第20話 狩るモノ/狩られるモノ
「はぁ〜、やっと自由だぁ〜! ひかりんありがとね!」
「……そ、それは良かった……ですね……」
雪ちゃんは両手を上に上げ、可愛らしく大きく伸びをしながら私に感謝の言葉を述べた。他の二体も口々に感謝の言葉を述べてくれる。私自身は大したことはしてはいないのだけど、やっぱりそう言ってもらえるとすごく嬉しいと感じてしまう。
がしかし、今の私はそれどころではなかった。
それは何故か。決まっています。真琴さんに二度も連続で、文字通りぶっ飛ばされたからです。
本当にもう。体のあっちこっちが痛くて堪りませんよ。何故、私はこうも、無駄な怪我が多いのでしょうか。
「すごく今更だけど、ヒカリってすごいのね」
不意に私のすぐ横に来ていた真琴さんが、今まで自分がしてきたしてきたことは綺麗さっぱり忘れた感じで口を開いた。その顔はもう赤くなどなくいたって普通だった。忘れているというのは、明らかに私が蹴られ損というものだが、それでもやっともとの真琴さんに戻ってくれて私は人知れずほっとした。
……もっとも。引きずられていたらいたで、それはそれで困るのですけどね。
「そうでもありませんよ。真琴さんたちから見たらすごいかも知れませんが、私たちから見たら私なんてまだまだヒヨッ子です」
「そうなの? でも、私はやっぱりヒカリはすごいと思う」
「そ、そうですか?」
真琴さんはそういいながら私を正面から見据える。真琴さんの瞳の中にあたふたとしている私が映る。
そんなことを面と向かって言われるとやっぱり照れくさい。でも、それ以上に褒めて貰えるというのは嬉しい。
「ねぇねぇ、ひかりん。さっきの怖い奴は倒したの?」
照れて顔を真っ赤にさせていた私にあの女の人が吹き飛んだ方向を見つめながら、雪ちゃんが心配そうな声をかけてきた。心なしか少し、声が震えて聞こえる。やっぱり、雪ちゃんたちもさっきの女の人が纏う得体の知れない冷たい妖気に気がついていたんでしょう。
「わかりません。一応、確かに今まで以上の手応えは感じはしましたが、あの程度きっとあの人はやられていないでしょう」
そっか、と相変わらず暗い渡り廊下の先を見つめ雪ちゃんは答える。
私もつられて闇に包まれている向こう側を見つめる。不穏な気配は感じられない。前と同じく平穏な空気が漂って来てさえいる。
……けど、やっぱり変。さっきもそうだけど、あまりにもあっさりすぎている。平穏だから不穏。正常だから異常。おかしいです。あの女の人はあれしきの攻撃で倒れたりするはずがないんです。あんな異様な妖気を放つ妖怪、今まで見てきた妖怪のそれとはまったく異なっています。
一見すると、まるで女郎蜘蛛。しかし、その力は比べものにならないほど強力。
私自身、何度か女郎蜘蛛と戦い滅してきたことがありますから、きっと間違いではないはずです。
「ねぇ、ひかりん! もう帰ろうよ!」
さっきまで黙って暗闇を見つめていた雪ちゃんが私の袖を掴む。顔は今にも泣き出しそうで、不安や心配に駆られているようで、とにかく今し方この場で爆笑していた人物からよもや想像出来ないほど歪んでいた。
「もう止めようよ! あいつが来たら、今度こそ死んじゃうかも知れないんだよ!」
私の袖を掴む腕が僅かに震えているのが、服の振動で分かる。同時に雪ちゃんの気持ちも痛いほど伝わってきた。
さっきまで大笑いしていたのは、きっと私や真琴さんが無事だと分かり安堵したからかも知れない。きっと、一時とは言え嬉しかったのかも知れない。きっと、笑うことで無理にでも不安をなくそうとしていたのかも知れない。
……きっと、私が真琴さんにした意味を理解しているからかも知れない。
「大丈夫ですって」
「ウソ! さっきも大丈夫とか何とか言って死んじゃいそうになってたもん!」
なんとか雪ちゃんを安心させようと試みてみるもあえなく撃沈。
でも、なんでだろう? こうやって引き止めてくれることが嬉しいと感じてしまう私も確かに居た。
「今度はちゃんと倒して見せますから。ね? 大丈夫だから安心してください」
「ウソだ! ヤダヤダ、絶対に行かせない。行かせないんだから!」
さて、どうしましょう……。本当にもう、遊んでいる時間はないというのに。
もし、あの女の人が手傷を負っているなら今すぐに攻撃を開始しなければいけない。もし、そうじゃなくてまた気配を隠しているならどこからの攻撃にも対処できるようにしなくてはいけない。
さてさて……本当にどうしましょうか……
「あのですね――」
「ヤダ! もう止めて帰るって言うまで離さない!」
「でも、それだとあの人をこの学校に野放しにすることになるんですよ? そしたら、それだけあの人の力も増しますし、第一もっとも危険な目にあうのは学校のお化け達、つまりは雪ちゃんたちなんですよ?」
「それでも、イヤ! それにどうしても危なかったら、皆でひかりんの家に取り憑く!」
なんですと! いったい学校には何体いると思っているんですか!
