巨人
ちなみに本作は、時間軸的には転生編より後から始まりますが、そちらを先に読まれなくても実際安心です。
闇夜の森に、獣の遠吠えが響き渡る。その遠吠えに呼応するように、木々がざわめく。
それから数瞬、森から全ての音が途絶えた―かと思えば、突然の暴風が木々の先端を激しく揺さぶり、再び森が騒がしくなる。それと同時に、月明りに照らされた緑の絨毯の上に、猛り狂う火の玉の如き巨大な影が踊り、一直線に北へと向かう。
そしてそれから間もなく、またしても一陣の風が突き抜け、今度は剣の一閃の如き影が伸びる。
…ォォォ―――
それは、人の叫びのようにも聞こえた。だが、悲鳴ではない。それは、戦う者だけが上げる雄叫び。
その雄叫びと共に、後ろから追いすがる剣閃の如き影が、前を往く猛り狂う影と交わる。影同士が交わった瞬間、肉を鋭い刃物で斬ったかのような生々しい音と共に、今度は正真正銘の獣の悲鳴が響き、轟音と共に木々がなぎ倒される。
はたして、土煙と木の残骸を掻き分けて現れたのは、メートルで表すなら二十メートルは優に越すであろう、狼のような巨大な異形。ような、と表現したのは、その異形は二本の後ろ脚でしっかりと立っており、その前足は、足と表現するのがおかしいように思える程、人間の手に酷似しているからだ。
口から垂れる涎は腐臭を放ち、落ちた所からは湯気が立っている。とてもではないが、現存する動物が放つ臭いではないだろう。
凶暴そうな印象を受ける狼の異形は、しかし、明確な理性、そして知性を持ち合わせているらしい。現に、肩で息をする程に消耗している異形は、自分を守るように、右腕で身体を庇っている。その黒ずんだ剛毛に包まれた皮膚には、無数の切傷。だが、まだこの異形は戦意を喪失していないようにも思える。
「GWRRR…」
異形は威嚇するように、低い唸り声を上げる。その赤くぎらつく瞳は、今しがた自分を撃ち落とした憎き敵がいるであろう場所に向けられている。
その突き刺さる鋭い視線の数十メートル先に、それはいた。
―狼の異形とほぼ同じ等身をした、白銀の鎧に身を包んだ騎士の如き巨人。
騎士のようにマントを羽織っているわけでもなく、また盾を装備しているわけでもない。唯一の得物は、その右手に握られた巨人の鎧と同様の白銀の剣。鎧自体も豪奢というより簡素であり、加えて金属というより生身に近く、まるで巨人の皮膚そのもののように思えるが、それでも身体の各所に見受けられる楕円形の結晶体が気品さを際立たせ、更に気高さをも感じられる。
騎士の巨人は、絶えず唸り声を漏らす狼の異形に向き直ると、手にした剣を構える。だが、すぐには動かない。
騎士と狼は、互いの隙を見つけんと、その場から一歩も動く事無く、ひたすらに睨み合いを続ける。
「…ヌゥン!」
先に痺れを切らしたのは、意外にも騎士の巨人。巨人が駆けだしたと同時に、狼の異形も今が好機と捉えたのか、人の手にしか見えない前足を地に着け、四足で駆け出す。
三十メートルは離れていたであろう間合いが、程なくして十メートルまで縮まり―
「ハッ!」
―更に五メートルまで縮まったところで、巨人の様子に変化が起きる。次に踏み出す右脚に力を籠め、そのまま前方へ―異形の上方へと飛んだ。
意表を突かれた狼の異形は、思わず驚きの声を上げる。巨人は、わざと隙を見せたのだ。自分が駆け出せば、狼の異形も必ず駆け出すと確信して。
そして、擦れ違いざまに巨人は、手にした剣で異形の背を斬り裂く。一瞬、その剣が煌めき、異形の背の皮膚に触れた瞬間、火花の如き光の粒子が飛び散り、同時に青い血のような飛沫が飛ぶ。
「GAAAAHHH!!!」
痛みから、再び絶叫を上げる異形。悶え苦しむ異形を背にし着地した巨人は、そのまま振り返ると、剣の腹を腕の甲の結晶体に添わせ、そのまま腰を深く沈めて構える。その一連の動作は、我々にとって馴染み深いもので形容するなら、『居合抜きの構え』だ。
すると、剣の刃が白く光り輝き、段々と光が圧縮されていき、それに伴い光が強く輝きを増す。
その光がやがて、光輪すらも放ちだした時―
「…ゼィアッ!」
