしているのだろう?」
「環状線だもの、あなたには見当もつかないわよね。私はあらゆる可能性を秘めている人。」
「僕にとってね。」
「あなたもまた私にとってはそうだけどね。私はある人に会いたいの。それはどんな人だと思う?」
「男の人?」
「女性って男性に出会ってこそ、それは男の人もそうだけど、私にしては女性になる訳だからそれはまあ男の人ってことになるわ。それはでもそういう人じゃないの。」
「うん。」
「その人はわたしと似ている人。不思議だけど、なにかを共有しているみたいなね。兄ということにはならないわ。そうなればもうその人は生まれていなければならないもの。じゃあ弟かと言えばそうでもない。年下の兄弟なんか、そんなのがいたらわたしは私の人生を生きることはできなそうだもの。この考え方ってわかるかしら?」
「世の誰かたちの兄や姉に当たる人達は、精神的な苦労が多いことはなんとなくわかる。」
「私はそんな人は望まない。じゃあそれは誰ってことになるわよね。これ以上言うつもりはあると思う?」
「どうだろう?」
「あなたはどうなのかしら?もしかしたら行く宛もなかったりしてね。それでもうしばらくするとこんなことを聞いてくるのよ。さっき君の言った標高が高い場所、もうすぐ通過する頃だ。」
「そんなこと言ったかな?」
「記憶になくてもそうなのよ。あなたは確かに言った。そういうことでいいじゃない。」
「そうだったなら君はどう返してよこすのだろう?」
「ええ、もうそろそろだから準備しておいた方がいいわ。特に心の方を。大丈夫よ、あなたのしようとしていることは間違っていないわ。あなたがそう判断するのなら。また死ぬことは平等。生まれたことと死ぬことはそう。唯一死ぬことの悲しさは誰もが共有することができるもの。いいえ、共有ではないわね。誰もが手に取ることが出来るもの。それは手に取らなければ渡されるようにしてね。ずっと一人だった人も、それで他人と分かち合うことが出来るもの。」
「そうかもしれない。」
本編
暗いバス停で待ち合わせ
「そうそう、そういえばあの話ってね。」
「何の話?」
「宝石を抱いて姿を消す王子の話。あれね、真実はそうではないらしいわ。」
「真実?」
「王子が王国を出た目的は、王国を守るためではないの。」
「じゃあなんのため?」
「彼女のためでありなによりも自分のため。彼は宝石を液体に変えるために旅立ったのよ。」
「液体に?」
「宝石を液体に変えてしまう鳥がこの世界にはいるのだって。」
「それを液体に変えてどうするつもり?」
「もちろん姫の身体に戻すのね。液体なら飲ませることが出来るでしょ?」
「彼女が目覚めないのは体の外に宝石を出してしまったから。彼はそう考えているのね。」
「ええ。」
「彼は希望を抱いて旅を始めたと。」
「そう、それはそういうお話。」
「しかしすごい雨だわ。そのせいで周囲の景色はほとんど見えないからこの一帯がどんな場所なのか、私たちはまるで知らないのよ。」
「知っていると言えばこの建物の中だけ?」
「いいえ、この中の様子すらわからないわね。私たちはここに来てからは椅子に座ってただ下を見るか目を瞑るかしてじっとしていただけだもの。」
「この建物はね、外の壁が無いの。周囲の屋外と何ら隔てられてもいないようなもの。珍しいでしょ?」
「知ってるわ。その様子ぐらいなら今でも見えてる。」
「じゃあ真ん中には一本の支柱があってね、その先に屋根があるだけ。」
「このバスの停留所の内装とかその辺のことはどんな様子?だってここからじゃその内側めがけて視線を投げかけたところで暗くてなんにも返してよこさないのですもの。」
「壁も無いのにね。」
「激しい雨のせいか、不思議と室内にいるような感覚を味わっているものではあるの。」
「この地域は小雨というものがなく曇りというものも無い。降るときは思い切り降り、また晴れの日は強い日差しが降り注ぐような、そんな場所。この不思議な停留所は大きな屋根によっていつもその下は濃い闇に覆われている。それは外から眺めでもすればほんと中がなにも見えないの。また中に入って外を振り返っても強烈な日差しを舞い上がった埃が乱反射させるものだから、これもまたカーテンのようになってね。」
「なにも見えない感じ?」
「ええ。いついかなる時も中と外とは視覚的に切り離されているような、そんな建物。いいえ、そうではなかったかも。今この時において、雷が落っこちて周囲にフラッシュが焚かれでもすればその時だけは違う。」
「そうなって初めて私たちは外という空間にいるのだと再び認識させられるのでしょうね。外にいるのと同じでは夏は汗がべっとり、」
「冬はガタガタ凍えることになりそう?でもそうでもないらしいわね。冬はそれほど寒くなく、夏は不快じゃない程度には涼しいの。もちろんここがそういう気候ってことではなく、この屋根の内側がそういうものっていうこと。どういう仕組みかわからないけど、屋根に隠された空気はその下で循環している様子。外気はほんの少しずつしか取り込まれず、そして少しずつしか排出されないのよ。」
「計算されてのことかしら?」
「さあ。だけどそのためか、匂いがあればそれはすぐに広まって充満してしまいやすいの。誰かがコーヒーを淹れでもすればその強い豆の香りを、カップを手にする当人とほとんど同じに感じることになるわ。わかる?」
「いい香り。それに暖かい。今のあなたがそうなのね。でもバスの停留所で淹れたてのコーヒーが楽しめるとは思っていなかったわ。こんなサービスがあるなんてね。おしゃれで新しい試みだけど会社の経営に役立つかと言ったらそれは疑問だわ。これによってバスの利用者が増えたりするとバス会社は期待しているの?あなたはどういう感触を感じている?」
「私に聞かれてもわからないわね。彼女じゃないと。」
「彼女?」
「私はコーヒーを出す係はではないわ。別の女性がいるの。いいえ、正確には居たの。」
「今はいないということ?」
「そう。その女性はある日、突然何かがひらめいたように立ち上がるとそのまま姿を消したらしいわね。そのせいで私は置かれていたコーヒーセットを気まぐれに使い、作った飲み物をそれもまたほんの出来心であなた達に出してみただけ。」
「それにしてはおいしいね。」
「私が褒められたみたいで嬉しいわ。でも彼女を横目にバスを待つのは居心地がいいものだったそうね。」
「居心地がいい?どういう理由で?」
「なにかに取り組む人の横でただボーっとするのって落ち着くでしょ?台所で夕飯の準備をする母親をコタツから眺めるのとかそういう感じ。彼女はただコーヒーを淹れて出していただけでなく。何かに取り組んでいたらしいの。」
「何かって?」
「知らないわ。でも机に向かう彼女を見た人によれば、その姿はまさに自分の時間を過ごす人。」
「自分の時間?」
「彼女を見た人がそういう風に言い表しただけ。ただ彼女は時間が経つのを待つのではなく時間を使っていた様子だったのでしょうね。壁が無いことで程よい光を取り込んだこの空間は彼女のなにかしらの作業にとって集中力を維持する助けとなったものでしょうし。壁に囲まれた薄暗い室内よりもずっといい。そう考えると思うのよね。どんな建物でもいいけど、壁に囲まれた空間ってなんであんなに薄暗くて物寂しいものになるのかしら?」
「わかる気はするわ。明るい昼間の時間帯でも、室内は蛍光灯を点けなければすぐ暗い雰囲気が漂ってしまう。」
「前衛なる建築家は、思い通りの設計ができる権利を得るとやたらと全方位をガラス張りにしようとするでしょ?」
「彼らは薄暗い室内に感じる不快さを取り除こうとしていたのかもしれないわね。」
「でもガラスでは、プライベートもなにもあったものじゃないじゃない?彼らの中にはそれを布で解決しようとした人がいたわ。」
「布?」
「壁の代わりに布を垂らすの。向こうが透けて見える薄い布。円状の床と屋根を用意して中心から外側に向かって等間隔で布を垂らしていくと、一番真ん中の部屋はとても暗いけど、外に行くにつれて程よい明るさをもった空間ができるわ。」
「そこに住む人は暗いところと明るいところのちょうどいい境目でうろうろすればいいのかしら。でも大きな敷地が無ければ実現しなさそうな建築物ね。」
「実際にそういうお城があるわ。どこぞの大国の王子と王妃の城がそういう建築手法で建てられたものらしいの。平屋建てのとても広い城。」
「たいそう広いなら張られる布の数もさぞかし多いのではないかしら。」
「中心にいけばいくほど外気は届きにくく空気はこもり、中心付近だと息をするのものどが熱くて人が入り込めないような感じなのだって。そして本当の中心は真空だと言われている。」
「真空?」
「そうではなかったかしら?時間が止まるとかなんとか。まあそういう噂ってこと。ただ布の城は実用的な面もあるのよ。意外と嵐にも強いらしくてね。むしろ風によって形を変える分、他の建築物よもよっぽど信頼性があるらしいわ。」
「そこはどんな住み心地なのかしら。」
「侍女達は大変みたいね。王子がしょっちゅう自分の居場所を変えるものだからその所在がわからなくなってしまうのだって。でもそうでもないのかしら。その布の城には膨大な数の侍女たちがいるらしいからね。」
「膨大な数の侍女?」
「彼女たちは城の主のことを布から生まれた王子と呼んでもてはやしては甘やかしているらしいの。王子は何をしなくても朝には起こされ、四方から伸びて来た手によってパジャマを脱がされ用意された制服にそでを通されてね。」
「それが終わったら担架に乗せられて食卓のある部屋まで運ばれる?」
「ええ。そして手取り足取り月の砂を食べさせられたりと終始すべてを侍女たちの世話によって済まされて行き、時には彼が判断を下すべきことも彼女たちによってなされてしまう。」
「なんというかかわいそうな人と人達ね。ところで月の砂ってなに?」
「なんでしょうね。星の形に固めた甘いこんぺいとうみたいな栄養食かしら?想像するとすれば。もしくは彼女たちの愛情という意味で誰かによってそう言い表されただけかも。」
「王子は自分ですることがないみたいね。」
「羨ましい?何をする気を起こさなくてもことは進んでいくものよ。」
「自分のしたこととして?」
「ええ。」
「どうかしら。」
「王子は眠りにおいても彼女たち任せ。夜な夜な侍女たちは彼が眠りにつきやすいよう枕元でいろいろな話を語るもの。」
「例えばどんな?」
「そうね、王子はきっと旅の途中で挫折することになる。」
「挫折?」
「だけど国の関係者はそれでもいいと考えていた。」
「姫の宝石を抱えて旅する王子の話かしら。でもそれはどういうこと?」
「彼は旅の途中でいつしか希望を捨て、自分を捨てることになる。それが彼に与えられた罰。」
「罰?」
「姫は眠りの時が来ると王子との思い出を語り、それを胸に心穏やかな中で目を閉じようとしていたの。だけどそんな彼女に王子はこう声をかけてしまった。君を救う方法を知っている。自分は旅に出ると。それはある意味とても残酷で罪なことだと思わない?」
「そうかもね。」
「王子が宝石を持ち出したことはすぐにわかっていたの。それによって彼は位を失うことになるけど、宝石は国を出て位を失った彼が売り飛ばすなりして、生きていくための糧としていけばいいと関係者達は考えていたわ。」
「位を失った彼へのせめてもの餞別の意味で?」
「ええ。」
「でも彼らは王子の旅にはなから期待していないみたい。もうちょっと希望を持ってあげてもいいのに。」
「彼の旅は困難を極めるものになるのよ。奇跡の宝石は不思議な力を持っているけど、一方で恐ろしいものからしつこく付け狙われることにもなるから。彼らは王子の旅の無謀さを知っているので、後で絶望することのないよう初めからそのように考えることにしたの。」
「既に諦めているということね。」
「幾ばくかの歳月が経った頃、王国は姫の命を終わらせることを決めるわ。」
「彼女の命を終わらせてしまうの?」
「王国の関係者は彼が女性と一緒に旅をしているらしいという情報を仕入れていたのよ。」
「彼らはまたその元王子がその女性と一緒になって、どこかで細々と暮らしていけばそれでいいと捉えていたのかしらね。」
「そう。」
「でも姫がかわいそう。」
「王子の一言のせいでひたすら彼を待つ夢を見続け、諦めることができなくなったその苦痛を思えばいっそのこと死なせてやったほうがいい。国はそう考えたのね。仕方ないのよ。誰も悪くはないわ。彼は罪を背負い旅に出て、そして罰を受ける。王子の位を失うことは相当なことだもの。彼についてはそれでいいのよ。」
「なんだか悲しい結末ね。」
「でもこの話はまだ終わらない。姫はやっぱり命を保ったまま眠り続けることになったわ。」
「どういう理由でそう変わったの?」
「姫と王子にはそれぞれ姉がいてね。二人の進言によって、姫の命を終わらせることは取りやめになったわけ。」
「彼女たちは彼の旅を信じたのね。」
「でもそれによって姫は、王子が帰らない限り死ぬまで眠りの中を待ち続けることになってしまったわ。それもまた罪なことだと思わない?」
「そうでないとは言い切れないかもしれない。」
「そんな彼女たちに国は罰を与えることにしたの。」
「罰?」
「罰というよりはそうね、姫の苦しみと同じものを与えるの。自身の罪を身に染みて感じさせようとしたのね。」
「彼女たちが受けた罰、それはどのようなことだったのかしら?」
「さあ。それはわからない。でも彼女たちはその罰をすんなりと受け入れるでしょうね。自らも酷いことをしたと実感しているでしょうから。」
「あなたのそれってどこで聞いた話かしらね?」
「どこで?」
「話の内容をひどく詳しく覚えているというか、すらすらと言えてしまう様子はまるで今さっき聞いたかのようよ。あなたはその話を聞いてから、その王子の物語に出てくる彼や姫や彼女たち、さらには彼らを前に思い悩んだ城の関係者にまでも、その心情について何回も想い巡らしては胸を痛めたものなのかしら?」
「彼女が座っていたであろう席に置いてあったノートを見たのだとしたら、あなたはわたしをどう思うもの?そこになんの罪悪感もないようなら悪いことではない、なんてことは無いのでしょうね。むしろ平気で他人のノートを開くこの感覚を疑われ、あなたは疑うべきなのよ。」
「こういう場所ではあるのだしそれをまるでホテルとか旅館に時々置かれている、お客が書いて楽しむノートのようにあなたは感じてしまったのではないかしら?それか、いかにも見てほしいという感じで置かれていたのだわそれは。」
