第34話 妖魔封印
もう独りじゃない
私/わたしがいる
意識が朦朧とする。ふわふわと宙を漂ってるみたいだ。
あれ? 私、一体どうしちゃったんだろう……?
ちゃんと祝詞を言い終えられたのかな?
ちゃんとあの禍神を封印できたのかな?
ちゃんと雪ちゃんたちは無事なのかな?
ちゃんと真琴さんを救い護れたのかな?
ちゃんと――元の生活に戻れるのかな?
……はは、なんてね。
――きっと、もう元の生活には戻れない。
もう真琴さんと、あの日々のように顔を突き合わせて笑えあえない。
こんなに、こんなに怖い目にも辛い目にも、死ぬような目にも合わせてしまったのだから。
私が傍にいては、またこんな風に巻き込んでしまう。
こんなのは、今回で十分だ。
白羽グループの情報もからはもちろん逃げれないけど――でも、こっちだって、コチラの世界では最有力の力を保持してる一族だ。
表に通じている白羽グループは、当然色々な裏にも通じているはずだ。分を弁えて、大人の線引きも引き際も心得ていることは間違いない。
この夢が醒めたら、私は白羽学院を出て、世界を周ろう。
子供の夢は、もう十二分に見せてもらった。
夢はいつか、醒めなければならない。
これからは私は、神寺として生きていく。
運命に抗わず。
風習に従い。
慣習を全うし。
呪いを受け入れて。
使命に殉じよう。
ああ、ちくしょう……。
もうちょっとこの夢を視てたかったなぁ……
◆
「ヒカリ! しっかりしてヒカリ!」
「ん……」
目を開こうにも、瞼が重い。癒着した、古くなったガムテープを剥がしているように、粘着質に糸を引いてみ感じだ。
体も、骨の芯も、血液の中にさえ鉛が流し込まれてるみたいだ。
それなのに、すかっとしたような、爽快感というか、快感がある。……まるで、貧血の時みたいに。
……もう、眠いなぁ。誰ですか、さっきから私を起こそうとしてるのは。
夢の中でですけど、夢から醒めるって決めたんですから、せめてもう少しだけ寝かせてくださいよ。
「あとごふん……」
「寝ぼけてる場合じゃないでしょ!」
「あいたっ!」
右頬に衝撃が走り、耳の中に小気味良い破裂音が入ってきた。
ヒリヒリと痛む感触に引きずられるように、現実に戻ってくる。
目の前には、焦りつつも若干呆れて、そして茫然とした感もあるような、何とも言えない表情をした真琴さんの顔があった。
しかも、倒れそうになっていたらしい私の体を支えてくれてさえいた。
ガンガンガリガリといった、金属通しをぶつけ合ったり、削っているような耳障りな音がひっきりなしに聞こえてきてる。
そちらの方へ視線を移動させると、大蜘蛛の化け物が、私が張れる結界の数千倍効力の上な結界を突破しようとしていた。
「よう、戻ったか」
「さっさとあれを仕留めろ」
声の方へ視線をやると、私の場所から丁度三角形を描くように、巨大な狼のような犬が二匹佇んでいた。
眩しく勇ましい白銀の毛並みを持つ獅子。
猛々しい一角と漆黒の毛並みを持つ狛犬。
その二匹は、それぞれの持ち場で、全身から青白い光を放つほどに霊力を放出させていた。
――段々記憶が蘇ってくる。自意識が現実に戻ってくる。
白羽学園で謎の事件が起き、被害者が原因不明の病を患ったこと。
学園理事長の彩花さんに頼まれて、事件の解決を依頼されたこと。
深夜の高校に忍び込んだら、何故か真琴さんが待ち構えてたこと。
学校のお化けと言えど、遂に犠牲者がでってしまったこと。
有名な、あのお化け三トリオにちょっかい掛けられたこと。
謎の親近感を感じてしまった、正体不明の女と戦ったこと。
女に破れ、彼女達を危険に曝し、鎖を解いてしまったこと。
そして、女を封印すべく、詠唱完了の間近で気絶したこと。
全部全部ーー取り戻した。
「……すみません、もう、大丈夫です」
「ヒカリ……」
真琴さんに支えて頂いている体をなんとか戻そうとする。
しかし、視界はぼやけて霞み、凍えるほど寒くて、激痛に苛まれているこの体は、まったく言うことを聞いてくれなかった。
人間の限界まで酷使したために、体中のいたるところの骨が折れたり、ひびが入っていたりしている。筋肉が断裂している箇所も少なくない。
これではもう、ひとりでまともに立っていられないだけでなく、この両手に握りしめている「鏡」を掲げることすら不可能だった。何故なら神格化して、最初に女を吹っ飛ばした時、拳と手首が砕け、上腕二等筋の筋が完全にちぎれてしまったのだから。
右腕だけじゃない。左の肩も深くえぐれていて、ひょっとしたら骨まで見えてるのかもしれない。
呼吸もおかしい。女の爪が刺さった胸から、息をするたびに抜けてるみたいだ。
幸い、出血はすべて止めてある。神工的に敗れた血管は補修し、全身に残りわずかな血液を絶えず回す事には成功している。
だが、血液を増強までには力を回せなかった。血も圧倒的に不足しすぎてる。意識を保ってるのが精一杯の量しかない。それも、先ほどのようにすぐに飛んじゃうレベルの。
ふふ、これじゃあ、仮にここでこの女をなんとかできたとしても、私、生きて家に帰れるかもあやしいなぁ……。
母上……。
母上に、今、猛烈に会いたい。
けど、たぶん無理だろう。
私の命は、あと残り保って、数十分が限度、かな?