気合の籠った力強い掛け声と共に、巨人はその剣を抜剣。すると、剣に圧縮されていた白い光が伸び、鞭のようにしなる。
そして、巨人が剣を異形の方に向ければ、光もまた、異形に向かう。それはさながら、光線のように。
そして、光が異形に炸裂した。
「GRRAAAHHH!!!」
その一条の光に撃たれた異形は、最初こそ絶叫しながら耐えていたものの、徐々に腕がだらりと垂れ落ちていく。
そして間もなく、異形の目から輝きが失われ、それに連動するように異形の身体から次々と閃光が迸る。
次の瞬間、異形の身体は、激しい爆発と光に包まれ、光の粒子となって跡形も無く消え去ってしまった。
そして、異形が完全に消え去ったのを確認すると、巨人もまた、光に包まれ消え去る。
******
巨人が消え去った場所。そこに残っているのは、一人の青年。頬に一本の傷を付け、革製のコートに身を包んだ、一見してワイルドそうな青年。その黒い短髪は、月の光に照らされている為か、淡い青色のようにも見える。
そしてその青年の手には、先程まで巨人が手にしていた剣に酷似した白い短剣が、同じく白の鞘に仕舞われた状態で握られていた。
先程までの喧騒は何処へやら、今の森に残されているのは虚しさすら覚える静寂と、深い闇。が、巨人がいた場所などは当然木がなぎ倒されている為、月明りでそれなりに明るくはなっている。
青年は天を見上げ、ほぅ、と息をつく。見上げてみれば、広がる星空。火などの明かりが一切ない為、遠くにあるのであろう星も輝き、まさしく星の海と形容するに相応しい情景を描いている。その中心には、やや欠けている青い月が浮かんでいる。
「この調子だと、そろそろ満月って感じかな…あー、連中、満月の日になんか起こすかもなぁ」
青年は伸び伸びとストレッチを行い、軽く身体のこりを解しながらそう一人ごちる。
満月がやってくるのは、三ヵ月に一度のペース。青年がかつて聞いた伝承によれば、昔は十五日で満月が昇り、そして次の十五日で月が夜空に消えていたそうだが、なんでも満月になれば夜を生きる怪物達が活性化するから、善なる神様がそれを長引かせた、との事らしいが、実際のところはどうなのかは彼にも分からない。
「さてさて、アイツは確か…」
誰に聞かれるわけでもない独り言をブツブツと呟きながら、青年は手にした短剣の仕舞われた鞘をベルトに上手い具合に引っかけると、夜の森の闇の中へと、一切の躊躇も無しに足を運んだ。
それから、どれほど歩いただろうか。彼がやってきたのは、狼の異形が倒れ、そして消えた場所。案の定、爆発の影響で木々が吹き飛ばされ、粉々になっている。よく見てみれば、ちりちりと残り火も見える。
青年はその残り火を避けるようにして、爆心地たる中心へと歩み寄る。だが、そこには誰もいない。
「…あー、もう!」
あからさまにめんどくさそうな態度を取ると、その場に屈みこみ、目を凝らす。
そうして見れば、案の定、地面に何か、引きずった跡があるではないか。
「手間かけさせんなっての…」
その跡を辿ってみれば、何やら森と爆心地の境界線辺りで、もぞもぞと身体を捩らせながら逃げようとする、怪しげなローブ姿の何者かの姿を捉える。
「めっけ!」
青年は口の端を吊り上げる。だがその笑みは、どことなく獲物を見つけた時の狩人にも似た何かを感じる。一言で言えば、恐ろしい。
ローブを着ているせいで上手く立ち上がれず、芋虫のように這いずっている男も、そんな彼の笑顔を見てしまったのか、その顔を引きつらせながら必死に逃げようとする。
だが、徒歩と這いずりでは当然ながら勝負になる事はなく…
「おい」
「ひ、ヒィ!」
…こうしてローブの男は、至極当然の結果としてあっさりと青年に捕まってしまった。
青年は、ローブの男の胸倉を掴むと、そのまま近くにあった木に勢いよく押し付ける。ローブの男の口からカエルが潰された時のような音が漏れるが、青年は全く気にしない。
「よぉ、売人さん。儲かってるかい?」
「ま、まぁ…ぼちぼち…」
「なわけねぇよなぁ?ちょっと前に山賊共に、『化面』、売ってただろお前。なぁ?」
先程までの笑顔とは打って変わって、冷徹な表情を浮かべ威圧する青年に、『売人』は更に委縮してしまう。