雪ちゃんのあまりにも唐突過ぎる言い草に些か私は眩暈を感じてしまった。
「ヒカリ。私もその娘が言っている通りだと思う」
不意に横から真琴さんの声がかかる。
「ま、真琴さんまで……」
「だって、ここでヒカリが無理してあれを倒したとしても、その代償に大怪我を負うか最悪死んでしまったりするのは、私も嫌だから」
「で、でも、それじゃどうすればいいんですか?」
そう私が質問すると、真琴さんは、簡単な事じゃない、と口を開く。
「一度、撤退してこっちの体勢を整えるのよ」
私としてもあんな化け物が学校にいられるのは困るしね、と真琴さんは付け加えた。
……でも、それじゃ――
「でも、それじゃだめなんです。だって――」
――あれは違うから……
そう言おうとして口を閉ざす。
理由も根拠もない。ただ漠然とした、けれど強い感覚。
私はあの人を知っている……気がする。
何故か。何時か。何処かで。私はあの人の存在を知っていた。
同時に感じるあの人との類似点。
だから、私はやらなくてはならない。
はやく。はやく、あの人を――
「なに? なにか問題でもあるの?」
押し黙ってしまった私を見ながら、真琴さんはそう私に尋ねてきた。
けれど、私はそれを答える事が出来ずに再び黙り込む。
本当に、私はどうしてしまったのでしょうか。
それすら解らずに、ただただ私は困ったような顔でその場から、動けずにいた。
本当は帰ったほうがいいのかもしれない。真琴さんや雪ちゃんが言っている事は、正しいのかもしれない。
でも、何故か私はこのまま帰りたくはなかった。
「もう! ひかりんのバカ!!」
ふいに大きな声で、雪ちゃんが叫ぶと、私の袖を強く握り締めた。そして、有無も言わさないとばかりに引っ張ってきた。
「ひかりんに動く気がないなら、あたしがムリやりにでも、連れて帰る!」
「ちょ、ちょっと!」
ぐいぐいと雪ちゃんに引っ張られて、私は焦ったような声を出す。
けれど、そんな私に構わず雪ちゃんはなおも引っ張ってくる。
私はそれに負けじと、その場に踏みとどまろうとした。
「ほら、帰るわよ!」
「真琴さんまで、そんな呑気な!」
けれど、そんな私の努力も空しく、余っていた片方の手の袖を真琴さんに掴まれると、雪ちゃんと一緒に引っ張ってきた。
流石に、それも真琴さんの力に敵うはずもなく、私は意思に反してずるずると出口に向かって引きずられてしまう羽目になってしまった。
「だ、ダメですって! 今は、逆にむやみに動いては危険なんですって!」
そう言ってなおも抵抗するも、もはやそれは無駄な抵抗に他ならないようで。
私はどんどんと引きずられてしまった。
辺りの空気が変わったのは、この直後だった。
不意に今までの軽い雰囲気をことごとく、かき消すほどの重たい気配があたりに満ち始めた。
「うっ……」
「な、なに? ちょ、ちょっといきなりどうしたのよ?」
その重たい空気に押しつぶされ、雪ちゃんが苦しそうにその場に倒れてしまった。また、それだけでなく横にいたガイ子さんやジン太くんも続けざまに倒れてしまった。
かく言う私も、これほどのプレッシャーに押しつぶされそうになっているのを耐えるのがやっとだった。
真琴さんは、辺りの空気が変わった事には、気がついているみたいなのですが、それでも感じるのはそこまでのよう。流石に、この重たく冷たい霊力は感じていないみたいで、苦しそうに倒れた雪ちゃんを見て、焦ったような声を出した。
「あぶない!!」
私は後ろから突如として現れた気配に、慌てて真琴さんたちを横へ弾き飛ばした。
真琴さんが悲鳴を上げて、横へ飛ぶ。
けれど、心配してあげられるほどの余裕は私にはない。
すぐさま後ろを振り返り、手をかざす。
意思に従い、手から青白い光の霊力で出来た壁が姿を現した。
「くっ!」
間一髪。私は背後から私たち目掛け、飛んできた縄のような糸の束を防いだ。
