第二話 その日は必ずやってくる
これは、何処かの誰かの物語だ。
この本に綴られていたのはどんな物語だったのか、俺は知らない。
誰かの人生を描いた物語なのかもしれない。多くの主人公が織りなす群像劇なのかもしれない。既に終わった戦争の物語だったのかも、誰にも知られずに戦う正義の味方の物語なのかもしれない。
きっと、何処かで何かが起こっている。壮大で劇的なドラマが、この世界の何処かで。
けれど、そんな世界の片隅で君は日々を生きている。何の変哲もない普通の人間である君も、物語の主人公でなくても、ちゃんと悩んで、喜んで、生きている。
どんなに彩られた物語よりも、俺が見たいのは君が笑う日常だった。君が幸せになれるなら、それでいい。
例え俺が君に必要ない存在になってしまったとしても、俺は君が笑顔でいられることを願う。
そう。
俺はそれでいい。それが、俺が今本当に望むこと。俺にとって大事なことなのだから。
君が幸せになれるなら、俺は――――――――――。
エレゲイア・ファントリア
第二話 その日は必ずやってくる
時は過ぎ、結婚式から半年が過ぎたある日のこと。ファントリアの布工場にて。
布織機を並べ、何人もの女性が布を織っている。織機に張った経糸は交互に上下に引っ張られ、その隙間に緯糸を通す。筬で緯糸の並びを綺麗に揃え、経糸の上下を入れ替えては隙間に緯糸を通して。慣れた手つきで女たちは布を織る。ファントリア国の女性が最も多く働く職場だ。ここには金を必要とする女性が集まってくる。例えば貧しい家の生まれであったり、これから何かと金が要り用な新婚さんであったり。
「うちの旦那がさぁ、手紙よこしてくれたんだ。ほら、あの人今仕事で国境にいるからさ」
「へー、優しい!なんて書いてあった?」
ラヴィ・エントールもまた、ここで働く一人だった。彼女は今日も友人のエルカと談笑しながら手を動かす。ラヴィと同じく、若くして兵士の夫を持ったエルカは彼女と良く気が合った。
「元気でやってるって。まあ、簡単な手紙だったけどね。なんか今、隣の国……、なんだっけ?この間まで敵だったとこ」
「ロウスト?」
「そうそう、ロウストじゃ他の国からたくさん人が入って来てるらしいよ。最近は戦争も治まってきたし、人員不足なのかね」
「そうなんだ。余所は大変だね」
「もう国境警備って言ってもそんなに危ない訳じゃないけどさぁ、もっと安心させてくれること書いてくれればいいのに」
いつも通りの他愛もない話をしながら、慣れた調子で布を織り続け終業時間を迎えた。ラヴィは帰り道もエルカと一緒で、お互いに自分の旦那について思う所をつらつらと話しながら歩いた。帰り道の途中、鎧や武器を纏った物々しい兵士たちが荷車を引いて街中を歩いているのを見つけた。
「兵隊さんだ。あれってロウストの鎧だよね」
「あーあー、あれね。なんかうちの国は食糧が足りないらしいから、お隣さんが援助してくれてるんだって。子供できたりしたら、うちも厄介になるかもなー」
エルカは他人事のように軽快に笑いながらラヴィに言った。ラヴィも同じく、ありがたいことだとだけ思って、それ以上は特に気に留めることはなかった。
ラヴィが家に帰ると、ライナーが家の中に見当たらない。もう石彫の仕事も終えて家に帰っている時間の筈だ。どうせ裏庭にいるだろうとラヴィが探しに行くと、やはりライナーはそこにいた。夕暮れで暗くなってきているのだから、松明の灯りくらいつけておけと文句を言ってやろうとしたラヴィだったが、どうもライナーの様子がおかしいことに気が付いて。殆ど完成したようにも見える鳳の石像を前に頭を抱えるライナーにそっと声をかけた。
「どうしたの?」
「ああ、ラヴィ……。おかえり」
ライナーはノミを置いてラヴィの方を向いた。彼の顔にはノミの錆と石材の埃が付いていて、どれだけ彼が真剣に像を彫っていたのか推し量ることができた。
「ちょっと…、この像がね……」
「……?これ?」
ラヴィは石材で彫られた鳳の像に触れた。長く伸びた数本の尾羽と、揺れる炎のように頭部から背中へと生える鶏冠が見事に立体として表現されている。鳳の像。永遠の愛を司ると言われる紅の鳥。
裏庭に置かれたその石像は、どうやって彫ったのか想像もできないくらいに複雑な形をしていた。それはもう、そのままでも充分芸術と呼び得る代物で。
「すごい……。ライナー、これ、本当にあなたが造ったの?すごく綺麗……」
感心した声を上げるラヴィに、ライナーは少しだけ救われた心地になった。しかし、彼の顔は暗いままだ。
「ありがとう。でもね…、まだそれじゃ駄目なんだ……」
