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第五話

 朝起きると、その日の空はこれでもかというほど気持ちよく晴れ渡っていた。

 ここのところは安定していい天気が続いていたが、そんな中にあって格別だと思えるほどの晴天だ。

 だが友希にとっては、そんな青空が憎らしくもあった。

 空はこんなにも晴れ渡っているというのに、友希の心はドンヨリ曇り模様だ。半ば無理矢理に引き入れられたアテナの園の一員としてジャンブルに立ち向かわなければならないのだと思うと、恐れと不安で胸が一杯になる。そんな気持ちで見上げるこの青空は、これまでに経験したことがないほどに憎らしく思えるのだ。

 「はあ〜……」

 「大丈夫、友希ちゃん?」

 空を見上げてタメ息を吐く友希を、隣を歩いていた明日音が気遣ってくれた。

 そろそろ見慣れてきたジャンブル注意の看板が立ち並ぶ通学路、その途中で偶然にも鉢合わせた明日音と一緒に学校を目指して歩いていた時のことだ。

 「うん…………大丈夫」

 それに答える友希だったが、その張りのない声は自分で聞いていても大丈夫だとは思えない。

 「本当に大丈夫? 身体の調子が悪い……ってわけじゃなさそうだけど、なんか嫌なこととかあった?」

 案の定、その答えは明日音の不安を余計に煽っただけだった。これではいけない、と友希は心の中で頭を振る。

 が、実際のところを素直に話すこともはばかられた。歩からの頼みを受けたことは話したが、未だそのことに思い悩んでいるとは告げてはいない。内容を詳しく話せないということもそうだが――

 (一度決まったことでいつまでもウジウジしてるなんて……さすがに情けなさ過ぎる)

 そう思い、心苦しくはあった当座は方便でしのぐことにした。

 「……ううん、本当に大丈夫。ちょっと、寝起きが悪いだけだよ」

 「そう? それならいいんだけど」

 「そ、それより、今日こそは大丈夫だよ」

 「今日こそは?」

 「うん、その……放課後」

 「ああっ!」

 そんな、矛先を変えるつもりで発した友希の言葉に、明日音はポンと手を叩いた。

 「そうだよね、二日も連続で一緒に帰れずじまいだったんだよね!」

 「うん…………それで、明日音ちゃんの方は?」

 「私の方も大丈夫。多分、瑞穂ちゃんも大丈夫だと思うよ」

 「本当!? よかったあ」

 もう一方の懸念もクリア、今日こそは明日音たちと一緒に帰ることができそうだ。そう思うと心の曇り模様も晴れてくるような気がしてきた。ジャンブルはいつどこに出現するかわからない。ならば不確定要素に心を砕くよりは、来たるべき幸せな胸を躍らせる方がずっといい。

 登校の真っ最中に学校が終わってからのことに胸を躍らせるもの問題だが、そうでもしなければやっていられない、というのが今の友希の心境だ。

 「それじゃあ今日こそ放課後、楽しみだね」

 「うん……!」

 笑顔で張り切る明日音に友希も自然と笑顔になる。友希の心も今では見事なお天気だ。

 「あれ……? なんだろう?」

 そんな、友希に気持ちのいい陽だまりをくれた明日音が何かを見つけたように足を止めた。校門へと続く坂道の途中、ちょうどその目当ての校門が見えてきた時だった。

 友希もその声に促されるようにして校門を見る。そこには何やら人だかりができていてちょっとした騒ぎが起こっていた。朝の光景としては珍しい。

 「おはよう。ねえねえ、何かあったの?」

 明日音は早速人だかりの中にクラスメイトを見つけ、この状況について尋ねた。

 「あ、緒野さん、おはよう。ほらあれだよ、あのジャンブル」

 「――えっ!?」

 「ジャンブル!?」

 返ってきた答えに、友希と明日音は同時に声を上げた。

 クラスメイトは困り顔で昇降口へと続く道の中央を指差す。それを追って視線を向けると、そこでは大きなこげ茶色の物体がウネウネとうごめいていた。きっと、ロールプレイングゲームなどに登場するスライムというのはこんな感じなのだろう。