糸の束が、粉々になり、はらりと私の周りを漂う。
私は急いで、糸がやって来た闇を見た。
「逃がさぬぞ。虫ケラ」
そう言いつつ、姿を現したのは、あの女の人。
私は、その女の人を見て、恐怖した。
思うことはただ一つ。
やはり、あれしきでこの女の人は倒れてはいなかった、ということ。
引いたと思った汗が、再び噴出してきた。けれど、滴る汗を拭う余裕はない。
なんなのだろう、このプレッシャーは。
今までよりもさらに厚く重い。
先ほどの雪ちゃんたちを見ても解る。
どうやら、あの女の人もいよいよ本気になった、という事のようですね。
私は女の人を睨んだ。
女の人は変わらず、冷笑を浮かべていた。そこに一切の隙は存在していなかった。
油断したらやられる。
これまでこの女の人と対峙して思った感じが、ここに来てさらに強くなった。
ごくりと唾を飲み込む。
「よもや、これ程とは。正直驚いたぞ、神寺の子孫よ」
女の人は、一歩一歩、確実な足取りで近づいてきた。
「どうやら我も少々おふざけが過ぎたようだ」
そして、歩を止める。
距離にしておよそ五メートル。互いにいつでも攻撃を仕掛けられる距離だ。
女の人は冷笑を崩さず、けれど鋭い目つきで、私を見据えていた。
「そちの幼いながらも強力な霊力。それもあやつとよく似通った霊力。その力は、いずれ我や他のモノにとって面倒なものとなろう。我とて、あの夜のように愚かな行いはせぬ。やがて我にあだなすその刃。幼い今のうちにへし折ってくれよう」
そう言った女の人からこれまでにないほどの、強力な重圧を感じた。
もう、手加減はないという事ですね。
私はまた唾を飲み込む。
動けない。動こうものなら、今度こそ確実にやられる。そう私の本能が囁いている。
私は気圧されないようにと、女の人を睨んだ。
けれど、それも女の人は顔色一つ変えず、私を冷笑とともに見つめていた。
「なにやってんの! 早く逃げるのよ!」
不意に真琴さんが叫んだ。
驚いて、声がした方向へ振り返った。
真琴さんは、雪ちゃんを背負い、私を焦ったように見ていた。
その場にジン太くんとガイ子さんの姿が見えないところを見ると、どうやら私たちが会話をしている間に、安全圏へと逃がしたみたい。おそらく真琴さんのことですから、あの倒れている二人を蹴り飛ばしたのかもしれません。
「早く!」
そう言って、真琴さんは再び叫んだ。
けれど、私は真琴さんたちの背後にうごめく影を見た瞬間、真琴さんたちに向かって叫んだ。
「あぶない! 逃げて!」
しかし、所詮そんなものに大した効果もなく、真琴さんたちは背後から現れた、白い糸でできた糸人形たちに捕まってしまった。
うごめくそれには、顔というものがなく、ただただ人の造形をしたのだった。それもとても不恰好で、所々糸がほつれている。
――――心を持たない糸人形。作り主の意思に従い行動する人形。
その数、およそ十二。
急いでそれら糸人形に捕まった手を振りほどこうとする真琴さん。
けれど、いくら真琴さんが普通の人に対して強いといっても、相手は人外の人ならざる人形。
真琴さんが、隣にいた一体の腹部に蹴りを入れる。
がしかし、繰り出した真琴さんの強烈な蹴りは、その無数の糸に絡め取られ、背後から現れたもう一体の糸人形によって後頭部を殴られ、地面へと倒れてしまった。当然、その背にいた雪ちゃんも力なく地面へと落ちてしまった。
それら一連の動作を、私はなす術もなく眺めていた。
倒れた真琴さんたちの上に、後から後から現れた糸人形の群れが襲い掛かる。
そこで、ようやく私は弾けたように真琴さんたちのもとへ駆け出した。
「やめろ!!」
私は両手から、霊力で出来た弾丸を放つ。それがあたり、数体の糸人形が粉々になった。
真琴さんまでの距離は少し遠い。私は急いで糸人形たちのもとへと駆ける。
