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第三話 物語が君を喰らう

「私ね、将来あなたのお嫁さんになりたいの」


「えー、ラヴィが?」


 教会の庭に吹き抜ける風が、物干し竿にはさみで留められた衣服とシーツをひるがえさせていた。乾いた空気に混じる湿気が風に乗って、頬に当たるのが心地よかったのを覚えている。


「……。嫌なの……?」


「結婚とかよくわかんないし、それより早く洗濯物干しちゃおうよ。神父様に怒られちゃうよ」


「バーカ!バカ!バカライナー!」


「早く終わらせて森に行くんだろ?ラヴィも手伝ってよ」


 小さな頃から私たちはずっと一緒で。寂しがり屋なあなたは私がいないと泣き出すの。「ラヴィ、ラヴィ。どこ?」って。

 そして、あなたがいないときは私が泣いて。あなたを探してよく迷子になった。


「………」


「………」


「そうだった」


「バカだなぁ、ラヴィは。どうせ今日も森で神様を探すとか言うんだろ?」


「そうだよ。バカライナー。神様はいるもん。この前はたまたまいなかっただけで……」


「嘘だぁ。みんな神様なんていないって言ってるのに。そんな大きな鹿なんている訳ないよ」


「いるよ!ライナーがいるから出てきてくれないの!ライナーが悪い子だから!」


「はいはい。さあ、これで全部だ。結局僕が全部やった。君はきっとおやつ抜きだよ、ラヴィ」


 あなたはそう言って、空になった洗濯籠を持って行ってしまう。私はそんなあなたに置いて行かれないように小走りでついていく。あなたの背中を見つめて。少し癖のある髪が風で小さく揺れるのにときめいて。


「ライナー。ライナー」


 私があなたの前に手を差し出すと、あなたは恥ずかしがりながらその手を握ってくれた。


「……、ほら」


「えへへ」


 私は嬉しくて、嬉しくて。あなたの隣で笑ってた。


「ねえ、ライナー」


「なに?」


「お嫁さん……、駄目なの?」


 手をぎゅっと握って、聞いてみた。あなたの顔は真っ赤になっていて、私も体がなんだか熱くなってた。


「………、いいよ」


 ねえ、あなたは覚えてる?私があなたにした約束。


「ずっと……、一緒にいよう。……、いてよ。ラヴィ」


「うん!」


 私は誓った。結婚式でもなければ、初めてキスをした日でもない。私はあの時、あなたに永遠の愛を誓ったの。


「約束する!」


 私はずっと覚えてる。だって、すごく嬉しかったもの。あの頃の私にできた精一杯の告白に、あなたは「いいよ」って答えてくれたから。

 いつかあなたに聞こうと思ってたのに。案外、あなたも覚えているかもしれないと、ちょっと期待していたりして。


「私、ずっとライナーのお嫁さんでいる!」


 きっと恥ずかしがるあなたの顔が、見たかった。


 見たかったよ………、ライナー。










エレゲイア・ファントリア








第三話  物語が君を喰らう







 ラヴィ・エントールは祈りを捧げた。大勢の人が見守る中で、帰らぬ人となった愛する夫の亡骸の前に立つ。喪服に身を包み、帽子に付いたベールで顔を隠して。頬を伝う彼女の涙を皆が見た。黒いレースの手袋の上から薬指にはめられた指輪の輝きが、落ちてきた涙に濁っていた。

 棺桶の中で血の気が失せたライナーは、目蓋を閉じて動かない。彼が死んだと聞かされた時、何かの間違いか冗談か、それ以前に脳が受け付けようとしなかった。

 ライナーが死んだ。それは何の現実味もなくラヴィに伝わり、今日、ライナーの遺体を見てようやく理解した。


「ライナー……。ライナー………」


 冷たい頬を撫でても、ライナーは返事をしてくれない。国境へと送り出した日のことが思い起こされた。自分の呼び声に応えて、呼び返してくれた。

 ラヴィが最後に見たライナーの泣き顔が、頭にこびりついて消えようとしない。あれで本当に最後だったなんて。また会えると言ってくれたのに。仕事なんて休んで、二人で会おうって。


「一人にしないで……。お願い、ライナー……」


 これは悪い夢だと信じてしまいたかった。何もかも全てが夢で、きっとまた目を覚ませば裏庭で像を彫るライナーがいるのだと。

 信じたかったけれど。


「ずっと一緒にいるって……、言ったのに……」


 どれだけラヴィが泣いても、ライナーは二度と目を覚ましてはくれなかった。










 土葬も済み、葬式が終わったのは陽も暮れた夜であった。皆ラヴィを心配し彼女を家まで送ろうとしたが、彼女はそれを断った。ラヴィは一人で教会から家までの道のりを歩き、家に帰ってきた。帰り道の間、ずっとラヴィの頭には棺に寝かせられたライナーの姿があった。地面の穴に置かれた棺が、被せられていく土で段々見えなくなっていく様も。どれも彼女の目に深く焼き付いてしまっていて。


「お悔やみ申し上げます。ラヴィさん」


 暗い中、家の前でラヴィを待っていた人物がいた。ファントリア国王子、ナグロ・ファントリアだ。ラヴィは王子の姿を見て委縮した。先日、彼に無礼を働いたことを覚えていたから。


「あ…、どうも……、わざわざありがとうございます」


 先日の一件のことを謝らなくてはならないと思い、頭を下げた。


「この間は申し訳ありませんでした。失礼なことをしてしまって……」


「いえ。お気になさらず。それよりも……」


 王子の言葉に安心し、顔を上げた時だ。ラヴィの視界が歪んで、足がふらつきよろめいてしまった。


「大丈夫ですか!?」


 慌ててラヴィを抱きかかえた王子は心配そうに声をかける。ラヴィを家の中へ連れて行こうとして、ドアの前までやってきて。


「ラヴィさん。家の鍵は――――――」


「すみません……。でも、もう大丈夫ですから……」


 気を遣ってくれるのはありがたかったけれど、ラヴィの心はもう疲れ切ってしまっていた。できるだけ早く一人になりたかった。頭の中はぐちゃぐちゃで、人と話す気力なんて残っていなくて。


「ごめんなさい……、一人に……」


「あなたを一人になんてできません!」


 王子はラヴィの肩に手を置いた。王子の体が触れると、ラヴィの背筋に悪寒が走る。今の彼女には、ライナー以外の男性に触れられるのが嫌で嫌で仕様がなかった。

 誰かの温もりを感じるのが恐い。自分の心が他の男性のお蔭で安らいでしまうのがライナーに対して後ろめたくて。ライナーではない誰かが自分の心に入ってくるのが嫌で、ラヴィは王子を拒絶する。


「お願いします……、離して………」


 それでも、王子はラヴィを離さない。ラヴィの体を掴み、家の中へと入ろうとしていた。ライナーとラヴィの家へ。二人で暮らした家の中へ。

 ラヴィの胸に焦りが浮かんで、その焦りが彼女の声を荒げさせた。


「お願い……」


「私があなたの傍にいます。僕があなたの――――」


「……、お願い!一人にしてください!!」


 またもラヴィは王子の手を振り払い、彼から数歩離れてしまった。息を切らせてラヴィは怯えた瞳で王子を見る。王子はそんなラヴィの様子を見ると苛立たしげに息を吐いて、言った。


「分かりました。今日は帰ります。それでは、また」


 王子がその場を去ると、ラヴィは急いで家の鍵を開け中に入った。ドアを閉め、鍵を締め直して。力尽きるようにドアの前で座り込んだ。

 膝を抱えるラヴィは何も考えることができずにいた。何か考えないといけない気がするのに、何を考えればいいのか分からない。これからどうすればいいのか。心に空いた空虚な想いはどうしたら消えるのか。

 とりとめもなくラヴィは思考を続け、しばらくして落ち着き始めると、暗い家の中に響く時計の針が刻む音が耳に付いた。静かな空間だ。ついこの間まで、この家にはもっと賑やかな雰囲気があったはずなのに。

 男の人らしく低い彼の声が、聞こえてこない。珈琲を啜る音も。裏庭で石を彫る音も。彼の音が聞こえない。

 未だに彼が死んでしまったことを信じられない自分がいた。けれど、彼がこの家を出てからの日々と彼の亡骸を己が目で見た今日では、家の中の雰囲気が全く違って感じられてしまって。

 ライナーがこの家に帰って来ることは二度とないのだと、実感し始めて。悲しみが再び湧き上がってきて。ラヴィは泣いた。

 家の外には、夜闇に混じりコリウスがラヴィの泣く声を聞いていた。星が煌めく夜空を見上げ、ラヴィを探しに森に来た少年の頃のライナーの姿を思い出していた。










 ライナーの葬式から、一週間が経った。ラヴィは仕事を休み、家からろくに出ずに一人で過ごした。ふらふらと漂うように家の中を見て回っては、座り込んで亡き夫のことを想い涙した。 今日もラヴィは家にこもり、ベッドで静かに涙を流す。朝日がカーテン越しに部屋に入ってくるのを嫌って、ラヴィは布団を被った。