「どうして?こんなによくできてるのに……」
ラヴィは石像の表面を撫でた。冷たくて、起伏のない表面だった。
「羽がさ、上手く彫れないんだ」
「羽?」
彼女もようやく石の鳳に足りないものに気が付いた。この像には羽がない。鳳の体を覆う一枚一枚の羽根が、まだ彫られていないのである。
ライナーは足下に置いてあった石版を持ち上げた。そこには何度も何度も羽を表現する練習と、試行錯誤の跡が見受けられた。
「ここ何か月かずっとつまずいててね……。どうなんだろう。僕にはできないのかな…。折角ここまで彫ったのに……。僕は駄目なやつだ、ラヴィ。本当に、駄目なんだ……」
ライナーの悪い癖が出た。彼は一度落ち込むととことんまで自分を追い込んでしまうのだ。このままでは手紙を残して自分探しの旅にでも出かねない。現に、彼は幼い頃何度か同じことを実行しているというのをラヴィは知っていた。
「はいはい。落ち込まない落ち込まない。あなたは駄目な人なんかじゃないよ」
ラヴィが俯くライナーを抱き寄せ、優しく慰めた。彼女のこのライナーを慰める方針は周囲では賛否両論である。甘やかし過ぎだの、包容力があるだの、人によって評価は様々だった。
「君のためになら、どんなに難しくても頑張るつもりだったのに……。こんなに僕は才能がなかったんだ……」
胸が締め付けられるのをラヴィははっきりと感じた。切なく、甘い心地に頭の中は埋め尽くされて、ライナーの汚れた顔を両手で包み、自分の顔と向き合わせた。互いの息があたる距離で、すっかり消沈したライナーの表情をラヴィは見つめて。そのまま吸い込まれるように彼の唇に口づけをした。
驚いて暴れるライナーを押さえつけ、地面に尻をつかせた。後頭部に腕を回し、ライナーの口に舌を入れ、かき回す。歯茎を丁寧に舐めた後、舌と舌を絡ませて。唾液を舐めとり、送り込み。漏れ出る吐息が耳をくすぐり、二人の意識を眩ませた。必死に目をつむるライナーを薄目で眺めつつ、ラヴィは執拗にキスを続けて。
暫くされるがままにラヴィの愛情を受けたライナーは、彼女が唇を解放した隙にラヴィに言った。
「こんな所で…、駄目だよ……。外だし、まだ夕方じゃないか……」
真っ赤になって息を荒げるライナーの姿に、ラヴィは艶やかに笑う。
「馬鹿。こんな時間に何考えてるの……?ひょっとして、期待した?」
顔をさらに赤くさせ、ライナーは黙り込んでしまった。そんな彼を見て、ラヴィはまた笑って。
「あっはは。じゃあ、ご飯作ってくるね。私のために頑張ってくれるのは嬉しいけど、あんまり難しく考え込まないで。ライナー」
ラヴィは朗らかにそう言うと、骨抜きにされて庭に座り込んだまま立ち上がれなくなってしまったライナーを置いて、家の中へと入って行った。
「た、立てない……」
石像に手を掛けて、何とか立ち上がろうと頑張ってはみたものの。結局ライナーは腰が抜けて、陽が暮れるまで動けなかった。
それから数日が経った。しかし、ライナーの悩みは一向に解決していない。仕事を終えて帰って来ても、休まず鳳の像の前で納得のいく技を身に付けようと悪戦苦闘を続けた。毎日毎日溜息を吐くライナーの姿にラヴィは心を痛ませた。
何か彼の助けになれることはないか。少しでも彼の気を晴らしてやることはできないものか。
考えて、考えて。ラヴィには一つだけ思いついたことがあった。それは、彼の大好きなチェリーパイを焼くこと。思い返してみれば、結婚してからというものの、一度も作ってあげていなかった。彼のために小さい頃何度も何度もいろんなパイを焼いた。その中でも、一番ライナーが喜んでくれたのがチェリーパイだった。
きっと喜んでくれるだろう。疲れた時には甘い物を食べるといいと、何処かで聞いたような気もする。彼女が最も得意とするチェリーパイ。こんな時だし、たまには腕を振るってあげようとラヴィは決めた。
ラヴィは思い付きを実行に移すため、翌日の朝早くに家を出た。その日は丁度いいことにラヴィもライナーも休日で。ライナーは朝食を食べるといつも通りに裏庭に向かった。ラヴィといる時は明るく笑いもするが、やはり時折落ち込んだ顔を見せることもあった。そんなライナーに買い物に行ってくると告げ、彼女が向かったのは街の市場。パイの材料は大体家に揃っていたが、肝心のチェリーがない。市場には多くの店が石畳の上に商品を広げていて、ラヴィはたくさんの店の中から果物売りを探しだした。けれど、店に並べられた果物は種類も数も少ない。嫌な予感がしつつチェリーを探したが、やはり見つからなかった。
「あの、チェリーはないんですか?」