「どこを視ている。虫ケラ」
私は横へ飛び退る。直後、一線の先が鋭く尖った糸の束が、渡り廊下の床へ突き刺さった。
私は、背後を振り返った。
その瞬間、黒い影とともに女の人が、凄まじい速さで私のもとへとやって来ているのが目の端に映った。
「そちの相手は我ぞ」
「くっ!」
女の人の鋭い爪が私に襲い掛かる。それをぎりぎりのところでなんとかかわす。服の端が、また引き裂かれた。
だが、今回はそれで終わりではなかった。
右。左。続けざまに繰り出される攻撃。なす術もない。
体中の肉を削がれる中、私はそれらをただ避けることで精一杯だった。
焦りが私の中で次第に大きくなっていく。
それは自分の危機的状況からではない。今はそんなことより、真琴さんたちの方が気にかかって仕方ない。
だが、今のこの状況下では、真琴さんたちを助ける事はおろか、真琴さんたちのほうを振り返ることすら叶わない。
私は強く唇を噛んだ。
いつまでもあの糸人形を野放しにはできません。
私は形勢逆転を狙い、左右の手に霊力を込める。
「ハッ!!」
そして、それを大きく後ろへ後退した際に、女の人へ向かって一斉に薙いだ。
鞭のように青白い光を帯びながら、女の下へとそれは素早く向かった。
だが、それはいとも容易く女の人に弾かれてしまった。
早く次を――
しかし、そう思うよりも先に女の人の冷笑が、私の目の前に不意に現れた。黒い影が高速で私に迫る。
対処できない。防ぐ事は敵わない。
私は腹部に鈍い音とともに強烈な痛みを感じる。そのままその場から吹き飛ばされ、私の体は宙を舞った。
大きく舞った私の体は、渡り廊下の横の壁に激突する事によって、再び地面へと帰った。
壁へぶつかった瞬間、肺から空気が押し出されるような感覚に陥る。
激痛にすぐに立つことが出来ない。
私は、その場にうつ伏せに倒れたまま、激しく咳き込んだ。
目の焦点が定まらない。体に力が入らない。
女の人が近づいてくるがわかった。じらすようなゆっくりとした歩調がかろうじて耳に響く。
立ち上がらなければ。そう思っても体が言う事を聞いてはくれない。
腹部は未だその痛みが和らぐ事を知らなかった。脈打つ鈍い痛みが体中を駆け巡り、意識が朦朧としてきた。
ごほっ、とまた咳き込んだ。
口の中から、何かが飛び出した。
血。
私の視界に朱色があった。無理もない。あんな攻撃を食らえば、これぐらい当然だった。
吐血くらいなら、どうってことはない。これでも、幾度となく自らの血を吐き出してきた。
しかし、今は最悪な事にそれだけではなかった。
吹き飛ばされたとき、私は後頭部を強く渡り廊下の壁にぶつけてしまった。
脳震盪。
目が霞み、力がまったくと言っていいほど入らない。今にも意識を手放しそうだ。
しかし、やすやすと今は意識を失うわけにはいかない。
歯を食いしばる。両手を体の横に立て、力を込めた。
少しだけ、上体が浮く。
私は焦点が定まらない目を開き、前から歩いてくる人影を見た。
顔はぶれてしまって、よく見えない。
それでも私にはあの女の人が嗤っているように見えた。
……こういう時、私は自分の愚かさを改めて感じる。
やっぱり私は弱い。いや、寧ろ無力だ。
前の人影から視線を外し、少し離れた黒い山を見た。
声が聞こえた。……違う。音が聞こえた。もはや言葉として認識できない。それでも、その音は私にとってとても懐かしく、今にも切羽詰った音だった。
「真琴さん……」
彼女はまだ無事なようだった。少なくとも、今はまだ。
あの糸人形たちに押さえつけられ、身動きを封じられているだけなのだろう。
せめて真琴さんだけでも……
私は右腕を黒い山に向かい伸ばした。
ぼう、と開いた私の手の平に青白い光を灯す。
今の私が真琴さんに出来ること。それは、彼女に逃げる隙を作ること。
幸い、真琴さんは身動きを封じられただけで、意識はしっかりとしているようだった。