 何の気力も湧いてこない。何をすればいいのかも分からない。だからラヴィは、もうずっとベッドから起き上がらずにいようと思った。ライナーがいないこれからの人生が、空虚に思えてならなくて。何の意味もない物に思えて。なら、何もせずにいようと彼女は考えた。呑まず食わずで、ゆっくりゆっくり死んでいこう。彼のことを考えながら、眠りにつこう。

 ラヴィは静寂の終わりを望んだ。ライナーに全てを捧げたラヴィ。彼を失って、なおも生きようと思える力は彼女にはなかった。

 しかし、目をつむったラヴィの静寂を引き裂く音が鳴り響く。家のドアを乱暴に叩く音。脅すように叩かれるドアは軋んだ音を立て、ラヴィは驚き、恐怖した。ドアを叩く音はしつこく続いた。何時まで経っても誰かがドアを叩くのを止めないので、ラヴィは起き上がり恐る恐るドアの前までやって来た。

 近寄ってみると叩く音が思っていたよりも大きくて。ドアの向こうにいる人が怒っているのが伝わってきた。ラヴィは息を飲み、混乱しつつ一枚のドアを隔てた相手に尋ねた。


「あの…、どちら様ですか?」


「いつまで待たせんだ!!とっとと開けろ!!」


 怒気混じりの声に怯えて、ラヴィはびくつきながら言う通りにドアの鍵を開けた。


「遅ぇんだよ!!何様のつもりだてめえ!!」


 待っていたのは、ガラの悪い男たちであった。男たちの一人は鍵が開くと自分からドアを開け、混乱するラヴィの腕を乱暴に掴んだ。そして、ぎらつく目でラヴィを品定めするかのように全身眺めまわした後、泣き腫らして赤くなった目元とぼさぼさの髪を見て舌打ちした。


「“今日から”だろうが!!何寝てんだぁ!?とっくに時間過ぎてんだよ!!」


「え……。それって何の………」


 一体、何の話をしているのだろう。

 ラヴィには何一つとして理解できない。ただ男が怒鳴るのが恐くて、返す声も震えていた。


「ああ?」


 男がラヴィの腕を引っ張り上げる。ラヴィが痛がるのも気にせずに、男は笑った。


「お前、ひょっとして知らねえの?」


「……?」


 男のその言葉を聞き、ラヴィが動きを止める。男の一言は彼女に強烈な違和感を与えた。

 男が腕を離し、ラヴィの体を押し飛ばして。怯えきったラヴィを見下ろし、下品な笑い顔で信じられないことを口走った。


「お前、旦那に売られたんだよ。死んだお前の旦那が、借金のカタにお前をうちの親父に売ったんだ」


「え……?」


 背筋がぞっとして。ラヴィは呆然と男を見上げた。

 借金?ライナーが?どうして?

 そんなこと、一言も――――――、


「良く知らねえけどよぉ、お前ら教会で育ったんだろ?そん時の養育費だかなんかだってよ!馬鹿だなあおい!溜めるだけ溜めて、やっぱ払えないから嫁を売っ払ったって訳か!まあ、残念ながら死んじまったみたいだけどな!!」


 本当に。本当に、悪い夢を見ている気分だった。ラヴィは自分の知らないうちに、恐ろしいことがいくつもいくつも起こっていたのだと知った。目の前が真っ暗になって、胸の痛みで気持ちが悪くなってきて。ラヴィは男に腕を引かれ、家を連れ出された。抵抗する気にもなれずに、朝の街を歩かされ。

 ラヴィはライナーのことを思い出していた。彼がどんな人だったか、何度も何度も思い出して。ライナーがお金のために自分を売るはずがないと、心の中で唱え続けた。

 そんな訳ない。そんな訳ない。誰か、嘘だと言って。お願い。

 誰か。誰か―――――――――。


「止まれ」


 男たちとラヴィの行く手を阻んだのは、ローブで全身を覆い隠す怪しげな。浮浪者然とした風体は見る者に不信感を抱かせる。その人物はローブで隠れた顔の影から、沸き立つ怒りを射抜く視線に乗せて男を睨んでいた。そう、彼は。


「その手を離せ。離さないなら、殺してやる」


 彼は、コリウス青年であった。


「ああ?なんだ、お前」


 男がラヴィの細い首に腕を回し、きつく締め付けた。


「離さねーよ。バー……」


 一瞬にして、コリウスの体が男の隣に移動した。突如目前から消えたコリウスに男もラヴィも驚愕した。コリウスが男の腕を掴み、握り込んだ。男は悲鳴を上げてラヴィを離し、そのままコリウスに投げ飛ばされ、石畳を転がった。 


「てめぇ……」


 ラヴィの前に立ち、コリウスは男たちに立ちはだかった。


「逃げるんだ。早く、ここから遠くへ」


 コリウスがそう言うと、ラヴィは我に返って。


「あなたは…、誰……?」


 逃げてもどうしようもないと、ラヴィにも分かっていた。けれど、コリウスがラヴィに返した言葉が彼女の足を動かした。


「あの男は、君に重荷を被せるような真似はしない。絶対に」


 何かがおかしい。コリウスの疑念が彼女にも伝わって、ラヴィは走り出した。男たちがコリウスに殴りかかる。それをコリウスは危なげもなくかわし、逆に殴りつけていった。コリウスはラヴィが逃げる時間を稼いだ。何処か遠くまで彼女が逃げるまで、男たちを引き付けようと。

 しかし、背後からラヴィの悲鳴が聞こえてきて。

 悲鳴が聞こえてた方を見ると、ラヴィが先程コリウスに投げ飛ばされた男に捕まっていた。コリウスから隠れてラヴィの行く方に先回りしていたらしい。

 舌打ちをして、コリウスがそちらへ向かおうとした時だ。


「何をしている!!」


 場を打ち晴らすような大声を張り上げて、ラヴィを捕えた男に剣を差し向けたのは王子、ナグロ・ファントリアであった。


「その人を離せ!下賤なならず者共が!」


「おいおい……、王子様がこんな所に何しに……」


 剣が男の首元に突き付けられ、たまらず男がラヴィを離す。他の男たちも一国の王子を相手取っては分が悪いと早々に逃げ出した。


「危ない所でした。お怪我はありませんか?」


「いえ、大丈夫です……。その…、ありがとうございます。それと……、この前、私また……」


「いいんです。気にしないでください。それよりも……」


 王子はラヴィの手を取った。王子が優しく笑いかけると、ラヴィは少しだけ心が落ち着いた。


「あなたはどうやら何か問題を抱えているようだ。どうでしょう。一旦、城に移りませんか?」


「あ……、え、でも……」


 こんなみっともない姿で城になんて入っていいものかと困惑するラヴィを余所に、王子はラヴィの手を引いて城へと向かい始めた。

 城へと向かう道すがら、ラヴィは後ろを振り返り、先ほど自分を助けてくれたローブの男を探したけれど、彼の姿はもう何処にも見当たらなかった。









 ファントリア城はファントリア国を囲む砦の中心に高々とその存在を誇示している。入口の大扉に施された巨大な鳳の装飾はファントリアに訪れた者の度肝を抜く。ファントリアで生まれ育ったラヴィには見慣れた物であったが、門をくぐって敷地内に入り、こうして間近で見上げるとその厳威な美しさと壮大さに圧倒される。その鳳には尾羽も鶏冠もなく、全身が燃え立つように羽が伸びている。ライナーが作った石像とはまた違ったデザインの鳳であった。


「素晴らしいでしょう?この大扉の芸術は我が一族の誇りなんです」


 王子が兵に手で合図をすると、大扉がゆっくりと開かれた。王子に案内され、大扉から城内へと入ったラヴィは城の中を歩き、王子の個室へと連れてこられた。毛皮の敷かれたソファーに座らされ、このまま部屋で待っていて欲しいと王子に言われ、ラヴィは絢爛豪華な部屋に一人残された。

 ファントリア国各地の調度品や大きな絵画、部屋の随所に施された金細工が輝いて。贅を尽くした部屋だった。薄汚れた寝間着を着たままの自分が場違いに思えて。事実、寝間着のまま外に出ている時点でおかしいのだけれど、部屋に戻ってきた王子と自分の姿を見比べてラヴィは恥ずかしさに顔を上げることができなくなってしまった。


「調べてきたんですが、ラヴィさん。あなたには今、多額の借金があるようです。正直、この国の一国民には到底払える物ではありません」


 その言葉に、見せられた明細書の数字に、ラヴィは眩暈がした。自分が一生働いても返せる額ではない。身寄りもなければ貯金もない彼女には、どうしていいのか見当もつかない。


