最終話 愛に仇なす者共よ
最後に見た物は、頭上から落ちてくる大きな岩。それと、回転する僕の視界。
「私ね、将来あなたのお嫁さんになりたいの」
森でささめく小鳥の声よりも、ずっと綺麗で可愛らしい声で君はそう言った。
「えー、ラヴィが?」
ラヴィ。小さな頃からずっと一緒に育った君。君の突然の告白に、僕は恥ずかしくて悪態を吐いた。もっと他に返事の仕方はあったはずなのに。
「……。嫌なの……?」
嫌じゃない。嫌な訳がない。
僕らはずっと一緒だった。君はずっと一緒にいてくれた。
「結婚とかよくわかんないし、それより早く洗濯物干しちゃおうよ。神父様に怒られちゃうよ」
嬉しかったんだ。本当は。
このままずっと君と一緒にいたいと、そう思っていたから。
「バーカ!バカ!バカライナー!」
「早く終わらせて森に行くんだろ?ラヴィも手伝ってよ」
ありがとう。ラヴィ。ありがとう。
君は本当にずっと僕と一緒にいてくれた。
「ライナー。ライナー」
僕は君が差し出した手を握る。君は寂しがり屋だから、手を繋ぐのが好きだった。
「ねえ、ライナー」
「なに?」
「お嫁さん……、駄目なの?」
あの時は、本当に恥ずかしかった。君はきっと戯れに言っただけだったのかもしれないけれど、僕にとっては信じられないくらいに嬉しくて。
「………、いいよ」
君は、覚えているだろうか。僕が君に願ったことを。
「ずっと……、一緒にいよう。……、いてよ。ラヴィ」
「うん!」
僕はあの時誓ったんだ。君が快く返事をしてくれた時の、あの眩しい笑顔に。
冗談でもいい。君は僕と共にいてくれると言ってくれた。僕はもう、それだけで充分だった。
ずっと昔のことだから、君は覚えていないかもしれないけれど。けど、僕は忘れない。
「約束する!」
ああ、ラヴィ。どうか、どうか僕を許してくれ。
君にずっと一緒にいてくれと言ったのは僕なのに。僕はもう、君に会えない。あんなに痛かった全身の痛みも感じなくなってきて、もう、目も見えなくなってきた。
だから、僕は思い出すんだ。君のこと。音もしない、何も見えない暗闇の中で。
「私、ずっとライナーのお嫁さんでいる!」
君はいつか、僕のことを忘れてしまうだろう。他の誰かと幸せになって、僕ではない他の誰かと生きていくのだろう。
君が幸せになれるなら、それでもいいか。寂しいけれど、君が幸せなら、それで。
「ごめん……。ラヴィ」
何も見えない。何も聞こえない。僕は、僕の終わりを感じる。動かなくなった体が浮き上がる、不思議な感覚が僕を何処かへ誘っていく。僕は、独りになる。
ラヴィ、ラヴィ。君は何処?
僕は願う。僕は祈る。神様に。君が信じる神様に。
もし、あなたが本当にいるのなら。
あなたを信じ続ける彼女のことを、どうか。
「ありがとう。ラヴィ。君といられて…、僕は……」
どうか彼女を、守ってあげてください。
「僕は……、本当に、幸せだった………」
エレゲイア・ファントリア
第四話 愛に仇なす者共よ
本のページをめくる音がする。闇の彼方にまで伸びる本棚と、そこに並べられた無数の本に囲まれて、コリウス青年は本を読む。傍に積まれた本の山は、続けて読むために彼が適当に見繕って重ねた物だ。
闇の中、小さな机に置いたカンテラの灯りで照らされる本に向けられるコリウスの目は光りなく、その視線は本に書かれた文章に無理矢理釘付けにされているようだった。焦燥感から逃げ回り、悲しみを紛らわすように文章を頭に入れていく。
何かを忘れようとするかの如く、彼は本に目を向けていた。
「コリウス」
そんな彼を心配して、アルゼイが廊下の果てから姿を現した。
昨晩、本の世界から出てきたコリウスはアルゼイの詰問に答えることもなく、しばらくの間俯いているままだった。コリウスの様子がおかしいことに気が付いたアルゼイは、コリウスに本の中で何があったのか尋ねた。しかし、彼は答えない。その代わりに、黒緑の本を閉じてアルゼイに差し出した。
「この本を仕舞わせてくれ。アルゼイ。誰の目にも触れられない場所へ。もう二度と、再世の実を持つ者に物語を巻き戻されないように。この本の作者のためにも、あの子のためにも」
アルゼイはそれに賛成し、黒緑の本は何万年も人が立ち入っていない地下深くの書庫に仕舞われることになった。
仕舞う時、コリウスは一度本を床に落としてしまった。空っぽになった心が彼の手を緩めてしまったが故の出来事であった。
床に落ちた本はその拍子にとあるページを開いた。ライナー・エントールの死に際の独白が書かれたページ。
書かれた文に目を奪われたコリウスは、ライナーの独白を読んで胸の痛みに目を逸らす。
自分が再世の実を使わなければ、ライナーもラヴィも改めてこんな悲しみを背負わずに済んだのに。彼の虚しさを埋めるのは、ただただ後悔の念だけで。
そして、コリウスはライナーと同じくラヴィの幸せを願いながら、本を冷たい棚へ入れたのだった。
アルゼイはコリウスが眠りもせずに別の本を集めて読み始めたのを見るや、黒緑の本へ一人向かい、コリウスに何があったのかを確かめた。
本には、ラヴィに拒絶されながらも彼女の幸せを願うコリウスの純粋な想いが綴られていた。自分の言ったことを疑わず、ラヴィが最後には幸せになると信じて本の世界を出ていくコリウスにアルゼイは後ろめたさを感じずにはいられない。
けれど、アルゼイは信じていた。
コリウスのためには、これでいい。彼が本の世界から出られなくなる心配もなくなって、これからは現実を見てくれるようになるだろう。長く家に帰っていないコリウスの身を案じる家族のためにも、彼自身のためにも。
本を読み続けるコリウスの姿に昨夜のことを思い出していたアルゼイは、コリウスの一声で我に返る。
「アルゼイ。あの…、図書館の近くにあったあの婆さんがやってた店……、アイスとかクレープとか売ってた店だ。あそこ、まだあるのか?」
ようやくコリウスが口を開いてくれた。アルゼイは嬉しそうに答えた。
「あるとも。今は婆さんじゃなく、孫娘が店番しているよ」
「そうか……。今度、行ってみるかな……」
アルゼイは再び読書に戻ったコリウスに茶を淹れてもってきてやろうと思い、部屋へ戻った。茶を入れながら、今度コリウスを図書館の外に散歩に行こうと誘ってみようと決めた。
ようやく、コリウスが現実の世界に帰ってきたのだから。
「ラヴィ。ラヴィ」
私を呼ぶ声がして、私はそっと顔を上げる。私とあなたの家の裏庭で、私たちは珈琲を淹れたカップを手に座ってる。
「今日は…、仕事どうだった?上手くやれた?」
隣のあなたに尋ねると、あなたはにこりと笑って答えてくれる。
「ああ。この前できたでっかい屋敷、知ってる?あの屋敷の壁に模様を彫ることになったんだけどさ」
楽しそうに話すあなたは、小さな頃からずっと変わらない無邪気な笑顔。泣きそうな顔も可愛くて好きだけど、やっぱり笑っているのが好き。
「左右対称の模様って難しいんだよ。でも最近慣れてきてさ、お客さんに褒められちゃったよ」
「ふふ。よかった」
「そうだろ?僕も大分上達しちゃったかなぁ~」
「また、いつもみたいに私の所に泣き付かれなくて」
「そっち!?」
小さな嘘を真に受けて、あなたはちょっと困って、ちょっと笑って私を見てる。
嘘。そう、嘘。困った時、あなたが私の胸に顔を埋めてくるのが私はすごく好きだった。私に疲れた声で弱音を吐くのを聞く時間は、あなたと私の絆を実感できた。それに、あなたは絶対にまた立ち直って頑張ってくれるから。落ち込んでも、ちゃんと前を向いて生きていくあなたは私にとって憧れだった。
「今度、見に行っていい?お弁当作って持って行ってあげる」
「ええ!?恥ずかしいからそれはちょっと……」
「すっごいの作ってあげる。ハートの形のサンドウィッチ」
「え?僕の話聞いてた?」
「親方に殺されちゃうよ」とあなたは笑う。私も笑って、あなたの顔を見つめてる。二人で笑って過ごすのが、無性に楽しくて。なんだか、すごく久しぶりな気がして。