なら、上にのっている糸人形を壊せば、彼女は自由になれる。
あの糸人形も強度は大したものではない。さっき私が壊したときにあっさりと数体が壊れたのがいい証拠だ。
距離が離れているとはいえ、ぎりぎり今の私の力ですべてんの糸人形を破壊できるだろう。
私はさらに手の平に霊力を込めた。
ひょっとしたら、真琴さんは自由になっても私を見捨てないかもしれない。いや、彼女のことだから、きっと私を助けようとするはず。それだけは、絶対にさせてはならない。
元々一般人の真琴さんでは、私を助け出す事はおろか、まともにやり合うことすら不可能だ。
それでもやり合おうとした、そこに待つのは間違いなく『死』のみだ。
それだけは避けなくてはならない。
時として、助からない相手は見殺しにしなくてはならない。
一人を助けたがために、十人もの人が死ぬより、一人を見殺しにして十人を助けた方がいいに決まっている。
助かる命はより多いほうがいい。
もう、私が出来る事といえば、真琴さんの身動きを取れるようにする事と――――あとは、足止めだけ。
幸い私が死ねば、すぐに母上に知らせが行くようになっている。まあ、どちらかと言えば、一族の皆さんに知らせられることになるんですけど。
――――忌み子の死は、ある種の安心感をもたらす。
誰だって不安因子が消滅すれば安心できるというもの。小さい子供のお使いには車が通らないところを。受験の際には、出来る限り弱点を克服しようとすることを。つまりはそういうこと。
とにかく、私の死の知らせが母上に届けば、きっと母上はすぐにこちらに来てくださるだろう。
そうすれば、確実に真琴さんたちだけは助かる。
だから、それまでに真琴さんたちが殺されてしまっては意味がない。
……しょうがないですね。真琴さんたちには、しばらくの間意識を失ってて貰った方がいいのかも知れません。
更に霊力を手の平に込める。そして、新たに術を織り込み始める。
織り込む術は加護の術。外敵から中の者を護る術。
あまりこういった系統は得意ではないとはいえ、今はそんなことを言っている暇はないのも事実。
加護の術の強度は、霊力の強さはもちろんのこと、中の者を護りたいと思う想いの強さにも比例する。だから、自分ひとりの場合に使うときよりも、ほかに誰かがいるときの方が、強度も強くなる。もっとも、この場合は術者は外にいるんですけど。
幸い術者が死んでしまっても、加護が破られるか、しかるべき過程を行わなくては術は解けることはない。
だから私も安心してこの術を使うことが出来る。
ただ、幾つか不安が残ってしまう。それは、術者が内側から術をかけるのと、外界から術をかけるのとはその難易度は大きく違うということ。また、この距離に加え、まずは相手の糸人形をいったいも余さず吹き飛ばさなくてはならないということ。そしてそれが成功しても、母上がこちらに到着するまでの間、加護の強度が持つかどうかという不安も残る。
けれど、今の私にはこれしかない。失敗は決して許されない。
それでも、やるしかない。
私は、また新たにより強力に霊力を右手の手の平に練りこんだ。
「無駄な抵抗よ」
「うぐっ!」
私の右腕に女の人の足が勢いよく落ちた。廊下と足に挟まれ、鈍い音と痛みが走る。一瞬、溜めていた霊力が手の平から離れそうになる。
女の人は、私の右腕を踏みつけた足を踏みつけたまま捻るように強く動かした。
「ぐっ、あっ……!」
鋭い痛みが私の右腕を侵食していく。その足を退かそうにも体に力が入らない。
腕の皮膚が破け、血が出てきた。
それでも私は、霊力を絶やさず、変わらず真琴さんたちがいる方向へと狙いを定め続けた。
「ふん」
そう鼻で軽く嗤うと、女の人は私の腕から足を退けた。
しかし、それも一瞬のこと。次の瞬間、最初とは比べ物にならないほどの速さと強さをもって、再び私の腕へと足を落とした。
