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新宿駅地下で転職を奨められた。

「今、何時?」


 向かいの席に座っている彼女が聞いてきたから、ポケットに入れたスマホを取り出そうとした。僕は腕時計はあまり好きじゃないから、仕事が終わるとつけていない。

 時間表示は11時18分。


「あ、もうこんな時間なんだ……」


 僕が時間を言う前に、彼女が腕時計を見ていた……何のために聞いたんだろう。


「じゃ、ごめん。もう行くね」


 横の椅子に置いたカバンを手に取って彼女が立ち上がる。


「……なにも言ってくれないの?」


 悲しそうな目で僕を見る彼女に、僕は何も言えなかった。

 最後くらい気が利いたことを、と思ったけど、そんなものがパッと浮かぶような男だったらこんな状況には多分なっていないだろう。結局、最後に出たのは我ながらヒドイ、陳腐なセリフだった。


「……ごめん」

「……じゃあね……さよなら」


 そう言って彼女は行ってしまった。どっかにこんな歌詞があった気がするな、と思いながら僕は見送った。

 いつもは順番に奢りあいをしていて、今日はどっちの番だっけ、と言い合うのが僕らの定番だった。でも、今日は自分の清算書をもっていくあたりが、決別の意思を示しているようで悲しくなる。


 今、新宿駅の地下のカフェにいる。お客さんは僕ら以外居ない、僕ら、といったのはさっきまで僕の彼女がいたからだ。

 彼女にはついさっき別れを告げられたので元カノだけど。


 忙しくて相手にしてくれないのはもう辛い、ってことだった。仕事仕事だったし、言われてしかたないかもしれない。

 店員さんは気を使ってくれたのか、表には出てこなかった。


 なんか冷めた気持ちで冷めたコーヒーをすすっていると、スマホにメール受信の表示が出た。

 ……明日、8時にANY商事へ直行すること。

 残業が終わったのがついさっき。メールの受信時間は午後11時25分なんですが、それは。あまりにも心が温まる指示だ。

 

 一生懸命働いても何かが変わるわけじゃなく、会社の役に立っている感じでもなく、ただ日々を過ごして消耗していってる、そんな感じだ。

 僕がいる意味はあるんだろうか。歯車が欠けたらすぐに別の歯車に付け替わるんだろうか。それとも歯車は歯車で付け替えるのに多少の手間はかかるんだろうか。そうなら僕にも価値はあるんだろうか。


「もうどっか行っちゃいたいよ」


「じゃあ行こうか?」


 なんとなくつぶやいた独り言。それに思いもかけず返事が返ってきた。



 びっくりして顔を上げると、向かいの席にいつのまにか一人の子供が座っていた。誰?

 しかもいつの間にかオレンジジュースまでテーブルの上に置いてある。ぼんやりしていたとはいえど、いつの間にか人が向かいに座って、しかもジュースまで出ているのを見落とすのは我ながらひどい。


 それに、もう夜12時近い。子供がいていい時間じゃないと思う。 

 僕が少年に小言の一つもいう前に、少年が口を開いた。


「なんか辛そうだよね。話してみなよ、お兄さん。楽になるかも」


 にっこりと少年が笑った。

 どこにでもいそうな塾帰りのブレザーを着た12歳くらいの男の子、という感じだけど、なんかひきつけられるものがある。

 少年はほほ笑みながら黙ってこっちをみている。


 話してみろって言われてもなぁ。25歳にもなった社会人がこんな子供に愚痴を言うのもどうなのか、と思う。でも誰かに聞いてほしいような気もするし。

 一瞬ためらったけど、まあいいかと思った。もう会うこともないだろうし、愚痴らせてもらおう。


「僕はさ、社会人になって、世の中のために仕事をしてみたかったんだよね。お客さんにありがとう、と言われたり、頑張って会社とかをよくできたらいいな、って思ってたんだ」

「へぇ。立派じゃない」


 こんなことを子供に言ってもわかるんだろうか。

 年齢でたぶん倍近い大人が子供に励まされるのも恥ずかしいけど、話し始めた以上は、もう気にしないことにした。


「でもさ、実際は頑張ってもちょっとしたことでクレームもらうことばっかりだし、頑張って営業しても先輩に手柄取られたりするし。会社のシステムもいつまでたっても効率悪いばっかりで意見出しても全然変わらないし。

そんなもん、といわれればそんなもんなのかもしれないけどさ。もう疲れちゃったよ」


 僕、風戸澄人かざますみと25歳、都内の工学系の大学を出て3年。自分はもっと世界を変えられると思っていた。でも現実は甘くなかった。


「ごめんね、こんな話して。わかんないよね」

「そんなことないよ。大変なんだね、大人って」


 誰かに話すと少しは気が楽になる。胸の中にわだかまっていた気持ちが少し軽くなった。

 ストローでジュースを一口飲んで、少年が口を開いた。


「お兄さんは今何をしてる人?」

「電機関連の工事の営業兼技術職かな。でもなんでもやるよ。小さい会社だからね。事務もするし」


 少年が僕をじっと見つめる。

 あらためて見ると、整った顔立ちで、ちょっと大きめの目に、短く切った癖っ毛の黒髪。ボーイッシュ系の女の子と間違いそうな美少年だ。見つめられると、ちょっと赤面してしまう