「ラヴィさんは小さい頃に教会の孤児院で育ったんですね。そして、あなたの夫も」


 ぎゅっと膝に置いていた手を握った。さっきの男も言っていた。教会の孤児院でできた借金。神父はお金を取るなんて言ったことはなかったし、誇らしげにこう言っていた。

 子供はみんな、鳳様の御慈悲を受ける。だから教会は、親に捨てられた子供を無償で育てているんだよ。だから、鳳様にお祈りするのを忘れてはいけないよ、と。


「情けない話ですが…、ファントリアは敗戦国です。教会にも財政難の余波が来ているんでしょう。経営の方針を変えて無理矢理金を集めるつもりだ」


 ラヴィの目に涙が浮かぶ。子供の頃に聞かされたことが、嘘ばかりだったのだと感じて。愛や優しさだけで世の中が動いている訳ではないと、ラヴィにも分かっていた。彼女ももう子供ではない。金銭がどれだけ大事で、世に根差している物なのか理解していた。

 でも、彼女が信じていた神鳳の存在が生々しい現実に否定されてしまった気がして。それが彼女には、無性に悔しかった。


「そして……、恐らく……。こんな話をあなたにするのは気が引けますが……」


 ラヴィに追い打ちをかけるように、王子が口を開く。


「ライナー・エントールにも借金がありました。彼は死ぬ直前、あなたを置いて国境へ行ったそうですね」


 一瞬、それがどういう意味なのか分からなくて、ラヴィは少し考えた。けれど、その意味が分かった時。


「ライナー・エントールは国境へ行く前に……、先程の男たちがいる金貸しにあなたの身柄を売ったんだ。そして、その金で自分の借金を支払い……、あなたの借金はそのままに国境へと向かった」


 ラヴィは泣きだした。そんな筈がないと、何度も何度も心の中で叫んでいた。あのライナーが、ずっと一緒に育ってきたあの人が、大好きだったあの人がそんなことをする筈がない。

 何かの間違いだとラヴィは嘆く。自分の見ている世界が信じられなくなってきて、まるで何処か知らない世界に迷い込んでしまったかのような不安に襲われた。何を信じればいいのか、何を考えたらいいのかも分からなくなって、ラヴィは涙を流す。彼女にできることは何もなく、ただ泣き続けることしかできなくて。


「………。ラヴィさん。僕はこんなことは許せない」


 王子がラヴィの肩に手を置いた。ラヴィはとめどなく溢れる涙を手で拭いながら、顔を上げた。


「あなたは何も心配することはありません。あなたの借金は僕が全額支払っておきます。そして、あなたの身柄もやつらから買い戻す」


 きょとんとした顔で、ラヴィは王子を見た。この人は何を言い出すんだろう。ラヴィには王子の言ったことが理解できなくて。


「僕にはそれができる。僕に全て任せてください。僕がすぐにあなたを自由にします。だから……」


 王子がラヴィを抱き寄せた。ラヴィを抱きしめ耳元でささやく声は、とても穏やかで。


「だから、もうそんな悲しい顔をしないでください」


 ラヴィは自分の心が安らぐのを感じた。しかし、同時に彼女は思い出す。彼女が愛した人の顔。ライナー・エントールの横顔を。

 そして、ラヴィは焦り、王子の手からもがき、逃れた。


「ご、ごめんなさい……」


 一瞬感じた安らぎが、酷く気色の悪い感覚を彼女にもたらした。ライナーがいなくなり、抜け落ちた心の隙間に忍び込まれるような心地がした。一瞬でも、ライナー以外の男性の胸にすがってしまいそうになった自分が気持ち悪くて。


「……。あなたはまだ夫が死んで混乱しているようですね。まあ、仕方のないことですが……」


 王子がラヴィに再び近寄った。逃げ場のないラヴィの肩を掴む。


「それでも、そろそろ気付いてくれてもいいんじゃないですか?僕があなたのことをどう思っているのか……」


 自分の体が強張っていくのが分かる。欲望を宿した王子の目が恐くて、ラヴィは目を逸らす。


「あなたがどんなに辛い目にあったとしても、僕があなたを助けてみせる。現に今だって、あなたを今まで通りの生活に帰してあげられる。僕にしかできないことだ」


 今まで通り。

 ラヴィはその言葉を聞いた時、恐怖で忘れていた心の重さが戻って来るのを感じた。

 ライナーがいなくなって。ライナーの借金の話を聞いて。本当に今まで通りの生活が送れるのだろうか。ラヴィには、とてもそうには思えなかった。

 王子の吐息を肌に受ける。王子の手が肩に食い込んで、もう片方の手が、ラヴィの腰に伸びていって。


「ラヴィさん。あなたを初めて見た時からずっと、僕は……」


「嫌……」


「僕は、あなたのことが好きだったんですよ」


 王子の手が、足の間に滑り込む。


「嫌!!!」


 ラヴィは叫んだ。心の底から来る嫌悪感に押し出された声が響き渡る。王子がラヴィを押し倒し、逃げようとするラヴィの腕を抑えた時。部屋の窓ガラスが大きな音を立てて、突然割れた。ただごとではない大声と破砕音に、城の侍従が王子の部屋の扉を叩いた。

 王子は苛立ちながら立ち上がり、扉を開けた。侍従は床に倒れたラヴィと割れたガラスの破片を見て、慌てて人を呼んだ。集まった侍従たちは王子に事情の説明を求める。


「これは一体何事です!?」


「この女性は誰ですか!?まさかまた街から連れ込んだのではないでしょうね!」


 鬱陶しそうにする王子は、ラヴィの方を見ようともしなかった。


「ナグロ様。これはなんでしょう?」


 侍従の一人が床に落ちていた石を拾う。その石は大きな紙に包まれていて、これが外から投げられ窓を破ったのだろうと思われた。それにしては、窓の壊れ方は尋常でなく粉々であったが。

 その紙には書き殴った字で、こう書かれていた。


“彼女から離れろ。さもなければ殺す”


「ナグロ様…、これは……」


「……。その女性が男に騙されて、ごろつきに売られた所を僕が助けたんだ。報復のつもりだろうさ」


「おお!なんと慈悲深い!」


 王子は機嫌の悪さを隠しもせずに声に乗せる。侍従たちがラヴィを心配し、怪我がないかと確かめる。ラヴィは状況の変化について行けず、されるがままに立ち上がらさせられた。


「さっさと部屋を片付けろ。あと、金を用意しろ。二千万は持ってこい」


 王子がベッドに乱暴に腰を下ろした。ラヴィはそんな彼に恐る恐る目を向けたが、王子は目を合わせようとしなかった。

 侍従の殆どがそれぞれ準備のために部屋を出ていった。残った侍従を王子が追い出して、短い間ではあったが部屋にいるのはラヴィと王子だけとなる。その隙に、王子はラヴィに言った。


「あなたは僕に助けられたんだ。それを忘れるな」


 冷たい声色に、ラヴィは恐怖した。王子はそれっきり何も言わず、ラヴィは部屋に戻ってきた侍従に連れられて部屋を出た。

 数人の侍従に付き添われながら、ラヴィはファントリア城を去った。ラヴィは侍従たちに、自分を助けてくれた王子に再度自分がお礼を言っていたことを伝えてもらえるように頼んでおいた。

 城門をくぐって城の外に出ていくラヴィの傍ら、城の庭に生える木の上には小鳥が一羽。小鳥に変身したコリウスがいた。コリウスは割れた窓から、部屋の中の不機嫌な王子を睨んでいた。

 王子の部屋に石と紙を投げ込んだのは、先ほどのならず者たちではなく、彼だった。












 家の近くまでやって来ると、侍従たちに別れとお礼を告げてラヴィが一人になった。それを見るや、コリウスは変身を解いて人間の姿へと戻った。額の角が見えないようにローブを頭まで被り、ラヴィの前に姿を現す。


「あ…、あなたは……」


「………。君が無事で良かった」


 近くで見るラヴィはすっかり力を失っていた。今の彼女には辛いことが多すぎるのだ。王子のことやライナーが死んだこと。それから、彼の借金のことも。ライナーに裏切られたことを告げられた彼女の心情が如何なるものであるのか。コリウスも考えるだけで胸が痛んだ。


「さっきは、ありがとうございました。あの……」


 ラヴィがお礼を言っているのはごろつきたちから助けてもらったことに対してであったが、一方コリウスの頭にあるのはラヴィが王子に押し倒された時のことばかりであった。

 危うく、ラヴィがあの王子に汚される所だった。

 疲れ果てた顔をしたラヴィをコリウスは真剣に見つめていた。それはもう、しつこいくらいに真っ直ぐに。


「あなたはひょっとして、ライナーのことを知ってるんですか……?」


「………」


 コリウスは身をぎくりと震えさせた。彼女には言えない。自分が何者であるのか、何故ラヴィとライナーのことを知っているのか。

 なかなか言葉を発さぬ目前の浮浪者に、ラヴィは不気味さを感じ始めた。この人は何者なんだろう。どうしてこの人は自分やライナーのことを知っているのだろう。


「あ、えと…、本当にありがとうございました。それじゃあ……」


「ん?あ……」


 ラヴィは逃げるようにその場を去った。コリウスは引き留めようとしたが、家に向かい小走りに遠ざかる彼女の背中を見てその勇気を失くした。

 せめて、もう少し話がしたかった。落胆しつつ、コリウスは路地裏へと入っていく。壁に寄りかかり、再世の実が入った袋を取り出した。

 今、この世界に何が起こっているのか。

 自分にお礼を言ってくれたラヴィの声が彼の頭の中で何度も繰り返されていた。初めて彼女とした、会話らしい会話であった。

 ラヴィと上手に話せない自分を責めながら、コリウスは再世の実を手に取った。急いで本の内容を確認しに行かなくてはならない。

 もしかすると、この本の主人公はラヴィなのではないか。

 動き始めてしまった物語の中で、彼もようやくそのことに気が付いたのだった。

 再世の実は残り四つ。この一つを食べれば、残りはたったの三つになってしまう。コリウスは葛藤した。本当にここで再世の実を使ってよいのだろうか。次に本の世界に入るときに一つ。そこから出る時にもう一つ。そうしたら、残りは一つだ。