「きっと?」
「だからこそあなたはそのノートを開いてしまったの。好意的に見れば。また実際に書かれていたその内容は、やっぱり人に読んでもらうようなものだったのだから。」
「私はこれからもそういうノートがあったなら、開くことを躊躇してはいけないかしら?」
「それは知らない。でもあなたがそのノートを開かなければ、私たちはその悲しい王子や姫や彼女や彼らの話を知ることはできなかったのだもの。」
「そうね。」
「でも思ったのだけどその話をした人が王子本人だったならどうなのかしら?」
「どうって?」
「私たちがその話を知ることになったのは、当事者の誰かがその話を誰かにして、それが広まった結果そのノートに書き記され、最終的に私たちの目へ届くことになったからだけど、その話をした当事者が王子その人だったならどうなのかなって思ってね。その場合、彼はそういったことすべてを知りながら旅を続けた人ということになるわよね。本当に思い付きの、例えばの話になるけど。」
「そうね。もしくは王子と一緒に旅をしていた人がそうしたとしてもそう。王子がそれを知っていたということには変わりない。王子はそういったことをすべて知りながらそれでも旅を続けた罪な人になるわね。」
「私は例えそうであっても、その人を責める気にはなれないわ。一貫した気持ちを見せられてしまったのでは。」
「そう。」
「ええ、きっとそう。」
「バスが来る時間が迫ってきているものの、結局この場所にいるのはあなた達だけみたい。」
「私達だけだとなにか困ったことになる?」
「そうね、このままでは私はあなた達を連れてバスに乗らないといけないようだから。」
「私たちがいなければあなたは次に来たバスに乗ることができないといったことなのかしらね。」
「ええ。私は誰かしらを連れてバスに乗らないといけない。そういうことになっているみたいじゃない?」
「そういうことであれば私たちは行くしかないのでしょうね。どうやらあなたみたいなことを言う人についていくことが私たちに課せれた使命みたいだから。」
「行き先はあなた達の知らないところではないかも。」
「そう。」
彼と彼女とカップル達が囲むもの
「あなたは過去に自分のしたことで不可解なことはある?」
「どうかな。」
「あるにはあるものの、具体的に思い出せない感じ?」
「そう期待したいのかもしれないけどそれさえもよくわからない。だけどこれはわかる。君自身そういうことがあるからこそ僕にそう聞いて来たのだろう。いや、あるだけでなく君は僕にそれを話したいのかもしれない。」
「私はそう思ってる?」
「具体的でなくともいい。」
「それは、不可解なことじゃなく、実はなにかしらの理由があることなのかもしれないわよ?その何かしらとは私の意図したところという意味でもって。」
「それでもかまわないさ。」
「ある男女はね。その彼らは本来なら出会うことがないはずの人たちだったものだし、それが無ければお互いの名前も、顔も知ることが無いはずの人たちだったの。簡単に言えば運命でつながっていない人たち。他人通しですらないのよ。ほら、他人っていうのって、ある意味ですれ違った雑踏の中の一人だったり、目に見える範囲にいたことはあったものの、その関係性がないという意味で言うことがあるものでしょう?」
「言いたいことはなんとなくわかることもあるかもしれない。その誰かたちは決してすれ違うことが無かった人たちだったと。」
「そう。距離的にも大分遠くにいたようなの。」
「何かが無かったならそうであったとして、何があったのだろう?君の話によれば、その彼らに起こったことこそが君のしたことであり、一方でその君はと言えばその自分の行動の意図がわからないといったことだろうか?表面上のことを言えば。」
「それはある人から見れば手違いが起きたと見えるだけのもの。」
「君の手口は巧妙だったのかな?」
「そう。本人はまったく不可解だと思っているのにね。でもそれはそうであってもやっぱり自分のしたことではあるじゃない?記憶に残らないことということでもないんだから。」
「むしろ君にとってはそういう意味で印象深い出来事、いや起こした物事になるのだろうか。」
「そうなものだから心配もしてしまうの。その男女を、会うはずのない彼女と彼を引き会わせてしまったことで、なにか悲劇が起きてしまわないものかって。」
「責任を感じているんだね。」
「もしもそういうことが起きてしまったらきっとそうなるわ。そうしたくなくても。」
「具体的なことは何一つわからないが、君はそう考える必要はないと思う。君の期待する通り、僕の答えはそういうものになる。」
「それはどういう理由でもって?」
「たとえ君の心配するようなことになったとして、君には関係ないことさ。」
「二人が出会ったのは私のせいなのに?」
「確かに君によって出会った二人でも、出会ってからのことは彼女と彼の問題になる。」
「もし私が彼らの問題に関係を持ちたいと思っても、もはやできないこと?」
「君はまた、自身が彼らを引き合わせてしまったその要因について考えるのならそれは彼らに求めるものでもないだろうね。」
「そうしたのは私自身の葛藤によるものと考えるべきなのね。」
「そう。」
「ところであなたはなぜここにいるの?ここがあなたの居場所なのかしら?違うわよね。きっとそうでしょ?カップルばかりでバツが悪く、居心地が非常に悪い場所だもの。それとも一人になりたかったものかしら?誰にも話しかけてほしくないから一人になりたくてこういう場所にいるのよ。」
「そんなこと考えてないさ。」
「いいえ、あなたなんかのことは手に取るようにわかるのよ。」
「人生の経験年数が違うとも言いたいのかな。君と僕じゃ少ししか違わないはずさ。敬語を使う必要も僕は感じていない。」
「そう。ではあなたは何を宛にしてこのような場所来たのかしら?きっとあなたは目の前のものを目当てにやってきたのでしょうね。」
「それはそうかもしれない。」
「でもいいものよね、こういうのって。なんだかいけないことをしているような気分もあって、それを囲むカップルは自然といい雰囲気に浸ってしまうの。ただ火が燃えているだけなのにね。」
「一人で眺めるのもいいものさ。」
「知ってる?焚火って間接照明なのだって。」
「間接照明?それは種類で言えば、そういうものに分類されるということだろうか?」
「そうは思えない?まああなたが思わなくてもそうなのよ。その証拠にその炎を見ても対してまぶしくないし、なにより落ち着くものでしょう?日ざしの光よりもそれはずっと見やすく、空を見上げるよりもよっぽど目に優しいわ。それに焚火の火ってエネルギーを無駄に使っているでしょ?それは間接照明も同じ。直接照らせばいいのにわざわざあさっての方向へ向けて光を当て返して照らすんだから。」
「言い様によってはそう言えないこともない。」
「そう言えるのよ。焚火って本当に無駄なものよ。一人で起こすにしてもそれ相応の用がなされているかと言えばそうでもないし、大勢で囲めばどうって思うけどそれも違うの。だってただ燃やして鑑賞するだけになるでしょ?今がそうじゃないの。まったく、ただムードを作るためだけに使われるなんてね。せめて夜にやるべきよね。今はそれがとても遠いから仕方がないけど。」
「そうだね。」
「そうでしょ?まあ私はそうは思わないけどね。だって人が本当に価値を感じるものっていうのはそういうムードを作るとかそういうことだと思うもの。そうは思わない?」
「どうだろう?」
「そんな中であなただけはそれを見る目的が違うのよ。目が違うもの。」
「僕はどういう目をしていた?」
「道具を見るようなもの。」
「道具?」
「何の道具かと言えばわかるんじゃないかしら、あなたなら。それは食べ物を焼いたり水を熱湯に変えるためのものでもなく、調理に使うものでもない。では火といえば他にそれはどんな道具になりえるかしらね。夜を照らすもの?」
「そうだね。」
「それはそうだけど、今は明るい昼間でしょ?もしかしたらまだ昼間にもなっていないかもしれない。」
「じゃあ僕はそれをなにに使おうとしているのだろう?」
「それはもっとも冷たい使い方。あなたはこれらのカップル達の雰囲気をぶち壊しにしようとしているのだわ。
バケツの水を火に投げ込んで消してしまうよりもずっと酷いこと。」
「僕はなにを考えている?」
「あなたは身を投げようとしているのでしょうね。」
「なるほど。」
「みんながみんなお互いの顔を見つめあっている今なら、もしかして気づかれもしないかもしれない。」
「太い薪がいくつも積み重ねられた立派なものだからね。」
「すべてが燃え終わった後のけだるい感じの中行われる撤収作業の途中で、やっとあなたは気づいてもらえるの。いいえ、誰も気づかないほどに燃え尽きてしまうことだってもしかしたらあるかもしれない。よほどよく燃えることができたならね。」
「そうなることを願うよ。」
「待っていてもなにも始まらないわ。そんなことを言っていないであなたから行動を起こさないと。大丈夫、死ぬことは当然の権利よ。引き留める人たちがいたならきっとその人たちはあなたを苦しめたいのね。一緒の苦しみを味わってあげる必要はないわ。」
「そうかな。」
「そういえばあなたって、どういう理由で死ぬのだっけ?別に生きる目的が無いということでもいいのだけど。」
「それでもいいのかな。」
「生きる理由がないことは十分死ぬ理由になるわ。それは人によるもの、基準なんてないの。そうでしょう?」
「どうだろう。」
「それともあなたには何か他に理由があるものかしらね。ねえ、もしも私がそれについてなにか知っていたとしたらどう?いいえ、それはあなたが思い出すべきことね。なぜこんなことを考え付いたものかしらね?なにか悩み事でもあった?でもそれは聞かないわ。プライベートなことだもの。例えこれから死のうとしている人でも見知らぬ女性に弱みは見せたくはないものよね。せめてこの最後の会話だけでもいいものにしなくちゃ。でも私は気を付けないといけないかしら。変に期待を持たせてまた再び社会に帰っていくことにならせては、今のあなたの決心を無駄にしてしまいそう。」
「君は僕にどうなって欲しいのだろう?」
「そんなの知らないわ。あなたになんか興味ないもの。それにそれを言ってしまえば私はあなたに何かしらの責任を持たざるを得なくなってしまいそう。いいえ、持つ必要は無いのでしょうけど、私の気持ちの持ちようがそうなってしまうということ。」
「そうだね。」
「でもなぜここなのかしら。あれって結構なもの、感じる苦痛はひどいものよ。失敗なんてして病院のベッドにあおむけにされたら大変。苦しくて目も当てられない。一気に燃え切らないといけないわね。」
「そうだね、なぜ僕はこれを選んだのだろう。」
「選んだのではないんじゃない?」
「というと?」
「これは選んだことではなくて仕方なくこの方法になったものなの。あなたは選んでいるのよ。何か別の方法を。」
「例えば?」
「知らないし、それがどうだったかは知ったことではないけど、あなたはそこであなたの目的を達することもできず、躊躇してそして結局なすべきことを果たせないまま場所を、その方法を変えることにして、それでここにいるのよ。」
「それは逃げたということなのかな?」
「人によってはそう取るかもしれないし、あなたが自分に厳しいのならそう自覚することもあるかもね。その気持ちも私はわからないではないけど、でも実際的にまた私から見ればそうでもないの。あなたはまだそれをやめようとはしていないのだもの。この場所にいるのがその証拠でしょ?」
「むしろ僕はそれを成し遂げようとしているからこそそうしたものだと。」
「積極性を失っていないばかりか、あなたは強固にそれを果たそうとしている。試行錯誤っていうやつね。あなたはだから自信を失わないでいいし、そのまま続けるべきね。もしくは、あなたはよりよい死を得るために場所と方法を変更してきたのかもしれない。」
「自分でそう思っていないのに?」
「そう、意識しない心のどこかで前の死に方じゃ生ぬるいとさえ思ったのかも。」
「こんな死に方を選ぶなんて僕はいったい自分をどう思っているのだろうね。よほどのことをした罪人だとでも思っているのかな。」
「可能性はなくはないけど、そうとは限らないと思うわ。」
「そう。やっぱり僕は別の場所に行くことにするよ。悪いけど。」
「いいえ、全然悪くないわ。あなたがそうするのにはなにかしらの理由、そうしてやまない動機がそこにあると私はあなたをそう信頼していいと思っているもの。」
布の城(一)夜、音を返して寄越すもの
「世界には、いろんな種類の人がいるわ。一か所でずっと暮らす人もいれば、いろいろな場所を回る人もいる。それのどちらが幸せなのかはわからないけど、私たちは前者にあたるような人であなた達は比較的後者の人。でも人にしてやれる話ならあなた達の方がきっと多くを持っているのでしょうね。そして目にするものの数もまたそうなのだわ。」
「羨ましい?」
「それが恵まれていることと羨ましがる意味でそう言っているのではないの。」
「あらそう。」
「ねえ、そんなあなた達は触れてはいけない塔っていうのは見たことがあるかしら?」
「触れてはいけない塔?存在すら知らないわね。それは触れるといろんな意味で危ないとか?宗教的な観点で。」
「そうね。でもあなたの思っているようなことじゃないの。それは触れると崩れてしまう可能性があるからなのだって。その中はとても狂暴な植物に食い荒らされていてね、塔はとても美しい銀色をしているものだけど、その壁一枚向こうはもう茎や蔓でパンパンなのよ。大きな腕を伸ばしたようなその形そのままにね。」
「少しでも衝撃を与えたら破裂してしまう感じ?」
「ええ。塔はその植物を閉じ込めて抑え込んでいるのだって。」
「そうなの。でもそんななら内側からけ破られるのも時間の問題って感じね。」
「塔は決して内部から破壊されることはないわ。植物はどんなに強い力で壁を押し出そうとも形を変えることすらできない。」
「内側からの圧力には極端に強いということ?」
「一説によるとその塔は宇宙船をそっくり裏返したものらしいわ。それっていうのはいつの時代に作られるものだってきっと外からの力に対してはすさまじい耐久性を持たされるものなの。」
「そういう理由で内側からの力にはめっぽう強いものの、その代わり外からの刺激には極端に弱いといった感じだと。」