それは、さながら遥か頭上から鋼鉄を落とされたようで、一切の躊躇もなかった。
「――――――!!」
バキッ!! という私の右腕から発せられた鈍い音が、辺りに響き渡る。
私は声にならない悲鳴をあげた。
「ああぁあっ、ああ――――」
熱い。右腕すべてから高温が発せられている。
これまで以上の激痛に、もはや声すらまともではいられない。
――――やられた……
そう私が認識するまでに、大した時間はかからなかった。
右腕の肘から手首にかけてある骨が完全に砕けていた。もはや使い物にすらならないだろう。
かろうじて霊力を留めていられるのは、霊力の流れは腕自体とは少し違う箇所を流れているから。
けれど、いくら霊力を手放さなかったとはいえ、指一本すら動かせない。
腕は高温を持ち、痛みはすでに腕全体の感覚をすべて麻痺させてしまった。ただ、いつまでも決して和らぐことない痛みが駆けずり回る。
女の人のいかにも愉しそうな嗤い声が聞こえたきた。そして、聞こえたこと思うと、また砕いた私の腕の上で足を捻る。
捻る。捻る。捻る。
ごり、じょり、と右腕の骨が鳴っているのが聞こえ、腕の前が力なく左右に動く。
あまりの痛みに、悲鳴もあげることが出来ない。やけに熱い腕の熱と、身を貫くような鋭い痛みが、脳を侵食していく。
脳が上手く働かない。なにも考えられなくなってきた。
そんな私を見て、女の人は嗤う。愉快そうに、愉しそうに、私を見下すように、嘲笑うかのように。嗤い声は、次第に甲高くなってきた。それに比例するように、腕を踏みつける足の速度と強さが上がる。
ただ、嗤う。嗤う。嗤う。嗤う。
なす術もなく、私はひたすらその痛みに耐えるしかなかった。
しばらくして、嗤い声が止んだ。同時に、ぴたりと動かしていた足を止めて、腕から退けた。そして、今度は髪を無造作に掴まれる感じがした。
ぐいっ、と強く上へと引っ張られ、私は強制的に立ち上がらされる。
…………だめだ。完全に体が言う事を聞いてくれない。攻撃を防ぐ事も手を振り払う事も、ましてやまともに動くことすらできない。これでは、足止めはおろか、時間稼ぎにもなれやしない。
頭は既に朦朧としており、右腕をだらりと下げて、女の人の左手にぶら下がるようになっている私は、力なく女の人を見上げた。
「もう終わりか?」
女の人は冷たくそう私に言った。そこには温かみなんていう、そんな中途半端なものがない、獲物を狩る捕食者の冷たさがあった。
戸惑いも躊躇も一切存在していない。狩る側と狩られる側。そんなこの場においての絶対なる関係があった。
ぐったりとした私を一瞥すると、女の人は私を嘲笑いながら口を開いた。
「所詮、そちはこの程度だったという事か。……まあよい。久方ぶりの目覚めには、良い余興であった」
そう言って、もう一度嗤うと、また強く私の髪を女の人の手前へと引っ張った。
自然、私は引きずられるように頭から女の人の左脇腹へと動いた。
そして、力なく引きづられた私の体がまた少し宙に浮いた。
「がはっ!」
槍のような鋭い膝蹴りが、腹部を貫く。呼吸は強制的に活動を止められ、肺からすべての息が零れ、また紅い血が口から体外へと吐き出される。
女の人が左手を離したことによって、私は後ろに数歩後ずさる。
……息ができない。喉は詰まり、空気がいっこうに肺へと送られてこない。
足が竦む。もはや、立っているのがやっとという状況だ。
私は、そのままふらふらと後ろへ数歩下がり、今しがた後頭部をぶつけられた渡り廊下の壁に背を預ける。
荒い息のまま、私は女の人を睨む。
このままではいけない。このままなにも出来ず、ただただやられるだけなんて、ごめんだった。それだけは決して許されない。
そう、今ににも地面へと伏してしまいそうになる自身の体に渇を入れる。