「んー?あぁ、チェリーはねー、ないんだよねぇ。っていうか果物全般がね、隣の国に殆ど持ってかれちゃってるんだよ。敗戦国だからねぇ。農園もお隣さんの物になっちゃったから、尚更ね」
「あ…、そうなんですか……。ありがとうございます…」
よもやこんな所でつまずくとは思わなかった。ラヴィはどうしたものか困ってしまう。戦後、どの店も品揃えが悪くなったことは感じていたけれど、こうして自分の生活に影響が出ていることをはっきりと実感したのは初めてだった。
「どうしよう……」
一人ごちて空を見上げて。家で今も頭を抱えているであろうライナーのことを想う。何とか力になってあげたいのに。チェリーパイでなくても、彼はきっと喜んではくれるだろう。でも、できることなら彼が一番喜ぶ物を作ってあげたかった。久しぶりのチェリーパイを前にして、ライナーがどんな顔をするか考えるだけでラヴィの心は踊る。彼の喜ぶ顔が見たかった。ずっと暗い顔をしている彼。どうせなら、この上ない笑顔を見せて欲しくて。
「どうかなさいましたか?」
「え?」
市場の隅で、民家の壁に寄りかかるラヴィに声をかけた人物がいた。声に驚き横を向いて、その人物を見てさらにラヴィは驚いた。
「お久しぶりですね。結婚式の時以来です。こんな所でお会いできるなんて思いませんでした」
ラヴィとライナーの結婚式にも来ていた、ファントリア国の王子。まだ歳若いながらも国王の政治を手伝っているという。
「どうしてこんな所に」と言おうとしたけれど、ラヴィの口はぽかんと開いたままで。失礼とは思っていても、まじまじと全身を見つめてしまう。高貴な白い服に身を包む王子の背はすらりと高く、職場の女性たちの噂通りの美貌を持っていた。はっきりとした年齢は知らないが、ラヴィにはまだ自分と同じくらいの歳なのではと思えた。
「はは。そんなに固くならなくても大丈夫ですよ。それより、何かお困りだったのではないですか?」
「あ、そ、そうでした。いえ……、でも…、王子様に相談するようなことではないですから………」
ラヴィには一国の王子に自分のような庶民が相談に乗ってもらうことに後ろめたさがあった。それと、物資の流通が悪いことをぼやくのはこの国の政治に文句を言っているとも捉えられかねない。
「そう遠慮なさらず。あなたの悩みを仰って下さい。あなたのために協力したいのです」
王子はラヴィの手を握り、微笑みながらそう言った。王子の異様に好意的な態度に、ラヴィは少し気圧された。握られた手は離されることなく、ラヴィはその場から離れたくなったがそれもできずに。言ってもいいものか、暫し悩んだ後に、おっかなびっくりに言った。
「その……、チェリーパイを作ろうと思ったのでチェリーを買おうと思ったんですけど…、売ってなくて……」
「あぁ……、なるほど」
一瞬薄らいだ笑顔にラヴィは慄いたが、すぐに王子の顔は笑顔に戻る。他の女性なら誰もが心ときめいて喜ぶ彼の笑顔が、何故かその時のラヴィにはなんとなく不気味に思えた。
「なら、私が直接取り寄せてあなたの家にお届けしましょう。住所をお聞きしてもよろしいですか?」
「そ、そんな!王子様にそんなことをさせる訳には……」
「いいんですよ。あなたの力にならせてください。それに、僕もあなたが作ったチェリーパイを食べてみたいんです」
まさかこんな展開になるとは思っていなくて、ラヴィは慌てふためいた。突然にファントリア国王子が我が家に来たいと言い出したのだ。もうラヴィにはどうしたらいいのか分からない。ファントリア国民として喜んで受け入れるべきことなのだとは分かっていたけれど、どうにも失礼ながらに気味が悪い。彼女の脳裏に愛する彼の顔が浮かんだ。これ以上この場にいたくない。早くライナーのいる我が家に帰りたい。
どういう訳だろう。王子の好意がラヴィの胸にもたらすのは気持ち悪さばかりで、そこには嬉しさの欠片もなかった。
「私なんかが作ったものでいいなら構いませんが……、でも……」
「是非とも頂きたいものです。今度、あなたを城に招待しましょう。国中の花が咲く私の庭園を案内しますよ」
「あの…、私……」
「ああ、そうだ。今からでも……」
「あの!」
言葉を聞かずに話を進める王子に焦り、ラヴィはつい声を荒げてしまった。その拍子に、彼女の手を握っていた王子の手を振り払ってしまって。
「あ……」
ラヴィの頭が真っ白に。顔を蒼白にさせて、ラヴィは必死に頭を下げながら足早にその場を去って行く。
「申し訳ありません!けど、けど…、本当に大丈夫ですから!失礼します!」
白く美しい髪をたなびかせるラヴィの後姿を見つめる王子は、小さく溜息を吐いた後、薄っすらと笑みを浮かべた。