少しずつ、私の胸に寂しさが募っていくのが不思議で、段々それが恐くなってきて。恐くて恐くて、耐えられなくなったから、あなたの名前を呼んだけれど。
返事を聞く前に、私は目を覚ましてしまった。
雲がかった空が薄っすらと明るみを帯びていくのが、木々の枝の向こうに見えた。砦の外にある見知らぬ村の近く、森の木に隠れるようにして眠っていた私は目を覚ました。目を覚ましてまずしたことは、周囲を見渡してここが何処なのか思い出すこと。
どうして私は外で寝ているんだろう。ライナーは何処だろう。
考えている内に、次第に私は自分の置かれた状況を思い出す。けど、私はそれを否定する。これが現実なのだと信じたくなくて、今見ていたのが夢だったなんて信じたくなくて。
私は走り出す。靴も服も土だらけになっていたけれど、どうでもいい。森の中を走って、走って。何も考えたくないから、必死に足を動かした。頭に過る思い出を掻き消すように、体が痛むのも構わず走る。急に足の力が抜けて、地面に倒れてしまった。立ち上がろうと思ったけれど、立ち上がった所で何の意味もないことを悟り、私はそのまま目をつむる。もう動けない。すごく疲れて、お腹も空いた。休もうと思って、考えるのを止めた。
でも、私の耳に聞こえてきた話し声。森の中なのに、人が話す声がした。木の陰から声がする方を覗いて見ると、たくさんの兵士がそこにいた。皆、何かを探しているようだった。
恐くなって、私は急いでその場を離れる。間違いない、あの人たちは私を探している。王子は私を決して許してはくれないだろうから。本気で私を殺そうとした彼が、兵士に私を探させているに違いない。
私は森の中でも一番見知った場所にやって来た。もしかしたら、彼がいるんじゃないかと期待して。森の広間、大樹が生える幻想的なこの場所へと私は逃げ込んだ。
淡い期待だと、自分でも分かっていたけれど。やっぱりそこには誰もいなくて。いつも私と遊んでくれた大鹿の姿を探す。
神様。神様。神様―――――――――――。
どんなに待っても、彼は来なかった。私は大樹の根本で膝を抱えて座り込む。
ああ、もうどうしようもないのだと、はっきり分かった。
私に逃げ場はない。助けてくれる人も、信用できる人も誰もいない。どうしてこんなことになってしまったんだろう。ライナー。あなたと一緒に、幸せな日々を送れるはずだったのに。今や、私には何の希望も残っていない。あなたと共に、私の幸せは全て失われてしまったんだ。まるで世界が私を飲み込もうとするかのように、全てが私を責め立てる。あなたのことを忘れろと、皆が言う。
私の気持ちは、いけないことなの?ライナーだけを愛していてはいけないの?死んだ人は、もういない。確かにそうだと思う。でも、だからってその人のことを忘れてしまうなんて私にはできない。ずっと、ずっとライナーのことを覚えていたい。だって。
だって、ライナーはきっと寂しがるから。寂しがり屋のあなたは、誰にも忘れて欲しくないって、そう思っていたに違いないから。
まただ。また涙が出てきた。泣いたって仕様がないのに。もう、我慢する気も起きない。大樹に背をかけて、私は泣いた。泣くことしかできないから、思い切り泣き続けた。
「ラヴィ!!ラヴィ!!!」
私を呼ぶ声がする。苦しそうな息遣いに混じる悲痛な声。肩が揺さぶられるのが分かって、私は顔を上げた。
「ラヴィ……。よかった……、ここにいたんだね……」
エルカ。私を呼んでくれる人。なんでここにいるの?どうして?
私を……、探しに?
エルカの存在に、私は恐怖する。昨夜の彼女と見知らぬ男が共に眠る光景を思い出してしまって。エルカから離れるように、後ずさる。
「ごめんね。ラヴィ。ごめんね。私、あなたにひどいことしちゃったね」
エルカが何を言っているのか、私には分からない。何を謝っているの?
どうして。どうして。
「マイニ―に聞いたよ。昨夜のこと。マイニーにあなたを誘ってみたらって提案したのは私なの。あなたが早くライナーのことを忘れられればと思って……」
あなたもやっぱり、そう言うの?エルカ。あなたも私に、あの人のことを忘れろって。
「でも、でも…、違ったんだね。ラヴィ。あんたはそんなこと望んでなかったんだ。あんたはずっと、ライナーのことを好きでいたかったんだね……」
「エルカ……」
「本当に、ごめんね。ラヴィ……。あんたを傷つけることばかりして……。私のあんな姿、あんたにだけは見せたくなかったよ……」
エルカが泣いている。私は少し戸惑ったけど、すぐに理解する。エルカも心を痛めているんだ。夫以外の誰かに体を許していることに。夫や私にそれを隠していたことに。
どんな隠し事をしていても、あなたは私の友達のままだったんだ。私を心配して、ここまで探しに来てくれたんだ。
「子供ができてから、もっとたくさんご飯を食べないといけないって分かってさ……。それからだよ。余分に支給してもらえるようにロウストの兵士に抱かれるようになったのは」
「いいの。エルカ。私はあなたのこと……」
あなたのことを、もう恐れたりしないから。だから……。
「旦那にも、あんたにも知られたくなかった。これはいけないことだ。それは私にも分かってるつもりだよ」
そんな、そんな辛そうな顔をしないで。エルカ。
「私はあんたたちの信頼を裏切ってたんだ。ううん。これからも、ずっと。旦那にはこんなこと絶対に言えないからね……」
「エルカ……」
「ごめんね、ラヴィ……。今までずっと黙ってて……。私は、酷い奴なんだ……」
「そんなことない!そんなことないよ……。だって、私はエルカに一杯助けてもらったよ!」
そう。そう。あなたは私を何度も助けてくれた。布織りの仕事を教えてくれて、一緒に暮らそうと誘ってくれて。どれもとても嬉しかった。だからあなたは、酷い人なんかじゃない。
「ありがとね。ラヴィ。これ、食べなよ。あんたを探してる途中に買ったパンと水だ」
「ありがとう。エルカ」
お礼を言った私を見て、エルカは微笑んだ。
「どういたしまして」
「ねえ、あなたには夢ってある?」
夢?夢か……。
ないな。俺には、そんな立派なものなんてない。
「私はね、お嫁さんになるのが夢なの」
そうか。まあ、そうなんだろうな。君はあいつのことが好きなんだろう。はっきり君が言わずとも、見ていれば分かる。ライナーの隣にいる君は、本当に楽しそうだから。
「誰よりもその人のことが大好きで、何があっても、ずっとずっと愛してあげるの」
正直言えば、寂しいし、嫌だけど。もしもその日が来た時は、俺は祝福するよ。
「みんな馬鹿にするけど、私は決めてるんだ」
ライナーなら君を幸せにしてくれる。君と同じに、俺も信じよう。
「絶対に後悔なんてする訳ない。だって――――――」
そうだ。そうだな。後悔なんてしない。
「だって、それは自分が本当にやりたいことなんだもん」
そう。これは、俺が本当にこれでいいと信じたことだから。俺と君が、選んだ道なのだから。
ラヴィ。君がいつまでも、笑っていられますように。
君が信じる神様とやらに、俺も祈っているよ。
「なら、それが一番いいに決まってる」
懐かしい思い出だ。今になって、こんな夢を見るなんて。
「……、でしょ?」
薄っすらと脳が夢から覚めていく。段々と意識が夢の風景から現実の感覚に移っていく。
君が、幸せになれますように。
目蓋を開きながら、もう一度そう祈り。俺は夢から現実へと戻っていった。
「廊下で寝るくらいなら部屋で寝ろ。風邪をひくぞ、コリウス」
アルゼイの部屋に入るなり、コリウスは小言を食らうことになった。本を読みながら廊下で眠ってしまった自分の体に知らぬ間にかけられていた毛布をアルゼイに返しに来たコリウスは、言おうと思っていた礼を言うのを止めた。
「……。これ、返すぞ」
「ああ。その辺に置いといてくれ」