 「……本当だ。一昨日に出たばっかりなのに」

 「いつ出てくるかわからないとはいえ、迷惑だよね」

 「それで、今度は一体どんなのなの?」

 「それが今回はどうも、人を襲うらしいんだよ」

 「――えっ! 人を!?」

 「とは言っても、ケガとかはないんだけど……」

 明日音はクラスメイトにそのジャンブルのことを詳しく訪ね始めた。友希はその会話に入っていけず、明日音の後ろでその内容に耳を澄ませる。すると突然、ポケットに入れてあった携帯電話が震え出した。取り出してディスプレイに表示された着信相手の名前を見た友希は、途端に心の中に厚い雲が立ち込めるのを感じた。

 予想はしていた。この状況ならば、遅かれ早かれ自分に連絡が来るだろうということは。しかし実際にその名前を目にした瞬間の憂鬱さと言ったらない。かと言って出ないわけにもいかない。

 明日音はまだクラスメイトと話している。友希は、気づかれないよう静かに明日音たちと距離を取り、電話に出た。

 「…………はい」

 『桐沢です。よかった、繋がって。今どこにいるの?』

 「……ちょうど、校門の前です」

 『その言い方だと、何が起きているのかはもう知っているみたいね』

 電話をかけてきたのは歩、そして案の定、その声には神妙な色が含まれていた。

 『今回は…………いいえ、今回もあまり余裕がないの。お願いできるかしら?』

 明日音とクラスメイトの会話を耳にしたところでは、あのジャンブルは人に危害を加えたようだ。さすがの歩も今回ばかりは有無を言わせる気はないらしく、言葉とは裏腹の強制力が働いているように感じた。

 ただしそれは、友希も同じだった。

 「……はい」

 あんな話を聞けば、さすがに怖いなどと言ってはいられない。精神的な点ではさておくとして、自分よりよっぽど非力な多くの一般生徒が危機に瀕しているのだ。曲がりなりにもジャンブルと戦うことのできる友希が、それをただ見ていることなど許されない。

 友希は、歩に言い募られるより前に腹をくくっていた。

 「それじゃあ、すぐに地下に……」

 『その必要はないわ』

 「え……?」

 『校門を入ると右の方に小さな倉庫があるわ。校門周辺を手入れする用具をしまってあるんだけど、そこに入って。鍵は開けてあるから』

 「鍵を? 一体どう……」

 友希は疑問を口にしかけて、しかし思い止まる。

 校内どころか町中にまで密かに監視カメラを設置し、学校の地下にカタパルトつきの隠し通路を張り巡らせているほどだ、校内の建物の鍵を遠隔操作できるくらいの仕掛けはあってしかるべきだろう。そしてその先も、なんとなく想像がついてしまった。

 『どうしたの?』

 「いえ……なんでもないです。それじゃあ、すぐに行きますね」

 歩の声音が移ったのか、友希も心持ち神妙な顔つきになって電話を切った。

 「誰からの電話だったの?」

 「――ぅひゃあっ!」

 その瞬間、電話を切るタイミングを見計らっていたように明日音が声をかけてきた。

 「あ、えっと…………うん、会長さん……から」

 友希は、忙しなく打ち鳴らされる心臓を必死になだめながら答えた。

 「桐沢会長? どうして……」

 「……この騒ぎで、早速生徒会のお手伝い頼まれちゃって……」

 「そうなんだ」

 「ちょっと……行ってくる」

 「うん、気をつけてね」

 声をかけられた時はどうしようかと思ったが、話の流れですんなりとその場を抜けることができた。そうして小走りに歩の指定した倉庫にたどり着く。歩が言った通り、鍵はすでに開いていた。

 「それで…………どうすればいいんだろう?」

 倉庫の中に入った友希はしっかりと扉を閉め、辺りを見回した。確かに、掃除や植木の手入れに使う用具などが整然としまわれている。ただそれだけの、なんの変哲もない倉庫だ。

 しかしそこに、突然の変化が生じた。

 「――うわあっ!?」

 足元の床の一部が開き、円筒形の物体がそこから飛び出して来た。

 それが出現したのは実に鼻先三センチという位置。もう一歩前に出ていたら天高く召されていたかもしれない。

 「びっ……びっくりしたあ」

 背筋を冷たいものが流れ落ちていくのを感じながら、友希はその円筒を観察した。プラスチックか何かのようなツルリとした質感のカプセル、といった風情だ。表面には取っ手と思われるくぼみもある。そこを握ってカプセルを開くと、果たしてそこには強化スーツが収まっていた。