「ええ。塔は砂漠から突き出ているものだから、それを見た人は植物が地中を回り込んで這い出てこないものか恐れるものだけど、その心配もいらないのよ。」
「地中に埋まった部分を含めて塔は植物をすっぽり包み込んでいるっていうのでしょうね。」
「ええ。」
「でもこう話していて大丈夫?もう眠くてしょうがなかったりしない?」
「大丈夫よ。私達こそあなたの眠りの入りを、もしくは眠る前の大事な妄想の時間を邪魔していないか心配だわ。」
「夜はまだ始まったばかりだもの。でもこうしてあなたと話すことがなければ、確かに私はあることに思いを巡らしていたものよ。ある女性について。」
「ある女性?」
「それが夢を起因としたものなのか、それともそういう話をどこかで聞いたのか。私ははっきりと思い出せないの。それはある女性の一生と言っていいのかもしれないようなこと。その人は人生の早いうちからある男性と出会って、そのままずっと一緒の人生を送るの。それが幸せなことかどうかはその人にしかわからないけど、そんな彼女の頭の中にはある男の人があってね。」
「ある男?」
「彼女の生涯に関わる彼とは別の人。彼女はその誰かのことを忘れることなく、ふとした時にその人のことを思うの。」
「彼がいるにも関わらず?」
「隣にいる彼は彼女に苦痛を与えず、また退屈や無駄と思ってしまうような時間や虚無感を与える人ではないわ。彼女が添い遂げる限り、彼女自身が素晴らしいと感じる日々を送ることになるような、そんな彼。」
「それにも関わらず彼女は別の人のことを思ってしまうということね。なんだか悲しいわ。」
「でもね、彼女はその人のことが頭にあるからこそ相手の彼との人生はうまくいくものなの。」
「なんでだか不思議にも聞こえるけど、私はそれについてはなんとなくわかるわ。それは罪悪感からでしょうね。」
「罪悪感?」
「浮気をする夫婦っていうのは、うまくいくって聞いたことが無い?」
「ええ、聞いたことが無いわ。」
「そうよね、私も聞いたことが無い。だけどそれは誰もが意識することであり、誰もが認める事実でもあるのよ。夫婦である人、夫婦のどちらかを経験した人ならきっとそう。」
「どうしてうまくいくの?」
「理由はもうすでに言ったでしょう?」
「罪悪感があるから?」
「相手に対するそう言った感情があるからこそその人はパートナーとの生活における不条理や心外と取れることを目の前にしても頭に来るなんてことが無くなるの。まず自分が致命的な罪を犯してしまっているのだからね。むしろそうなものだからそれらの不条理や相手の起こす理不尽は、罪を犯している自分につかわされた罰か、それとも自分の罪の意識を軽減してくれる喜ぶべき出来事とも受け取るようになってしまうかもしれないわ。いいえ、きっとそうね。」
「でもそう言ったところで彼女が感じているのはそう言ったものではないの。あなたの言う罪悪感ではないのよ。」
「違うの?」
「その人の存在を知ったところでそれが誰かを知れば、彼は嫉妬することも無いの。むしろうれしいものかもしれない。」
「それは同姓ということ?」
「同性であってもそう思う人もあるでしょう?嫉妬が必要な関係もあるわ。でもその人に彼はそう感じることは無い。それははっきりしている。」
「じゃあそれはどういうこと?よくわからないわ。」
「私もよくわからないのよね。でもきっとわかることができると私はそう感じてもいる。彼女のその後を見ていけばきっと。」
「なによそれ。」
「そういう話、やっぱりこれは夢で見たことなのかもね。」
「そう。夢なら仕方ないわね。」
「でもなんて居心地がいいのかしら。外周側からの涼しい空気と内側からの暖かい空気が交互に流れてくるような気がする。」
「まるで波のようでしょ?」
「ええ、とっても心地がいい。このカーテンに仕切られた長方形の空間全体でもって眠るのに快適な環境が出来上がっている感じ。」
「でも人によってそう思う環境は違うから、部屋によって微妙に温度や雰囲気は変えてあって、私たちはそれぞれ好きな部屋に入って眠ることになるのよ。」
「そういう部屋はどのくらいあるの?」
「私たちの両の手を合わせても数え切れないくらい。」
「ここにいる彼女たちは皆この部屋が一番眠りやすいと思っている人たちなのね。」
「そう。」
「それにしても、今は眠るべき時間帯ではあるでしょう?みんなして眠るための部屋に集まってこうして横になっているのだし。」
「そうね。」
「そろそろ会話を終えて眼を瞑るべきなのよね。」
「それなら大丈夫よ。一応は囁き声で話しているのだし、他の人の眠りの入りを妨げることも無いわ。きっと声は届いていないもの。」
「そうかしら?室内は雨とか空調の雑音があるわけでもなく、しんと静まり返っているわ。」
「そう思えるのは、彼女たちの話す声や出す音もまたこちらには届いていないから。疑いたくなるのはわかるけど、ここにおいてはそういうものなの。壁はなく布が張られているだけだし天井も闇に沈んでしまうほど遠くにある様子。床は床でさらさらの砂に覆われているのですもの。どれもが柔らかく、音を返してよこすものがまるで無いのよ。音っていうのは固いものが振動して発したり、はね返して寄越したりするものでしょ?」
「この空間においてはそういうものが何一つないということなのね。私たちの身に着けているものだって今はふわふわの寝間着しかないものだし。」
「ええ、みんな寝そべっているから直接の声や音なんて届かず、それを返してよこすものもないからやっぱり音は届かないの。でも厳密に言えばあるにはあるわね。音を返しうるものが。」
「なにかしら?」
「あなたや私が持っているもの。こういえばすぐに答えがわかるものだと思うわ。」
「そういうクイズって苦手なのよね。」
「クイズではないわ。私たちの爪がそうではない?」
「ああ確かに。あと口を開けている人がいるものなら、歯がそうね。」
「だからもしも音が聞こえてくることがあったならそれは、誰かしらの爪やもしくは歯から返された音ということになるのかもよ。」
「そうかもね。」
「あなた達は仕事でここに来たものと聞いているけど、こんないい環境に出会えるなんて思ってなかったのではないかしら?」
「そうね、こんなゆっくり眠ることができるなんて期待していなかったわ。」
「今日初めてここに来たあなた達は、いったいこの中でどんなふうに一日を過ごして来たものかしら?」
「大したことはしていないわね。」
布の城(二)ぶら下がる月と昼の猛獣
「城の中はどんな雰囲気だった?あなたから見て。」
「活気があったわね。」
「意外と?」
「確かに意外ではあったわ。あなた達の姿やカーテンに透けたその陰がなにやら常にせわしなく動き回っている様子なのよね。みな一様にセンスのいい形をした白い制服を着こなしながらなにかしらの荷物を抱えて右往左往しているのでは、思わずこちらも急ぎ足になったり無意味に手を動かさざるを得なかったものよ。」
「落ち着けない感じね。」
「その制服は白地にちょっとばかりの黒がアクセントとしてあるだけでそのほとんどがやっぱり白なんだけど、不思議と違う色、例えば深い黒を想起させるものなの。」
「黒?なぜかしらね?」
「まあ、こんなことはどうでもいいのよ。それでそのうちの一人に声をかけられたのよね。」
「あなたから声をかけたのではなくて?」
「そうだったかしら?でも私は一言目に言ったものよ。斬新ねって。」
「呆然と立ちすくんでいるのをちらっと見られた気がして、バツが悪くて思わずそう言わざるを得なかった感じ?」
「さあね。」
「でもなにが?その制服の形が?」
「いいえ。構造的に変わっている城だということは事前に聞いていたのよ。」
「壁がなく、その代わりにカーテンがかけられているということね。」
「ええ、カーテンが白く透けるようなものであることや、円の形に添って縦横にそれらが張り巡らされている様子はイメージ通りだったものだけど、床の砂にはちょっと驚いてしまったわ。」
「砂ね。」
「城の床はそれにふさわしい大理石といったものでなく、カーペットでもタイルでもない。それはただ砂浜のように細かい粒子の粒があるだけ。この中を歩くのは大変そう。そんな中で荷物を持ち運びして彼女達は気の毒よ。なにを運ぶものがあるのかしら。あんなに大勢でもって。」
「そうね。でも季節が変わってちょっと肌寒くなってきたものだから。私たちは移動を控えているの。」
「移動?」
「例年よりも少しばかり遅れていてね。城内での活動範囲をここよりもカーテン数十枚程度内側に移す計画を立てているわけ。」
「活動範囲って?」
「テーブルとかキッチンとか什器とか城の運営に必要なものが置いてあってその活動を行うその範囲のことよ。この城の空気は外側に行くほど涼しく寒く、内側に行くほど暖かく暑くなるものだから。」
「移動というのは、それらを運搬して場所を移す作業のことを言っているのね。」
「やり方や段取りなりは前回と同じでいいと思うものだけど、その時大きなトラブルがあったらしくてね。しかもそれがなにか記録に無いもので、今ごろになって関係者に思い出させたり聞き出したりしているみたい。きっとその時は忙しさと疲れで、終わったら終わったままにしたのでしょうね。移動作業が完了してしまえばそれはもう終わったこととして、反省もすることなくすぐさま忘れ去られてしまう。私達には日々の仕事もあるんだから。」
「ありがちなことだわ。」
「それでその人からあなた達は物を受け取ると、別の部屋へ移動したのかしら。」
「誰かしらの先導でもってね。彼女たちはその誰もが私たちのおぼつかない足取りに合わせてゆっくりエスコートしてくれたわ。若者に気遣われるかわいそうな老人になった感覚を覚えたものではあるけど。」
「あなた達を見失うようなことがあったら他の人から責められてしまうもの。それでその先であなたはどんな華やかなる光景を目にしていったのかしらね。」
「移動した先では大きな机に向かってなにやら地味に工作をしている侍女の一人がいたわ。」
「なにかを作っていた?」
「貝かしら?なにやらを一生懸命削っているわ。何の仕事なのかしら?」
「仕事ではないかもね。空いた時間にする自分のプライベートで趣味的なこと。何の形に見える?」
「きっとそれは私たちが見慣れたものなのでしょうね。」
「そう。これはこういう形をしているわけではないものの、こう見えるもの。身に着ける分にはちょうどいい大きさをしているでしょ?」
「でも自分でつけるにしては数があり過ぎるように見えるわね。」
「この月の形のイヤリングは、数名の同僚たちからぜひ自分の分も作ってほしいと言われていてね。その分よ。」
「月の形ね。下手なハートのマークだったりしない分センスはいいかも。それにしてもなんだか偉くリアルな造形をしているわ。器用なのねあなた。」
「私の唯一のとりえだと自覚しているわ。でも月というのは便利よ。葉っぱや虫といったものと比べて、どんなに精巧に作ったって平気なのだから。」
「平気って?どういう意味?」
「遠く空の上にあるものだとみんながみんな知っているものなら、どんなにリアルに作ったところでそれそのものだと間違えられることはないから。言いたいことはなんとなくわかってくれるかしら?」
「葉っぱや虫では、それらを模したところでイヤリングには使えないものね。耳の下に虫が垂れていたら気持ち悪い。」
「虫とか葉っぱとかそういったものを作るなら、いかにも紙でできていることがわかるようにしたり、ガラス細工のようないわゆる別物として作らないといけない。」
「偽物とならない程度にとどめておくということかしら?」
「そう。偽物は作るべきではなく、本物とどこかしら決定的に違うことでそれは別のものであるべきなの。一つの用はそれのみにしか果たすことはできず、その代わりはできないのだから。」
「月の形を選んだのはそういう意味もあるのね。精巧に作ったところで大きさが決定的に違うんじゃ偽物にもなりやしない。」
「いいえ、月にしているのは別の理由があるの。そもそもこの形だからこそ作る意味、身に着ける意味があるというものね。私たちにとっては。」
「それは誰かの、例えば王子の好みということ?」
「いいえ。そうなら今付けたところで意味は無いもの。これを付けるのはある願いをもってのこと。」
「願い?」
「切に願うようなことではないわ。それというよりはおまじないみたいなもの。月のものは時間の干渉を受けないと言われているのよね。そういうのって聞いたことない?」
「ないわ。あなた達はそれを身に着けることによって、年を取らないような効果を得られることを薄く期待している、そういう感じ?」
「ええ、そういう感じ。ところであなた達は誰かを待っているもの?それはもしかして私ということかしら?私はあなた達になにかを手渡さなければならないもの?」
「いいえ、この部屋で受け取るべきものはあなたの作業を見ている内にでも既に受け取っているわ。今は待っている時間。もうすぐあなたとは違う別の誰かがここに来て、私たちを次の場所へ案内しに来てくれることになっているのよ。でも、いちいち移動するたび彼女たちに案内をしてもらうのはなんだか悪い気がするわ。」
「案内の申し出なんて断って自分達だけでウロウロしてしまえるならそうしたい?洋服屋の店員に紹介されるのじゃなく、自分で好き勝手に見て回りたいような気分でもって。」
「そうかもしれないわ。」
「でもだめなのよ。あなた達だけで移動するのは。」
「許されないことだから?」
「大変なことになるかもしれないから。」
「大変なこと?」
「あなた達にとってね。想像に任せはするけど、私たちは別に道案内をするためにあなた達の前を歩いているわけじゃないのかもしれないわ。」
「私たちが知らないうちにあなた達は、いいえ、あなたの同僚にあたる彼女たちは私たちを危険なものから守ってくれていたということかもしれないのね。でもここはお城の中よ。私の記憶によればそれは他よりもずっと安全でなければならない場所になる。」
「守られるべき人が置かれる、そういう場所でもあるものね。」
「その中において私たちが守られるべきものなんてあるかしら?」
「あなた達が知らないだけで意外と城の中っていうのはそういうものかもしれないわよ。どこにおいても。」
「それは世間とはかけ離れた場所ではあるものね。私たちのような愚かな一般人では考えも及ばない事情なり情景がそこにあってもおかしくはないのだわ。」
「そう。あなた達はとにかく知らないのだもの。想像する分、警戒する分には思いを巡らして損はないの。例えば猛獣がいるとか。」
「猛獣?」