毛布を空いている机の上に置いたコリウスは、すぐに外に出ることはせずに部屋の本棚を物色していた。忙しなく本に指をかけて表紙を見ては元に戻し、なかなか部屋から出ていこうとしない。
アルゼイはその間、コリウスにどう声をかけるか悩んでいた。彼を外に連れ出すには、何と言えば効果的であろう。コリウスが部屋に留まっている今こそ話を切り出す絶好の機会であった。
「そうだ。コリウス。ちょっと外に――――――」
「少し外に出ないか。アルゼイ。話したいことがあるんだ」
思い切って声をかけたアルゼイの言葉を遮って、コリウスが逆にアルゼイを外出に誘ってきた。
「お、おう」
アルゼイは驚き狼狽えたが、結果的に良しとした。
「“エレゲイア・ファントリア”のことを、話したくなったんだ」
図書館の傍にある小さな屋台のベンチに並んで座るアルゼイに、コリウスは言った。クレープを手に俯きながら語り始めるコリウスの隣で、アルゼイは静かに座っていた。
「あの本を選んだのはたまたまだった。ただ、再世の実を使って遊んでいた時、適当に取った本があれだったんだ」
曇った空に灰色の街。この現実の世界に緑はなく、青空も今となっては珍しい。
「本の世界はどこも綺麗だったが、“エレゲイア・ファントリア”の世界は格別だった」
「作り物の世界だからこその美しさか……」
「ああ。感動したよ。景色が綺麗だと思ったのは初めてだった。まあ、それもすぐに飽きたけどな」
アルゼイは可笑しそうに笑った。彼らの視界を横切って、中年の男性が汗を流して走っていった。
「もう本から出ようと思ってた時だった。俺は森で迷子になっていたラヴィと出会った。まだあの子が……、多分八歳くらいだった頃のはずだ」
「………」
「誰も信じてない神様を信じてるような、純真な娘だった。こっちは脅かしてやろうと思ってでかい鹿に化けたのに、あの子は全然恐がらなかったよ」
「そんな小さな子を脅かすな」
「……。あの子といるのは楽しかった。今まで生きてきた中で、一番楽しかった。あの子は俺を慕ってくれたし、俺に何かを頑張れとも言わなかった」
アルゼイは罪悪感に駆られ、コリウスから目を逸らした。コリウスにとってラヴィがどんな存在だったのか、考えずにはいられなくて。
「今思えば、恐がっていたのは俺の方だったんだな。俺にはあの子と話す勇気がなかった。俺という人間をラヴィがどう思うのか不安で、結局一度も会話することはなかった」
「好きだったのか」
「あの頃はまだラヴィも小さかったし、初めから女性として見ていた訳じゃない。でも、ラヴィがライナーと結婚すると聞いた時は……、正直ショックだったよ」
「ずっと鹿の姿で会っていたのか?」
「ああ。そうしないといけない気がしてた。別の姿でラヴィの前に出ていったら、またラヴィが俺に懐いてくれるのか分からなくて……」
アルゼイはコリウスの横顔に目をやった。
コリウスは本の世界で色々なことを考えながら生きていたのだ。現実の世界でするのと同じように。
「ライナーと暮らしているラヴィは幸せそうだった。ライナーは優しくて、ラヴィのことをよく理解していた。お似合いだったよ。俺はずっとライナーが羨ましかった。“あそこにいるのがあいつじゃなくて、俺だったら”って何度も思った」
コリウスが顔を上げ、背中をベンチに預けて空を仰いだ。彼の嫌いな、灰色の空が一面に広がっていた。
「昨夜、俺はラヴィに“君が好きだ”と言った」
アルゼイは驚愕した。コリウスの正気を疑う程に。
「けど、こっぴどくふられたよ。ラヴィにとって、俺はただの邪魔者でしかなかった」
しかし、アルゼイが見たコリウスの顔は眩しいくらいに晴れやかな物で。
「ライナーがいなくなったなら、一番ラヴィを幸せにできるのは俺なんだって、そう思ってた。でも、そんなのただの俺の願望でしかなかった」
コリウスに対する負い目を、己を貫くような痛みを持つそれをアルゼイは甘んじて心に受けた。コリウスは信じている。物語の最後には、ラヴィが幸せになれると。
ラヴィにコリウスが惹かれたのは必然だったに違いない。彼らは似ている。ラヴィもコリウスも、酷くもろく、美しい心を持っている。
「だから俺は、“エレゲイア・ファントリア”の世界から出てきたんだ。俺がいなくても……、いや、俺がいない方がラヴィが幸せになれるなら……」
誰かを心の底から愛することのできる、純粋な心を。
「アルゼイ。あんたが言ったように、ラヴィが最後には幸せになれるなら、俺は物語から離れようと決めたんだ。俺も、そろそろ自分の人生を頑張らないといけないから」
コリウスの真っ直ぐな瞳が胸を刺す。けれど、アルゼイはなんとか笑顔を作った。
「そうか。そうか……」
これでいい。コリウスが現実と向き合えるなら。これで。
「よかったな……、コリウス。いい物語に出会えて」
コリウスはアルゼイが痛む心から必死に掻き出した言葉に、嬉々として答えた。
「ああ。本当によかった。あの本に…、ラヴィたちに出会えて、本当によかったよ。アルゼイ」
「ラヴィ。あんたはこの国を出た方がいい」
森を貫いて、長く続く道をラヴィは一人走る。彼女が目指すのは国境。そして、その向こうにあるロウスト国。道は彼方に見える山へと続き、国境であるその高い山を越えるとロウスト国へと入ることができる。
「今、ロウストは移民をたくさん受け入れてる。出身も身分も分からないような連中も、大勢ね」
エルカが教えてくれたラヴィの逃げ場。それはかつてのファントリアの敵国であるロウスト国だった。
「いい?ロウストに入る時、絶対に教会でシスターとして働きたいって言うんだよ。ロウストじゃここよりもルーベウス教はずっと盛んなんだ。結婚していてもルーベウス教ならシスターになれる。“永遠の愛”ってやつを守っていればね」
ファントリアでは形だけ残っているに近いルーベウス教が、ラヴィを救ってくれるとエルカは言った。ラヴィが生きるに相応しい道だ。紅の鳳を崇めるルーベウス教。ラヴィが信じる紅の鳳が祝福するという永遠の愛を尊ぶ教え。
「急いで国境へ向かうんだ。王子があんたを兵士たちに探させてる。王子は本気だよ。捕まれば、何をされるか分からない……。ついて行ってあげられなくて、本当にごめん。でも――――――」
子供を身ごもった腹を撫で、エルカは寂しそうに言っていた。
「国境には、私の旦那がいる。きっとあんたの力になってくれるよ。ロウストに入る道も教えてくれるさ。人が良いからね……、あの人は……」
ラヴィは走る。疲れても、足は止めずに歩いて休み、国境へ。
「ラヴィ、さようなら。元気でね。あなたが無事に逃げられるよう、祈ってる」
別れる時、エルカは口ごもり何かを続けて言おうとしているのがラヴィには分かった。エルカには言い出し辛いことがあったのだ。
背中を向けて去って行くエルカに向け、ラヴィは言った。エルカがラヴィに言いたかったこと。
「エルカ!私…、私、またあなたに会いに来る!」
「……。ラヴィ……」
エルカは涙を堪えた。それは自分が言いたかったけど、言えなかったこと。
「ラヴィ、待ってるよ!私だってあんたに会いに行くからさ!絶対に、絶対にまた会おう!!」
「うん!」
大きく手を振るラヴィは笑っていたけれど、彼女も泣くのを我慢しているのに気が付いた時、エルカは顔を伏せた。思わず涙がこぼれてしまった。涙を拭いてからラヴィに顔を向け、エルカもラヴィに大きく手を振った。
友人の別れ際の笑顔を胸に、ラヴィは走る。大切な友人との約束を守るため。必ずまたエルカに会うと、ラヴィは決めた。
ラヴィの道のりはまだ長い。向かう山は高く険しく、空には暗雲が立ち込めていた。
ページをめくる音がする。薄い紙を一枚一枚摘まんで、書いてある情報に目を凝らす。いつもと同じなようで、いつもとは違う。俺が読んでいるこの求人誌は、今まで読んでいた本とは趣旨が大きく異なる。