 「…………こんなものまで……」

 おそらくはこの強化スーツをいかなる場所へも運搬するシステム、これもまたアテナの園がつくり上げた物だろう。これに加えて人間が行き来する隠し通路まである。その技術力や手回しの周到さには正直、呆れ返る。

 「……でもこういうことはアナログなんだよね」

 そうぼやきながら、友希は周囲に鋭く目を配った。扉の鍵もしっかりとかける

 「誰もいない…………よね? …………絶対に、いないよね?」

 この倉庫に入ってくる時は確かに一人だったが、あらかじめ誰かがいた可能性もある。友希はその点を嫌というほど確認した。

 そうしてその上で、友希は制服を脱ぎ始めた。

 「まさか……こんな所で着替えることになるなんて……」

 たとえこのスーツがどれだけすごかろうが、それをいたる所へ運搬するシステムがあろうが、それを身に着けるには普通に着替えるしかない。マンガみたいにボタン一つで光に包まれ、一瞬の内に装着完了とはいかないのだ。

 「そのくらい便利になってくれればなあ……」

 着替えの最中にも注意深く周囲を警戒しながら、友希はようやくそれを終えた。

 昨日の時点でサイズの不具合は直されていたし、細かい調整もすんでいる。今ではこのスーツは、まるで身体の一部のように感じられる。

 「うん……………………よし!」

 友希はスーツの調子に満足げにうなずいた。

 しかし、そのまま倉庫を出ようとしたところで友希は躊躇してしまった。ジャンブルと戦うことへの恐怖、ではない。

 「外…………たくさん、人がいたなあ」

 あんな公衆の面前で戦わなければならない、それだけでいやがうえにも気後れしてしまうという。

 前回のことでこのゴーグルの効果は立証ずみだ。戦っているのが友希だということがバレはしないだろうが、それでもやはり恥ずかしいものは恥ずかしい。何せ、友希のボディラインがくっきり浮き出る相変わらずのデザインなのだから。

 「う、うぅ〜ん……」

 友希は、人目を避けるいい方法はないものかと思案し始めるが、そんなことに時間を浪費している場合ではないと思い直す。ジャンブルがすぐそこにいて、人が大勢その場に居合わせているのだ。時は一刻を争う。

 「えぇーいっ!」

 友希は、気合を入れるべく両手で頬を張った。

 加減したつもりが強化スーツの影響でとびっきり痛かったが、おかげで恥ずかしさも何も吹き飛んだ。

 友希は倉庫の扉に手をかけ、一息に開け放つと同時に飛び出していった。

 校門の人垣を横目に、茶色いジャンブルの前に立つ。

 「ふう……………………うっ」

 瞬間、背中に人垣がどよめく気配。一部からは歓声も上がる。

 それらは友希の背中に存分に降りかかり、スーツの恥ずかしさと守らなければならないという責任感という二重のプレッシャーで友希を圧迫した。

 友希はジャンブルを凝視する。

 とても後ろを振り向くことなどできないので、とにもかくにも目の前の相手に集中したいという腹積もりだった。

 「う…………わあ……」

 あらためて、それは奇妙なジャンブルだった。

 茶色い泥のような身体が、ウネウネと流動するようにうごめいている。ジャンブルに決まった形はないという話だが、これはあまりにも常識外れ過ぎる。昨日の毛玉が普通に見えるほどだ。

 「あっ……!」

 ジャンブルを観察している内に、友希はその足元に倒れている人たちを見つけた。同じ制服を着ているということはこの学校の生徒のようだ。いずれもジャンブルのものだろう泥のような物にまみれている。その様子がとても痛々しい。