「……?」
王子の顔に何かが落ちてきて、鬱陶しそうにそれを手で払った。地面に柔らかく軌道を描いて落ちて行ったそれは、小鳥の物と思われる一枚の羽根だった。
脱兎の如く家の前まで帰ってきたラヴィは、息を切らせながら先程の出来事を心の中で反芻していた。
とんでもないことをしてしまった。自分は母国の王子に対してなんて失礼を。
手を振り払ってしまった時、王子はどんな顔をしていたのだろう。パニックになっていた彼女には相手の表情を見ている余裕なんてなくて。怒っていたのだろうか。折角誘ってもらったのに、どうしてあんな断り方をしてしまったのか。せめて、丁重に失礼のないよう断りを入れるべきだったのに。何故自分を誘ってくれたのか、ラヴィ本人には分からなかったが、王子が国民に対しても平等に接してくれる心優しい人なのだと思い至った。そうして彼女は更に罪悪感に駆られることになり、暗い気持ちで裏庭に回った。
裏庭にはやはり、まだライナーが像を前に俯いて座り込んでいた。真剣に思い悩んでいるのが彼の背中から伝わってくる。ラヴィは陰から彼を見つめた。思いつめた様子のライナー。ラヴィには、彼のうな垂れる背中が無性に可哀想に感じられて。声をかけようか悩んだが、頭を抱える彼の姿を改めて目にして、決意を固め直した。
彼のためにチェリーパイを作る。材料が売っていないのなら、自分で採ってくればいい。頑張っている彼のためになら、どれだけでも頑張れる。
ラヴィはライナーに声をかけず、その場を去った。彼の邪魔になるかもしれないし、どうせならまいっている彼の前にチェリーパイを差し出して、驚かせてやろうという悪戯心もあった。
あの人のことだから、泣いて喜んだりするかもしれない。それとも、驚きのあまり腰を抜かしてしまうかも。
ライナーの反応を想像すると、ラヴィはもう楽しくて仕様がなくて。子供の頃、よく遊びに行っていた森へ向かい出直した。
一方、ラヴィが去った裏庭で、ライナーは頭を抱えていた。彼の手に握られているのは石を削るノミではなく、二通の手紙であった。ライナーはその手紙を、虚ろな瞳でじっと見つめていた。
砦の外にある森でラヴィは一人、緑の輝きを受けて歩を進める。石の壁から遠く離れ、人の姿はどこにも無い。熊やら野犬がでることもあるが、ラヴィは恐れる様子もなく慣れた足取りで草木の間を縫って行く。彼女の記憶にあるチェリーの樹が生える場所へと、進む。進む。
昔はよくこの森へ通っていたものだ。ラヴィは懐かしい想いを持ちながら辺りを見渡す。彼女が思い出すのは、かつてこの森にいた一匹の大鹿のことだった。森の奥にある大樹の広間によく座って休んでいたあの鹿は、今どうしているのだろう。ある日突然、広間に現れなくなってしまった彼は、今、どこに。
アップルパイが好きだった彼。練習で作ったアップルパイを持ってきてあげると、嬉しそうに食べてくれた。最初の頃は砂糖と塩を間違えて、とても食べられた物ではないパイを作って持ってきてしまったのだけれど。せーので一緒に口に入れて、味見をしていなかったラヴィは思い切り噴き出してしまったのに、大鹿は身悶えながらもしっかり食べきったことを彼女は今でもはっきり覚えている。
優しい彼。信じられないほど大きくて、とても、とても優しくて。今も昔も、ラヴィは彼を神様だと信じていた。みんなが信じる鳳の姿ではないけれど、普通の鹿には無い一本余分な小さな角を生やしたこの大鹿は、きっと神様に違いないと。
鹿に、コリウスにとってもそうであったように。ラヴィにとっても鹿の姿に変身したコリウスは特別な存在であった。彼女は森の広間に座す大鹿のことをライナーを除き誰にも話さなかった。珍しがって他の人たちが集まってしまったなら、あの大好きな森の静けさも、鹿の背で眠る穏やかな時間も、自分だけが知っている特別な世界が台無しになってしまう気がしたから。そもそも、誰にも大鹿のことを信じてもらえないかもしれないという理由もあったけれど。
どうしてあの鹿はいなくなってしまったのか、ラヴィには知る由もないことで。ラヴィが成長していくにつれライナーへの想いが募っていったように、コリウスの胸に募る想いも次第に耐え難い程に重たくなっていった。それはもう、ラヴィの顔も見られなくなってしまう程に。
ラヴィがライナーの話をする度に、彼の心で悲鳴を上げるその想い。未だにも、彼はそれを受け入れることができぬままで―――――。
「………」