これに書いてあるのは現実のこと。ストーリーでもなく、詩でもなく。俺にできる仕事を探すための情報誌。俺は自分にできることを探す。家族にもアルゼイにも頼ることなく、自分の力で生きていくために。
俺の本当にやりたいことは、やってはいけないことだった。だから俺は、今自分にできることを探すことにした。これ以上アルゼイに甘える訳にもいかない。彼や家族に恩を返さなくてはいけないのだ。社会に入り、金を稼げるようにならなくてはいけないのだ。
「たったのこれだけか……」
採用条件が自分に合致するものに印を付けてみたものの、一冊の中に印を付けることができるのは四つが限度であることに愕然とする。改めて俺という人間の可能性の無さに失望した。家を出て、親の代からの友人であるアルゼイに甘えて本ばかり読んでいた俺には社会で役立つ資格の一つも持っていなかった。
「とにかく、手当たり次第に当たっていくしかないな……」
体に圧し掛かる憂鬱さから溜息を吐いて、求人誌をテーブルに置いた。図書館のテラスから見える景色は、鉄とコンクリートでできたビルが並ぶ堅苦しい街並み。地を這う工場から吐き出される煙が渦巻く、空を覆う俺の嫌いな灰色雲がどこまでも広がって。
俺もすぐに、あのビルの一つに入って働くようになるのだろう。皆と同じように働いて、金を稼いで。そうして親とアルゼイに恩を返すんだ。彼らのお蔭で俺はこうして育ったのだから、それが当然。もう俺に夢を追う時間はない。夢を見つけることすらできなかった俺を、容赦なく社会は追い詰める。まだ若い内に仕事を見つけられなければ、就職先もなくなってしまう。時間がない。もう俺には時間がない。
工場の煙突が煙を吐いた。生ぬるい風が吹き、求人誌が床に落ちた。
俺は働かなくてはならない。やりたいことがなくても、何か仕事を見つけて自分の人生を繋げていかなくてはならない。どんなに興味のないことでも。心の何処かでどうでもいいと思いながらも、やりがいを見つけて年老いるまで働いていくんだ。夢を探していたことすら忘れて仕事に明け暮れよう。仕事を覚えて、疲れ果てるまで働いて、誰もいない家に帰って、眠りにつこう。朝目が覚めたなら、また同じ一日が俺を迎えてくれる。そうして何日も何日も繰り返し、いつか年老いて、途方もない時間が過ぎ去ってしまったことに想いを寄せよう。
それが人生。それが俺の一生。なんと虚しいことだろう。
求人誌を拾い、ページをめくって書かれている働き口に目を通す。
“製品営業”。“雑誌編集・記者”。“製品組立・塗装”。“飲食店接客”。“医療技術者”。
ああ。
ああ。
確かにどれも素晴らしい仕事なのだろう。どれにもかけがえのないやりがいがあるのだろう。
けれど、けれど。
どうしてこんなにも虚しい想いが心を満たす。
俺はこれでいいのだろうか。そうだ、何か……。
大切な何かを、俺は忘れているんじゃないか。そんな気がしてならなくて。
「ねえ、あなたには夢ってある?」
心臓がどくんと大きく跳ねる。何かが俺の心を叩く。
「みんな馬鹿にするけど、私は決めてるんだ」
どうして。どうして今、君のことを思い出す?
俺の鼓動が速くなる。息が詰まって、汗ばんで。
俺は焦っている。
何に?
「絶対に後悔なんてする訳ない。だって――――――」
何故なのか。何が俺を動かすのか、分からないけれど。
「だって、それは自分が本当にやりたいことなんだもん」
俺は立ち上がり、図書館の中へ向かっていた。どうしても、君に会いたくなっていた。君の物語が、君という存在が俺をこの得体の知れぬ重苦しさから救い上げてくれる気がして。
最後に、最後にもう一度。
もう一度だけ、あの本を開こう。君の物語を見届けよう。俺が現実に心を囚われてしまう前に。もう会うことはできなくても、それでもいい。綴られた文章だけでも構わない。
君がまた幸せに暮らす姿を、せめて、この目に――――――――。
図書館地下の書廊には灯りが存在しない。コリウスが手に持ったカンテラが照らす範囲だけが闇に浮かぶ。無音の地下書廊で聞こえてくるのは己の胸の鼓動のみ。これほど胸を高鳴らせて本を探すのはいつ以来だったか。コリウスが感じる懐かしさは本を探す目を動かし、やがて黒緑の本へと導いた。
「あった……」
黒緑の本。題名は“エレゲイア・ファントリア”。
本に指を掛け、手前に引いた。すると、本の上に乗っていたらしい何かが床に落ちた。
何かと思いコリウスが拾ったそれは、小さな袋。中には、再世の実が入っていた。
「これは……。どうして……?」
再世の実はもうこの世に現存しないはずなのに。手持ちの実は全て食べてしまったし、一つはアルゼイに―――――――。
「アルゼイ……?」
まさかとは思う。まさか、彼が再世の実をこんな所に隠すとは思えない。コリウスが近寄りそうな、よりにもよって黒緑の本と同じ場所に隠すなどということは、尚更。
だが、再世の実はこうしてここにあった。この世に残るたった一つの再世の実が。
コリウスは息を呑んだ。
何か、ただならぬ予感がして。アルゼイが実を捨てずに、ここに置いた意味は何なのか。
答えは恐らく、本の中にある。直感したコリウスは本を開き、物語を読み返し始めた。
いつからだろう。物語に熱中できなくなったのは。
気が付いた時には、現実と物語の間に大きな壁が出来上がっていた。物語は作り話である故に、それに心を砕く事など無駄なのだと、心の何処かで思うようになっていた。
コリウスが物語の登場人物たちに深く感情移入する様が羨ましく思えたのは、私の心にもまだ昔の夢見がちな自分が残っているからなのか。
生きていくためには、現実を見なくてはいけなかった。金がなくては飯も食えず、職がなければ世間の目は冷たくなっていく。両親は年老いていき、友人たちは次々に家庭を持った。現実は私を責め立てる。
“お前も早く、ここに混ざれ”。
混ざれば人間。混ざらなければ狂人。
世界に急かされるように職を探し、いつの間にやら図書館の管理人なんてものになっていた。私は結局家庭を持つことはなかった。自分以外の誰かを養うとなれば、きっと更に身を削らねばなるまい。私はそれが恐かった。これ以上自分が世界と同じ色に染まっていくのが、恐ろしかった。
世界に完全に混ざるのを拒んだ私は、両親が死んで孤独になった。友人たちは家庭のために多忙を極め、家庭を持たなかった私を見下した。
混ざれば人間。混ざらなければ狂人。
一人は寂しい。息苦しい。私は何も成せずに死ぬのだろう。世界に混ざれなかった者に、未来へ残せるものは何もない。
それが現実だ。決して逃れることのできない、現実。
コリウスは今頃あの本を読んでいる。先程、呼びかけても返事をしないコリウスを探して地下を見に行った時、あの黒緑の本の前に立つコリウスの姿を見つけた。
そして彼は気付くだろう。私の吐いた嘘に。
ラヴィ・エントールは幸せになどならない。それが真実であるということに。
それを知った時、コリウスはどういう道を選ぶのか。
現実か、物語か。
コリウス。我が友人の息子であるお前は、私にとってもかけがえのない存在なのだ。長年成長を見守ってきた私には、自分の息子のようにすら思える。お前には私のような人生を送って欲しくないのだ。
こんな孤独で、誰にも、何も残せないような人間にお前はなってはならない。こんな中途半端な生き方をして、後悔を胸に日々を送るような人間に。
私はお前に嘘を吐いた。償いになるとも思わないが、それでも、せめてお前に選択肢を与えるべきだと私は思う。その再世の実をどうするか、お前が選ぶのだ。
「そうだ。コリウス」
「お前は、選ばなくてはならんのだ。現実か、物語か」
私は、現実に生きることを心の底から選べなかった。だからこそ。
「どちらを選ぼうと、お前の自由。しかし……、だが、しかし……!」
だからこそ、お前には――――――――。
「どうか、願わくば。どうか、私を一人にしないでくれ……。コリウス……」