 コリウスは悩んだ。しかし、それでもコリウスはラヴィを守るため、再世の実を一つ手に取った。

 少なくとも、もう一度世界に出入りする分は残っている。それなら。

 それなら―――――。

 覚悟を決めて、コリウスは。再世の実を口に含んだ。










「ああ。あいつは元気にやっているよ。ああ。うん。心配いらん。うちに置く代わりに図書館の手伝いをさせている。ああ。それじゃあ」


 図書館の中にある一室。アルゼイが電話で話をしている広い部屋の中心に、黒緑色の本が一冊置かれていた。床に置かれたその本が突然白い光を纏い、光は宙に浮かんで人の形を成した。輝きが収まるとそこにはコリウスがいて。コリウスは焦った様子で本を拾い、ページをめくって本を読み始めた。

 受話器を置いたアルゼイがそんな彼を見て、呆れた口調で言った。


「やっと出てきたか。今度は半年くらいだったな」


 本の内容に一通り目を通していく。しかし、本は途中から白紙になっていて、先の内容を知ることができない。不吉な予感がして、コリウスはアルゼイに詰め寄り、彼の着く机の上に本を置いた。振動でペンが転がり、机から床に落ちてしまった。


「教えてくれ、アルゼイ!なんでこの本は途中から白紙なんだ!?どうしたら見れるんだ!?」


「まあ落ち着け。茶でもどうだ。久しぶりの現実だろう」


「それどころじゃないんだ!早くしないと……!」


 アルゼイは溜息を吐き、席を立った。アルゼイが指で戸棚を指差すと、戸棚の扉が一人でに開き、中の湯飲み二つと急須が浮かび上がり彼の手元に飛んできた。引き出しから茶葉の詰まった小袋を取り出して急須に入れた後、ポットのお湯を入れて湯飲みに緑茶を淹れた。


「とりあえず飲め。話すことはたくさんある」


 コリウスは茶を受け取ると一気にそれを飲み干した。


「飲んだぞ。さあ、教えてくれ!先を読むにはどうしたいいんだ!?」


「……。教えて欲しいか?」


「ああ!」


「そうか……」


 コリウスの熱が入った様子に、布の奥から覗くアルゼイの表情が微かに陰る。やはりこうなってしまったかと、自責する。アルゼイは黒緑の本を手に取り、ページをめくってコリウスがどこまで物語を見てきたか確認した。

 ラヴィが王子の自室に招かれ、関係を迫られるシーンが元の物語と変わっていた。王子の横暴を止めるのは本来、ラヴィの叫び声を聞いた侍従の役目であったはず。

 どうやらコリウスが物語に干渉してしまったらしい。なんてことをしてしまったのだ。再世の実を作ることも、本の中に入ることも法では禁じられているのだ。その上、大筋に影響はないとは言え物語を変えてしまうとは。


「頼む!アルゼイ!」


 アルゼイはコリウスの必死な声に耳を貸さず、黒緑の本を閉じた。


「お前、自分が犯罪者だという自覚があるのか?」


「……!」


「もうこの本は渡さん。いいか。もう二度と本の世界には入るな」


 部屋を照らしていた蝋燭が浮き上がり、コリウスの手に飛んできて、彼がそれを掴んだ。コリウスはその蝋燭の火を本棚に近づける。


「どういうつもりだ。コリウス」


「早くしないと…、早くしないとラヴィが危ないんだ!頼む……、教えてくれ!!」


 本棚に火が近づいて行く。アルゼイとコリウスが対峙する間に、少しずつ、少しずつ。蝋燭の火が本棚に触れる、直前に。アルゼイが指を向けると、蝋燭に何処からともなく風が吹き付けその火を消した。


「馬鹿な真似は止めろ。今日はもう休め。いつもの部屋が空いている」


「………」


 部屋を出ていくアルゼイに何も言えず、コリウスは握っていた蝋燭を床に落とした。こうしている間にもラヴィの身に危険が迫っているかもしれないと考えると、己が情けなくて仕様がなかった。










 再世の実を手で忙しなく弄りながら、高層ビルが立ち並ぶ景色を眺めるコリウスは酷く陰鬱な顔をしている。図書館のテラスから見る最適化された朝の街並みは何年経っても変わらない。どれだけ高くビルが伸びようと。どれだけ煌びやかで高尚な技術の粋が尽くされようと。彼にとっては、変わり映えのしない世界。

 その景色に緑はなく、灰色の街並みに灰色の空が広がって。

 コリウスはこの景色が嫌いだった。土も樹も見当たらない世界。この世界が、コリウスにとっては非常に息苦しく、窮屈に思える。無数の社会と機械で管理されるこの世界で生きることに彼はずっと疑問を持ち続けていた。

 だから、再世の実の存在を知った時、コリウスは喜びに打ち震えた。アルゼイの机から一つだけカビに侵されていなかった実を持ち出し、犯罪であることも厭わずに図書館の庭の一つにそれを植えた。無限に広がる図書館には、たまにやって来る客とアルゼイ以外には誰もいない。アルゼイに知られないように長年樹の世話をし、樹が実を付けた時の達成感たるや。


「おはよう。コリウス」


「……、アルゼイ」


 アルゼイの隣に浮かんでいるのは皿に乗せられたトーストとサラダ。それに、一杯のりんごジュース。トーストにはたっぷりとバターが乗せられていて、スライスされた茹で卵に彩られたサラダにはドレッシングが引かれていた。


「どうせ飯もろくに食っていないんだろう。たくさん食え」


 朝食はテラスのテーブルに置かれた。コリウスは手を付けるのを少し躊躇ったが、腹が空いていない訳でもなかったので、結局トーストをかじった。


「美味いか?」


「………。まあまあ」


 小さく笑いを溢したアルゼイが黒緑の本を取り出した。ページをぱらぱらとめくる彼に、朝食を食べながらコリウスが尋ねた。


「俺を…、通報しないのか?」


「……。法律的にはまずいが……。まあ、まだ誰かに迷惑をかけたわけではない。この本の作者には殴られても文句は言えんがな」


「俺は物語を変えてしまった。ひょっとして……、多くの人の運命を変えてしまったんじゃないのか?」


「それは本の中の話だ。本は本。現実ではない」


 トーストを口に入れるコリウスの動きが止まる。

 本は本。現実ではない。

 作り話は空想であり、決して実在するものではない。必要以上に感情移入をするな。

 アルゼイが言いたいのはそういうことだろう。


「アルゼイ。再世の実を使って本に入ると、本は白紙に戻るのか?」


 昨日本から出てきた時に、コリウスは本の続きが白紙になっているのを見た。現状での一番最後のページには、ラヴィと家の前で別れたコリウス自身の姿が挿絵に描かれていた。


「そうだ。本に書かれていた文字は全て消えて、物語の初めから本の世界は動き出す。それに合わせて、本には挿絵と文章が浮かんでいく。一度物語が完結するまで、やり直すこともできん」


 アルゼイがめくる黒緑の本は最新のページを開かれた。そこにはラヴィが家から出ていく所が挿絵に描かれていて。彼女は大きな荷物を持っていた。


「本の世界の人に再世の実を食べさせたら、こっちに連れてこれるのか?」


 本を閉じ、アルゼイは答えた。


「無理だ。再世の実はあくまで我々を本の世界に出入りさせる物。架空の存在は現実に現れることはできない。かつて再世の実の効果を研究した者たちの報告だ。現存する再世の実はお前が持っているもので全部。再世の実は許される物ではないと判断された」


 コリウスは頭を抱えていた。彼は真剣に物語の登場人物を助けようとしているのだ。アルゼイは胸を痛めながらも、言った。


「“エレゲイア・ファントリア”は一万六千年前に初版が発行された。それから現在に至るまでに約一万部が世に出回っている。私も一度中身に目を通したが、珍しい内容ではなかったよ」


「一万六千年前で、一万部だけか……」


「そうだ。それ故に、この本は貴重な蔵書なのだ。その一冊をお前は再世の実を使って書き換えてしまった」


「………」


「再世の実を使うというのは、そういうことだ。これ以上、誰かが作った物を勝手に作り変えてはいかん」


 今更に、コリウスは申し訳ない想いがした。一万年以上も前の本であるならもう作者も生きてはいないだろうが、きっとその作者はこんなことは望まなかったに違いない。

 けれど、ならばラヴィのことはどうすればいい?