「それはとても残忍でね、もしも襲われることがあったなら意識をずっと残したままその身体をどうにかされることになるのよ。」
「そういう恐ろしいものがいるということ?ここに。」
「それの本当に恐いところはね、狙われたならまず自分で死ねないようにされてしまうのよ。」
「自分で死ねない?」
「そうしたいと思ってもそうできなくされるということ。想像しにくいならまず自分で死ぬその方法を思い浮かべればいいと思うわ。」
「それであなたは想像したの?」
「ええ。そうせざるを得なかったわね。もちろんそんなつもりはなかったのよ。想像したところで私たちは彼女たちなしに勝手に城内を移動する気なんて無かったのだもの。そうする必要がないでしょう?」
「そうね。あなた達がそのつもりなら。でもそのような言い方をするってことは、そのつもりであったにも関わらず、あなた達は思わずそれを想像してしまうような状況になってしまったということかしら?」
「いつの間にかね。なにかの手違いか、行き違いがあったみたい。侍女の誰が悪いわけじゃないの。もちろん私たちもね。それはたまたまの偶然が重なったことによって私たちは侍女とはぐれ、見知らぬ場所、この布の城においては廊下や通路など存在しないものだからそれはなにかしらの部屋にはなるのだけど、そこに二人きりで取り残されることになったのよ。」
「それから?あなた達はそうしていたってしょうがないから自分達だけで移動を始めたもの?そうではないわね。きっと恐くてそんな勇気はないわよ、あなた達には。そうでしょう?」
「ええ。」
「じゃあどうしたかしら?カーテンで区切られたその部屋から勝手に移動できないとはいえ、やっぱりそのままそうしていたところで状況が改善されるわけじゃない。薄く透けて見える周囲の景色の中には誰の姿も陰もない。もうずっと。」
「ええ。時計も持っておらず、いったい私たちはどの程度そこにそうしていたものかまるで分らなかったものだわ。」
「大声で誰かを呼ぶことはなかったの?壁で囲まれているわけじゃないのだもの。そうすれば誰かには届いたかもしれない。その声が私たちにではなく恐ろしい獣に届いてしまったならそれこそ嫌?」
「そうでしょうね。」
「じゃあ、あなた達はもうずっとそこで過ごすしかないもの?一生をそんな感じで。」
「遠くの方に陰が見えたわ。」
「どちらのかしら。」
「ドキドキしてきた?それは隠れるようにして突っ伏しているこちらの姿にも既に気づいている様子でね。徐々に徐々に近づいてくるの。身を潜めて警戒しながら。」
「まあ。いよいよ危ないわね。」
「ワクワクするのは勝手だけど、そうだったなら私たちはここにいないでしょ?こちらがむこうを判別できないうちから声をかけられたわ。柔らかな女性の声で。」
「そう。それでなんて?」
「こんな遅い時間、あなた達も眠らないと、って言う感じだったかしら?」
「遅い時間ね。」
「そう、遅い時間だったのよ。それは私達にもなんとなくわかっていたわ。二人きりで待つ時間があまりにも長いものだったから。もしかすると夜をとうに過ぎて、次の日の昼に差し掛かろうとしているのではと思ったくらい。」
「そんなには経ってないわ。今はまだだいぶ遅い時間。外も城内も照明は落とされてどこも真っ暗よ。疲れてもいるのでしょうね、寝床まで一緒に行きましょうか。」
「寝床までね。とすると彼女が今日最後に会った侍女ということになるのかしら。」
「そうなるわ、目の前の人がそうじゃないの。」
「ああ、それが私なのね。」
「そう、これは今私の目の前の人が言ったこと。」
「ずいぶんと親切じゃない。」
「そうね。今日こうして快適な眠りの前のひと時を過ごせているのは彼女のおかげ。」
「だけど私の思っていたよりも少ないのね。」
「なにが?私たちの一日に起きた出来事が?」
「ええ。」
「私達にはあなたにも言っていないことがまだまだあるかもしれないわよ。人に言えないような失敗や言わない方が後々のため、もしくは話したところであなたがその反応に困ってしまいそうなことなら、私は口にしないかもしれないじゃない?」
「そうね。」
「耳にしたことだけをもってあなたは私達をわかった気にはなれないということ。」
「ええ。その通りだわ。」
布の城(三)夜道を行く女性と三人の魔女
「ちょっと手を握っていい?」
「手?」
「人の手を握って眠ることが私は好きなの。」
「寂しがり屋なのかしら?大丈夫よ。私はどこにもいかないわ。特に何の用も無いのなら。」
「違うの。どちらかが先に眠ったあとどうなるのか。それを考えるのが私は好きなのよ。手を握る相手が先に眠ったなら、そのあと私はその人のどんな眠っている表情を見られるものだろうとか、握っている手を、意識のないその身体の先にある手を眺めたときことを想像するの。」
「逆にあなたが先に眠ったとしたら、そのあと相手の私はその手をどうするでしょうね。手を放すかもしれないわ。実は手を握るのが煩わしかったと考えたり、もしくはトイレに行きたくなったとなったときのことを考えるなり思いを巡らしてそうするとか。でも、そう私が考える様子を想像するのもまたあなたは楽しいのかしら?」
「そうかもしれないわ。」
「でもベッドはあるのにみんな砂の上に寝てるのね。彼女たちはみな思い思いにその砂の形を変えて圧迫感が気持ちいいような窪みを作ってすっぽりと身体を収めたり、壁とはいかないながらも目隠しになるような小さな山を横になった自分の顔の前に作ったりしている様子。」
「床に寝るのはそれが気持ちよいからでしょうね。」
「あなたも私達もまた?」
「砂はいいものよ。ウォーターベッドよりもずっとね。それは程よく柔らかくしっかりと固くあってくれ、とりとめのない液体よりもずっとしっくりくるの。だからといって扱いやすいかと言ったらそういうものではないわ。寝る時においてはそうだというだけ。」
「そう。でも大丈夫?あなたの眠りを妨げることにはなっていないものかしら?私たちの存在が。」
「いいのよ。最近ある女性のことが気になっていてね、その人が最終的にどうなるものか、私は毎晩考えて眠りにつけないものだから。」
「ある女性が気になって眠れない?あなた達ってみんな心配性なのかしら?」
「あなた達?まあそうかもね。でもいつもいつの間にか眠ってしまっているものだからそうでもないのかも。その人はある寂しく細い森の道の真ん中で怖い三人の魔女に取り囲まれているのよね。」
「魔女?」
「一本道の先を目指す女性を見かけた魔女たちは、彼女に話しかけて引き留める。」
「何のために?」
「いずれわかるわ。でも彼女は気を付けないといけない。そのやりとり次第で生きて帰れるかどうかが決まるから。魔女たちの目はつり上がっていてね。いいえ、顔の人相がもうそういうもの。全体的にとげとげしくて目の前の彼女が隙を見せようものなら今にも飛びかかるんじゃないかっていう雰囲気を隠さない。」
「それらはなんて話しかけてくるの?」
「その先に行っても仕方がない。」
「どうして?」
「行ったところであなたの求めるようなものはもうなくなっているに決まっているわ。」
「ええ。そうする必要があると決断した時はもう遅いの。」
「そうよね。それは導かれないといけないこと。」
「あなたは運命を感じてここに来たもの?」
「まあ違うでしょうね。」
「そう。そういったものはあなたには感じない。そういったオーラのようなものをあなたからはまるでね。」
「あなたは絶望することになるわ。それにあなたが求めるものが誰かなら、その人はあなたが来ることをどう思っているかしら?」
「この先にいるその誰かと同じように、あなたもどうにかなってしまったら一番悲しむことになるのは誰?」
「あなたではないからね?あなたは悲しむ人じゃないの。あなたはあなたの意思でそうなるならなるのだもの。」
「そう。悲しむのはあなたがよく知っている人たち。あなたを失うのが嫌な人達ね。でもその中でも一番悲しみ、それだけでなく苦痛を感じてしまう人がいる。」
「ええ。それは誰だと思う?」
「その人はその苦悩を受け入れる準備はできていないし、そんなものが目の前に現れることもまるで予想できてはいなかったものよ。」
「そうよね。考えたらすぐにわかること。」
「その人はそれを知っていたものならきっとこの先に行くことはなかったのでしょうから。」
「ええ。あなたはその人に耐えがたい苦痛を与えようとしているの。」
「あなたにそういう意識はなかったもの?」
「ええ。無かったでしょうね。」
「そうよ。その人にとってあなたは悪魔と同じになるの。」
「あなたはその人に罪を与えようとしているのだから。」
「そうよ。それは誰のためにもならないわ。」
「わかってる?もう一度言うけど、もしそういう人がいたのなら、その人はその罪を背負うことになるなんて全く知らないものよ。」
「あなたはあなた自身に関してはどうなろうと別に構わないものと思っていたりするでしょう?」
「そうね。人ってそういうものよ。」
「でも自分のせいで他人が苦しむことに耐えることはできないと思わない?」
「ええ。その人は耐えることのできない苦痛をあなたに与えられることになるの。」
「でも別にいいものよね。あなたにすればそんなの知らんぷりしてしまえばいいことだもの。」
「そうね。そうすればすぐにでも忘れてしまうのでしょうね。」
「ええ。あなたはそういう人なの。」
「ね?自分のことがだんだんわかってきたのじゃないかしら。」
「ええ。こういう機会を得られることは幸せなことだわ。」
「そうよ。これは幸運なこと。」
「それをあなたに気づかせてあげたのはわたしたちだけど、私たちは私たちのおかげなんて言わないわ。」
「ええ。これはその人がもたらしてくれたものよね。」
「あなたは引き返したくなってきたのではない?」
「そうね、引き返すべきだと思っているに違いないわ。」
「ええ。でも引き返したところであなたは今後どのように生きていくことになるかしら?」
「その人を助けられなかったと罪悪感を持つ必要はないの。」
「そうね。あなたは最低な行為を避けることができたのだから。」
「ええ。でもそんなあなたに残ったものはなにも無い。」
「全てをかけてここに来たのですからね。」
「そうよ、あなたはからっぽ。」
「でも恥ずべきことでないことは私たちがちゃんと知っているわ。」
「ええ、でも実際がしてそうなの。」
「そうね。そもそもあなたはそういう人だわ。そうだから、あんなことをしでかそうとしてしまったもの。」
「ええ。間違いを起こしかけた人。」
「一人だったらそうしてしまった人。」
「そうね。あなたに戻る場所はあるものかしら?」
「ええ。きっとないでしょうね。」
「あなたは命を落とすつもりをもって覚悟してこの先に進もうとしていたものなら。もしくは、周囲の皆にその人を無事連れ帰るなどと話していたものなら、どちらにしろ帰ることは困難よ。」
「ええ。だって途中で引き返してきた人だもの。」
「誰かさん達に説得されてね。」
「あなたは引き返してきた理由を理解してもらうために、まず自分の行おうとしていたことの愚かさを私たちのしたのと同じように、彼らにも説明しないといけない。」
「ええ。その途中であなたは目の前の人たちの中で愚かなる人となっていき、だんだんとそういう目で見られていくことになるの。」
「そうね。絶対そう。」
「自分を見るその目がみるみる変わって行く様子を目にするのはさぞつらいでしょうね。」
「そんなことになるくらいならあなたは救出の途中で命を失くしたとなった方がいいと考えるでしょうね。」
「そうよね。あなたはどちらにしろ生きる選択はできないの。」
「そうなら私たちの役に立ってみないかしら?」
「そうね、あなたは役に立つことが出来るわ。」
「ええ。私たちの大切な鍋で他の食材と一緒にじっくり煮られてみるのも悪くないものよ。」
「大丈夫よ。とても大きい鍋だから、あなたは首や手足を包丁で切り落とされることの無いまま、すっぽり入れてもらうことが出来る。」
「もしあなたが私たちにいい印象を持っていなくても気にすることは無いわ。」
「ええ。私達に食べられ、その血肉となる訳ではないのだから。その鍋は私たちの食事ではないの。」
「そうね。それはある病気の人に与える薬。」
「その人の病気はもう本当にどうしようもないものよ。説明ができないくらい。」
「ええ。だから私たちの薬でその身体を植物に変えてあげるわけ。」
「そうね。彼にとってはそれがいい。」
「鍋の半分を飲んだくらいで彼の身体はたちまち弦の束になって、光を受けた分だけ勢いよく成長を始めるわ。」
「ええ。世界に存在するそれらのどれよりも早く、」
「そうね、見た目は暴れるホースのよう。」
「ええ。それは初めのうちは恐れられ、封印を試みられてしまうこともあるかもしれないけど、本当のところは違うのよ。」
「世界を救うとは言わないわ。」
「そうね。それは小さくまとまって、そしてとてもきれいな花を咲かせ得るつぼみを付けるの。」
「ええ。それは決して咲かないつぼみ。」
「期待の象徴。それは世界に期待が残る証拠である大変貴重な存在になる。」
「そうね。それがある限り、この世界から希望が消えることは無い。」
「ええ。決して花を咲かせない不毛な大地の片隅で小さなつぼみとしてそこにあり続ける。」
「その人がそうなるには、鍋に入ってもらうのはあなたみたいな人でなければだめなものよ。」
「そうね。希望と不安と強い罪を持ったあなたみたいな人でなければね。」
「大丈夫。私たちにとって、世界にとってもはやあなたは大切な存在。」
「ええ。そんな人に苦痛を与えることなんかできないでしょ?」
「そうね、あなたには鍋に入ってもらう前に幻覚を見る煙を吸ってもらうことになるわ。」
「あなたは自分が自分じゃなくなって、痛みも熱さもまるで感じなくなるの。」
「ええ。だからあなたにおける死というのはその煙を吸った瞬間になるのだわ。」
「どう?」
「嫌よそんなの。」
「そうよね。」
「でもこの話は物語として成り立つことは無いの。面白みも無い話よ。」
「どうして?」
「だってその会話に意味なんて無いのだもの。」
「意味が無い?」
「その会話の内容なんて本当の所どうでもよく、それがどういう方向に進んで行こうが両者にとって何が変わる訳でもないの。だって魔女たちは初めから彼女に何をするつもりもなく、なにをしようと考えてもいないものだし、目の前の女性もまたどう怖い言葉をかけられ脅されたところで、先に進むことに決めこんでいるのだから。」