ラヴィ・エントールは神に祈る。小さな頃も、成長してからも。初めからページをめくれば、ラヴィのことばかり。誰がどう見ても、これはラヴィが主人公の物語なのだと分かる。
「馬鹿だな……、俺は。ほんとに……」
一度でも本を読み返さなかった自分をコリウスは呪う。ラヴィが主人公であることにもう少しでも早く気が付けていれば、ライナーを守ることもできたかもしれないのに。後悔ばかりが湧き起こる。
“神様、神様―――――――”。
作中、彼女は何度も何度も神に祈る。いる訳のない巨大な鳥の像に向かい、ライナーと過ごす日々が続く事を祈っていた。
神様。
神様。
神様―――――――。
本の世界の人々は、皆実在する訳がないと彼女に言う。それでも、ラヴィは神を信じ続けた。コリウスにはそれが不思議でならない。ラヴィはライナーとの永遠の愛を神に願っていた。しかし、それだけでこうまで心の底から神の存在を信じられるとは思えなくて。
コリウスは本を読み進めていく。ラヴィが十六歳になり、ライナーとの結婚を迎えた。挿絵に描かれた二人は幸せそうに笑顔で寄り添う。この挿絵を見た時に、これがラヴィとライナーの結婚式であると気が付くべきだった。コリウスは己を呪う。本当に、何も知らなかった自分が、憎く思えた。
そして、コリウスはとあるシーンに辿り着く。それはラヴィとライナーが家の裏庭で会話する何気ない一幕。
けれど、コリウスにとっては脳を揺さぶられるような文が綴られていた。
“私は神様に会ったから”
“小さい頃によく遊んでもらったの”
ああ。
そうか。そういうことだったのか。ラヴィ。ラヴィ・エントール。
“あの鹿さんは本当に神様だったんじゃないかなって思うの。姿を変えて、私と遊んでくれてたんじゃないかなーって”
彼女が信じている神様とは、つまり――――――――――。
コリウスは急ぎページをめくる。確証が欲しくてラヴィの台詞を探している内に、気になる文が目に入った。
“ライナーは二通の手紙を開き、その内容を読むと顔を青ざめさせた”。
「……?」
“片方は国境の壁画製作への参加を強制する物であり、もう片方の封筒には借金の借用書とナグロ・ファントリア王子からの手紙が入っていた”。
王子からライナーへの手紙。コリウスはその文字を見るや、まさかと思い続きを読んだ。
“王子はライナーに存在しない嘘の借金を背負わせ、国境に移住することを条件に借金を肩代わりすると持ちかけた。そうすれば、ラヴィとライナーは離れ離れ。それだけではない”。
「あの野郎……」
“国境には既に、王子が雇った刺客が待っている。仕事中の事故に見せかけて、ライナーを殺害するために”。
更にコリウスはページをめくる。飛ばし飛ばしに読み進め、あの祭りの夜のシーンを見つけた。ラヴィが男たちに強引に言い寄られ、傷心していく様が綴られていた。その男たちの中には、コリウスも含まれていて。
そして、ラヴィが王子に呼び出された後、彼女が王子に命を狙われていることを知った。
「これは……、どういうことだ……」
王子に命を狙われている?ラヴィが?それも、昨夜自分が体験した祭りの夜から。
なら、今は?今はどうなっている?あれからまだ一日も経っていない今、ラヴィは――――――。
コリウスは最新のページを開いた。そこには、ラヴィが傷つきながらも国境へと走るまでの過程が書かれていた。王子に命を狙われ、隣の国へと逃げるため。
アルゼイは言っていた。確かにラヴィは幸せになると。しかし、黒緑の本の残りは十ページもない。
本当に?
本当に、ラヴィは幸せになんてなれるのか?
コリウスが疑問を持った、その時。
「コリウス」
コリウスを呼ぶ声は、暗闇の向こうから。
「私は、お前に謝らなくてはいかんな……」
強い決意を目に宿し、アルゼイが姿を現した。
コリウスが開く本の世界。
終わりがもうすぐそこにまで近づいている世界。ラヴィは坂道を上がり、山の中腹へ辿り着いていた。国境を見張る砦には多くの兵が配備されている。兵たちが山を登ってくるラヴィを見つけると、急いで彼女を迎えに数人の兵を出した。兵を見て逃げようとしたラヴィだったが、体力の限界をとうに越えて走っていた彼女は進む方向を変えようとした拍子に転んでしまった。
「大丈夫ですか!?」
兵たちが心配してくれるのを聞いて、ラヴィは安堵した。まだ王子の命令はこの国境にまで届いていないらしかった。
「ラヴィ!?ラヴィじゃないか!」
砦の中に入れてもらったラヴィは、野次馬に来た兵の中にいたエルカの夫を見つけた。彼はエルカが村でしていることを知らない。全身傷と土汚れが付いたラヴィのことを心配してくれる彼の姿が、ラヴィには辛かった。
「どうしてこんな所に?何があった?」
気を遣ってラヴィと自分以外を部屋から出してくれた彼はラヴィに尋ねた。ラヴィは部屋に誰もいないことを確認し、部屋の外に聞こえないように小声で言った。
「王子様に追われてるんです……。私、王子様の告白を断ってしまって……。怒らせてしまいました……。それで、エルカがロウストに行けばいいって教えてくれたんです」
それからラヴィは事の成り行きをできる限り簡潔に説明した。彼は驚いていたが、すぐに事態を把握して思考を巡らせた。
「そうか……」
部屋の外に注意を払いつつ、ラヴィに合わせ小声で話す。
「なら、急いだ方がいいだろう。恐らく、王子はこのことを公に出したくないはずだ。隠密にあんたを連れ去るようここの兵の誰かに命令状を出していると考えられる。国の中に逃げ場がないなら、国外へ逃げようとすると予想している筈だ」
ラヴィは背筋を凍らせた。もしこの砦に王子に命令を受けた人がいるなら、今自分は追い詰められてしまったも同然である。
エルカの夫は何かを決心して立ち上がると、部屋にあった針金を使い部屋の窓を塞ぐ蓋の鍵を開錠した。
「いいか。俺がこの部屋を出て、三分待て。そしたらこの窓から外に出て、急いで国境を越えるんだ」
「あ、ありがとうございます!あの……ごめんなさい。こんなことさせてしまって……」
「気にするな。エルカの奴にどやされるよりはマシだ」
彼は部屋を出ていく時、ラヴィにとある物を差し出した。
一通の手紙と封筒であった。
「ライナーの部屋で見つかった物の写しだ。燃やされる前に一応写して置いたのは正解だった。これは、あんたが見ておくべき物だ」
そうして、彼は部屋を出ていった。三分数えた後、ラヴィは言われた通りに開けてもらった窓から砦を抜け出した。国境の向こうへ行くために、ラヴィは再び走った。
ラヴィの知らぬ間に、砦では何やらただ事ではない騒ぎが起こっていた。ファントリア国王子、ナグロ・ファントリアが突然この国境砦に訪問に来たとのことだった。
「“エレゲイア・ファントリア”はラヴィ・エントールの転落の物語」
「彼女は幸せを失い、世界に追い詰められた末……」
「最後には、国から逃げ出せずに国境でナグロ・ファントリア王子にその首をはねられる」
「ラヴィは幸せにはならない。ラヴィは死んでしまう。それがその本の本当の終わりだ」
「アルゼイ!!!」
アルゼイの胸倉を掴み、本棚へと押し付けた。振動でいくつも本が落ち、俺の腕に当たったが構わない。
「どうして……!!どうしてそんな嘘を吐いた!!!答えろ!アルゼイ!!」
「すまない……。すまなかった…、コリウス……。お前に嘘を吐いたことを謝ろう……」
アルゼイは謝罪する。俺の怒りはアルゼイを掴む手の力となり、アルゼイを強く押し付ける。
「お前に現実を見て欲しかった。真っ当に社会で生きていけるような人間になって欲しかったのだ。私のような中途半端な大人にならぬよう」
「それがどうした!?何故俺を騙した!!どうして―――――!!」
「いつまでも物語に憧れていては、大人にはなれん」
「なに……!?」
「時間は有限だ。お前もいつまでも若い訳ではない。お前が後悔する、その日は必ずやってくる。お前が物語に喰らわれていくのが、私には耐えられなかった。これ以上物語にのめり込んで、現実での行き場所を失くすお前を見たくなかったのだ」