……どうにかして、このいけない旗色を変えなければ。私は、私の役割を果たすんだ。
今の自分を確認する。
右腕の骨は砕かれてしまい、この場においてまともに機能しない。脳は脳震盪を起こし、頭がふらつき、足が笑い、目が霞んでいる。
最悪だった。最悪の状況だった。これでは、まともに戦えない。足止めにすらなれない。
だめだ。絶対にこの人を足止めして、母上がこちらに参られる間、真琴さんたちに安全な場所を与えなければならない。――――たとえ、この場で私が死のうとも。
死ぬ覚悟は、今夜以前のとうの昔から出来ている。いつ何時この身が滅ぼうとも、それだけの覚悟はしている。今夜だって、決意を新たにこの場へと赴いたのだ。それにすぐ側には、私が護りたい人がいる。その人のためならば、たとえもうその姿を垣間見る事ができなくとも、私は私のこの鼓動が消えるまで戦える。
私は、左手を力の限り握り締める。
右の手の平には、かなりの量の霊力を練りこんだ強力な霊力の塊がある。しかし、腕の骨を砕かれまともに右腕が動かせない。第一、動かせたとしても、これは真琴さんたちを護るために練りこんだもの。今使ってしまえば、これと同じ密度と質量を持つ塊は生み出すことは、とてつもなく困難だ。だから、今は使うことが出来ない。使えない。
なら、と私は左手で手刀を作ると、その周りに鋭い霊力を纏わせた。幸い左手はほぼ無傷。霊力の鋭さも申し分ない。左手は今、さながらカミソリのような刃へとその姿を代えた。
「――くっそおおおお!!」
私は雄叫びを上げながら、足を一歩踏み出し距離を縮めると、左手を女の人の腹部へと衝き立てた。
しかし、私の手が女の人の腹部へ衝きたてるより遥かに速く、女の人の右手が私の顔面を掴む。
「遅いな」
そして、そのままの勢いを保ったまま、女の人は私の頭を迷いなく渡り廊下の横の壁へと打ち付けた。
ダン、という壁に固いものをぶつけた鈍い音が広がる。
後頭部を強く打ち付けられ、脳が激しく揺さぶられる。
もう立っていられない。目の前が暗くなってきた。
不意に遠くから悲鳴が聞こえてきた。私の名を呼ぶ、真琴さんの声だ。その声は、とても悲痛で、今にも泣いてしまいそうだった。
そう、霞みゆく意識の中、私はぼんやりと思った。
私は私を見て嗤う女の人が視界に映った。
……ダメだ。今、意識を失うわけにはいかない。まだ、死ぬわけにはいかない。私はまだ、何もしていない。
そんな自分に激しい怒りを感じる。
けれど、その意識さえも黒く濁り、だんだんと薄れていく。体は、まるで自分のものではないかのように重い。
…………くっ……そ…………
それを最後に意識が暗い闇へと飲み込まれ、壁を伝い地面に崩れ落ちた。
ここまで読んで下さり、ありがとうございました!!
なんだかんだと、ようやく20話まで来る事が出来ました。地味に感動しております。嬉しいです。でも、まだ続きます。あと、どのくらい話が続くか分かりませんが。
さて、今回からまた新たな展開が始まります。数字的にも区切りがいいかな、なんて思ってみたりもします。残念な事に、またしばらくコメディーではなくなってしまいますが……
あと、最後にお詫びとお知らせです。
実は、また更新が遅くなる可能性大です。
理由としては、近々夏休みということもあり、ほぼ一日中塾の中に缶詰になるからです。そして、それに加えまた調子にのって「異界アルバム」という企画に参加表明いたしました。出来る限り、こちらの更新も頑張っていこうと思ってますので、どうかまた気長にお待ちしていただけると嬉しいです。
更新が遅くなる事になり、大変申し訳ありません。
次回の更新は、八月中を目標としていますが、ひょっとしたら九月になってしまうかもしれません。が、それでも出来るだけ早く更新しようと努力します。
それでは、次回もどうぞよろしくお願いします。