ラヴィは気が付くと、森の広間にやって来ていた。あの頃と何も変わらない。老木を慕い、崇めるかのように二手に分かれて広がる大木たちが作り出す、自然の神秘を感じさせてくれる緑と茶色の広間。湿った空気と木々を吹き抜ける穏やかな風が気持ちいい。思い出の通りにラヴィを感動させてくれたその広間には、あの大きな鹿の姿はない。
もしかして。ひょっとしたら。
ラヴィの中にあった微かな期待が風に吹かれて消えていく。大好きだった彼女の神様。アップルパイが好きだった大鹿は、分かり切っていたことだけれどそこにいてはくれなくて。
ラヴィは踵を返して広間を去った。寂しさと大鹿への感謝だけをその場に残して。
老木の枝にとまる一本の角を頭に生やした小さな鳥が、彼女を見下ろしていると知らずに。
ラヴィがチェリーの樹を見つけたのは昼を大きく回り、夕暮れが近づいてくる頃であった。おぼろげな記憶を頼りにしていたせいで、彼女は昼食も摂らぬまま森の中をさまよい続けることとなってしまった。
チェリーの樹の場所が何処にあるのかはっきりと思い出せなくてラヴィが道に迷い始めた時、彼女の道を示すように色々な花が地面に点々と落ちているのに気が付いた。ラヴィはそれを辿って歩いて行くうちに、一本だけ生えるチェリーの樹を見つけることができたのである。
ラヴィは不思議に思いながらも樹に足を掛け、実を取るために登ろうとした。果樹園の樹と違ってその樹は背が高く、実が成るのも彼女には手が届かない高い場所で。細い枝にたくさん実った赤い果実に手を伸ばす。落ちないように片手と片足で体を支えながら、なんとか届かぬものかと手を伸ばす。
けれど、あと少しの所でバランスを崩して、ラヴィは自分の背程もある高さから地面に落ちてしまった。
「痛ぁ……」
体の横から落ちてしまったラヴィは全身の痛みに涙ぐんだ。服も土で汚れてしまって、擦り剥けた手からは血が出ていた。
それでもラヴィは樹に登る。もうじきに陽が暮れようとしていても、ライナーの喜ぶ顔が見たかったから。
「もう…、ちょっと……」
危険と分かっていても、爪先を伸ばして、指だけで樹に掴まって、無理やり伸ばした手がチェリーの実に触れた。触れたのに。
「きゃっ!」
あと少しの所でまたも地面に落ちてしまった。落ちた拍子に腕や脚に小石が刺さる。擦り傷はさらに増えて、服に血が滲んだ。
余りに痛くて、ラヴィの目から涙が零れる。すぐには立ち上がれなくて、少しだけ地面に座ったままで彼女は泣いた。
そして、大きく深呼吸をして涙を拭うと、また樹に登り始めた。
その様子を一羽の小鳥が見守っている。涙に目を腫らしながらも、傷だらけになりながらも実を取ろうとするラヴィを、じっと。
遂に三度目。ラヴィはチェリーの実に触れることすらできずに落下した。もう陽が暮れはじめた空に、ラヴィは諦めなくてはならない時間が来たことを悟った。夜の森は危険だ。急いで帰らなくては、ライナーに心配をかけてしまう。彼のために何かしてあげたかったのに。自分は結局何もできなかった。あんなに彼が、悩んでいるのに。
鼻の頭がじんとして、目が熱く潤んできて。ラヴィは泣いた。家で今も頭を抱えているであろうライナーのことを想って、何もしてあげられない自分が情けなくて。両手で目を覆い泣き続けた。
すると。
「………、……?」
何か、すぐ傍で音がして。ラヴィは顔を上げた。何かが跳ねるような音がする。何処から聞こえてくるのだろうと、耳を澄ましてみた時だ。彼女の目の前に、頭上から何かがまたぽとりと落ちてきた。
「あれ……?」
チェリーの実だった。真っ赤な二つの実がついた一房が、ラヴィの目前にいくつもいくつも落ちてきて。
ラヴィがチェリーの樹を見上げると、そこには一羽の小鳥が飛んでいた。樹の枝から枝へ飛び移りながら、くちばしで樹から実を摘んでは地面に落としていく。何時の間にかラヴィの前には、チェリーの山ができていた。その山の上に小鳥が降りてきて、ラヴィに一瞬目を向けた。小鳥の頭に生える小さな角に気が付いて、彼女は大鹿のことを思い出し、何か言わなくてはと思ったけれど。
「あ……」
小鳥は、すぐにまた空へと飛び立ってしまった。
呆けて小鳥を見上げるラヴィが我に返り、慌ててチェリーの実を拾い上げ、お礼を言った。
「あ、ありがとう!ありがとう!!」
実を家から持ってきた袋に入れて、ラヴィは帰路に着いた。暗くなりかけた森を急いで帰るその途中、ラヴィの心は弾んでいた。角の生えた不思議な小鳥と、かつて友達だった大鹿のことを思い浮かべて。
もしかすると、また神様が助けてくれたのかもしれない。そんな風に思えてきて。
ラヴィは何度も心の中でお礼を言った。お祈りするように両手を組んで、懐かしい気分に目を細めながら。