アルゼイは手を掴み返した。力を込めずに、優しく俺の手首を包む。
「コリウス。もう、物語に逃げるのはやめろ。お前は現実で生きる人間なのだ。お前を待つ家族がいる、この現実で」
「………ッ!」
思わずアルゼイから手を離す。彼の言う通り、俺はずっと本を読むことで現実で生きる意味を見出せない自分から逃げてきた。そんなことは自分でも分かっている。いつか必ず、俺も社会に出て働かなくてはならないんだ。“本当にやりたいこと”なんて物を悠長に探している時間も、もう残されてはいない。
「逃げていては何も見つけられないぞ、コリウス!」
本当になかったんだろうか。“本当にやりたいこと”。
「本当にやりたいことなんて物を見つけられる人間がこの世にどれだけいる!?皆、理解して生きているのだ!それを見つけた者も、見つけられなかった者も、諦めて生きていかなくてはならんということを!!」
俺は何も得られなかったのだろうか。本の世界で過ごした時間は、ただただ空虚な物であったのか。
「物語を捨てろ!!現実を見ろ!!たくさんの人に出会い、新たな世界を知れ!!」
俺は図書館に来てから、何をしていたのか。
「大人になれ、コリウス。ここから出て、家に戻るんだ。働き口を見つけて、そして、自分の家庭を持て……」
ただ自分が好きな本を読んでいただけだった、今までの時間は、無駄だったのか。
「きっとそこに、お前の幸せはあるのだから」
両親のことを思い出した。兄弟のことも。皆が今どうしているのか知りたくなって、途端に寂しさが押し寄せる。
手に持った黒緑の本が急に軽くなった気がした。所詮は作り話。所詮は空想。
自分が生きているのは、現実。ラヴィという少女も、ライナーという男も、何処かの誰かが考えた作り話の登場人物でしかない。
なら。
なら。
今まで感じてきた全てが、何の意味もないごっこ遊びに過ぎなかったと、そういうことなのか。
夢から覚めてしまったような心地に襲われた。何か、心の中にあった自分と物語を繋いでいた糸が、ぷつりと切れてしまったような。
その感覚が恐ろしくて、必死に糸を繋ぎ合わせようと思考を走らせる。心から失われていくラヴィたちへの興味を掻き集める。
ああ。こうしているうちにも、本の世界への想いが消えていく。現実という絶対的な存在の前に、物語が霞んでいく。
俺の中から、物語への憧れが消えていく―――――――――。
砦を出て、ラヴィは草木の生えぬ石だらけの坂を行く。戦争の跡が残る国境付近には、焦げた跡や抉れた地面が点々と存在していた。空には黒い雲が立ち込める。荒れ果てた景色に使い物にならなくなった銃器が地面に刺さる様が合わさって、そこはまるで墓場のように見えた。
坂を上り切って山頂の平地に着いたラヴィは、立つのもやっとになってしまった脚を休ませるため地面に座った。息が落ち着くまで、エルカの夫に貰った手紙を読む。片方の手紙は、ラヴィにも見覚えのある物だった。それはライナーが国境へ向かう前、ラヴィに見せた物。
そして、もう片方の茶色の封筒には、更に二枚の紙が入っていた。
一枚は法外な金額の書かれた借金の借用書。もう一枚は、ナグロ・ファントリア王子からの手紙であった。
“三年前、貴方を育てた教会の神父が亡くなられたのは御存知の事と思われます。その神父、ダニア・ヘンリーが教会の運営で積み重ねた負債が貴方に引き継がれる事となりました。しかし、急な報せでもあり、一国民に支払える金額ではないとこちらで判断し、この度ライナー・エントール様には国境での平和記念壁画製作計画に御参加頂くこととなりました。尚、この処置は諸事情により秘密裏に行われる物とします。御家族、知人へは、国境で壁画製作に携わると最低限の情報だけを伝えて下さい。この指示に従わない場合は今回の処置は無効となります。また、この手紙は読了後、即時に焼却処分して下さい”
ラヴィは全てを悟った。ライナーが何故死んだのか。誰が殺したのか。
自分が聞かされたこととは全く食い違う手紙の内容が、ラヴィに憎しみを抱かせた。
同時に、ラヴィは安堵する。ライナーはやはり自分に借金を背負わせたのではなかったのだ。
自分に押し付けられた数々の嘘。全ては――――――――。
「見つけたぞ」
この男。ナグロ・ファントリアが仕組んだ罠であったことを、ラヴィは知るに至ったのである。
「あなたが……、あなたがライナーを……!!」
ラヴィが王子に迫り、首を掴む。持てる力の全てを使って、首を絞めた。王子はそんなラヴィに冷たい目を向けながら、手を捻り上げてラヴィを地面に投げ倒した。
「馬鹿なやつだ。もっと愛想良くしていればいいものを」
王子の背後には十数人の兵がいた。皆、王子とラヴィの二人を黙って見ていた。
ラヴィは叫ぶ。怒りが彼女を叫ばせる。
「殺してやる!殺してやる!!ライナーは、何も悪いことなんてしてなかったのに!!」
「黙れ」
「全部嘘だった!!あなたの言ったことは、全部!!」
「黙れと言ったら黙るんだよ!!!」
王子がラヴィを殴り、ラヴィに跪かせた。ラヴィは己の無力さに涙を流す。真実を知っても何もできない。自分はこの人に敵わない。ライナーを殺したやつに、自分は何一つ報いを受けさせることができない。
「終わりだ。お前は」
そして、ラヴィは祈った。もう味方は誰もいない。だから、祈った。
誰も信じない、いるはずのない神なる鳳に、“助けてください”。そう願った。
「ここで直々に、俺が殺してやる」
王子が剣を抜く。鈍く輝く剣がラヴィを映す。
物語の終わりが、やって来る。
“神様”。
“神様”――――――――。
声。俺は思い出す。ラヴィが祈るとき、呟く声。
ラヴィ・エントール。これは君が誰かに祈る声だ。決して忘れたりするものか、君のことを、何一つ。
君の声が聞こえてくるはずなんてないのに、俺の中で響く声。俺の心に残った、君の声。
俺は手に持った黒緑の本を開く。少しずつ、少しずつ、千切れてしまった心の糸が結われていく。ページをめくればめくる程、俺の心が取り戻す。
それは、情熱。君がくれた、俺に足りていなかったもの。
どうして今、君の声を思い出す?
決まっている。俺はもう分かっている。
俺が“本当にやりたいこと”。
君が“誰に”祈っていたのかも。
君はずっと祈っていた。君を守って欲しいと、君の想いを祝福して欲しいと。
俺のやりたいこと。君が待っている“誰か”。
俺の進むべき道が、今でははっきりと見える。
糸が繋がる。俺は物語の意味を思い出す。
君の声が俺と物語を再び繋いでくれた。そうだ。失くしてはいけない。俺にとって、大事な想いの数々を。
君の笑顔に感じた温かさ。初めて君がライナーへ寄せる想いに気付いた時の妬ましさ。ライナーが死んだ時の寂しさも。君が作ってくれたアップルパイのあの味も。
ラヴィ。俺に情熱を与えてくれた君。君が望む俺の姿に、俺はようやく気が付いた。
「ありがとう。アルゼイ」
「………」
「家を出て、この図書館に来てから、もう五百年くらいか」
「……、そうだな。それぐらいは経った」
「いい加減、俺も決めなきゃいけないんだな。自分のこと」
「コリウス……。お前……」
アルゼイ。俺の親父の友人であり、俺にとっても友人のような人だった。
「あんたから見れば、俺がここでしていたことなんて現実逃避以外の何物でもなかったかもしれない。実際、俺自身そのつもりだった。けど……。けど、きっとそれだけじゃなかったんだ。物語を読んで感じたことは、全部俺の中に残ってる。俺は、それを無駄だとは思わない」
友人のようで、父親のようで。思えば、不思議な関係だった。
「見つけたんだ、アルゼイ。俺の……、“本当にやりたいこと”ってやつを」
アルゼイは口を開かない。じっと俺を見つめる瞳には、薄っすらと涙が浮かんでいた。
なあ、アルゼイ。もしも、もしも物語の中に入れるとしたら、あんたは何をする?