「彼女たちは暇つぶしにそんな話をしたものかしら?」
「もしくは道の先に行くその女性のことが羨ましく、嫉妬していたのかもしれないわ。彼女たちはその先へ行くことが出来ないでいたものだから。そうだとすれば愚かしい行為なのだけどしょうがないわよね。」
「これって有名な話?」
「この頃考えついた話だもの。ある光景を見たことから思いついたの。彼女はそう言っていたわ。」
「彼女?」
「あなたからしたら知らない侍女の一人、その人が考えただけの話よ。」
「そう。」
「私ができる話はここまでよ。今度はあなた達の話が聞きたいわ。」
「私たちのこと?」
「あなた達がどんな人生を送ってきたとか、各地を回る生活を続けてきたものならどんな景色や人に出会ったとか。そういうことは別に興味が無いの、私はね。私が今興味あるのは、あなた達が今日どんな日々を過ごしてきたかっていうことよ。こういう人って珍しい?」
「ええ。ちょっとばかり。」
「私は目の前の人がどういうことをしてきたのかを聞いてその情景を頭の中で辿り、それが今のあなた達にそのまま続いてくるその感覚を味わいたいの。話の中の人がいつの間にか目の前にいる、というような。」
「大した出来事は無くても?」
「そうね。かまわないわ。今日の今日のことなら思い出すのに時間もかからないでしょう?私たちの夜はまだ始まったばかりとは言え、いつお互いが眠りについてしまうかわからないわ。せっかくこういう人と眠る機会だもの、私は私の聞きたいことを聞きたいの。」
「そうね。今日もたくさんの侍女たちに会ってお世話になったものだけど、なぜか覚えているのはその中の一人だけなのよ。もしくは、たくさんの侍女達が私の頭の中、特に記憶をつかさどるどこかにおいては、さも一人の人格のように見えること。そのように今は覚えているの。」
「その人とはどのようなことを話したもの?」
「彼女はこんなことを言っていたわ。」
布の城(四)城の仕掛けと帰らない調査員、王子と侍女達の昼
「人の振る舞いがどこにおいても大体似通った常識的なものに見えるのは、いつも一般的な建物の中やありふれた景色の中に囲まれた屋外でのこと。建物ってその内装はみな同じような形をしているでしょう?」
「同じようなね。」
「思い出してみればそうなのよ。建築基準法だか、消防法だかでそうしろってなっているかは知らないけどみんな本当に同じようなもの。でも人ってそうじゃなければどういう振る舞いを取るか、それはわかったものじゃないものよ。わかった気でいるかどうかは知らないけど。そういう点でここは普通とは大分違うもの。壁が皆無でその代わりが布ってことからしてもどうなの?ってものよね。怪しすぎるじゃない?」
「そうね。」
「でもどういう話の流れで彼女がそんなことを口にしたものか、それは思い出せないの。彼女がそう言わざるを得なかった何かを私は口にしたのかもしれないし。もしくは彼女の仕草を見て指摘はしないものの、何かそういう視線を向けてしまったことがあるのかもしれない。」
「気にすることは無いと思うわ。そうしたってことは彼女もまたそういうことをしたっていうことなのでしょうから。」
「そうかしら。」
「その話を聞いていたあなたはどんな景色を見ていたか、それは覚えてる?」
「テーブルがあってね、その上にボードゲームが広げられていたわ。それはどれもまだゲームの途中といった感じ。」
「きっと私の同僚の誰か達が楽しんでいたのでしょうね。」
「それで?」
「あなたは気づかないでしょうけど、いま城のなか全体がピリピリしているわ。」
「ピリピリ?」
「城の中といったらそれは彼女達のこと。」
「彼女たちに緊張が走っているということ?」
「そう。」
「あなたは彼女に、侍女のみんなはみんな気の抜けた顔をしている、なんてことを言ったのかしらね?」
「生き生きして不満もなさそう。なんてことは言ったかもしれないわ。今から考え付くものと言えばだけど。全然そういった実感がないけどね。」
「なぜピリピリしているかは聞いた?」
「いいえ?なぜか聞きそびれてしまったみたい。それをあなたから聞くことはできるものかしら?」
「侵入者があるみたいね。定かな情報ではないのだけど、そういう連絡のやり取りがされているし、実際に何か不吉な雰囲気を感じる人もいるかもしれない。」
「あなたは?」
「私も同様に少し緊張しているかも。なにか、心得ていないものがこの城の中にいる気はするわね。そういう話を耳に入れたものだからそれに乗っかって、日ごろ感じている私自身の人生というものに対する不安だとか、色々をそういうものに求めているのかしらね。それで?その時にはあなたの目にはなにが見えていた?」
「ろうそくの灯があったわね。」
「ろうそく?」
「それを見ても不思議とこんなカーテンだらけの場所で危ないとは思わなかったのよね。なんとなくその火に熱を感じなかったというか、それはそう目に映るだけの何ら害も無いようなものだと感じたのかもしれない。」
「熱のない火ね、そんなものあるのかしら?」
「さあね。でも世界のどこにもないとは言い切れないものではあると思う。何も感じないだけじゃない、それはきっと冷たいのよ。」
「触ると?」
「そう、少しだけ。ほんのりヒヤッとする感じ。それは風景というには小さすぎるし限定的だけど、たしかに私達は目で見てそう感じたものなの。私は確かにそれを思い出せるのだから確かにその話もまた彼女の口から出されて、そして私の耳に届いたものなのよ。」
「でもあなたは彼女がその話をしたそのきっかけを思い出すことができない。」
「そう。それは思い出そうとしたところでその見込みがないと感じて仕方が無いの。だからそれについては今この場において一から私とあなたで考え出さないといけない。」
「彼女はまたあなたに何の脈絡もなく何か話してくれたものかしら?もしくはそれを思い起こす今のあなたに。」
「この布の城はちょっと不思議なもので、その中心部に行くにしたがって歩くべき範囲はだんだんと、いいえ、急激に狭く少なくなるはずであるにもかかわらず、奥に入り込んだものは迷ってしまうらしいの。」
「奥っていうのは中心のほうということ?」
「城の中心がどちらかわからなくなってしまうのだって。」
「なぜ?」
「さあ、わからないわ。そう言われているだけのこと。それでね、またそこに入ると、中心に対して平行に周回を続けることになるの。イメージすることはできるでしょ?中心に対してぐるぐると回り続けるってこと。ずっとね。」
「そういう噂があるという話ね。」
「実際に城の中心を目指して出てこなかった調査員もいるわ。」
「調査員?」
「あの人はちょうど土砂降りの日に訪れたわね。そして城に入ってすぐに城の真ん中目掛けて歩き始め、雨が止み終わらないうちに連絡が取れなくなっちゃった。」
「それからずっと戻ってこないと。」
「ええ。何をしているのでしょうね。もしくはどうなっているか。まあ、想像できるのは城の真ん中付近でその中心に対して平行にさまよい続けているその姿になるものだけどね。本当のところはわからないわ、今あの人の頭の中で起きていることは。こう言いながら私達も人のことは言えないの。この私達ももしかしたら既にそうなってしまっているかもしれないもの。日々せこせこと中心に対して平行に動き回っている毎日を過ごしているのは私達よ。」
「まあかわいそう。でもどうしてペットを放したりなんかしてしまうのかしら?」
「ペット?何の話かしらそれは。例によって彼女がそう言ったということ?」
「これを言ったのは私。」
「どのような話の流れであなたはそう聞くことになったのかしら。」
「たぶんその時目の前にいた侍女は飼っていたペットを飼えなくなったか、飽きたかでそうしたのだと言ったのだと思うわ。そのペットは侍女のものなのか、それとも王子のために飼っていたものなのかはわからないけど。」
「彼女は何かしらの理由で不要になったそれをただ放したと言ったこと、それが理解できないものなのね。それは割合と獰猛だと彼女は言っていたのだものね、きっと。」
「そうなの。」
「彼女はじゃあ、なぜそんなことをするかあなたはちゃんと聞けたもの?」
「いいえ、あなたに教えてもらえるなら彼女に聞かなくてもいいでしょ?なぜ彼女は獰猛なる獣を処理するのに、そうやって城内に放してしまったものなの?」
「あなたはそこにちゃんとした理由があると思っているのね。」
「ええ、彼女は何の脈絡もなく話すような人じゃないし、変なこと、破滅的な行動を理由もなく起こしてしまうような人じゃなかったと私は記憶しているもの。それは間違っているかしら?」
「あなたの話す彼女が私には誰かわからないものではあるけど、侍女の中にそういった人がいないことは確かだわ。それに、その行動にも理由があるものだし。」
「なぜ彼女はそうなの?」
「放したところであまり支障がないから。それは城の中をさまようことなく、意図された場所へ向かって、そこで猛獣は城からいなくなるものなの。」
「いなくなるというのは、城の外へ誘導されるということ?」
「いいえ、城から出ることはできないわ。その獣は行きついた先の罠によって命を落とすの。」
「罠?」
「城にはそういう仕掛けがあるのよ。その仕掛けは城への侵入者に対して用意されたもの。それは人の心理を利用したものでね。カーテンの薄さや色が場所によって微妙に変えられていて、この城の中で人は自然にある部屋へ誘導されていくことになるわけ。」
「誘導される人は色の薄い方かそうでない方かに引き寄せられていくということ?またどんな色かとか。」
「その辺のことは具体的に口にして言うことが出来ないわね。それはこの城の大切な秘密でもあるのだから。」
「放された猛獣もその仕掛けにはまってしまうのね。」
「そう。罠は人だけに効くわけではなく、本能に生きる存在にだって十分過ぎるほど有効に働くの。むしろ、それは本能に働きかけるものなのだから。」
「もしかして私たちが単独で勝手に城の中を出歩かない方がいいと言われているのは、そういうことが理由なのかしら?」
「あなた達にとってはそういう可能性が出てきたわね。」
「でもあなた達侍女はどうして大丈夫なの?」
「それはもう、侍女になった人はまずそれを徹底的に訓練されるものなんだから。」
「そう。その部屋にはなにがあるか、あなたはきっとそれも言えないのでしょうね。」
「もちろん。あとこの城の主である王子もまた私たちと同様に訓練されているものよ。この城にいる人で、侵入者やあなたたち以外、正しい城の歩き方を知らない人はいないということ。」
「そう。」
「それにしてもあなたの話す彼女は肝心なことを教えてはくれなかったみたいね。もっともあなたが聞きそびれただけの様でもあるけど。」
「彼女は私たちのために忙しそうだったものだから。彼女は棚をあさり始めるわ。きっとそれは私たちのためとわかっているものの、それまでがとても静かな時間だったものだから何となくうるさく感じてしまってね。ガサゴソとするその手つきも何となく雑に見えてしまう感じ。」
「そう、それで?」
「彼女はそういう人だってわかっているから何とも思わなくはなっていたものの、それを見ている自分のその表情を万が一見られるのが嫌で顔をそらすと、視線の向こうにあるものが透けて見えたわ。たくさんの侍女がなにかを中心にぐるぐると、実際にそうではないのだけどそういう印象で、きっと彼女たちは世話をしている様子。」
「目を凝らすとそれはちょっとずつ見えて来た感じ?」
「そう、なぜかここではそうなのよね。カーテンがそういうものなのかしら。」
「それは誰だった?」
「それを取り巻いている女性たちの表情がなんとなく、いいえ、はっきりと嫌そうで、そして時折でもなく頻繁にその人をにらんでいる様子が伺えるの。やっぱりそれは王子なものよ。」
「数々の彼女たちと話しているあなたには既に彼が相当侍女達から嫌われていることがわかっているのね。」
「ええ。この城の主であり、彼女たちがここで暮らすその理由となる人。」
「それでいてとても嫌われている人物。なぜ彼が嫌われているものか、それについてもあなたはもう知っていたりする?それも実際に見てみればすぐにわかる。なんて彼女たちは一様にそう返して寄越したものかしら?」
「どうかしらね。でももしそうだったなら、私は実際のところ彼女たちの言う通りのことを感じ取ることになったの。その中心の彼であろうその人は、いくつかのカーテンを介してうっすらとでありながらとても憮然とした態度をしているのがありありとわかったものだから。」
「必要以上に偉そうで傲慢そうだった?」
「ええ、世話されるのは当たり前のこととしてもなんていうか。それをする方がいちいちそうしている自分の姿を第三者的な視点で見てしまうような感じ。」
「思わず?」
「ええ。思わず。」
「嫌われる理由が一目でわかってしまった感じ?」
「少しばかり謙虚にあるだけで大分違うのにね。好かれる必要はなくても慕われる分にはいいじゃない。自分でわかっていないのかしらあの人?かわいそうにね。」
「もしかしたらわざとそうしているかもしれないわよ。」
「慕われない方がいいとか、その方が後々王子かもしくは彼女たちのためになるとかいったことかしら?なんとなくおぼろげにだけど、そうする理由の存在も感じるには感じるけど、でも彼女たちにすれば心外なことには変わりはないわ。」
「彼女たちは日々を生きているのだものね。」
「またそう思うくらいの信頼関係があるようには聞こえなかったし見えなかったわね。なんで彼女たちはあんな王子の世話をし続けていけるものなのかしら。」
「さあ。仕事だからでしょうね。」
布の城(五)天文学的な卵の夜
「ねえ、ちょっとだけ横になる位置をあなたから離すけど、それはあなたのせいではないからあまりそのことについて気にしないでほしいの。私は眠る前について人とくっつきすぎるのがあまり得意ではないものだから。手を握りたいと控えめにこっそり伝えてくるような人に愛しおしさを感じる一方でそれをきっぱりと断ってしまうくらい。かわいそうとは思うのだけど。」
「人それぞれよ。」
「でも毎晩隣に来る人が違うのはなんとなくわかるけど、その部屋にいる顔ぶれもまたなんだか違うみたい。彼女たちは毎晩眠る部屋を変えているのかしら。」
「そうね。またはあなたもまたそうなのかもしれないわ。その日によって人の快適だと思う環境は微妙に変わるものだから。人は一日一日変わっていくもの。」
「その行動がしてその証拠みたいなもの、そういうことかしら?」