 このまま物語が進んだなら、ラヴィはどうなってしまうのか。彼女のことを思い出すと、コリウスは焦りと共に胸が高鳴るのを感じて。昨日交わした、たった一言二言のやりとりに心躍って。早くまた彼女に会いたいと、そう思ってしまう。


「なあ、アルゼイ」


 自分は、どうしたらいいのだろう。現実と空想の狭間で、コリウスは頭を痛めていた。


「ラヴィは……、“エレゲイア・ファントリア”は、最後…、どうなるんだ?あんたがその本を読んだことがあるなら、教えてくれ」


 作者に対する冒涜。ラヴィという少女の苦しみ。

 コリウスが再世の実を食べて本の世界に入った時、ラヴィの運命が始まってしまったのだ。再世の実とはつまり、決められた結末に向かって進む世界を生み出す悪魔の道具に他ならないのだった。コリウスは自分のしたことの重大さに嘆いた。我が身可愛さではない。作者とラヴィやライナーに対する罪悪感が彼の中でのたうち回っているのだ。

 コリウスの弱り切った目を見て、アルゼイも辛くなり、目を伏せた。


「ああ。これから先は、大したことは起こらんよ。砦の外に引っ越して、友人に会って……。王子にちょっかいを出されたりもするが……」


 それから、最後に。



「最後には、ラヴィ・エントールは幸せで平和な日常に戻る。それがあの本のエンディングだ」



 最後に一つだけ、アルゼイはコリウスに嘘を吐いた。小さくではあるが表情に明るさを見せたコリウスの俯く笑顔が、アルゼイには辛かった。











 振り向くと、住み慣れた家が遠く彼方に小さく見えた。

 あの人と住んだ家。あの人との思い出が詰まった家。だからこそ、今の私には耐え難く、こうして少しの間だけということで友人の住む家にお邪魔することになった。

 私の友達、エルカの家に。エルカも結婚して、夫がいるのだけれど、兵士である彼は国境の警備に回されてしまっていて。夫がたまに家に帰って来ることはあれど、いつもエルカは一人でその家に住んでいた。

 エルカはラヴィのことを心配していたし、ラヴィもエルカのことを心配していた。最近、エルカの体に変化があったと知ったからだ。

 エルカは、子供を身ごもっていた。


「どうせだしさ、一緒に暮らさない?広い家で一人でいるのもね、寂しいからさ」


 嬉しかった。あの家に一人でいるのが恐かった。ライナーのことを忘れたくはない。けれど、あの家は私に片時もライナーがいなくなった悲しみを忘れさせてはくれなくて。じきに、頭がおかしくなってしまいそうだったから。

 しばらく歩いてエルカの家に近づくと、何か騒がしい声が聞こえた。


「家には来ないでって言ったでしょ!?今日から友達が来るの!ほら、早く行ってよ!」


 砦の外にある小さな村。私とライナーが結婚式を挙げた教会がある村。家の前で待っていてくれていたらしいエルカと私の知らない男性が激しく口論していた。エルカは男性を追い払うと、それを見ていた私に気付いた。


「どうしたの?今の誰?」


「なんでもないの。ほら、入んなよ」


 エルカは明るくそう言って、家の中へ通してくれた。玄関には私が自分の家から荷車で送ってもらった荷物が積まれていた。


「うわ、ごめんね。玄関狭くしちゃって。すぐ部屋に持ってくから……」


「ああ、いいよいいよ。あと、それ運ぶ手伝い呼んでるから」


「手伝い?」


 エルカが外に出て、誰かを呼んだ。近所に住んでいる人らしい。エルカと一緒にやって来たのは一人の男性。多分、私と同い年くらいの。先程とは別の人。


「あ、は、初めまして!マイニ―・タントリーといいます!」


「初めまして。ラヴィ・エントールです。あの、いいんですか?手伝ってもらっちゃっても……」


 マイニーと名乗った彼は酷く焦った様子。人と話すのが苦手なのか、顔を真っ赤にしているのがちょっとだけ可笑しい。


「大丈夫です!はい!じゃ、じゃあ運びますんで、どれから……」


 落ち着かない足どりで荷物に足を引っかけながら、マイニーは奥の部屋へ荷物を運んで行く。


「あいつは隣の家に住んでるんだ。ロウストの兵士でさ。ファントリアに食糧支援に来てる団体の一人だよ。仲良くしときな」


「へえ……」


 一片に荷物を持ち過ぎて、前が見えなくなり壁にぶつかるマイニーがエルカに怒鳴られた。謝りながらもまたぶつかって、怒られて。

 そんなエルカたちのやりとりが楽しくて、自然と笑い声がこぼれ出た。

 ずっと私の胸にあった寂しさが少しだけ和らいだ。久しぶりに、明るい世界を見た気がした。









 二か月後、図書館でのこと。本の世界でラヴィが村での明るい日々を送る間、コリウスは図書館の手伝いをしながらもアルゼイに隠れて彼の机に隠されていた黒緑の本を開き、ラヴィの様子を見ていた。友人と過ごすラヴィは徐々に笑顔を取り戻しつつある。それを見てコリウスはアルゼイの言っていたことは本当だったのだと心の底から安堵した。

 アルゼイが来る前に本を仕舞い直し、コリウスは本の配架に戻った。荷車に積まれた本の一つ一つを、本の背表紙にテープで付けられた番号に合った場所へ並べていく。無限に奥へと続く図書館でも、どんな場所にも一瞬で体を転送できるコリウスたちには管理することが可能だ。

 コリウスは本を並べていきながら、本の世界で楽しそうに暮らすラヴィのことを考えていた。友人とも村に住む隣人とも上手くやっているようだった。それに、やはり彼女のことを好いている男は少なくないようだ。夫を失った彼女の所には毎日多くの男が訪ねてきていた。何処かに出かけようと誘われても、ラヴィは一度も首を縦には振らない。まだライナーのことが忘れられずにいるのだろう。彼女は男性との接触は基本的に避けているらしかった。

 男がラヴィの前に現れる度、コリウスは異様な焦りを感じた。その人に近づくなと、憎しみやら嫉妬やら、コリウス自身にも区別のつかぬ想いがふつふつと湧いてきた。次のページをめくるのに恐怖を感じ、毎度毎度多大な勇気を奮わせなくてはならなかった。

 ラヴィが幸せになるために、彼女が何時かライナーのことを忘れる日がくるのだろう。そして、他の誰かと新たな家庭を築く。ラヴィのためを思えば、それを祝福するべきには違いない。それこそ、そう。ライナーの時と同じように。けれど、コリウスには誰も彼もが気に入らない。ラヴィと会話しているだけでも憎たらしく思えてきて。ラヴィが男の誘いをやり過ごす度にほっとした。

 何日もそうしている内に、彼の頭に浮かんだ考えが一つ。

 前は無理だったこと。ライナーがいた頃には、絶対にできなかったこと。


「コリウス。そろそろ終わりそうか?終わったら言え。昼飯を作ってやろう」


 遠く彼方から現れたアルゼイがコリウスに声をかけた。すると、コリウスは。


「なあ、アルゼイ。“エレゲイア・ファントリア”を俺に売ってくれないか?」


 軽い気持ちで言ってみたことだったが、コリウスの中で抑えられてきた気持ちの枷が大きく揺らいだ。自分でも思っても見なかった衝動にコリウスの心は揺さぶられ、ついに彼は我慢の限界を迎えたのである。解放された気持ちが口を動かす。我慢していた思いつきを言葉としてアルゼイに叩きつける。


「お前……、何を言っているんだ!まだ分からんのか!?本の中にはもう―――――」


「俺の今までの給料を全部出す!実家にいたころの貯金も全部!足りないか!?」


「足りる足りないの問題ではない!私はお前に本の中に入るなと言っているんだ!!」


「俺が買って自分の物にした本ならいいだろう!何処にも公開しない!この本だけを個人的な趣味で書き換えるだけだ!本来の“エレゲイア・ファントリア”とは何の関係もないただの二次創作だ!他の誰にも知られない、俺だけの!!」


「落ち着け!!コリウス!!」


「足りないならこいつもくれてやる!」


 コリウスがアルゼイに投げ渡したのは再世の実の一つだった。アルゼイは目を丸くして、取り損ねて床に落ちた再世の実を慌てて拾った。


「よし!」


「“よし”じゃない!待て、コリウス!!」


 コリウスはアルゼイの部屋まで体を転送し、机から取り出した本を開いた。心臓が激しく鼓動していた。彼は子供のように胸を踊らせていた。

 本の物語の中に自分が入って、大好きな登場人物と恋をする。こんな素晴らしいことがあるだろうか。自分ならラヴィの悲しみを理解してあげられる。絶対に彼女を誰よりも幸せにしてあげられる。