俺は……。
俺なら――――――――。
「俺は、本の世界に行くよ。アルゼイ。ラヴィを助けに」
胸糞悪い、バッドエンドってやつをぶっ潰す。
「コリウス……」
アルゼイの声が震えているのが、コリウスには分かった。アルゼイは怒っているのか。それとも。
「本当に…、それでいいんだな……?」
それとも、悲しんでいるのか。
「ああ」
「そうか……。お前は…、選んだか……」
コリウスは小袋から再世の実を取り出して、掲げる。正真正銘、最後の一つ。これを食べれば、もう物語の世界から帰って来ることはできない。コリウスの運命を狂わせた木の実。コリウスに生きる目的をくれた木の実。
「あんたは本当に俺に良くしてくれた。俺は、それを決して忘れない」
「コリウス……」
アルゼイは続く言葉をこらえた。こらえて、こらえて。コリウスの言葉を待った。
「今まで、ありがとう。アルゼイ。あんたには、感謝することばっかりだ」
アルゼイはこらえる。ひたすらに、彼の胸から溢れ出そうとする言葉を。
「お前が選んだのなら……、それでいい」
行かないでくれ。
「だが、決して諦めるなよ!必ずやり遂げろ!!お前が本当にやりたいことだと言うのなら!!」
行かないでくれ。
「ずっと胸を張って生きていけ!俯いて足を止めずに、最後まで!!」
私を、独りにしないでくれ。
「お前は……!私にとって、お前は……!お前は………!」
「あんたといるのは楽しかったよ。アルゼイ。まるで、もう一人親父ができたみたいだった」
言い淀んだアルゼイにコリウスがそう言うと、アルゼイは自分が泣いているのに気が付いた。そして、コリウスも。
「親父たちに言っておいてくれないか。こんなことを頼める立場じゃないかもしれないが。俺は、俺の信じる道を生きていると。俺が……」
涙も拭かず、コリウスは高らかに言った。
「俺が、胸を張って生きているということを!自分の信じる道を生きていると!!伝えてくれ!!どうか、皆に!!」
それから、コリウスは再世の実を口に含み。
「さよならだ。アルゼイ」
奥歯で実を、噛み砕いた。
アルゼイは不意に手が伸びてしまう。コリウスの体を掴もうと。前に足を踏み出して、手を伸ばして。
「ありがとう。あんたのお蔭で、俺はやっと自分のことが分かったよ」
光に包まれ、コリウスが現実から消えてしまう。
「何も返してやれなくて、すまない。アルゼイ」
アルゼイが伸ばした手も、本と一体化していく光に触れられず。
「達者でな!!達者でな!!!コリウス!!!」
ありがとう。アルゼイ。ありがとう。
「私はいつでもお前を想っているぞ!!コリウス!!だから……!!」
本の輝きが収まっていく。コリウスに届くアルゼイの声が遠くなっていく。
「だから!!お前は、後悔しないように全力で生きろ!!最後まで!!絶対に!!!」
本の世界へ、コリウスが消えていく。
「コリウス!!!」
光が収まると、輝きを失った黒緑の本が床に落ちていた。アルゼイは本を拾い上げ、本棚を背にしてその場に座り込んだ。
顔に手を当て、彼以外誰もいない図書館の静寂にアルゼイは涙を流す。
そして、アルゼイは顔から手を離すと意を決し、黒緑の本の一番新しいページを開いた。
雲が空を埋め尽くす。戦争の跡が色濃く残る国境の山頂にて。
剣は振り上げられた。剣先が暗雲に向けられ、刃はラヴィの首を狙う。
「神様。神様。神様……」
“エレゲイア・ファントリア”はラヴィ・エントールの悲劇の物語。愛する人を失って、自分の居場所を失って。最後に命すら奪われて。
救いはない。この世界に救いはない。剣を構える王子も、王子の後ろで事態を傍観する兵士たちも、誰も彼女を助けはしない。
「神様?馬鹿が!そんな物、本当にいると信じてるのか!?」
ラヴィは信じる。誰が何と言おうとも。
「終わりだよ!お前を助けてくれるやつなんていない!!もう、お前は!!」
彼女は信じている。もう、彼女にはそうすることしかできないから。
しかし。どれだけ信じようと、運命は変わらない。神はいない。
神は、この世に存在しない。
存在しないから。
「ここで、死ぬんだよ!!!」
物語に幕を引く剣は、振り下ろされた。
「神様―――――――!」
振り下ろされた剣は、ラヴィの首を切り飛ばす。
そのはずだった。
そのはずだった、けれど。
「……!」
その場にいた全員が、一人の男の登場を括目していた。ラヴィも、王子も、兵士たちも。全員が王子の剣を素手で握り、受け止めるその男の姿を見た。片手で王子が振り下ろした剣を受け止めたその男。頭から足のつま先まで覆うようにローブを着込んだ、浮浪者にしか見えぬその男。
ローブの男が剣を握り潰して、へし折って。王子が恐怖し後ずさる。
「なんだ……、なんだお前は!?」
狼狽した王子が折れた剣を構え、ローブの男を威嚇した。
「どけ!!汚らしい浮浪者が!!俺の邪魔をするんじゃ――――――」
瞬間、王子の体は宙に浮いていた。ローブの男が王子の股間を全力で蹴り上げたのだ。王子が勢いよく地面に落ちる。目は白目を向いて、体が痙攣していた。
「ラヴィ。ラヴィ・エントール。俺は君に謝らなくてはいけない」
ローブの男はラヴィの方を向いた。ラヴィは不思議と恐怖を感じない。今までとは違う雰囲気が、ローブの男から感じられた。
「俺は、君の愛を脅かしてしまった。君は新たな恋なんてものを望んでいなかったと、気付けなかった」
ラヴィは昨夜のことを思い出す。自分を守りたいと言っていた人。自分を好きだと言った人。
「すまなかった。ラヴィ」
意識を取り戻した王子が喚く。苦痛に歪めた顔のまま、兵士たちに命令した。
「撃て!あいつらを!!とっとと殺せ!!」
王子の命令に従い、戸惑いながらも兵たちは銃を構え、発砲した。
「世界は君に、諦めろと言うだろう」
しかし、銃弾は全て男の手前でぴたりと動きを止めた。何発も繰り返し放たれる弾丸が、一つ残らず男に届く前に空中で止まっていった。
「君の信じる道は間違いであり、本当に正しい道はこちらだと何度も何度も手を招くに違いない」
ラヴィに向き合った男は胸を張り、堂々と言い放つ。
「けれど、私は違う。君は、君の信じる道を行け。例え苦しくても、それは君が選んだ道なのだから」
ラヴィに手を差し伸べて、ラヴィがそれに応えて手を伸ばす。
「君の選んだ、愛なのだから」
兵たちは銃を撃つのを止めた。誰が命じたわけでもなく、ただ無意味であることを悟ったからである。
「どうか、どうか、諦めずに、見つけるんだ。君の……、幸せを」
山頂に風が吹いた。ラヴィの頬を優しく撫でる柔らかな風は、男のローブの頭の部分をはためかせ、彼の素顔を明らかにした。
「あ……」
額に一本の角を生やした青年だった。ラヴィは彼の角を見て、思い出す。あの懐かしき大鹿のことを。かつて彼と共に過ごした、幸せだったあの頃を。
そう。彼こそ。
彼こそ、外の世界からやって来た、コリウス青年に他ならぬ。
ラヴィから離れたコリウスの体が光に包まれる。光は形を変えながら、急激に大きく膨らんでいく。そして、光が収まると同時に、彼は空へと羽ばたいた。
長く伸びた三本の尾羽。揺れる炎のように頭部から背中へと生える鶏冠。頭部には一本の角が生えていた。真紅と黄赤の鳳。紅の神鳳。ライナー・エントールの想い描いた、神なる鳳の姿がそこにあった。
「まさか……、そんなことが……」
王子が羽ばたく鳳を愕然として見つめていた。王子だけではない。兵士たちも、世界中の人々も、ラヴィすら、その威容に目を奪われた。
存在しないはずの神が、彼らの前に姿を現したのだ。
鳳となったコリウスは、巨大な両翼で烈風を巻き起こしながら世界中にその姿を見せつける。優雅に空に弧を描き、力強く翼を振るう。
「鳳だ……!鳳様が来たんだ!!」
輝く羽を降らしながら、コリウスは天高くへと昇って行く。空を覆う暗雲の中へ突き進む。
彼の大嫌いな空の色。閉塞した運命。絶望のエンディング。
鬱陶しく、気に食わない。彼は怒る。彼は怒る。
「邪魔だ!!」
怒りのままに大いなる真紅の翼を大きく広げ、暗雲もろとも、それら全てを吹き飛ばした。
「……、綺麗……」
ラヴィが涙を零しながら、感嘆の声を漏らす。暗雲にぽっかり空いた雲の合間から差し込む陽の光を身に受けて、コリウスは紅く輝いていた。
国境を見下ろす山の頂上へと降り立つコリウスを、皆が見る。ある者は膝を折り、またある者は恐怖の余りに腰を抜かす。世界中の人々が、彼の姿にひれ伏した。
目は王子と兵士たちに向けていても、全ての者に向けてコリウスは言う。彼は宣言する。