「ええそんな感じ。でも少しばかり不安そうな顔をしているわね、あなた。なにかを心配、というよりはなにかを恐がっているような気がする。なにかそういうものの存在を感じていたり、聞いたりしてしそういう顔色になってしまっているものかしら?」
「昨日の夜、私が最後に話した侍女のことを聞かれたらってこととかね。例えば。」
「あなたが昨日の最後の最後、寝る前に話したその侍女について、それはどんな女性だったか、それを私が聞いてこないものかあなたは不安だということ?」
「そう聞かれて何かしら答えるでしょ?なんだかそのつもりはなくても、それは悪口になってしまいそうなんだもの。」
「でももし私がそれを聞いたところで、それを聞く意図としてもそれは大したことではないものよ。」
「そうかしら。」
「昨日の夜寝る前に話した女性がどんなだったかを聞いたところで、それが誰だったかを特定できるようなものじゃないものだし。全くの暗闇で目の前の女性の見た目などわからない。あなたはその人をどういう言葉でもって表現することができるかしらね。」
「あまり思い浮かばないわ。」
「におい?声の響き?かすかに感じる目線の感じ?」
「暗いのに?」
「見えなくたってなんとなくどこを見られているかってことはうっすらと感じるものでしょう?それは実際に当たっているかどうかは別として。」
「どうかしらね。でもその人のあれこれを聞いてあなたはどうするのかしら?」
「それを聞いてどうするかと言えば、私は別にどうということは無く、その人は誰に当たるものか考え巡らすことも無いの。考えたところで誰かを特定することはできないわ。昼間の顔と夜眠る直前の感じではきっと話し方も話す内容も別人の様に違うのでしょうからね。私は単純に侍女にはどんな人がいるのかなって思うだけ。」
「昼間の同僚たちが夜にはどんな一面を見せるのか、実のところ同僚にはどういう人がいるものか、あなたはちょっとした興味を胸に抱いたのね。」
「ええ。でももしかしたらあなたが話して来たそれら侍女達、夜の彼女たちはわざと別の人格のようになったつもりで話したりなんかして楽しんでもいたこともあるかもしれないわ。」
「そんなことでは彼女たちの語った話や心配している人がいるだとかなんとか言ったその心持ちも、本当のことかどうか疑わしくなってしまうわね。」
「ええ、でもあなたとこの数日の夜を共にしてきた彼女たちはあなたのいい話し相手にはなった様子。そうならわたしもまた何か面白い話を語らないといけないかしら?あなたはそんな風に言った覚えも、思ったことも無いかもしれないけど、今の私はそうする必要性を感じていることもまた事実よ。」
「私は昼も夜も彼女たちからいろんな話を聞いて来たわ。その中であなたのすることはちょっと難しそう。」
「あなたにとって初めて聞くような話をすることが?」
「ええ。無理はさせたくないものよ。」
「いいえきっと大丈夫。こんな話はどうかしら?もうすでに聞いていなさそうな話。それはある卵の話になるわ。天文学的な確率で産まれる、そんな卵。」
「天文学的な確率?とても希少ってこと?」
「そう呼ばれてはいるものの厳密に言えばその意味合いが違っていて、ある決まった条件がそろうと誕生するという卵。その条件は例えばどこどこ出身の何歳の、身体のどこらへんにほくろがある女性が、いつどこで、どんな出会い方をした人とどんな場所をデートしてきたとか。そういうもの。」
「ええ。」
「ある国でそういった卵が誕生する可能性があるとわかったことがあったの。」
「それは喜ばしいことなのかしら?」
「きっとそう。だからその人には手間暇かけて人為的な手が加えられ、卵の誕生にこぎつけようとされるの。」
「加えられた手というのは、残りの何項目かの条件をそろえるとかそういう作業になる?」
「ええ、その通り。」
「奇跡の卵、というものがなにかしらの古文書かもしくは科学書のなかに記され、定義されていて、それを実現するように持って行ったということなのかしら?」
「そういうことね。でも結局卵は出来上がらなかったわ。そろえた条件が一つくらい足りなかったらしくてね。」
「そう。その卵は産まれたなら、どんなことになって行ったものかしらね?」
「それは卵として?それともその卵の中身の誰かについて?」
「私が気にしているのは後者のほうね。」
「ある王族の女性も、そんなことを思ったものかしら?」
「王族の女性?」
「卵作成の事業が失敗したのとはまったく関係のない別の場所でまた、奇跡の卵を生み出す条件がそろった人がいたの。そしてその彼女は自分にその条件がそろっていることを知っていたものよ。それでいて彼女はそのことを誰にも言わず隠していたの。」
「本当の本当にそれは稀なことなんでしょうね。」
「でも、彼女に揃っていた条件は、あることによってその一つを失い、すべては揃わなくなってしまった。」
「あること?」
「身重の間に、相手の気持ちが彼女から離れてしまったのよ。」
「その相手が彼女を愛する気持ちも、その条件に含まれていたということね。」
「そう、失意の中で彼女は卵を産み落とすわ。その条件の揃わなかった卵をね。」
「産み落とされた卵はどうなった?」
「割りさえしなかったものの、彼女は屋外のどこか目につかない場所に置き去りにして帰ってきてしまったようね。」
「その心情を思えば、理解できないと言ったことではないわ。」
「でもそうではなかったの。」
「そうではなかった?」
「彼女はその後、その相手と結ばれているの。」
「そうなの?二人の間でいったいなにかあったのかしら?相手の彼が心変わりしたということ?」
「いいえ、彼の気持ちは最初から変わることはなかったわ。彼はずっと彼女を愛し続けていたのだもの。」
「どういうこと?」
「なにか手違いがあったようね。彼女は勘違いをしてしまっていたみたい。それは悲劇とも言えることだけどでも、結局は幸せになれたのだもの。よかったわよね。」
「ええ。だけどそれじゃあ・・、」
「ちゃんとわかっているわ。彼女は誤解していたことに気づいた時点で、すぐにその場所へ戻ったのだもの。もちろんだいぶ焦りながらね。」
「卵は無事?」
「なくなっていたわ。」
「まあ、誰かに盗まれてしまった?」
「そうみたいね。彼女が卵を置き去りにしてすぐにそれは持ち去られてしまったのよ。彼女はその時に後をつけられていたの。」
「後をつけられていた?どうして?」
「彼の心が離れたと勘違いした彼女は、いたるところでふれ回っていたのよ。自分が生む卵は、奇跡の卵になるはずのものだったと。」
「自暴自棄になっていたのね。」
「そのことを聞きつけた誰か達は、彼女の動向を監視して卵が手に入る機会を待っていたの。彼と彼女について詳しく調べていたその人たちは知っていたのだもの。条件は揃ったままだってことを。」
「まあ、なんてひどい人達。それを教えないなんて。」
「そして彼女の卵を盗むなんてね。」
「そうよ。」
「でも盗んだわけじゃないわ。彼らは既に手放されたそれを拾ったに過ぎない。彼女は卵を一度は捨てたのだもの。今更それを悲しがることも、卵を心配することだって出来ない。彼女はそう思うだけの権利を既に失っているのだから。そうでしょう?彼女自身がきっとそう思って仕方ないことよ。」
「彼女はこのことについて彼にどう伝えるものかしら?」
「口にしないでしょうね。」
「なにも?」
「ええ、なにも。彼もまた聞くことはない。たとえ知っていたところで口にすることも無い。彼と彼女は互いに周知の秘密を、そして罪を共有することで強いつながりを得ていくことになるの。二人はこれからの人生、ささいなことにも幸せを感じ、感じるように努め、それはまたそのおかげで彼女が次々と産んでいく子供に対してはいい母になっただろうし、いい夫婦であり続けるのよ。」
「今のあなたはその二人に会いたそうな目をしていそうね。」
「そう聞こえる?」
「そんなことを思っただけ。」
「でも私では彼女たちには会えないわ。二人は世界を旅してまわるような人でないと会えないような人達。だって彼らはたぶん世界でただ唯一の二人だから。」
「そうね。」
「でももし今のあなたが私なんかに気を使って、それを見たことがあったとすることを黙っているのなら、後々にでもあなたはあなたの仲間とそれについて語り合えばいいわ。」
「仲間?」
布の城(六)旅立ち
「今あなたの背中で眠りについている彼のことじゃないわ。でも忘れたわけではないでしょうに。あなた達と一緒にこの城に来た人。難しい手続きを今も私達の同僚相手に進めているような、いたでしょ?そんな人が。」
「ああ、いたわね。確かにそんな人。」
「その人は大分手間取ってはいるようだけど城の中心部へ向かうその調査については、侍女の誰にも止める権限はないものだもの。いずれ彼女はそれらを済ませてあなた達のもとへ帰ってくるはずだわ。勝手に一人で行ってしまうようなことが無い限りね。」
「私たちとしてはその方が気楽なのだけど。」
「あなた達は全然そうなるとは思ってはおらず、彼女が何の前触れなしに目の前に姿を現すその様子を思い浮かべるものよね。それで開口一番、探索の旅に必要な物品の調達はやっぱり必要なかったと言われたりしないかなどと考えているかもしれないわ。」
「調査はそれほど短い期間で済むということ?」
「もしかしたらそうなるかもね。その理由を詳しく聞きたい?」
「いいえ、それでいいならいいんじゃないの?こちらからいちいち訳を聞くのも考えるのもなんだか面倒くさいわ。なんでを繰り返す子供じゃないんだからね。大人なら訳を聞かずただつき従うべき場面に出会うこともあるもの。」
「それであなたと彼女は城の中心へ向け歩き出し、私たちのことを話題にしながら旅を始めるのよね。」
「手をつないだり近づきすぎることは嫌うくせに、しきりに隣にいることを確認しては安心する、そんな侍女がいたのよ、とか?」
「そうね。彼女はなぜそうなのかしら?」
「それは知らないし、それに関係のないことかもしれないけど、彼女はある噂を恐がっていたわね。」
「ある噂?それはどんなもの?大の大人が一人で眠るのに躊躇してしまうようなものなんて。」
「一人で寝るとあるものに会ってしまうという噂があってね。それは城の中心からやってくるのだって。」
「城の中心から?」
「何をされるということまでははっきりしないものだから、それは一人一人が想像するものなのよ。勝手気ままにね。でも彼女たちがきっと一様に思うのは連れ去られてしまうだろうということ。」
「連れ去られて、その後なにをされるかしらね?」
「そこまでは想像がつかないわ。でも布の中に引っ張り込まれて、そして帰ってこないと言われている自分を想像してみて。それはとても背筋がスーッとしてしまうものでしょう?」
「何のためにそんなことをするもの?食べるため?それともそれは悲鳴を聞くことで心の安寧を得るものだとか。」
「いいえ、きっとそうじゃない。だって連れ去られた後のことはわからないのだから。そのわからないということがして怖いのよ。様々な可能性の前に放り出されることになるのだから。」
「でもなんなのかしらね、城の奥からやってくるものって。」
「それを王子だと思っている私達は実に愚かよね。」
「王子?」
「誰も口に出さないの。だからそう考えているのはもしかしたら私だけかもしれない。いいえ、私だって思ってはいないわ。きっとそう。私たちが慕ってやまない王子だもの。」
「それはどういうことなのかしら?王子がそういうことをするということ?でも、慕うとか・・、なんだか私が聞いて来た王子とはちょっと話が違うみたい。」
「あなたの中での王子はまだあの嫌われ者の彼なのね。」
「ええ。そうではないの?」
「あの人は王子じゃないわ。王子の偽物。いいえ、偽物でもない人。私たちは王子を慕ってやまない存在なのよ。王子はそうしたくなるような人なのだもの。」
「その本物の王子というのはどこにいるのかしら?」
「王子はこの城の深部へ籠った切り出てこなくなってしまったわ。」
「出てこない?そうなってどのくらい?」
「もう何年もその姿を拝見できてないわね。」
「寂しい?」
「王子に戻ってきてほしいという想いを語る分には何の嘘も無いわね。私たちと王子の関係は、他の侍女と王族がどういう立場の違いを持って日々過ごしているのかはわからないけど、きっとそのどれとも違うような気がするものなの。」
「どんなものなのかしら?」
「あのお方が王子という地位を持っていてくれて、私たちは本当に幸運に感じているわ。王子は私たちがお世話をして尽くしたり、その中でちょっとばかりのいたずらもしたくなるようなお方なの。私たちがあの王子の侍女という立場ならどんなに手間をかけてお世話し、いたずらを仕込んだところでそれはなんらおかしいことではないものだもの。」
「あなた達にとっては、王子の王子としての地位はなにか便利な口実めいたものみたい。王子が王子として生まれたことの幸運はあなた達のためにあるのでしょうね。そう思わせる王子はどんな人格を持っているのかしら。」
「そうしたくなる人よ、簡単に言えば。でも王子のそういった性質を語ったり、評したりするのは、やっぱり恐れ多く、許されることではないことなの。あの方は王子で私たちは侍女なのだもの。王族に使えるものとして生きるに必要なルール、当然のマナーではあるのだわ。そうであるにも関わらず、私や私達侍女は日々今あなたにしたような感じで、王子についてべらべらと話題にして喋ってしまっているわ。私達って愚かなものでしょ?」
「どうかしら。」
「ひどいことをされたりひどいことを言われたりして、信頼なんてせずちょっと憎んでいたとか全然慕っていたりしなかった、というわけでなく王子に対してはちょっと普通の形とは違うけど、悪いと思ったりはせず、好意も抱いて、そのお世話だって喜んでしていたものだし、侍女という仕事を気持ちよくさせてもらっていたものなのに。目の前からいなくなった途端、話題の具材として扱ってしまうなんてね。」
「罪悪感を持つべきと考えてもいいけど、そうではないのかもしれれないわね。」
「そうではない?」
「あなた達の中で、その王子について語ることは許されているような気がしていたりするのよ。そういう雰囲気があるの。それにそうすることがなんだか王子ためでもあるような気もする。」
「王子のため?」
「そうすることで王子が戻ってくるとか、戻ってきやすくなるような気がしていたり。あなた達にはなんの根拠も無いのだけどね。」