瀕死の傷を負い、
致死量寸前まで血液を失い、
内臓からも出血や壊死にまで至っていて、
リミットを解除したために体中ズタボロといった――この状態。
たぶん、生きてこの学校から出ることはないだろう。私のあの決意は、丸っきり無駄だったという事だ。
けれど、それもいい。この女さえ、なんとかできれば。
それで、被害者の方々は回復する。この学園も脅威に怯える事もなくなる。
真琴さんが助かる。
「……ッ!」
残りわずかな、回せるだけの霊力を両腕に送る。
筋肉が引き千切れ、使い物にならなくなっている右腕の筋肉の代わりに、疑似的な筋肉を作りだす。それで、なんとか『鏡』を握りなおす。
続いて、両肩とそれぞれの両手の甲を線でつなぐイメージ。それを縮めて、『鏡』を持ち上げる。
腕は縮こまった、無様な形になるだろうが、あの女の鏡面に映しさえすればいいのだから、恰好なんか関係ない。
「うっ……ぐっ……うぅうぅ」
しまった、痛覚を遮断するのを忘れてた。
いやでも、私は今ほんとに痛みを感じてるかすら危ういな。
ちょうどいい。痛みなんか感じないくらいが都合がいい。
両手は少しずつしか上がらない。『鏡』を手放したりしたら元も来ないからだ。
女が結界に加える攻撃を、より一層激しいものへと変化させた。
衝突音と切削音、そして命の残り時間が私を焦らす。
「……くっ」
玉のような汗が目に入り、思わず目をつむった。体も小刻みに震えているみたいだし、やっぱりこの感覚は痛みか。
ちくしょう、負けられない。
まだか……焦るな……早く……落ち着け……急いで……!
その時、急に両腕が軽くなった。
急いで目を開ける。焦って、『鏡』を落としてしまったのではないかと思ったからだ。
だが、それは見当違いだった。
私の手には未だ『鏡』が握られていた。
変わったのは、その『鏡』に別の手が当てられていて、支えられていたこと。
「ヒカリ、もう一人で戦ってると思わなないで」
その手の持ち主――隣の真琴さんが、少し厳しく、そして僅かな温もりを感じさせる瞳で私を視ていた。
「あなたもさっき見てたでしょ? もうわたしは護られるだけの人間じゃないわ」
「で、ですが!」
「ですがもかすがもないわ。あなたがわたしたちのために戦ってくれてるように、わたしもあなたのために戦ってるの」
いつものように、若干理不尽で、傍若無人な論理を振りかざして、私を説得しているような感じで、真琴さんは言う。
「それにね。わたしはあなたの剣となった女よ。どれもこれもあなたのせい。ちゃんと責任とりなさいよね」
そして、悪戯っぽいウィンクを私に投げつけてくる。時速百六十キロオーバーの剛速球を、ど真ん中にぶつけてくる。
……ああ、もう、敵わないなぁ。
視線を無数に蠢く女の集団へ向ける。
「これの鏡面に、あの怪物を映すので、真琴さんはそれの補助をお願いします」
「承知したわ。それで、ヒカリは?」
「残りの祝詞を唱え切ります」
「そうすれば、この件はこれで片付くのね?」
「ええ、たぶん。被害に遭われた方々は、おそらく、アレに精気を吸われてただけだと思います。ですから、あとしばらく養生すれば、自然と回復されるかと」
「わかったわ。でも、わたしが訊きたいのはそれじゃないの」
「と、言いますと?」
「わたしは『それであなたは大丈夫なのか』と、そう尋ねているのよ」
「えぇ、と……」