なんとなく彼女は、大鹿との思い出に感じていた寂しさが薄らいだ気がした。
ラヴィが家の前までたどり着いたのは、すっかり陽が暮れた夜中であった。灯りの付いた我が家が見えた時、ラヴィはほっと胸を撫で下ろしつつ、恐らく心配して自分の帰りを待っているライナーに何と言おうか考えていた。砦の外に出てチェリーを探していたことを正直に言うべきか。チェリーパイを差し入れして驚かせたかったけれど、こんなに帰りが遅くなってしまっては。
「ラヴィ!」
「え?」
後ろから大声で名前を呼ばれた。その声がライナーの物であると分かったから、ラヴィは驚いて。
「ラヴィ!!」
振り向いた所をライナーに思い切り抱きしめられて、ラヴィは目を白黒させた。
「何処に行ってたんだ!?心配したじゃないか!」
「あ、いや…、ちょっと森に……」
「森…、森か……。どうりで………」
気付いてみれば、ライナーは汗だくで息も切れ切れに苦しそうで。ラヴィは早く脈打つ彼の鼓動を感じながら、ライナーを抱き返した。
「ごめんね。こんな遅くなっちゃって」
「いいよ。いいよ。君が無事で、本当によかった……」
泣きそうなライナーの声に、ラヴィは本当に申し訳ないことをしてしまったと思った。ずっと自分のことを探してくれていたのだろう。運動音痴の彼が必死に走り回っていたのが分かって、ラヴィにとっては正直、反省する気持ちよりも嬉しい気持ちの方が大きかった。
「ラヴィ……。君がいなくなったら、僕は……、僕は……」
「ああ…、結局泣いちゃった……」
力強く抱きしめられて、ライナーが嗚咽するのを耳元で聞いて。ラヴィは幸せな心地で彼の頭を優しく叩く。
「私は何処にもいかないよ。ずっとあなたの傍にいる」
「ラヴィ……。ありがとう……」
本当に、この人は。自分がいないと寂しくて仕様がないのだ。
愛しさにラヴィが顔をライナーの頭にすり寄せる。そこで、ライナーは目に移ったラヴィの服がひどく汚れているのを見つけた。
「ラヴィ、服が汚れちゃってる……。って、血が出てるじゃないか!」
「平気平気。全然痛くないから、大丈夫」
「駄目だよ!ほら、早く家に!」
慌てふためいてライナーはラヴィを家に連れて行く。「心配しすぎ」とラヴィは言うが、ライナーは心配するのを止めなかった。
幸せそうな二人。お互いを理解しあった二人。彼女たちが結ばれるのは、運命だったに違いない。ラヴィを本気で愛している彼ならば、絶対にラヴィを幸せにしてくれる。二人をずっと見守ってきた小鳥は、小鳥の姿に変身していたコリウスは、ざわつく想いを抑えて二人を祝福した。
街の隅に建つ空き家へと窓から中に入って、コリウスは元の人間の姿へと戻った。床に寝転び、再世の実を一つ手に持って眺めながら彼は思う。
ラヴィは幸せになった。かけがえのない人と結ばれて、幸せに暮らしているのだ。
自分はもう、彼女には必要ないのかもしれない。そんなことを思ってしまって。コリウスは息苦しくなってきて、ラヴィのことから意識を逸らした。
今までこの本の世界で見てきたことを忘れようと、これから自分は何をすればいいのか、考えて、考えて。
夜も更けて、考えるのに疲れたコリウスは穏やかに目を閉じて、やがて深い眠りについた。
深夜の裏庭にて、ライナーは一人椅子に座っていた。机の上には二通の手紙と食べかけのチェリーパイ。ラヴィは既に寝室で眠りについている。さぞ疲れたことだろう。パイの材料を探すため、一日歩き回っていたのだから。
彼の表情を思いつめた物にする要因は、鳳の像に対する自信の欠如ではなくなっていた。傷だらけの体でラヴィが焼いてくれたチェリーパイを口に含んだ時、ライナーは失敗を恐れる自分が無性に情けなく思えた。ラヴィに美味しいと伝えると、彼女は心底嬉しそうに笑ってくれて。ライナーは改めて確信したのだ。彼女のためになら、どんなに辛いことにも立ち向かっていけることを。
ライナーは残りのチェリーパイを口に入れ、その味を頭に焼き付けた。そして、机の上に置いてあった二通の手紙を鞄の中に隠した後、ノミと金槌を手に取って、松明の灯りを頼りに鳳の像に手を付けた。
一週間後、ライナーが昼食の仕度をしていたラヴィを裏庭に呼び出した。包丁を持っているときに脅かさないでとラヴィがたしなめると、ライナーはしゅんとして謝った。
裏庭に出たラヴィが見た物は、見違えるほどに細部まで彫り込まれた鳳の像だった。全身に羽の形が浮かび上がる造形は、教会で御神体の石像を毎日見ているラヴィですら圧倒された。ライナーが完成するまでラヴィに像を見せないようにしていたのもあって、ラヴィは驚きのあまり言葉が出てこない。
「どうかな?」