「また王子をおどろおどろしいものと想像し、それを口に出してしまうことだって、もしかしたらそれを王子が耳に入れ、心外だと怒って抗議しに戻ってくるとか、そういうことを考えていたり?」
「強引なようだけど、王子に起こっていることがまったくわからないあなた達は、そういったことに望みを託すこともなんら的外れなことではないのだと思っているのかもしれないわね。」
「また王子の世話をしたい。かいがいしく過剰なくらい手を掛け、子ども扱いしているとちょっとした心外な目を見せるそぶりを感じたいし、食べた料理の意外な味に料理をもういちど見返して、こちらをちらっと見るあの顔もまた見てみたい。そうして何か言われるか、もしくはなにも言われないかその微妙な感じをまた味わいたいわ。」
「それが楽しみなのね。」
「そう。他の王族とその侍女がどんな日々を過ごして、それはどんなことが標準で平均的なものかを私たちはやっぱり知らないものだけど、私たちと王子の日々はそんなものだったのだもの。その王子がこんなことになったのは、そんな日々に浸っていた私たちに与えられた罰なのかしら、なんて立場もわきまえずとんでもなく傲慢なことだって考えてしまいそう。でもまだ眠たそうな雰囲気も無いけど大丈夫?ちゃんと寝れそう?」
「あなたが彼女について思い出させるものだから、仲間がいつ来ないか気になってちょっとばかり目がさえてしまったわ。」
「彼女に早く来てほしいもの?」
「それとも、この日々をいつまで過ごせるものか、急に終わってしまうその時を思って怖がっているのかは自分でもよくわからないの。でも今頃彼女はどうしているかしら?」
「私たちと大して変わらないわよ。誰かしら私の同僚と隣り合って目をつむっているのでしょうね。彼女たちはあなたがそうであったように、昼の間も夜中じゅうにおいても私たちにずっと囲まれているのだからね。」
「どこにいても?はぐれてもかしら?」
「そう思っているのは彼女だけで、何が起ころうともそれは侍女たちの目には触れているものなのよ。」
「彼女は監視されているということね。私たちと同様に。」
「そういう雰囲気を感じていた?」
「いいえ全然。今にしてもそんなことまったく感じ取れてはいないわ。不思議なほどにね。」
「でもよくよく考えるとこの会話も、私たちがあなたの過ごした一日の内容を聞いてきたのもその一環のことだとあなたは思ってしまうものかしらね。」
「そう思ってもらってもいいものだけどでも、あなたはそれで私達に嫌われそうだと思うのならそう思う必要はないものよ。」
「それはしょうがないことと思ってくれるのね。」
「ええ。それにあなた達との関係は良好であり続けることが望ましいわ。例の彼女の手続きは今日の夜にでも済んでいて、私たちを迎えに来てくれるのは翌朝すぐのことかもしれないけど、その期待はただ勝手なものに過ぎず、それはそのまた翌日かもしくは週をまたいでも相変わらず私たちはあなたの内の誰かとこんな話をしているのかもしれないのだもの。それは定かでないことはたしか。」
「そうね。」
彼と彼女と暗がりを泳ぐウミヘビ
「これは何なのだろう?」
「この地下深くにあって、私たちに中を歩かれているこの管は何のためにあったものかと言えばそれは地上のものを流すため。いらなくなった液体状の物とか、液体じゃなくてもいいわね。転がってしまうような丸っこい形をしたものが詰まらない程度の頻度と量で流れ転がっていったものなのかも。それは大切なもの?それともいらないもの?あなたはどっちだと思う?もちろんその転がっていったものがって話。」
「どっちかな。」
「後者でしょうね。あなたはきっとそう思っているわ。だって人は大切なものなら自分のそばに置いておき、もっと大事なものなら体に引き寄せてはがすことさえしなくなるものなんだから。」
「そういうものかな。」
「そうでなかった光景があったかしら?きっとないものよ。私はそうであるとは限らないと思う人だけどね。」
「どうであるとは限らない?この管の中を通ったものが手元や周囲にさえ置いておきたくないとされたものたちではないということ?君はそうだったならなぜそう考えるものだろうね?」
「そう考えられるからよ。」
「どう?」
「大切なものだからこそ手元に置いておきたくはないということ。」
「それはなぜ?」
「人ってなんでもをよく失くしてしまうものでしょ?いつも目にして扱って、しかも重宝しているものであるにも関わらずね。そういうことはよくあったりしない?無いことはないはずよ?あなたも人であるのなら。」
「そうだね。ないことはなく、それは悲しいことに頻繁と言っていいくらいにはあるものだ。」
「あなたでない他の人たちもまたそれがよくわかっているわ。」
「その人たちもまた?」
「そう。そのひとたちもまたそれがよく分かっていたからこそのこと。自分の人として持つこの悲しき習性によってそれを失うことにはなりたくなかったもの。」
「だからそれらを地下に置くことにした?管を使って送ってまで?」
「地上にあってはたとえ忘れることが無かったとして、他にもいろいろな事情や事故によって手放さざるを得ないことがあるわ。盗まれてしまうとか、もしくはそれと知らずにゴミとして捨てられてしまったとか。他にはそうね、台風によって飛ばされていくとかね。まあそれが暴風で飛んで行ってしまうものかは知らないし、知ったことではないけど。」
「地下にあれば目を離したすきにどこかへ飛んでいくことも無く、人の目に触れることも無い。」
「そう、それはその場所に留まり続け、まるで時間が止まったかのようにじっとそこにあり続けるものになるの。」
「奪われてはいけず失くしてもいけない。それは余程大事なものだったのだね。」
「しかしながらきっと地上はまだ明るいのでしょうね。だからこそ私たちはこうして顔を見合って話すことが出来ているのだわ。」
「管の中に入った日光が管を通してここまで届いていると。」
「そうでなければこの管を取り巻く大空洞の闇がこの管の中にも染み出して、私たちは真っ暗でもう何もできなくなるの。人って闇の中だと何もできなくなるのよ。」
「知っているさ。だがこの管の外はそういう光景が広がっていると?」
「信じるか信じないかは別としてあなたはこの場所についてなにも知らないようね。管の中を照らす光は、外に透け、管はぼうっと光るものなの。想像できそう?」
「ああ。」
「もしもその闇の中をウミヘビみたいな手も足も無いものがいたとするじゃない?だってなにもない空間なら手足を持つ必要が無いのだもの。目はあるわ。ほとんど使ってないけど。いいえ、その目もよく見ればそれはただの模様なのよ。くさいペンキか色のついた油で描かれたような下手な絵。光沢もなにも無いわ。いいえ、あるのかしら?どちらにしろその模様を見る人はいないのよ。どう?想像できてる?いいえ、きっとできるものよあなたは。私と同じような、いいえ、ほとんど同い年なのでしょうからね。背格好は違うもののすぐに分かったものよ。同い年の人ってなんだかそういうところが無い?不思議とそうわかってしまう感じ。」
「聞いたことは無いが僕も何となく君がそうではないかと思っていたものさ。」
「そうよね。管は闇の中で光るのならそれは蛍光灯とはいかなくても、それに近しいものにはなるでしょ?その場所においては。だから巨大でかわいそうなそれを引き寄せてしまうことになり、巨大でかわいそうなそれは引き寄せられることになるの。たちの悪いことに管はまた冷たい暗闇の中においてなら、割合と暖かいものであり得るのだから。その中で私たちでしょ?それには私たちがどういう風に見えると思う?」
「それから?」
「陰よね。輪郭のはっきりとしない二つのそれがそこにある。それらをそれはどう見るかしらね?」
「どうとは?」
「簡単にいい感情をもつか、もしくは悪い感情を持つか。管は地上が夜でない時間帯においてそれらしくぼうっと灯るわけ。それは晴れの日においてだけだと思ってない?曇りの日だって雨の日だって、もしくは日食の短い間においてだってそうよ。だってそれらのどれもが、この向こうにある絶対的な闇よりは、暗くないものなのだからね。」
「この場所においてはそうなのだろうね。」
「あなたにとってはそういう可能性があるわ。あなたはこの場所について何も知らないのだから。それでそこに黒い影が、汚らしい黒点が現れたらどう?それにとってその優しく灯る蛍光灯がひどく愛するものだったなら、きっといい思いはしないはず。」
「どうだろう。」
「きっとそうなのよ。だって私がそう思うもの。蛍光灯に現れた陰はいったい何なのか、少し考えたなら、考えなくてもそれは虫になるでしょ?煩わしいものよ。汚らしくもある。私たちは蛍光灯に何の感情も思い入れもないものだけど、この向こうでこの管を愛で、宝物のように思ってきたそれは今、そういった感情に見舞われてしまっている。」
「僕たちはひどく申し訳ない気持ちになるべきだろうか。」
「あなたの口からまずそういう言葉が出てきてよかったわ。今とても危ない状況にいるのかということもあなたは思って口にするつもりであるけど、まずは自分たちがそれに被らせてしまったことについて意識を向けてくれたものよね。わたしもそうだもの。そういう一言があった上でなら、私たちは今どんな状況にいるかを想像し、論じてもいいものなの。想像できる?巨大なそれがこの壁のすぐ向こう、いいえ、すぐそこに顔を寄せている姿を。それは本当に大きくてね。遠くからでないとどういう姿かたちをしているか分からないほどなの。」
「全く音をさせないのだね。」
「そういう体なのでしょうし、今この瞬間においてならそれは息をひそめてもいるもの。ただね、危険な状況かと言えばそうでもないの。むしろこの管の中にいる限りは、いいえ、この状況は私たちがここにいるからこそあるものなのだから、それはつまり、私たちがここにいる行為になんら危険は伴わないものなのよ。」
「なぜ?」
「それは私たちを今すぐにでもその鋭い深海魚みたいな口と牙でシャギシャギにしてしまいたいものの、決してそうはしないということ。」
「どうして?」
「どうして?できないじゃないの。それにはこのだいじな大事な蛍光灯をどうにかしないといけないでしょ?それはひどく頭に来ているものだけど、それを思っても仕方ないとも同時くらいにわかってしまっているものでしょうからね。きっと自身のその感情を、その考え方を変えようとするのよ。」
「どのように?」
「その黒い陰もまた管の持つ性質の一つなのだと捉えて納得するの。淡くやさしい光を持つばかりに変なのを引き寄せてしまうっていう意味でね。そしてそれをもって、その陰もまた愛すべきものとし、そう考えるものなの。」
「イライラするのは苦しいからね。」
「そういった心の動きは確かにあるでしょ?それはなにも無意識的に行われていることでもなく、意識してわざわざ行うものなのだから。」
「ああ、ごく一般的に行われていることだね。」
「でも一般的で頻繁に行われているからってそれは簡単なことというわけでもないの。あまり知られていないことだけどそれは思ったよりもずっと難しく、言わば無謀ともいえる試みではあるんだから。」
「それは僕たちの思っているよりもずっと無茶なことだと。」
「絶対にできないことということでもないのだけどね。過去成功できた人は少ないものの、そうすることが出来た人は確かに存在するのだわ。ただ成功した人においては心を壊してしまったようで、人形が握りつぶされるようにその中綿が飛び出し、代わりに黒い感情を頭の中に詰め込まれてしまう結果にはなってしまったものらしいけどね。」
「それは成功するだろうか?その苦難を与える僕が言っていいことではないだろうが。」
「そうね。それに関してはきっと大丈夫よ。私たちはそれほど長くは、それが過ごす時間の感覚でいえばすぐのことにこの場からいなくなるものなのだからね。」
「巨大すぎるばかりに、生きる時間の速度も遅いということだろうか。」
「私たちから見ればね。でもそんなことを言えば、この黒い陰たちの存在もそれにとっては別に苦になるようなものになる前にパッと消えてしまうものなのかもしれないわ。なんだこれはって思って興味を抱こうとしたものの気が付いたらなかった、的なね。そうなら助かったって思う?」
「どうかな。それはどうあっても僕たちに危険にはなりえないのだろう?」
「そうね。私たちはただ申し訳なく思うべきか、その必要もないかとただ迷っていればいいこと。」
「そうならそれはよかったと思うべきだし、実際にもそう思う。自分たちはなにをも苦しめることが無かったなら。」
「そうね。それは例えば木のような、私達とはまったく違う感覚を持つかもしれないものに対してだってそう思うわよね。それは感情というものについてだって私たちとは大きく異なっているものだとして、私たちとしたらそれに関しては私たち自らが持つような感情を持つようなものとしてしか想像できないものだもの。それもまたそういうものを持っていると考え、共感するしかできないのよ。ただその時間的感覚によってそれらに起こることに関しては説明することはできるものよ。それは聞いたことではあり、ちょっと悲しいことなのだけどね。」
「どういう形で?」
「それは私たちのことをどう認識しているかと言えば、いつの間にか現れていつの間にか消えてしまうものなの。」
「僕たちが?」
「木々やそれを生きるものにはそういうことがよくあるらしくてね、自分では忘れっぽいと思っているみたい。確かにそれはそこに現れたものなのだから、それが現れたその時についても見ているはずなのに、なぜかそれが思い出せない感じ。もっと言うとそれらが見る物事にはその始まりと終わりがないものだから、その起因や原因、理由というものがなく、ただ世界は理由なく無秩序に変化を続けていくものなの。ちょっと寂しいと思わない?確かに見てはいるのに、そのなにを知ることが出来ないなんて。」
「世界から孤立しているみたいだ。」
「そうなの。ただ木にしてみれば隣には同じような存在がいるものじゃない?たくさん。だけどこの向こうにいるそれにはそういうのはなにもない。」
「それはただ一つだけなんだ。」
「ええ、本当に一つ。」
「君はこんな場所に何の用でいるものだろう?」
「気になる?」
「すこしだけ。」
「なら私と話し続けた方がいいかもしれないわね。あなたは?あなたはなにか使命をもってここに来ているもの?」
「君はなぜそう思うものだろう?」
「そう知っているからよ。」
「知っている?」