 一番新しいページを開いて、手を置いた。大きく深呼吸をして、再世の実を取り出して。

 コリウスは期待を顔に溢れさせ、再世の実を口に入れた。









「ラヴィさん!今夜、僕と一緒に大道芸を見に行きませんか!?」


 花壇に水をやるラヴィに話しかけてきたマイニー青年は、唐突に彼女に誘いを切り出した。

如雨露から出る水が止まるまで、ラヴィは黙って考えて。申し訳ないと思いながらも、答えた。


「ごめんなさい。私、今日は広場で料理を運ぶ手伝いをすることになってるから、ちょっと……」


「そ…、そうですか……」


 落ち込んで去って行く後姿が寂しそうで、ラヴィは何か声をかけてあげたかったけれど、結局何も言えなくて。皆が慕ってくれるのは嬉しい。しかし、ラヴィの心には未だライナーへの想いが残っていて。男性が自分を誘ってくれる時にはいつも、ふと思う。

 今の自分をライナーが見たら、どう思うのだろう。

 するとラヴィの胸はずきりと痛んで、嬉しい気持ちが掻き消される。これはいけないことだと、心が叫ぶ。そうして彼女は、男性からの誘いをいつも断ってきた。ライナーと永遠の愛を誓った証である真紅の宝石があしらわれた指輪を、彼女は片時も外さなかった。

 今日は仕事が休みのラヴィは、仕事に行ったエルカの代わりに家事を進めた。掃除をして、洗濯をして。洗濯物を干しているとき、近所の青年に話しかけられて、また大道芸を見に行こうと誘われた。当然、ラヴィはそれも断った。

 その様子を木の陰に隠れるコリウスが勝ち誇った顔で眺めていた。


 駄目だ駄目だ。そんな軽率な誘い方では。彼女はそんな軽い男について行くような女性ではないのだ。ラヴィ・エントールは暗い過去を持つ、悩み多き人なのだ。それに合った声のかけ方という物がある。そう、こんな風に!


「ど、どうも……。こんばんわ」


 ラヴィの前に出ていったコリウスは、自分の全身が著しく硬直してしまったことに戦慄いた。コリウスに挨拶されたラヴィは少し悩んで、辺りを見渡す。まだ、昼を過ぎたばかりの明るい時間だった。


「え……?えっと…、こんにちわ」


 相変わらずローブで頭から足の先まで覆っているコリウスの姿に、ラヴィはすぐに先日の浮浪者のことを思い出した。するとラヴィは、コリウスから一歩後ずさった。


「………」


「………」


 ラヴィは口を半開きにさせて硬直するコリウスの顔を訝し気に見つめていた。今日はこの間よりも幾分顔が見える。この間はローブの位置を間違えていたのかもしれないと、そんなことを考えて。


「あの…、何の御用ですか?」


 一向に言葉が出てこないコリウスに、ラヴィは慎重に尋ねた。コリウスはさらに焦り、なんとか必死に口を動かして。


「今日は…、そう!今日の夜、街で大道芸があるらしいんだが……、一緒に……」


「すみません。私、今日は忙しくて……」


「……」


 これでは先程の青年たちと一緒ではないか。

 コリウスは急いで言葉を付け足した。既に彼は汗まみれになっていた。


「その、悩みとか、いろいろあるだろう?俺ならなんでも聞いてあげられ―――――」


「本当に!本当にごめんなさい!でも、大丈夫ですから!!」


 ラヴィは大声を張り上げて、コリウスの言葉を遮った。彼女は恐がっているのだと、ようやくコリウスにも分かった。


「なんだあいつ!怪しいぞ!」


 ラヴィの声に村人が何人か集まって来て。コリウスは慌てふためき、すがる想いでラヴィを見た。しかし、ラヴィの目には恐怖のあまり涙が溜まっていて。

 どうしてこうなったと心の叫びを上げながら、コリウスは森の中へ逃げ込んだ。

 危機が去ったラヴィは村人に心配されつつ、家の中へと戻った。家に入るとき、ポストに手紙が入っていたのでそれを取り、椅子に座って暫しその高価そうな手紙を見回してから中身を確認した。


「……!」


 手紙は、王子からの物であった。今晩の大道芸に合わせて行われる祭りの途中、ラヴィに会いたいということだった。












「おい!聞いたか?あの子が祭りの手伝いで広場に来るんだってよ!」


 森に逃げ込んだ後、コリウスはラヴィに自然に話しかける方法を探すため街を歩いていた。彼の耳に飛び込んできた、誰かの興奮した声にコリウスは立ち止まる。


「あの子って、ラヴィ・エントールか!?やったぜおい!酒で酔わせるチャンスだ!」


 今日は祭りをやるらしい。言われてみれば、いつもとは街の様子が随分と違う。そこかしこに屋台が並び、花で彩られた豪華な飾りが街に色合いを与え、皆浮かれている。

 さらに大事なことは、ラヴィが祭りの手伝いとやらで街に来るということだ。


「あのお堅い未亡人を酔わせてさぁ、俺の好きにしちゃおうって訳よ!若くて可愛くて未亡人だ。あんないい体しててさあ、内心そろそろ他の男が欲しくなる頃だろ?」


「旦那が死んで欲求不満だろうからなぁ~、本当は寂しい夜を送ってんだろうぜ。未だに旦那以外とは寝てないんだろう?」


「一回やっちまえば、たがも外れるさ!そしたらさぁ……」


 下衆な会話に盛り上がる男たちを尻目にコリウスはその場を去った。

 あんな男共にラヴィをくれてやるものか。欲望に塗れた猿共め。ラヴィを貴様らの欲望の捌け口にさせてたまるか。

 怒りながら、祭りの熱気が立ち込めはじめた街を行く。コリウスはそこで目ぼしい物を見つけた。人の行き交う向こうに見えた一軒の花屋。店先に並べられた色取り取りの花を見て、コリウスは「これだ」と確信した。店主に不審な目で見られながらも店先の花を眺めるコリウスはラヴィが喜びそうな花を選ぶ。昔、大鹿の姿で彼女と遊んでいた頃、ラヴィが作ってくれた花冠に似た色の花。ラヴィがよく眺めていた色の花。

 何本か選んで手に取った後で、コリウスは気が付いた。彼は金を一銭も持っていない。

 そそくさと花を戻して店を離れた彼は、逃げ込むように再び森に戻っていった。








 夜になり、ラヴィは街の広場で女給として屋台で作られた料理や飲み物を運ぶ手伝いをしていた。妊娠中の身であるエルカは家で留守番をしている。まだ腹に目立った膨らみは見られないが、人だらけの広場を走り回るのは無茶というものだ。


「なあ、あんたも一緒に飲もうぜ!ほら、まず一口!」


「すみません、仕事中なので……」


 客たちが何度も酒を薦めてくるのを断りながら、ラヴィは奔走した。女給が着る胸元が大きく開いた民族衣装は彼女の美しい体を際立たせ、男たちの目を引き寄せる。男客が卑猥な目を自分に向けるのにラヴィも気付いていたが、彼女はそれが嫌で仕様がなかった。まるで自分が見世物になっているかのようで。悪戯に手を伸ばしラヴィの体に触れてくる客を睨み、注文の品をテーブルに置いた。

 誰にも触らせたくない。あの人以外の男性を知らぬ綺麗なままの体でいたいとラヴィは思う。なぜなら彼女は、遠い昔に誓ったのだから。自分はライナーのものになる。彼に永遠の愛を捧げると。例え、彼が死んでしまっても。永遠に、彼を愛すると神に誓ったのだ。

 神なる鳳様が祝福してくれると、ラヴィは信じて。


「ラヴィ!交代の時間だよー!」


 女給を束ねる女将の一声にラヴィは我に返った。手伝いが終わり、着替えるために休憩所の脱衣所へと向かった。この後、彼女は王子と会わなくてはならない。指定された時間は時刻十時。あと一時間足らずでその時はやって来る。それがラヴィには恐くて仕方がなかった。


「ラヴィさん、少しだけいいですか?」


 脱衣所に入る前にマイニー青年が話しかけてきた。彼は休憩所でラヴィが手伝いを終えてここへ来るのを待っていた。彼が何を話すつもりなのかなんとなく予想が付いて、ラヴィは困り果ててしまう。この青年の好意にどう応えれば良いのか彼女には分からなくて。

 決意を秘めた眼差しを向けるマイニーの熱意に負け、ラヴィは彼に連れられ人気のない裏通りへと入った。


「僕は、あなたのことが好きだ」


 人が誰も近くにいないことを確認したマイニーがまずラヴィに言ったのがそれだった。れっきとした告白。ラヴィが一番恐れていた展開。


「………」


 ラヴィは答えられない。マイニーの告白を受け入れる気はなかったが、それでも、彼の心を傷つけたくはなかったから。何と答えればいいのか、ラヴィは地面を見つめて考える。

 “貴方に私は相応しくない”?

 “もっと良い人を探したら”?