“エレゲイア・ファントリア”の運命を、打ち壊す。
「愛に仇なす者共よ!私の声が聞こえるか!!」
「その者を殺すと言うのなら、私がお前たちを殺すだろう!」
「神を信じぬ愚か者共め!その罪を恥じるがいい!!」
「神を信じ続けたその少女を、私が守るとここに誓う!彼女の純粋な想いを守ると誓う!!」
「彼女に手を出すことを、私が禁ずる!!!」
ラヴィの笑顔が見たいから。彼女の隣にいることができなくても、また彼女が笑ってくれるなら。彼は何でもできる。どれだけでも頑張れる。
ラヴィ・エントールを救うため。ラヴィの愛を守るため。全てを捨てて、青年は神となる。永遠の愛を祝福する神鳳に。
例え、恋慕の情は報われずとも。コリウスから彼女への永遠の愛を、己の新たな姿に誓う。
コリウスは飛び立ち、ゆっくりとラヴィの前に降り立って、言った。
「さあ、行け。君を受け入れてくれる新たな場所へ」
神鳳の姿に跪き、感動していたラヴィが我に返り、礼を言って立ち上がる。
「ありがとうございます……。神様。ありがとうございます……」
ロウスト国へ向け走り出すラヴィが振り返る。その目は何処か寂しそうな色を浮かばせていた。
「このご恩は忘れません……。絶対に、忘れません」
畏敬の念がこもったラヴィの声。去って行く彼女の後姿を、コリウスもまた、寂し気な瞳で見つめていた。
ラヴィが国境を越え、木々の中へと入りその姿が見えなくなると、コリウスはそっと目を閉じる。
跪くラヴィを見た時、ラヴィと自分は遠く離れた存在になってしまったことを実感した。だが、これでいい。これでよかったのだ。男性の姿では、ラヴィを安心させることなどできないのだから。
コリウスは決めた。神となってラヴィとライナーの愛を守ることを。
彼の本当にやりたいことは、ここにあった。この本の世界、“エレゲイア・ファントリア”の世界で、ライナーへの挽歌のような人生を送るラヴィがいつまでも笑っていられるように、コリウスは闘い続ける。
光り差す山頂で、コリウスは清々しい心地に空を見上げた。雲の中に開いた穴から見える空の色は、蒼く澄んで美しい。心が軽い。何の焦りも感じない。
コリウスはラヴィの行き先を見下ろした。一面に広がる森の緑と、石や木でできた建物が遠目に見えた。陽の光を浴びたそれらがとても爽やかに思えて、コリウスは羽ばたき、空へと舞い上がり。
紅く輝く羽を世界中に降らして、コリウスはやがて、空の彼方へと飛び去った。
無限に続く廊下を持つ、暗い図書館。
アルゼイはそこで一人、黒緑の本を開き、読んでいた。開かれているそのページには、コリウスが暗雲を吹き飛ばし、ラヴィを救った挿絵が描かれていて。
「……、ふっ」
黒緑の本を読み終わり、アルゼイの口から笑いが漏れる。段々と笑いは大きくなり、アルゼイは床に倒れるように座り込んで腹を抱えて笑った。
「コリウス……、お前というやつは……」
なんて滅茶苦茶なことをする奴だ。こうも豪快に悲劇を潰してしまうとは。
アルゼイはひとしきり笑ってから、黒緑の本を閉じた。
“ありがとう。あんたのお蔭で、俺はやっと自分のことが分かったよ”
コリウスが言っていたことを思い出す。
そうか。そうだったのか。
「この老いぼれにも、まだ未来へ残せる物があったということか……」
黒緑の本を抱え、アルゼイは部屋へと戻っていった。
「さて、これからあいつの親になんと言うかな……」
椅子に座ってアルゼイは本の表紙をじっと見つめた。
「本当に、いつまで経っても世話のやけるやつだよ。お前は」
彼は忘れないだろう。コリウスが本の中に入る決意をした時の彼の顔を。自分で運命を選んだコリウスの立派な姿を、一生忘れない。
「私にも、まだまだこれからやらなくていけないことができてしまったな」
アルゼイはそっと耳を澄ます。無音の図書館。何の音も聞こえてこないのが、妙に寂しく感じられた。
こうして待っていれば、コリウスの声が聞こえてくるような気がした。でも、やっぱりそれは気のせいで。
「久しぶりに、物語でも読んでみるか」
アルゼイが机の引き出しに本を置こうとしたその時、手を滑らせ、本が床に落ちてしまった。落ちた本はとあるページを開き、アルゼイの目に一つの挿絵を映した。
「……。ははっ」
それを見て、アルゼイは笑う。
まったくもって、あいつらしい。なんとも幸せそうな顔をしているじゃないか。
「そんなに美味い物なのか。それは」
アルゼイは本を引き出しに仕舞い、立ち上がった。
「よし、買ってくるか。たまにはこういうのもいいだろう」
アルゼイは部屋から出ていった。心なしか、彼は上機嫌なようだった。
黒緑の本が彼に見せたページには、どんな絵が描かれていたのか。それは。
それは――――――――。
「あ、ここで!ここで降ろしてください!はい、大丈夫です。どうも」
ファントリア国の砦の外にある広い森の中。一台の馬車が森に引かれた道で止まっていた。
馬車の中には何人かの護衛と思しき武装した男性と、少々厳格そうな女性が一人。そして、今馬車から降りたもう一人の女性。赤い瞳に、白い髪。
ラヴィ・エントールである。
「それじゃあ、行ってきます」
「ラヴィ様。お気をつけて。正午にまたお迎えに上がります」
「いえ、村で待っててください。歩いて向かいます」
「そうですか……。分かりました。それでは」
馬車が走りだし、村へと向かって行った。ロウスト国からここまで、馬車での移動をしたラヴィは久方振りの故郷の森を歩く。辺りをきょろきょろ見渡して、手に持った籠を揺らす様はまるで幼少の頃のままである。
ラヴィは気付かない。彼女の後を追って飛ぶ、額に角を生やした小さな鳥がいることに。小鳥はある程度ラヴィが進むと、先回りするように森の奥へと飛んで行った。
ラヴィは歩く。赤い瞳で何かを探す。この森で待っている誰かを探す。
そうして歩いているうちに、ラヴィは森の広間へやって来た。昔から変わらない、美しい緑と差し込む陽の光が作り出す幻想的な広間へ。
「こんにちわ」
そこには“彼”がいた。広間の大樹の根本で眠る、一匹の大鹿が。
「お久しぶりですね。お元気でしたか?」
大鹿は、コリウスはラヴィの問いかけに応えて首を上げる。ラヴィがコリウスの頭を撫でると、気持ちよさそうにコリウスは目を伏せた。
「相変わらず、ロウストではすごい人みたいに扱われるんです。教会の人たちなんて、私のこと“神の使い”だとか言うんですよ」
ラヴィは困ったように話す。いつもとは言わないまでもラヴィを見守っているコリウスは、その辺のことは重々に知っていたのだが。
「最近は教会に来る子供たちに布の織り方を教えてるんです。あと、料理のこととかも」
楽しそうにラヴィは話す。ロウストでの生活のこと。エルカからもらった手紙のこと。それから、ライナーの思い出を。
「あ、そうだ。実は、久しぶりにお菓子を作ったから、持ってきたんです」
ラヴィは籠からアップルパイを取り出した。
「今朝、焼いてきたんですよ。ひょっとしたら、神様が食べたがるかなって思って」
臭いに反応してコリウスが鼻をひくつかせると、ラヴィは朗らかに笑った。
あの頃と変わらない笑顔。純真で汚れなく。花か月のように美しい。
「はい。どうぞ」
温かい日差しと、木々の間を縫う爽やかな風。
そして、彼女の笑顔。
もう二度とこんな日は来ないと、そう思った。けれど、今こうして、ラヴィと自分はここにいる。彼女の笑顔がまた見られたのが、コリウスには嬉しくて。
ラヴィの左手には、紅い宝石があしらわれた結婚指輪がはめられていた。ライナーとの愛の証である指輪。ラヴィは一生ライナーを忘れずに生きていくのだろう。それ故に、苦しい思いをすることもあるに違いない。だからこそ、コリウスは彼女を守りたいと思う。
コリウスは幸福な想いに浸りつつ、差し出されたアップルパイを舌に乗せ、口に入れた。
「美味しいですか?」
コリウスが喉を鳴らしてラヴィに応えた。満足そうなコリウスの様子に、ラヴィは笑顔を見せてくれる。
懐かしい味だ。本当に。
一人と一匹が、森の広間で時を過ごす。あれから随分と時は経って、色々なことがあったけれど、彼らはまたここに帰ってきた。あの頃と変わらぬ笑顔で、ラヴィはそこにいる。
コリウスは口に残ったアップルパイの風味を噛み締めた。
「神様」
ああ。やっぱり、笑顔と同じに、その味もあの頃のまま。
「いつも守ってくれて、ありがとう」
とても甘くて、どこか酸味がかった味だった。
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エレゲイア・ファントリア 完