 痛々しいのだが、その様子に似つかわしくないものが友希の鼻をくすぐった。

 それは匂い。

 比較的最近嗅いだ記憶のある……

 「あれ、これって…………チョコレート?」

 昨日もこの辺りの植え込みに散らばっていた茶色い物体。それと同じ甘い匂いが漂ってきた。

 つまりこのジャンブルは巨大なチョコレートの塊、ということなのか。

 「も……もしかして……」

 よく見ると、倒れている人の口元は特に多くの茶色い物がこびりついている。

 これはすなわち――

 「このジャンブルが人を襲ったのって…………チョコレートを、無理矢理?」

 十中八九間違いない。そして同時に、これは乙女にとって由々しき事態だった。

 確かにケガの心配はないだろう。しかしチョコレートのような高カロリーな物を無理矢理注ぎ込むなど、女子高生に対してあるまじき行為だ。ジャンブルが何を考えているかわからないが、それは不断の涙ぐましい努力を水泡に帰す悪魔の所業なのだ。

 不断の努力――減量、体重維持、つまりはダイエット。

 「むう〜……!」

 友希とて仮にも女子高生だ。気にもするし、わかる。

 友希の胸に、フツフツと怒りのようなものが込み上げてきた。

 が――

 「――あっ!」

 ジャンブルはそんなことなど意に介さず移動を始めた。その跡すらも甘く香り立っている。

 「まっ……ちょっと待って!」

 友希もすぐさまそのあとを追いかける。

 「うう〜……ええいっ!」

 そして先日と同じように、自分の拳を叩きつけた。

 しかしその拳に残ったのは豆腐でも殴ったかのようなネットリと柔らかい感触だった。いまいち手応えがない。

 それを証明するかのように、ジャンブルは移動を続けている。

 「まっ、待ってってばあ!」

 友希は再度それを追いかける。その間も何度か攻撃してみたがやはり暖簾(のれん)に腕押しだった。

 だが、ダメージはあるはずだ。

 ジャンブルは、小さなナノマシンを中心にして様々な物質が結合してその身体を形成している。強化スーツによる攻撃にはその結合を弱めるある種の電磁波が含まれているのだと、昨日綾乃から教えられた。その攻撃によってある程度結合を弱めたあと、極限まで高められた強力な電磁波を叩き込むことで結合を完全に破壊する、これがこのスーツによるジャンブルの撃退法なのだ。

 ただジャンブルは、ダメージがあるから動きが鈍ったりするようなことはないようだ。このまま止められなければ、この上さらに乙女の純情が踏みにじられかねない。

 そんなことを考えている内に、ジャンブルと友希は昇降口までたどり着いていた。ジャンブルが通ったあとには世にも珍しいチョコレート痕、今しも下駄箱がチョコレートまみれになっているところだ。

 このジャンブルが何をもって校内を目指しているのかはやはり理解不能だが、これ以上の犠牲は是が非でも防がなければならない。

 「もうっ…………止まってってばっ!」

 ままならない苛立ち混じりに、友希はこれまでよりも大きく振りかぶって思いっきり拳を突き込んだ。それでもその拳は鈍い水音を立てて半液状のチョコレートの身体に埋もれるばかりだった。

 そしてそれが災いした。

 「――えっ? あっ……わわっ!?」

 ジャンブルに埋もれた腕を伝ってチョコレートが這い上がってきた。友希をそのまま飲み込もうとしているようだ。

 友希は慌てて腕を引き抜こうとしたがガッチリ締めつけられていて抜けない。

 「んぬぅ〜!」

 一瞬青褪めた友希は両足を思いっきり踏ん張り、文字通り全身全霊の力で腕を引っ張る。

 「ぬう〜…………ぅわあっ!」

 抜けた。

 これで一安心と思いきや、引っこ抜いた腕を見て友希は声なき悲鳴を上げた。ジャンブルの一部であるチョコレートが腕に点々とこびりついており、それらが本体から離れたにもかかわらずウネウネと動いていたのだ。

 「――っ〜〜〜……!」

 友希は腕をブンブン振り回してそれを振り払った。

 背筋が泡立つ。チョコレートは好きな方だが、これではただ茶色いナメクジが腕を這っているようなものだ。

 「はあ、はあ…………あ、雨宮先生」

 落ち着きを取り戻した友希は、綾乃に連絡を取った。監視カメラその他でこの状況を見ているはずだ。

 『何? 何か問題あった?』

 「そうじゃなくて……こ、この間の…………あの必殺技みたいなのって、まだ使えないんですか?」

 『ブラスナックル? まだ使えない。ダメージが足りないわよ』

 「……その技名、初耳です。それって、二発撃っても?」

 『微妙ね。それに二発も撃ったら身体に負担がかかり過ぎるって前に言ったでしょ? なるべく一発で決めるようにしないと』

 「じ、じゃあどうすれば……」

 『うぅ〜ん……昨日と同じように弱らせてトドメを刺すしか……』

 「そんなあ……!」

 「昨日と同じ」と言われても、相手が昨日と違うのだから同じようにはいかない。状況は如何ともし難い。ともかく地道に削っていくしかないようだが、その間自分もほかの生徒も無事でいられるという自信が友希にはなかった。