難しい、ていうか、際どい質問しますね。流石です、真琴さん。
この最後の攻撃には、私の残りわずかな霊力を総動員しなくてはならないだろう。
その結果、技が極まり、あの女のをなんとかしようとしまいと、ほぼ間違いなく私の意識はそこで完全に途切れるに違いない。さっきみたいに、戦闘の途中で意識が戻ることなく、眠り続けるだろう。
そして、おそらく、より深く、永劫の眠りへ――
けれど、もしもここでそう彼女に告げてしまったが最後、彼女はたった一人で、あの女の元へ向かって行くに違いない。
彼女はそういう人だ。
「私の残りの力をすべて使い果たすので、おそらくそこで意識が完全に途絶えるでしょう」
「なんとなくそうなるだろうとは思っているわ。私が訊きたいのはその後」
「大丈夫です。ちょっと数日寝込むと思いますが、ちゃんと回復すると思います」
「その怪我も?」
「ええ。我が一族を侮らないでください」
「そう、わかったわ」
そう言って、彼女は視線を奴に向ける。
もちろん、私の言葉は嘘だ。
でも、ほんのちょびっとだけ真実が混じってる。だって、嘘は真実を忍ばせた方が信憑性は増すものですからね。
……ごめんなさい、真琴さん。
私は、女を見据える。
必ず、これで終わりにしてみせます!
『遺る罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末 短山の末より 佐久那太理に落ち多岐つ 速川の瀬に坐す瀬織津比賣と言ふ神――』
大祓祝詞を再開する。
『鏡』を持ち続けてないといけないと、思わなくなっただけでかなり楽になった。真琴さんには感謝だ。
真琴さんが『鏡』を支えてくれてるから、私は私の仕事に専念できる。
今にも意識が焼き飛びそうになるのを堪えつつ、全身全霊で詞を紡いでいく。
その時、女側に変化が生じた。
四方八方を覆い、全方面に無数の攻撃を加えていた女の分身が、一つに収束し始めたのだ。
どうやら、勢力を分散して攻撃する作戦から、一点集中に切り替えたようだ。
一体の、そして本体だけが残る。
そいつが弓なりに巨体をしならせ、結界への攻撃を開始する。
百枚のガラスが同時に粉砕された時のような音が鳴り響き、結界に穴が開く。
『オノレ、オノレ、オノレ!』
女の呪詛の声が聞こえてくる。
攻撃は止まる所を知らなかった。
次々に繰り出される鋭い女の脚が結界を穿ち、開いた穴をさらに広げようとしてくる。
「くっ!」
「このままじゃ、もうもたへんで!」
狛犬と獅子の危険信号が響く。
私は術式を止めることができない。止めたらそれこそアウトだ。
どうする? どうすればこの状況を打破できる!?
この調子では、唱え終る前にこじ開けられてしまう。
一体……どうすれば……!?
「狛犬! 獅子! 下がりなさい!」
その時、隣の真琴さんが二匹に指示を出す。
「今我らがこの場を離れるわけにはいかない!」
「そやで! そしたら、その瞬間奴にぺちゃんこにされてまう!」
「だれがそれ解いて来いって言ってるのよ! 結界を張ったまま後退しなさいって言ってるのよ! 密度を上げるの!」
そうか、密度か!
確かにそうすれば、より結界は強固なものとなる。
ようは女の作戦と同じだ。
分散させていた力を、一点に密集させる。
空気を圧縮すれば水となり、水をさらに圧縮させれば氷となる。
その原理を利用するという事ですね!