 どれも違う気がした。自分はもっと正直に、彼の告白を断る理由を言わなくてはいけない気がした。自分が愛している人が誰なのか、しっかり言っておかなくてはいけないと思った。


「私は……、私は、まだ……、あの人のことが好きなの。ううん。“まだ”じゃない。ずっと愛してる。だから……」


「ラヴィさん!!」


 マイニーに肩を掴まれ、壁に押し付けられた。自分を見る彼のぎらつく瞳が恐くて、ラヴィはまた何も言えなくなってしまう。


「僕を見てください!!死んだやつに好きも糞もない!死んだんなら、もういないんですよ!あなたはそいつに呪われてるんだ!!」


 死んだ。もういない。

 ライナーの横顔を思い出す。いつも眺めていた彼の顔。石を彫る時の真剣な彼の顔。チェリーパイを焼いてあげた時の、優しい笑顔を。

 ラヴィはマイニーから離れようともがいた。けれど、マイニーはラヴィを離そうとしない。男性の力には到底抗えず、ラヴィは体の自由を奪われて。


「離して……!お願い……!」


「あなたは難しく考えすぎてるんですよ!本当は寂しいんでしょう!?夫がいるくらいで、自分を大事にしすぎなんだ!そんなこと、みんな気にしてない!エルカさんだって今頃―――――」


 マイニーが唇をラヴィの首筋に付ける寸前。彼の吐息が肌に当たって、胸の底に熱い感情が湧いてくる。体の力を抜いて青年の体に身を任せてしまいそうになり、ラヴィは叫んだ。


「やめて!!誰か!!誰か助けて!!!」


 それに驚き、マイニーが手の力を緩めた。ラヴィはその隙に彼の拘束から逃れ、街の奥へと走り出した。


「ごめんなさい!ごめんなさい……!でも、私は………」


 ラヴィは最後にマイニーに謝って、彼から遠く離れて行った。肩の痛みと、首に当たった吐息の感触が取れなくて。ラヴィは泣いていた。

 離れて行くラヴィを呆然と見ていたマイニーは、荒げた息を徐々に落ち着かせていきながら。去り際のラヴィが涙を流していたことを思い出し、気が抜けたように地面に腰を下ろした。









 コリウスが街に戻ってくると、街にはすっかり熱気が満ちていた。街中に点けられた灯りがいつもとは違う雰囲気をもたらして、コリウスの視線を右へ左へ引っ張った。色付きガラス越しの火は石畳と家々を各々の色で照らし出す。非日常的な空間が作り出され、皆それに心まで浸っているようだ。歓喜する声がする。騒ぎ立てる声がする。

 手に持った花束が崩れないよう、コリウスは人波を進んでいく。森で摘んできた花で作った花束。どれもコリウスにとって思い出深い花たちだ。見ているだけで、ラヴィと共に過ごした頃の思い出が鮮明に蘇ってくるようで。

 ラヴィがいる広場というのは何処だろう。

 広場をいくつか回ったが、彼はラヴィを見つけることができなかった。コリウスは困り果てて、空を見上げて溜息を吐いた。参った風の彼は手に持つ花束に目を向ける。甘い香りを漂わせる花束を受け取った時のラヴィがどんな顔をするのか想像すると、コリウスはまた歩き出そうという意思が湧いてくる。

 人々の作る流れの中をコリウスは歩く。涙を流し走る少女が、彼の向かいから来ているのにも知らずに。人と人が彼らの間を遮って、二人は互いに気が付くことなくすれ違った。









 王子が待ち合わせに指定した場所は、ラヴィとライナーの家だった。彼は家の裏庭でラヴィを待つと、そう手紙に記した。家に近づく前にラヴィは涙を拭き、己が落ち着くのを待った。

 マイニー青年の情欲に満ちた目が思い起こされ、ラヴィは身を震わせる。あのまま抵抗せずにいたら、今頃自分は彼の欲望のままに体を預けてしまっていたことだろう。ラヴィが気持ち悪さを感じたのは、マイニーの生々しい剥き出しの欲望にだけではない。ラヴィは自身の中にも、誰かの胸に体を預けてしまいたい衝動が湧き上がるのを感じていた。

 気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。

 動物のように欲望に身を任せたくなる自分が嫌だった。ライナーに誓った愛を失いたくないと思う自分の裏に、全てを捨てて快楽に溺れたくなる自分がいて。

 ラヴィは嫌だ嫌だと頭を振った。止まったはずの涙がまた溢れてくる。認めたくない人間という生物の汚らしさに、世界の全てに絶望してしまいそうになった。

 辛いことがいくつもいくつも彼女の前に現れる。

 これからマイニーにどんな顔で会えばいいんだろう。王子は自分に何を話すつもりなんだろう。

 考えなくてはいけないことが余りにも多くて、ラヴィは胸が苦しくなった。それでも、王子に会わなくてはいけない。相手は一国の王子であるし、彼には窮地から助けてもらった恩がある。彼の呼び出しを無下にはできない。

 歩き続けて、家が見えた。祭りの熱気と人の気配から遠ざかって、民家の灯りだけがぼんやり見える暗闇の中、今では不気味にすら思える我が家があった。ラヴィは息を整えて、覚悟を決める。

 そして足を踏み出して、家の裏庭へ回った。


「どうも。ラヴィさん。お元気そうですね」


「その節は…、お世話になりました……」


 王子は松明の灯りも点けず、月明かりだけの裏庭でラヴィを待っていた。薄っすらと見える王子の顔は笑っているようだったが、ラヴィは薄気味悪さを感じた。


「ここまで御足労頂いたのはですね。今日はあなたに大事なお話があるからなんです。お互い落ち着いた頃だと思いましてね」


 祭りの喧騒が遠くから聞こえてくる。ずっとずっと遠くから。もう、戻れないくらい遠くから。


「ラヴィさん。僕と交際してくださいませんか?」


 王子の言い方は、まるでラヴィに強制しているかのようで。

 ラヴィはマイニーが言っていたことを思い出す。


“死んだんなら、もういないんですよ!あなたはそいつに呪われてるんだ!!”


 死んだなら、もういない。死んだなら、誓った愛もなくなるのだろうか。確かに永遠の愛を誓ったのに。幼い頃、初めての告白をした時に、ラヴィはライナーをずっと愛することを神に誓った。


“あなたは難しく考えすぎてるんですよ!夫がいるくらいで、自分を大事にしすぎなんだ!”


 ライナーが死んでも、彼女の心には彼への愛が残っている。それを失くしたくないと思っている。心の中の彼が悲しむようなことをすれば、彼が嫌がるようなことをすれば、ラヴィは自分が自分でなくなってしまう気がして。

 誰かの甘い言葉にも、自分の欲望にも、絶対にこの愛だけは譲ってはいけないのだと、そう信じて。


「私には……、結婚した夫がいます」


「もう死んだ」


「死んでも……、私はあの人を忘れない。だって……」


「あんな男は、あなたに相応しくなかったんだ」


「あの人を……」


 ラヴィは我知らずに怒りを持った。命の恩人だとしても、ライナーのことを悪く言われるのだけは許せなかった。ラヴィの心を作る根っこの部分が、王子の言葉を否定した。


「あの人を悪く言わないで!!」


 その怒りは、彼女の想いを口にさせる。


「私はライナー・エントールを愛すると決めたんです!ずっと、何があっても!あの人がどんな人でも!例え、あの人が死んだって!!」


 王子に向かい、ラヴィは。


「あの人が借金をしていたのも、私に借金を背負わせたのも…、未だに信じられないし、絶対に何かの間違いだって思ってる……。あなたが助けてくれたことには本当に感謝しています……。でも、私はあなたのものにはなれません」


 堪えきれない怒りに乗せて、正直な気持ちを語った。


「あなたが払ってくれたお金も、私がこれから一生働いて、なにがなんでも返します!だから……」




「だから…、ごめんなさい。本当に……、ごめんなさい………」








「………。そうですか……」


 王子がラヴィに近づいていく。

 そして、近づくにつれ王子の様子は急変していった。


「ああ、そうか。そうかい!」


 遂に怒りを露わにし、王子はラヴィに怒鳴る。


「お前は俺の言うことが聞けないってことか!命の恩人の俺の言うことが!俺がいくら払ってやったと思ってるんだ!?もう忘れたのか、馬鹿な女が!お前みたいな貧民がいくら努力しても到底返せる額じゃない!それとも、そんなことも分からないのか!?所詮はまともに教育も受けてない肥溜め育ちか!!」 


 距離が縮まると、怒る王子の腰に下げられた物が見えた。

 一本の細長い剣が、そこにあって。

 剣に目を奪われたラヴィを王子は殴りつけた。


「もうやめだ!!散々面倒をかけさせやがって!不敬なやつめ!お前にはもう、何処にも逃げ場はないぞ!!これまで我慢していた分痛めつけてやる!!」


 倒れたラヴィを蹴り飛ばし、痛みに声を上げたラヴィを見て王子は意地悪く笑う。


「女の分際で舐めた口を聞くな!お前みたいな貧乏女はな、大人しく体を売ってりゃいんだよ!他になんの役にも立たねえんだからよ!!」 


 王子は剣を抜き、ラヴィの右腕に切りつけた。暗闇でよく距離が測れないお蔭でかすり傷で済んだものの、切り傷から流れる血はラヴィの服を濡らしていった。


「大体、なんだこれは!?」


 王子は剣を大きく振りかぶり、裏庭に置かれていた石像を叩き壊した。ライナーが作った像。鳳様の石像だった。


「これはなんだ!?鳳のつもりか!?鳳にこんな派手な尾羽があるか!?こんな鶏冠とさかが生えてるか!?何処の本を見て作ったんだ!!こんな物が神なる鳳であるものか!くだらん失敗作だ!!才能もない貧乏人が、いっぱしに神の像なんて作りやがって!!」