 「なんとか足止めしなきゃいけないけど、下手に攻撃して私がやられてもダメだし……」

 どうにもこうにも手が出しにくい、そんな状況だ。唯一、しばらく自分たちに近づく人間がいないこと願うばかりだ。

 だが、こんな時に限ってその程度の願いすらままならないようだ。

 「――わっ、すごいことになってる」

 「えっ……!?」

 背後から聞こえてきた聞き覚えのある声に、友希は弾かれたように振り返った。

 そこには何故か、明日音が立っていたのだ。

 「明日音ちゃん!? どうしてここに!?」

 「へっ……? いえ、その…………気になっちゃって」

 テヘッ、と小首をかしげる仕草はこの上なく愛らしかった。友希はあまりの愛らしさに身悶えしそうになったが、しかしその衝動を瞬時に鎮める。どんなに愛らしかろうが、時と場合によるのだ。

 「気になったって…………危ないよ! すぐに逃げ……あっ!?」

 などと忠告する側から明日音の頭上からチョコレートが降り注いだ。

 「――危ないっ!」

 友希は明日音を横からさらうようにチョコレートの魔の手から救い出す。

 ジャンブルが明日音を狙って身体の一部を、それこそ手のように延ばしたのだ。ただし、明日音くらいの体格ならば一掴みにしてしまいそうな巨大な手だ。それがぶつかった箇所は、まるでチョコレートの濁流にあったかのようだ。

 「わわわわわっ…………あ、結構おいしい」

 その濁流の端をわずかに被ってしまう。その時たまたま口の中に入ったそれは意外なほどおいしかった。

 「――あっ! まだ来ますよ!」

 「――えっ? どわあっ!?」

 などとやっている間にも、ジャンブルは手を休めることなく友希たちに手を延ばしてきた。友希が明日音を小脇に抱えて逃げ回ると、狙いを外したチョコレートの手は次々と下駄箱をなぎ倒していく。

 気分は猫に追い回されるネズミそのもの、そしてそのあとにはチョコまみれの下駄箱が滅茶苦茶に折り重なるという惨状だ。

 「あ〜もうっ! どうしよう……!?」

 友希は明日音を抱えたまま教室が並ぶ廊下まで来た。ジャンブルはまだ昇降口を登ったところだが、直に追いつかれる。

 攻め手がない友希に迫るジャンブル。その腕の中には何がなんでも守らなければならない明日音。次から次へと困難が襲ってくる。頭がどうにかなってしまいそうだ。

 (やっぱり神様って私のこと嫌いぃっ……!?)

 心の中でそう悲嘆に暮れた時、思わぬ所から言葉がかかった。

 「あ、あの…………ちょっと、いいですか?」

 「え……?」

 それまで小包か何かのように大人しく小脇に抱えられているだけだった明日音が、そのままの体勢から顔だけ友希を見上げていた。

 「あ……ご……ごめんなさい!」

 友希は慌てて明日音をその場に下ろすと、ケガなどしてはいないだろうかとチェックを行った。

 よし、問題ない。

 「あ、ありがとうございます」

 「いえいえ、そんな……」

 「それで……一つ、提案してもいいですか」

 「て、提案?」

 「はい。あのジャンブルって、今は私を狙ってるみたいですよね? だったらこのまま私が囮になろうかと……」

 「おとりに? はあ…………囮!?」

 あまりに自然に出てきたその言葉に、友希は明日音の言葉に納得しかけた。しかし即座その意味に思い至って猛然と顔を横に振る。

 「だ、だ、だ、ダメだよそんなの! 危ないよ!」

 「で、でも狙いが定まってる方が、ほかに被害が出なくていいんじゃないですか?」

 「それじゃあ明日音ちゃんが危険だよ!」

 「それはまあ……そちらに守っていただければ。図々しくて申し訳ないですけど」

 明日音は友希の剣幕にやや圧されながらも、その提案を覆そうとはしなかった。そんな提案をしながら、いかにも頼りなげに、上目遣いで友希を見つめる。

 「――うぅっ……!」

 それが友希にしてみればとんでもなくストライクだったのだ。

 (明日音ちゃんが“守って”って…………私に……)