「今の会社は辛いの?」


 言われてふと考え込んだ。

 やりがいがないわけじゃない。給料が安すぎるわけでもない。先輩や上司を蹴飛ばしたくなる時もあるけど、それは僕の会社に限ったものでもない。

 今すぐ逃げたい、とかそういうのとは違うけど。


「このままでいいのかなってね、思うんだ」


 今の気持ちを一番端的に表してるのはこれだ。

 このままこの職場で仕事に追われながら過ごしていいのか?将来は大丈夫なんだろうか。それともこれは3年目にやってくることが多いらしい仕事辞めたい病なんだろうか。

 少年が頬に手を当てて考え込むようなしぐさをする。


「じゃあさ、思い切って転職してみない?僕が紹介してあげるから」


 少年から思いもしない言葉が出てきた。紹介してくれるっていっても、彼はどう見ても子供なんだけど。

 なにを言っているんだろうと思ったけど、でもいまやIT企業とかなら高校生が社長とかだったりする時代だ。見た目だけでは判断できない。

 気休めなのか、まじめなのか。

 少年が僕の出方を窺うように、黙ってこっちを見ている。ちょっと興味が出た。


「どういう職場?」

「人のために働けるよ。お兄さんなら大丈夫」


「そうじゃなくて仕事の内容は?」

「うーん。一言でいうと体を使う仕事だね」


 肉体労働系だろうか?


「勤務地は?」

「東京だよ。しばらくは渋谷かな。でもその先どうなるかはお兄さん次第だけど」


 都心で体を使う仕事。建設系とか運輸系とかそんなんだろうか。

 転勤ありというのは、成績次第では栄転というニュアンスなのか、それとも左遷されるかもということなのか。

 今の会社は小さめで、支社は埼玉にあるだけで転勤とかで環境が大きく変わる、ということはない。そんな僕としては、転勤ありというだけで結構大きな会社に思える。


「給与とかは?」


 人間は霞を食べて生きてはいけない。待遇はすごく大事だと思う。

 それに給与アップを求めて転職してみたものの結果的には給与が下がった、なんて話も聞く。安易には決められない。


「歩合制。頑張れば思い切り稼げるよ。みんなの役にも立つ」


 歩合制……最近の歩合とか成果報酬とかいうと鬼のようなノルマを押し付けられるイメージしかないんだよなぁ。ちょっと引いてしまう。


「大丈夫だよ。

むちゃくちゃなノルマがあったりはしないから。普通に仕事してくれれば大丈夫。頑張れば稼げるってだけ」


 僕の懸念を察したかのように少年が言った。


「大丈夫、悪い話じゃないよ。本当さ」


 自信満々に断言されるとなんとなくそうかもな、と思ってしまう。

 冷静に考えてみよう。とりあえず職場が渋谷なら、今アパートを借りている立川から引っ越しはしなくていいだろう。

 今の話を聞く限り無茶なノルマを押し付けられることもなさそうだ。

 肉体労働もまあいいや、と思う。高校では剣道、大学では自転車をやっていて、それなりに体力はある方だ。ついていけないってことはないだろう。

 今の話だけ聞く分には悪くはない気がする。


「話くらいは聞いてみたいな……」

「それでも大丈夫だよ。ならこの書類を取って」


 何処から出したのか、よくいえば古風な色の、悪く言えば黄ばんだ感じの畳まれた紙が一枚差し出された。

 コピー用紙の白さに慣れた身としては新鮮だ。手すきの和紙のようなちょっとざらついた手触りだ。


 転職か。考えたこともなかったけど、言われてみれば今の職場ですり減ってくよりは環境を変えるのもいいかもしれないな、と思う。

 ともあれまずは話を聞いてからか。ほんとに転職するなら、早めに今の会社の退職手続きをしないと。


「なんか……ありがとう、というべきなのかな?」

「どういたしまして。僕もお兄さんみたいな人にあえてうれしいよ」


「君はその会社の関係者なの?まさかの社長とか?」


 見た目はどう見ても子供だし、通りがかりの転職エージェントとかとは思えない。その会社の社長とか、社長さんの身内とかならあり得なくもないけど。

 少年は笑ったまま答えてくれなかった。

 まあでも、その転職先に行けば分かることかな。


「ところで、本当に転職するとしたら、たぶん今の職場の退職の手続きとかで1カ月くらいはかかると思うんだけど。

それにその仕事の内容も知りたいし、その新しい職場で話を聞けばいいのかな?この紙に書いてあるの?」


「いますぐわかるよ」


 はい?


「じゃあ頑張って」


 その瞬間、周りが真っ暗になった。



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