 何度も剣が叩きつけられて、鳳の像が壊されていく。ラヴィは体の痛みも忘れて、壊されていく像に心を痛めた。


「やめて……、やめて!!」


 ラヴィの必死の懇願も、王子は愉悦の栄養として剣を振った。見る影もなくなるまで壊された像の残骸を、ラヴィは泣きながら見ていることしかできなくて。

 王子の目が再びラヴィに向けられた。剣を揺らして迫る王子に、ラヴィは恐怖を感じて逃げ出した。

 大道芸と祭りに沸き立つ街をラヴィは駆ける。誰かに助けを求めようとも思ったが、自分を追っているのがこの国の王子であると思い出して。敵が増えることを恐れて、ラヴィは人気のない道を通って逃げた。

 痛む腕を押さえて、ラヴィは走る。今の彼女に信用できるのは友人のエルカだけだった。エルカは今、家にいるはずだ。

 村へ向かって走るラヴィをコリウスが見つけた。コリウスはラヴィに声をかけようとしたが、ラヴィは人混みの向こうへとすぐに消えてしまった。

 ラヴィのただならぬ様子に、コリウスは急ぎ彼女の跡を追った。









 腕の傷の痛みを堪えながらも、ラヴィはエルカの家へと帰ってきた。

しかし、玄関のベルを鳴らしてエルカを呼んだけれど、彼女は一向に出てこない。仕方がないのでラヴィはドアノブを捻ってみた。どういう訳か、ドアには鍵がかかっていなかった。

 家の中に入り、エルカの部屋へ向かった。家の中は真っ暗で、どうにも様子がおかしいと思いながらも、ラヴィはエルカの姿を探した。夜遅くに自分が帰って来ると分かっているなら、エルカは部屋の灯りくらい点けて置いてくれるのに。

 もうラヴィには自分がどうしていいか分からなくて、早くエルカに話を聞いてもらいかった。自分の悩みをよく聞いてくれたエルカ。今や、ラヴィが信用できる唯一の人物。

 エルカの部屋のドアを開け、中に入った。中はやはり暗くて、もうエルカは寝ているのだろうと思った。

 実際、エルカはそこに寝ていた。ただ、彼女は一人ではなかった。


「エルカ……」


「……?」


 目を覚まし、起き上がるエルカは衣服を着ておらず。彼女の隣には。


「その人……、誰……?」


 エルカの隣には、ラヴィの知らぬ裸の男性が眠っていた。


「ラヴィ……!なんで…、だって今日は……。あんたはマイニーと一緒だと思って……」


「エルカ………」


 彼女には夫がいるはずなのに。仕事のために、彼女と離れた国境に行っている夫が。


「何してるの……?エルカ……」


「違うの……、ラヴィ。これは……」


「その人……、旦那さんじゃない……」


「仕方なかったの!ラヴィ!ただ、子供ができるからどうしても……!」


 ラヴィは家を出た。頭の中が滅茶苦茶にかき回されたように気持ち悪い。

 気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。

 ラヴィは泣いた。何処へとも分からずやみくもに走って、気持ち悪さが度を越して、ラヴィは木の根元で嘔吐した。

 何も信じられなくなった世界にライナーの姿を求めて、ラヴィは嘆く。


 どうして。どうして。あなたがいた頃は、あんなにも世界が輝いて見えていたのに。あなたがいなくなっただけで、世界はこんなにも醜く変わってしまった。友達も、素敵に思えた街の人たちも、私自身でさえも。今では皆粘液で動く醜い肉の塊であるかのように見えてしまう。この世が快楽と肉欲でできているかのように思えてきて、何もかもに淫靡な臭気が漂っているようで。

 私は耐えられない。私は逃げられない。もうこの国に居場所はなくて、誰も頼れる人はいない。誰のことも、信じられない。


 ラヴィは民家の壁に背を置いた。ぼろぼろになった服と傷ついた体を縮こまらせて。


「神様……。ライナー………」


 彼女が信じる神と、愛しき彼の名を呼んだ。









 人混みの向こうに見えたラヴィを追って、俺は街を出た。暗いせいで道が分かり辛く、ラヴィが何処に行ったのか分からなくなってしまったが、彼女が向かう先には心当たりがあった。友人のエルカとかいうあの女性の家に彼女は向かったに違いない。

 俺がエルカの家に着いた時、家の中からは怒鳴り声が響いていた。男女が口論しているらしく、ラヴィが出ていったという話をしていた。

 それを聞いて、俺はすぐにラヴィを探した。彼女を見つけるのにそう時間はかからなかった。なぜなら、ラヴィはまだ家の近くにいたから。

 ラヴィはおぼつかない足取りで村の中を歩いていた。月明かりで夜闇に浮かんだ彼女の顔は涙で濡れていた。


「大丈夫か?」


 ラヴィに声をかけると、ラヴィはびくりと体を震わせた。彼女は傷を負っているらしく、左手で傷を押さえていた。


「こなぃ……、お願い……」


 掠れた声で何かを言っているが、聞こえない。エルカと喧嘩でもしたのだろうか。それとも、祭りで男共に絡まれでもしたのか。ラヴィはとにかく、弱り切っているようだった。


「大丈夫だ。俺は他のやつらとは違う。俺が君を守る。ほら」


 花束をそっとラヴィに差し出す。君が喜んでくれそうな花を揃えた花束だ。俺と君の思い出の――――――。


「来ないで!!」


 差し出された花束を払いのけ、ラヴィは叫ぶ。俺は何が起こったのか分からなくて、動けなくて。


「お願い……!来ないで……、お願い……」


「恐がることはない。俺は君の味方だ」


 ラヴィの手を握ると、彼女は拒絶するように手を振り払った。


「君を守りたいんだ。信じてくれ!」


「なんで……?」


「え?」


「なんで、私を守るの……?」


 何故。何故?決まっている。そんなこと。ずっと君を見てきた。君のことを知った。理由なんていくらでもある。

 俺が君を守りたいから。俺が君のことを―――――――。


「……、好きだからだ」


「……!」


「俺は、君のことが好きだから。だから、君のことを守りたいと思うんだ」


 言った。言ってしまった。どうしても我慢できなくなって、君に伝えたくなって。

 ラヴィは何と答えるのだろうか。拒絶されてしまうのか。それとも。

 それとも。



「好き……?」




「好きって…、どうするの……?手を繋いで…、抱きしめて……、キスをして……、それから……?それから……、どうするの……?」




 ラヴィの返事は、予想していたどの言葉とも違った。彼女が何を言っているのか分からない。どうしてそんな悲しそうな顔をするのかも。

 彼女のことが、何も分からない。


「他の人と違うなんて…、そんなの嘘……」


「何を言ってるんだ……?ラヴィ……」


「あなたも他の人と一緒!!私はもう誰のことも好きになりたくないのに!どうにかして私にライナーのことを忘れさせようとする!!!」


 ラヴィの目は怒りに満ちていた。彼女がそんな目を俺に向けるなんて信じられなくて、彼女の言葉に俺の胸が痛みを感じて。そして、理解した。

 そうか。そうだったのか。


「なんで邪魔するの!?どうしてずっとあの人のことを好きでいちゃいけないの!??死んだからって、私はあの人のこと忘れたりしないのに!!!」


 ラヴィにとって俺は、他のやつらと変わらない。あの下衆な欲望まみれの男共も、俺も。


「もう……、やめて……。お願いだから……」


 ラヴィにとっては何も変わらない。ライナーへの愛を脅かす邪魔者でしかなかったのだ。



「もう、私に付き纏わないで……」



 俺は、ラヴィに何も言う気が起きなかった。俺はずっと彼女の邪魔をしていたのだ。彼女と恋をする資格なんて俺には最初からなかったんだ。彼女の心にはずっとライナーがいて、俺は自分の下心から目を逸らして彼女に近づいていただけだったんだ。

 ラヴィが俺から逃げていく。俺はそれを追わずに立っている。

 そうか。そうか。

 俺は、邪魔者だったんだ。

 再世の実を取り出して、口に入れた。これが最後の一つ。これで終わり。

 アルゼイが言っていた通り、君はいつか幸せな日常に戻るのだろう。きっと、俺ではない誰かが君を救うんだ。それは君の友人だったり、これから現れる別の誰かだったりするんだろう。

 君には、最初から俺は必要のない存在だった。君が幸せになるために、俺はただ邪魔でしかなかった。

 俺の物語が終わる。

 いや、違うか。これは俺のじゃない。君と、ライナーの物語だった。

 

 すまない。ラヴィ。本当に、すまなかった。


 心の中でラヴィに謝った。ひたすら、何度も謝って。申し訳なかったと、そう思って。


「……。さようなら」


 最後に、この本の世界とラヴィにお別れを言って。

 俺は最後の再世の実を、奥歯で噛み砕いた。


















第三話 完


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