 明日音にこんな顔で嘆願されて断ることなど、友希にできようはずもない。もちろん実際には嘆願というほどでもないし、何より明日音は目の前の人間が友希だとはわかっていないだろうが、それでも明日音の頼みだ。

 「……………………わかった」

 何より明日音の言うことも一理あった。ジャンブルは何故か友希に対しては完全に無視を決め込んでいたし、先日のジャンブルと違ってどんなに殴っても気を引くことができなかった。明日音が友希の側にいれば、それができる。

 あとの問題は明日音を守りきることができるかどうか、そしてジャンブルを見事撃退できるかという二点だ。

 出来るかどうかはわからない。

 しかし、友達を守るという使命感はものの見事に燃え盛る。

 「私が守るから……絶対に!」

 わずか数メートルにまで迫ったジャンブルを前に、友希は敢然と仁王立ちを果たした。

 「絶対……に……」

 果たしたのだが、目前のジャンブルが天井に届こうかというほどに肥大化しているのを見て思わずたじろいでしまった。

 本当に大きくなっているのか単に膨れているのかは知らないが、おかげでジャンブルの横をすり抜けることはできそうもない。

 それどころか、ジャンブルは友希たちにそのまま浴びせかかってきたのだ。

 「――わああああっ!」

 友希はあらためて明日音を抱えて駆け出した。さすがにこの状況では三十六計なんとやらだ。

 とにかく友希は廊下を走る。幸い教室内に生徒はいないし、廊下を全力疾走する友希を咎める教師もいない。ちょくちょく振り返って後ろを確認すると、ジャンブルはちゃんとついてきている。未だに明日音がターゲットのようだ。

 「えぇっと……とにかく、もうちょっと広い場所…………広くて、誰もいない場所……」

 頭に学校の地図を思い浮かべながら、友希はなおも走った。

 車のドリフト走行さながらにブレーキ痕を刻みながら廊下の角を曲がると、そのすぐ後ろにチョコレートの洪水が押し寄せる。

 知恵をつけたのか、その移動スピードは先ほどまでの比ではない。

 「場所…………場所……! えぇーいっ!」

 迫るジャンブルに焦った友希は、苦し紛れに傍らの窓をぶち破って外に出た。

 それが偶然にも功を奏した。あまり広いとは言えないが飛び出したそこは誰もいない、戦うのには適したスペースだった。

 「…………よし。ここにいて、動かないで」

 「あ……はい」

 明日音を近くの木陰に置いて振り向くと、ジャンブルもその場に到着していた。あらためてそのジャンブルと対峙する友希は、あらためて覚悟を決めるのに必死だった。

 (とにかくこいつをどうにかしなきゃ…………ほかに方法ないし、こうするしかない)

 ダメージを与えるメドも立たず、一歩間違えば即敗北という苦しい状況。しかし戦わなければ明日音を守れない。

 「やるしか…………ない!」

 友希は無理矢理自分に言い聞かせて地面を蹴った。

 そのまま思いっきり腕を振るいながら、ジャンブルの身体を抉るようにしてその横を駆け抜けた。立ち止ると腕についたチョコレートを振り落して再度身構える。

 ジャンブルに捕まらないための一撃離脱戦法、友希に思いつくのはこれぐらいだった。それでもいつ捕まるか知れない。

 友希は胃痛を堪え、震える脚をどうにか前に出して次の攻撃に移った。

 「――でええええええいっ!」

 ジャンブルを中心に、縦横無尽に往復を繰り返す。

 その度にジャンブルの身体を打ち砕き、チョコレートの飛沫(しぶき)が舞った。だがその傷は瞬く間に塞がってしまう。見た目にも容積が減っているようではなく、しかもジャンブルはジリジリと明日音に向かって前進さえしていた。