「……、ライナー」
ラヴィは突如ライナーに抱き付き、騒ぎ立てた。
「すごいすごいすごい!ライナー、本物の芸術家みたい!!本物の鳳様みたいに綺麗!!」
跳ねながら細い腕で体に絡んでくるラヴィを受け止めながら、そっと彼女の頭を撫でる。
「やっと完成したんだ……。君のお蔭だよ。ラヴィ」
「私は何にもしてないよ。おめでとう、ライナー」
「いや、君が応援してくれたからできたんだ」
「でも、頑張ったのはライナーだよ?」
「……。それでも、君がいなかったら…、僕は……」
ライナーの頑張りを横取りしてしまうような気がしていたけれど、ラヴィは彼が像の完成を自分にどう受け取って欲しいのかを察した。
自分を見つめるライナーの目がどうしてこうも寂し気に思えるのか分からなくて、ラヴィは少し不安になりながら彼の胸に顔を当てた。
「……、分かった。じゃあ、そういうことにしてあげる」
嬉しいことのはずなのに、何故ライナーはそんな眼差しを向けるのだろう。ラヴィに陰から寄せる不安の波が、抱き付く腕に力を入れさせて。
「これは僕たち二人で作った像だ。僕と君で、作ったんだ」
ライナーがラヴィの体を離す。一歩ずつ離れて行って、鳳の像に手を置いた。それから、像の横に置いてあった鞄の中から一通の手紙を取り出した。
「ラヴィ。君に話があるんだ」
「……?」
ラヴィは彼が持つ見覚えのない手紙に恐る恐る目を向けた。その手紙からはとても嫌な予感がして。ライナーが手紙を差し出すのが、恐ろしくて。
「国王様のお達しが来たよ。来月から、国境で作る壁画の制作に僕も参加しろってさ。書き方は丁寧だけど、強制だよ」
受け取った手紙にはライナーが言った通りのことが書かれていて、手紙の最後には確かに国王の印が打たれていた。その上、手紙の中に見つけた一文にラヴィは絶望することとなる。
“被扶養者、妻帯者、その他を問わず、各自個人で国境に滞在し和平の証である壁画の制作に参加すること。”
手紙の上から下へと目を通していき、ラヴィは遂にその記述を見つけてしまった。
“制作予定年数は十六年”
「私は…、一緒に行けないの?」
「書いてある通りさ」
「なんで…、ライナーが……」
手紙を持つラヴィの手が震えていた。手紙で顔を隠していても、頬を伝った涙が地面に落ちて。
「この国で石を彫れる人間を適当に選んだんだと思う。運が悪かったんだ。ラヴィ……」
ラヴィがライナーに飛びついた。強く強く、ライナーの袖を掴んで泣いていた。
「ごめん。ラヴィ。君を一人になんてさせたくなかったのに……」
「行かないで……。お願い…、ライナー……」
彼がいなくなった後の生活を想像すると、ラヴィはいてもたってもいられなくて。無理なことだと分かっていても、彼に言わずにはいられない。嫌だ嫌だと子供のように、彼に抱きしめられながら頭を振った。
「すごい壁画なんだよ、ラヴィ。岩山全体を削って作る壁画さ。平和になった証を作るんだ。名誉なことだよ」
「………」
顔を上げてくれないラヴィにライナーは続けた。泣いている彼女を見ていると、自分も目が熱くなってくるのを感じた。
「大丈夫。きっと休める時だってあるさ。ちゃんと君に会いに来るよ。だから、心配しないで」
「私も…、私も会いに行く……。仕事休んで、ライナーのとこに行く……」
「ははっ。ああ、そうしよう。仕事なんて気にせずにさ、二人で会おう」
常日頃とは逆に自分を慰めてくれるライナーが、今日は頼もしく見えた。子供の頃からずっと見てきた彼は頼りなく思うこともあるけれど、やっぱり男の人なのだと改めて思って。今はライナーに甘えていようと決めた。例えこれから、遠く離れてしまうのだとしても。
今は。今だけは。
「ライナー……、私、あなたのこと、愛してる……。何時まで経っても…、ずっと……」
彼が、まだそこにいるのだから。
「僕もだ、ラヴィ。愛してるよ。何時までも」
二人は家の裏庭で。鳳の像の前で、愛を誓う。紅の鳳が永遠の愛を祝福してくれますよう、ラヴィは心の中で祈った。
月日は流れる。ライナーが家を発つその日が来るまで、ラヴィはずっと泣いていた。何度も何度も泣いては、ライナーに慰めてもらった。
悲しかったけれど、でも、幸せな毎日を送って―――――――。
二人は出発の日を迎えた。国境に向かう一団と共にライナーは砦の外へと出ていった。森の間の道を段々と遠ざかっていくライナーを見ているうちに、ラヴィはまた泣き出しそうになってしまって。
「ラヴィ……」
一緒に見送ってくれていた友人のエルカが心配して、ラヴィの肩に手を乗せた。俯いて、涙を必死でこらえるラヴィにエルカが声をかけようとした時だ。