「まぁ?その山賊もよくわからんが結局壊滅して?そいつらの『化面』は、どうも本格的な『獣化身』も起こさなかったらしいからいいけどよ?…お前、他ンところでも売りさばいてたんじゃないの?」
「そ、そんな事は…」
「あ?」
「え、あ、はい、そうです、売りました…」
ここまで威圧的に出られてしまうと、数多の人間を相手に商売をやってきた売人と言えども、口を割らざるを得ない。というより、わざわざ使い慣れた『化面』の力を使い、その上『獣化身』によってあのような巨大な異形になったのにも関わらず、あらゆる面で敗北したのだ。それはつまり、売人は今この青年に、生殺与奪権を握られているに等しい状態なのだ。
「さぁて…」
とりあえず一通りビビらせて満足したのか、それともこの調子では遅くなってしまうと思ったのか、青年は胸倉を掴む左手をそのままに、右手だけで売人のローブを弄り出す。別にやましい事など一切ない。
「お、あったあった」
と、丁度右の脇腹の辺りに目的の物の感触があるのを確かめ、それを一気に引き抜く。
それは、見紛う事無く仮面だった。狼を模しているらしいそれは、口周りには何もなく、鼻から上が黒ずんでおり、先程売人が変化していた狼の異形によく似ている。
「こいつが『ライカンスロープの化面』…って、『牙』がねぇじゃんか。ほら、出せ出せ。ほら!」
「わ、分かった、じゃなくて分かりました!分かりましたからやめて…!」
酷く女々しい態度で慄きながら、売人は左の脇腹から何かを手に取り、それをそそくさと青年に手渡す。
売人が手渡したのは、フェイスガードらしい金属製のマスク。しかしなるほど、青年の言う通り牙のように見える。
「よしよし。で、こいつをこうして…」
そうしてようやく、青年は掴んでいた胸倉を離すとその場にしゃがみ込み、両手にそれぞれ握られた『狼の仮面』と『牙』をくっつける。するとどういうわけか、これがぴったりと合わさり、綺麗にくっつくのだ。
「後は…仕上げだ」
青年はそう言うと、一旦牙付きの狼の仮面…合わせて『ライカンスロープの化面』と称されるそれを地面に置き、膝をついた体勢のまま腰のベルトに差した短剣を、鞘ごと引き抜く。その短剣を眼前に持ってきたかと思うと、青年はまぶたを閉じ、何事かを呟く。よくよく聞いてみれば、何かの詠唱のようにも聞こえる。
「…うし」
詠唱を終え、青年は短剣に本来の役目を全うさせるべく、満を持して鞘から短剣を引き抜き―そのまま、短剣の切先を仮面に向かって振り落とした。不思議な事に、その刃はほのかに光を纏っていた。
ガキン、という金属のぶつかる音。その後に、パカリという割れる音が鳴る。その音の示す通り、仮面は真っ二つに割れていた。と同時に、切り口から黒い煙のような何かが舞い上がり、そのまま空気に溶けて消えてしまう。
「こっちは終わりだ…っと、待った待った。まだおたくに用があるんだって」
「ひ、ひぇぇ…」
一連の作業を終えた青年は、こっそりその場から逃走を図っていた売人を見逃す事なく、再び売人を脅しにかかり、もとい説得にかかり、売人が逃げられない状況にする。
「ほら、まだあるんじゃないの?出せ出せほらほら」
「だ、出せったって…もう何も…」
「…何?」
威圧されているにも関わらず否定の言葉を紡ぐ売人に、青年は眉をひそめた。
念の為にと再び売人の懐をくまなく探すが、今度は何の感触もない。
「…あっれぇ、おっかしいなぁ…?なぁ売人クン。お前確か、『オーガの化面』が一枚に、『オークの化面』が二枚。それからお前が着けてた『ライカンスロープ』と、最後にあと一つ含めて、計五枚懐にある筈だよなぁ?」
「えっ…ど、どこでそれを…」
「いいから答えろ。どうなんだ?」
そう問い詰めると、売人はおずおずと口を開いた。
その時、丁度森の中を、冷ややかな風が吹き抜け、静かな森が葉っぱの擦れる音で満たされる。
「…やってくれたなぁ、こんちくしょうめ」
売人から話を聞き終えた後、青年の顔は驚くほどに真顔になっていたが、それでも分かってしまう程に、その瞳に燃え滾る怒りを滲ませていた。
その足元では、青年が怒りのままに叩きのめした売人が伸びていた。