「せやかて、この界はこの三角形を維持せなあきまへんのや!」
「なら、わたしのヒカリも移動するわ」
「せやけど!」
『ガアアアアアアアアアアアアアアア!!』
耳障りな音と共に、女の頭部が若干侵入してくる。
もう迷っている時間はないようだ。
「早く!」
「主!」
狛犬がこちらへ鋭い視線を寄越す。私は頷いて見せた。
「――ッ! おい、後退するぞ」
「合点承知の助や!」
二匹が、ゆっくり後退を開始する。
『オノレエエエエエエエエエエ!!』
女は無理やり体をねじ込もうとするが、徐々に密度が上がり、強固になっていく結界に阻まれ、少しずつ外へ押し出されていった。
やがて、祠まで覆っていた結界も、祠まで覆う事の出来ない大きさに変わる。
「ヒカリ、わたしたちも少し移動するわよ」
真琴さんが、『鏡』と私を支えながら、そう囁いた。
私は祝詞を上げながら、小さく頷く。
じりじりと動き始める。
万が一にも、『鏡』を女から外せない上に、結界を形作っているこの三角形も崩してはならない。
鏡面から女を外せば術は無効になるし、結界が壊れれば無残に殺されるだけだ。
「ぐっ……!」
動く度に、体中が裂けるような痛みに襲われる。今にも倒れてしまいそうだ。いっそ、このまま倒れて眠ってしまえば、どんなに楽だろうとすら考えてしまう。
「わたしがついてるわ」
私の体をぐっとしっかり支えてくれている真琴さんが、目の前の女から一切目をそらさずに、力強く言い切った。
それだけで、私はどれだけ救われたことか。
これまでも。
そして、今この瞬間も。
――だから、それに応えたい。
「――ッ!」
微かとはいえ、三角形を維持するために前に移動する度に激痛が走る。血液の代わりに、大量の汗が全身から血飛沫のように溢れだし、染みになっていく。
掠れる視界の中で、醜い大蜘蛛のシルエットらしきものが前方で蠢いていた。その怨嗟のこもった奇声が、ほんのわずかに残った聴覚を突き刺してくる。
もはや思考は動かず、口からは勝手に言葉が溢れていた。
「わたしが付いてる」
そんな中で、やけにクリアな声だけが私の耳にそっと触れる。支えてくれる手のひらから活力を流れ込んでくるみたいで、その存在が唯一、私を現世に繋ぎとめてくれていた。
『――此く気吹き放ちてば 根國 底國に坐す速佐須良比賣と言ふ神 持ち佐須良ひ失ひてむ――』
これが、正真正銘、最後の一手。
「いっけえええええええええええええええええ!」
真琴さんが力強く私の背を押す。
それをなけなしの力に変えて、言葉が爆ぜた。
『――此く佐須良ひ失ひてば 罪と言ふ罪は在らじと 祓へ給ひ清め給ふ事を 天つ神 國つ神 八百萬神等共に 聞こし食せと白す!』
その瞬間、『鏡』から光が数多の束が解き放たれ、女の身体を拘束し始める。
『鏡』から溢れ出る光は強く、瞬く間に学校の闇を飲込んでいく。
『オノレ、許サン、許サンゾ』
女がもがきながら、毒々しく怨嗟の声を上げる。
『貴様ガ私欲デ我ラを産ミ出シ、剰エ用済ミトアラバ我ヲ捕エルカ!』
メキメキと音を立てながら、光の束に問わられた女が『鏡』の中へ吸い込まれていく。
女が光の束から逃れるように、四方にデタラメに糸で風穴を開ける。
しかし、その攻撃ですら、私たちには届かず、結界に弾かれた――しかし、うち一束が、むき出しになった祠を打ち抜いてしまった。
その瞬間、空間が軋み、女の憎悪にも勝るとも劣らぬモノ共が、金切り声を上げながら世界へ解き放たれた。
私の微かに残った聴覚が、「しまった!」「抜かった!」という獅子さんと狛犬さんの焦ったような声を捉える。
『我ラ決シテ貴様ヲ許シハセヌゾ――』
女は最後までもがき続け、憎悪のこもった悲鳴を、その断末魔を上げる。
『――神寺ァァァァァァアアアアアアア!!』
その断末魔を最後に、女は『鏡』の中へ封じ込められていった。
あたりには耳が痛いほどの静寂に包まれた。
その耳が痛いほどの静寂に、隣で支えてくれていた真琴さんが、零れるように囁いた。
「終わった、の……?」
私は、もう掠れてほとんど見えない目で、彼女に微笑む。
「かっ――勝ったああああ!!」
彼女の歓声が、まるで祝福の福音のように、私の全身を包み込む。
宙に浮くような安堵が全身に行きわたる。
これで、もう何も悔いはない。安心して逝ける。
「ヒカリ、やったわよ! わたしたちがあいつに――」
真琴さんの燦々と輝く笑みが、私を照らした。
その光に目を細めるように。
私の意識は――深淵に沈んだ。
読んで頂きありがとうございます。
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