 傍からは友希の一人相撲に見えるだろう。それでもダメージを与えているのだと信じるしかなく、友希はひたすらに攻撃を繰り返した。

 が――

 「――あっ!」

 何度目かの攻撃、右腕には妙に重い感触があった。

 ジャンブルの身体を殴り抜けることができない。とっさに腕を引き抜こうとするが、その腕はやはりガッチリと締めつけられてそれもままならなかった。

 「あっ……あっ……!」

 とうとう捕まってしまった。幸いにも先ほどのように友希を飲み込もうとはしなかったが、ジャンブルは友希の右腕を取ったまま明日音に向かって動き始めた。友希は一緒に引きずられてしまう。

 「っうんぬぅ〜……!」

 友希はさっき捕まった時と同じように力の限り足を踏ん張ってみたが、今度は腕を引き抜くことができず、地面に二本の溝を刻みながらズリズリと引きずられる。

 そうしている内にも、ジャンブルはどんどん明日音に近づいていく。とにかく是が非でも明日音にチョコレートをプレゼントしたいようだ。

 「うぅ〜っ! それだけは……!」

 絶対に防がなければならない。明日音のことを守ると約束したのだ。

 こうなれば、もはやなりふり構ってはいられない。

 「こうなったら…………あっ」

 なりふり構わず切り札を切ろうとしたところで、左腕しか自由が利かないことを思い出した。この技は手の甲についているボタンを押さなければ使えないのだ。右手はジャンブルに捕まったままであり、左手の甲のボタンを左手で押せないのは当然の話だ。

 『ちょっと! 何考えてるの!?』

 そうこうしていると、綾乃がその行動を止めに入ってきた。

 『まだ早いわよ! もっと弱らせてから……』

 「それじゃあ間に合いませんよ!」

 『だから対策を今考えてるって!』

 「待てません! 行きますっ!」

 綾乃の制止を振り切って攻撃を強行しようとする友希。しかしボタンを押せないことには変わりない。

 ならば――

 「……………………えぇいっ!」

 友希は左手の甲を思いっきり額に打ちつけた。

 そうすることでエネルギーのチャージが始まった。要する時間は三秒、そして――

 「―たああああっ!」

 その左手で拳を握り、ジャンブルに打ち込む。

 激しい閃光とともに、一際盛大にチョコレートの飛沫が舞い散った。

 「っぅ…………よし」

 閃光に目が眩んだ上に盛大なチョコレート飛沫を被ってしまったが、捕まっていた右腕がようやく解放された。これで万全だ。

 「ヒーローさん!」

 右腕の無事を確かめていると明日音の悲鳴のような声が飛んだ。

 気づけば、ジャンブルは明日音にあと一歩いう所まで迫っていた。驚いたことにブラスナックルを受けても構わず歩みを進めていたらしい。

 だが今の攻撃で確かにジャンブルの力が緩んだ。

 もう一歩、今ならそう確信することができる。

 『止めなさいっ!』

 「止めませんっ!」

 再びの綾乃の制止もなんのその、今度はしっかり左手で右手のボタンを押した。

 「これで……」

 三秒間のエネルギーチャージ、友希はその間、大きくスタンスを取って真っ直ぐにジャンブルを見据える。

 ジャンブルは明日音に襲いかかろうと、その身体を壁のように大きく屹立させたところだった。

 そして、三秒が経過した。

 「終わりだあああああああっ!」

 必殺の気合いをその口から迸らせながら、友希は猛然とジャンブルに向かって駆けた。

 友希の右拳が真っ直ぐジャンブルに突き入れられ――

 「――っ!」

 今日二度目の閃光が一瞬周囲を照らした。

 「…………」

 そのまま、辺りを静寂が包み込んだ。

 友希も、ジャンブルも、明日音でさえ口をつぐんで硬直していた。

 そうして――

 「……………………っ」

 友希がわずかに身動ぎすると同時に、全てが動き出した。

 そびえるようにその身体を立ち上がらせていたジャンブルが、割れた水風船のさながらに弾けて友希に降り注いできた。先日のジャンブルはチリになって消えたが、今回はそうはならないようだ。