ラヴィは突然走り出し、ライナーを追いかけた。息を切らせて、つまずいて転びそうになりながらも、一団の中からライナーを見つけ大声で呼びかけた。
「ライナー!ライナーーー!!!」
皆が驚き、叫んだ少女の方を見た。ラヴィ・エントールが彼を呼ぶ。彼女にとって一番大事な彼の名を。
ライナーもまた、彼女の方を見た。土だらけになって追いかけて、自分を呼んでくれたラヴィの姿に彼も呼ばずにはいられなかった。
「ラヴィ!!ラヴィ!!!」
大きく手を振る彼女に彼も大きく手を振った。周りの目も気にせずに、二人は互いの名前を呼んでいた。足がもつれて、ラヴィが転ぶ。ライナーが驚いて彼女の名前をもう一度呼ぶと、ラヴィは立ち上がって笑顔を向けた。
やがて、ライナーは再び遠くへ離れて行き、ラヴィから見えない所へ行ってしまった。一団が去って、ラヴィは森の道に取り残された。
二人の日々はこうして終わりを告げた。最後に彼女が見たのは、涙を流すライナーの横顔だった。
「……、泣き虫……」
その横顔を思い出し、ラヴィは笑って涙を拭った。森の先のずっと遠くに山が見えた。隣の国との国境でもある高い山だった。
ラヴィはこれから、毎日あの山に向かってライナーの無事を祈ると決めた。
そして、時は更に流れる。流れて、流れて、“その日”がやって来る。
それはラヴィとライナーが離れ離れになってから、二ヶ月経ったある日のこと。
ラヴィを見守ることを止めたコリウス青年は、ファントリアの街で行く当てもなく生活していた。
彼は変身を解き元の人間の姿となって、頭に生える一本の角を隠すため全身を包むローブを着込んでいた。傍目には浮浪者にも見えるその姿は昼間の街中で酷く浮いている。何処に行くわけでもなく、誰に会うでもなく、コリウスはファントリアを歩いていた。
何も得られぬ毎日を。何も起こらぬ毎日を。コリウスの心の淀みが深まって行くだけの毎日を、彼は送っていた。
けれど、その日はいつもとは違った。
その日、彼は知ることとなる。この本の世界で何が起こっていたのかを。
「ちょっとあんた。そこ、そんな道の真ん中にいられたら通れないだろ。どいてくれや」
後ろから見知らぬ男にそう言われ、コリウスは振り返った。すると、彼は自分の後ろで黒い棺を担いだ男たちが自分を睨んでいるのに気が付いた。コリウスが隅に寄り、道を開けると男たちは先へと進んでいった。
「誰か……、死んだのか?」
教会の方へと運ばれていく棺を見て、コリウスは誰かが死んだのだと悟る。大して興味もなかったが、誰かと口を交わすのも久しいことで。軽い気持ちで彼に注意をした男に尋ねてみた。
「ああ、そうだよ」
男は溜息を吐いてから、言った。
「ライナー・エントールさ。この間結婚したばっかだってのに、壁画を彫ってるときに事故ったんだとさ」
耳を一瞬疑って、コリウスの思考が停止した。それから、彼の足が歩き出し、教会へと向かった。
彼の脳裏には、誰よりも大切だった彼女の姿が浮かび上がる。笑っている顔。怒っている顔。泣いている顔。
足が自然と早まって、何時しか彼は走っていた。何が起きているのか、脳が理解できずにいるままで。
まだ昼下がりの明るいファントリアの町中を、コリウスは走った。
彼にとって何よりも大切な、あの少女の姿を探して。
「物語が動き出す。ここから先が、この本の本当の物語」
ページをめくる音がする。ほの暗い図書館で、アルゼイは椅子に座り黒緑色の本のページをめくる。ラヴィとライナーの結婚式の挿絵が載ったページを越えて、先へ先へと。
「コリウス。それ以上は駄目だ。もう、お前は本の世界を出る時だ」
アルゼイが葬式の挿絵があるページに辿り着く。一人の女性が黒い棺を前に涙を流している挿絵であった。
「現実を見ろ。お前がいるべき世界はそこではない」
机の上に本を置いて、頭を強く手で掻いた。このままではいけない。このままではコリウスが物語に飲み込まれてしまう。
これ以上は、もう駄目だ。ここから先を知れば、コリウスは物語の世界を離れなくなってしまうに違いない。
「この本にその女の結婚式の挿絵が載っているのを見た時、お前は気付かなかったのか……?コリウス」
エレゲイア(挽歌)が始まる。それは、とある少女から愛する人へ捧げられるアイの歌。
「それでも、お前は今に気付くだろう。この本の…、この物語の主人公は、その女だ」
「“エレゲイア・ファントリア”は……」
「挽歌のようなその女の、転落の物語なんだ」
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第二話 完