「そうにしか見えないってこと。でももしそうなら使命なんてばからしいわ。本当のことを言えば人は自分のためだけに生きるべきであるものなのだから。そう断言してしまう私はなんて自分勝手なのかしら。それに比べてあなたの使命は人のため、誰かのためにあるものなのでしょうね。だったら悪いことじゃないのかしら?私にはあまりわからないわ。でもあなたの使命がそういう素晴らしいものなら、それほどいいことはないものよ。」
「何にとって?」
「あなたにとって。あなたはその使命にどういう感情を抱いているもの?よくよく考えたものなら。それはあなたの生きる目的であり、同時にそうであればあなたを生かしてきたものでもある。」
「そうなのかな。」
「そうなのよ。使命を与えられた人は多かれ少なかれいずれそういう考えに至るものなの。実際にそうであるかは別としてね。使命というものの意味を考え出すと必ずそういう形に落ち着くの。それは自分だけの宝物、決して失いたくはないもの。」
「失いたくはないものか。」
「あなたはでも失うことに関して心配する必要はないの。あなたの使命はあなたを放り出すことなんてないのだから。解放することも無い。よかったわね。」
「そうだろうか。」
「そうなのよ。たとえそれが死ということであってもね。」
「死?」
「それがあなたの使命。自分が生きる目的を、生きる糧をようやく見つけたと思ったらそんなことだったなんてね。あなたはあなたの中でどう折り合いをつけるのかしら。どうあってもそれはつけないといけないものだし、あなたはつけているものではあるのでしょうけどね。」
「死を使命とされる僕は、いったいなにをしたって君は思っているのではないかな?」
「どうかしら。使命ということだもの。それは罪の罰とは違うわ。」
「それは実のところそういうもので、言葉だけの表現でもってそう言っているだけのことかもしれない。」
「それはそう言われているだけで、実質的には罰だと?」
「そうさせるために勇気づける、もしくは動機づけてやるために無理やりそう言っているものと。」
「だったならどうなのかしら?それはあなたに影響のあること?それ次第であなたのこれから取る行動が変わるもの?」
「どうかな。やらなければならないと思っているなら、変わらないかもしれない。」
「変わるべきではないとあなたは思っているものかもね。でもあなたのこれから取り得る行動は、私から見ても誇らしいものよ。裏心なんかないの。実際的にそうだもの。あなたの使命は使命としてちゃんと他の多くの人たちのためになるし、その使命は他の人のすべてにはできないあなただけのもの。保有しようと自らを使命に寄せていく必要はなく、あなたはあなたのままでなにをしなくてもその使命はあなたにしか与えられないものだし、あなたがいなければこの世に存在もしなかったようなもの。その使命はまさにあなたのためにあるあなた自身なの。」
「僕が生まれた意味ということかな?」
「そう。」
「生まれた意味が死ぬことだと。」
「物事を整理するのはいいけど、あまり単純にしてしまうのはいいこととは言えないわ。あなたの使命は多くの苦悩と知識の蓄積、そして機会と偶然の重なりによってできたものなのだから。わかってほしいものだわ。」
「わかっているよ。それはどう言おうと結局は僕の使命だ。君の言う通り誇らしいものと思っているし、僕もそういう気でいる。既に準備もできているんだ。」
「心の準備だけしてもその方法が無いんじゃね。この場所においてあなたは死にようがないじゃない。」
「あるさ。」
「そうかしら?」
「この先に管の継ぎ目があるのを僕は知っている。」
「そう見たのかしら?」
「継ぎ目のすぐ横にはメンテナンス用の蓋がある。それを開けるんだ。」
「あなたはその蓋を開けてどうしようと?」
「もちろん僕の使命を果たすのさ。」
「そこに恐ろしむべき巨大なウミヘビがいたとして?」
「いてもいなくても変わらない。だが気づかれもしなければ僕はそのまま何も見えない真っ暗闇の中、そこに一本仄かに灯る管をだけただ眺めながら落ちていくことになるんだ。」
「どれだけ落ちたところでその空洞もまた底がないもので、あなたはハラハラした気持ちも失せ、飽き始めてしまうのね。」
「そうさ。」
「準備は万端と言いたそうだし、実際そう言っているものだけど、でもそうであればなぜあなたはこんな場所でじっとしていたものかしら?」
「死ぬ前のひと時にこそ思うべきことはきっとあるだろう?僕はそれに思いを巡らしていただけさ。」
「そう。それが本当かどうかは私にはわからないけどね。もしも嘘であるなら大変なことよ。その使命をあなたに与えた人。そしてその使命の恩恵を前提として今後の人生を営むことが出来る、そんな人がいたならあなたがもしもそういうことに躊躇し、そしてその延長であなたの心変わりが起きそうだと思ったその人はどう思うかしら?あなたのせいで人生が終わるとまではいかなくてもあなた同様、あなたの使命にその人生をかけ、やれることはすべてやり、あとはあなたに対して万全の体制を用意して引き継いだのにも関わらず、当のあなたがそんな体たらくでそして愚かな選択をしようとしていると知れば。」
「どうだろうね。」
「その人は近くで見守ることもできないの。私は弱気を起因としてそうした判断をしてしまうあなたなんかよりも、その人のことを応援してしまいたいわ。実際にその機会があるものならぜひそうしたい。実際そうなら君はどうするのだろうって思ってる?この目の前の女性はなにを考えているものか。もしくはこれから考え出すものか。それはそうね、その人のあなたの使命のためにすべてを投げ出してきたその人のしたいと思うであろうことをするでしょうね。それを想像するにはまずその人があなたに抱く感情がなにかを明らかにする必要があるわ。それはどんな感情だと思う?」
「怒りや、恨みだろうか。」
「その人はこういうことが起こる以前は、あなたに対し厚い信頼を寄せていたものなの。勝手な信頼だとあなたは言える立場ではないのよ。だってその人はそう思うだけの理由があってたぶんあなたを生み出した、いいえ、選んだのだから。選んでないとしても、それは運命的なものとして受け入れ、あなたに願いを託す意味合いでそう思うことにしたの。だってそれ以外なんのしようが無いものね。信頼していた相手に裏切られるってどういう気持ちだと思う?」
「悲しいね。」
「本当に怒りを覚えるものよ。その怒りの炎は赤く激しく燃え上がるというよりは、赤黒くエッジの効いたものが静かにうねうねと左右に揺れる感じね。音もなく。想像できてる?」
「たぶん。」
「もっとも強い動機よそれは。その人はその怒りによって自分を見失い、そして心を壊すことなんてどうとも思っていない。そんなその人はあなたになにをしたいと思う?あなたがどう目をそらし、想像することを拒んだところでそれは進行していくものよ。」
「そうだろうね。」
「亡き者にするだけでは済まないわ。その先にはきっと死が待っていることは決まっているものの、それだけを与えてはあなたに対する気持ちは晴れないの。そこにはあなたを思う本心が隠れているとか、大切に思っているからこそそうしてしまうとかいうことじゃないからね。それは純粋な怒りでしかない。もしくはその人は悪意というものの意味を知ることになるかもしれない。」
「悪意?」
「水を沸騰させて作った蒸気で少しずつ苦しみ続けていくあなたを前にその人はなにを考えるものかしら?」
「僕どんな状態にあるのだろうか?身動きが取れない?」
「いいえ、逃げるのをあきらめきれないくらいには自由がきいているの。絶対に逃げることはできないけどね。なにをしたいかと言えばあなたを苦しめたいことはそうなんだけど、その人が本当に求めているのはあなたの後悔なのよ。あなたの考え方が間違っていたと本心から認めさせることなの。認めたふりをしても無駄よ。その人は専用の装置なりを持ち込んで、それを確かめる方法をも確立しているんだから。」
「僕は認めざるを得ないのだろうね、真に。」
「そうなればその人は許すかと言えばそうでもないわ。それは終わらない。なんのためか?あなたはもうその時になったら、普通の人生を送っていくことができる体ではなくなっているものだからね。何の役にも立たないものだし。」
「その拷問は続いていくと。」
「罰は罪を認めたところから始まるんだから。そうでしょう?罪を知らない人に痛みを与えてもそれは罰にもならない。突き詰めなくたってそういうことなの。もちろんあなたは命を落とすことになるわ。もちろん、自分の意思でもってね。あなたにおいてもその人においても、もう既にそうするしか選択肢は残っていないの。罪悪感は感じるでしょうね。そんなに悪い人ではなく元々はその使命にささげる誠実な人ですもの。だからあなたの起こした間違いについては誰にも伝えることなく、あなたの残した実績においてのみが後世に残るだけ。」
「それは助かるな。」
「あなたは拷問の最中、おとなしく使命を果たしておけばよかったと身をもって思わされることになるでしょうね。その人の目的がそうなんだから。」
「そうだね。」
「それが嫌だったら今のあなたがどうすべきかはわかると思うのだけど。あなたはこれまで死を迎えた人の中でほとんど唯一として名誉ある死を迎えることになるのは変わりないんだから。」
「大丈夫さ。僕は君の想像するようなことは考えていない。躊躇している訳ではないのだから。」
「そう?」
「僕の使命はより早く、一刻も早くそうしなければならない、ということでもないだろう?」
「どうかしら。」
「君は知っているはずだ。僕の使命は結果的にどうであったかが重要であり、その過程はさして重要ではない。最後にその使命が果たされていればそれでよいものだ。」
「それはあなたが死ぬまで?」
「そうでは無いこともちゃんとわかっている。それでは僕が命を投げ出す必要も無くなってしまうからね。またそうでないもののそれは恐ろしく先のことでもないことを知っている。」
「そんなに先のことじゃなく、それはすぐ後ちょっとのこと?」
「それは今日に限ってのことならそうでないかもしれないね。今日は特別に長いのだから。」
「それが来ないうちならあなたはそれを十分にその猶予を使って、束の間のバカンス、いいえ、有効に使うべき与えられた期間として使い切るつもり?」
「いいや、それは実際的にそれだけの猶予があるということを言っただけさ。そのつもりはない。」
「それに僕としても無駄に結論を先延ばしにして君のような人の注目と関心を集め、訪問して話をしてもらいたいという気持ちもあるわけではない。」
「失礼だものねそれは。」
「そう。許される範囲の中で、常識的な、良心的な範囲の中で僕は、今のこの時間を過ごしているんだ。
それは許されないことでもないと僕は思うのだけどどうだろう?」
「私に聞かれても困ってしまうものよ。その人はそれで許してくれるかどうかはわからないのだから。その人の心情としてはあなたのそんな考えなんてものは関係なく、それはできるだけ早く成されるならそれでいいのだからね。その人の不安を先延ばしにしていることには変わりないのよ。」
「そうだね。僕はその人の気持ちを全く意識していないように見えてしまっているだろうな。僕は早くそうしてしまい、その人の迷いを解消してあげないといけない。」
「そう言っている間にもあなたは一歩も動こうとしていないのはなんなのよって感じよね。私がなにを言ってもあなたの心にはまるで届かないみたい。」
「そう見えるだろうか?」
「かといって心を閉ざしているようにも見えないの。私の話を無視しているわけでもなく、私に悪い感情を抱いているわけでもない。」「そうであるにもかかわらず言葉が届く気配がまるでない。」
「そう。」
「それは君のせいじゃないさ。」
「そうね、私が悪いんじゃないわ。そのすべてはあなたのせい。いいえ、これはあなたによるもの。」
「僕がそうしていると?」
「そう。あなたがそうしているからよ。私が困惑するのはあなたがその揺るがない意思を隠しているからね。」
「何も隠してなんかいないさ。」
「私はそれを知っているの。あなたは決めているのよ。なにかを。」
「そう。だが君から見て僕がそう決めているように見えるのは、やっぱり死を前にしているからなのかもしれない。」
「あなたの中ではあなたの言う通りもう準備はできていて、その死を迎える境地においては、これからダラダラと人生をなんの目的も無く生きていくかわからないような私達には達しえないものがあったりなんかきっとするもので、そのせいで私はあなたとの受け答えでそう感じ、そう見えたものなのかしら?」
「君の言うことによればそうなる。」
「私はあなたのことを信じるべき?」
「それは君に任せられているし、君にしか決められないことだ。」
「だけどあなたとしては信じてほしいところではある。」
「そうだね。」
「そうかしら?信じてくれると思っているなら間違いよ。あなたはさっきから私の言葉を心にとどめおきもしないで、聞いた雰囲気を返してよこすだけ。なんら言うことを聞いてもくれないんだから。そんな相手の願いなんてかなえてやる必要も無いわ。だから私は私の信じる通りのことを想っていいし信じていい。そんなわたしだから思ったのだけど、あなたってもしかしたら使命を果たす気はないんじゃないかしら。」
「端から?」
「そう、端から。」
「なぜ?」
「思ったのよ。あなたはなにか生きる目的を見つけてしまったのではない?」
「生きる目的?」
「今のあなたには生きる目的が出来てしまっているの。」
「僕はそのせいでこの使命を投げ出そうとしていると言いたいのかな。そうだったら心外だ。」
「そうかしら?」
「僕は先を急ぐことにするよ。」
「どこへ?それはあなたの言った管の継ぎ目のことかしら?それともそうでない別な場所?。もしかして私もついていった方がいいかしら?」
「それがどこかを君に言う必要はない。僕の使命に君は関係がないんだ。従ってついてくる必要も無い。」
「ついてこられては気が散ってしまう?」
「ああ。であれば君はこれからどうする?」
「私だって暇ではないの。私はあなたのためをもってここにいるとは一言も言っていないのだもの。私にはこの寂しい場所でなにかしらの仕事がある人なんだから。そうでしょ?」
「そうだね。」
「私はきっとなにかの用事でたまたまここを通りかかった、あなたにとって初対面のうちの誰かでしかないの。でも人の背中を見るのはなんだか寂しいものね。」