 が、倒したということさえ事実ならば、あとはどうでもいい。

 そんなことを考えて気が緩んだのか、綾乃の言うブラスナックルの負担からか、不意に友希の意識が途切れる。

 そのまま友希は、頭上から降り注いできた大量のチョコレートに押し潰された。

 「あっ……」

 目の前が暗転する間際、必死に手を延ばす明日音の姿を見た気がした。

                       ***

 「……………………ん」

 薄らと開いた友希の目に映ったのは空だった。

 これでもかというほど気持ちよく晴れ渡った、憎らしいくらいの青空だ。

 どうやら気を失っていたようだ。強化スーツを着て戦ったのはこれで二度目だが、そのいずれもすんなり終えられないのが情けない。

 「うへえ…………すごいなあ、これ」

 手を目の前にかざして握っては開き、身体の無事を確かめる。深刻な異常はないが、全身がチョコレートまみれなっている。スーツの中にまで入り込んでいて気持ちが悪い。

 「先生に……怒られちゃうかなあ?」

 あまりそういうタイプにも見えないが、それでも自分のつくったこの強化スーツに対する愛着は一入(ひとしお)に感じる。友希の有様を見てまなじりを吊り上げる綾乃の顔を思い浮かべるのは難しくなかった。

 そんな想像に苦笑する友希の頭上から声が降ってくる。

 「大丈夫ですか?」

 目の前にかざした手の向こう、その手とは別の何かが太陽の光を遮った。

 それが誰のかは考えるまでもない。友希がゆっくりと手を下ろすとそこには期待通りの顔があった。

 「あ……」

 明日音だ。明日音がやんわりと微笑みながら友希を見下ろしていた。その顔は友希と同じくチョコレートまみれだ。

 「あ…………あなたは、大丈夫だった?」

 一見してケガなどは見当たらなかったが、念のためそう尋ねる。

 返ってきたのは、友希の心配などきれいに払拭してしまうほどノンキ極まりない笑顔と言葉だった。

 「はい、私は大丈夫ですよ。全然ケガとかもしてないですし」

 「よかったあ…………でも、どうしてそんなことに?」

 「そんな……? ああ、これですか? 実はあの時、ヒーローさんを助けようととっさに手を延ばしたんですけど、わたしなんかでどうにかできるわけでもなく…………巻き込まれちゃいました」

 「巻き込まれたって…………本当に、ケガとかないの?」

 「もう、大丈夫ですって。まあ……あそこからヒーローさんを引っ張り出しつつ這い出るのはちょっと大変でしたけど。あっ、そういえばあのチョコ、結構おいしいですよね。こうしてチョコまみれになるのも、案外悪くなかったかも」

 そう言ってコロコロ笑う明日音はやはりノンキそのものだ。下手をすれば大ケガをしていたかもしれないのに。明日音は友希が思っていた以上に肝が太いようだ。

 「………………………………はあ」

 ただ、明日音が無事でいることは間違いないようだ。友希は小さく胸を撫で下ろす。

 「ん……?」

 そうして生まれた心の余裕からか、友希は自分の置かれている状況を意識し始めた。

 仰向けになっている友希を、ほとんど真上から見下ろしている明日音。よくよく感覚を凝らしてみると、後頭部にだけ何やら柔らかい感触があった。

 もはや確認するまでもなく、友希の頭は冷静に結論を下した。

 その瞬間、冷静さは遥か彼方に吹き飛んだ。

 「――わっ!?」

 明日音が小さな悲鳴を上げた。

 友希の頭が破裂したのではないかと思うほどの勢いで沸騰し、顔が真っ赤に染まる。身体にまとわりついたチョコレートは、きっと凄まじい勢いで溶け出していることだろう。対して、頭も身体もカチコチに強張り、まとも動きはしない。

 大げさかもしれないが、友希にとってこの状況はそれほどの緊急事態だったのだ。そう、ジャンブルが現れることよりも、遥かに。

 「あ……あの……」

 「はい?」

 「もしかして……ひ…………膝枕、してくれてます?」

 何故か敬語になりながら尋ねる友希。

 「ああ、はい。膝枕してますよ」

 明日音はあっさりとそう答えた。

 「あ……や、やっぱり……」

 「はい……もしかして、嫌でした?」

 「そ……そんなこと、ない……です」

 そう、そんなことは決してない。明日音に膝枕されるなど天にも昇る想いだ。しかし反面、夢にも思わなかったこの状況に激しく気が動転し、極度の緊張を強いられてもいた。

 「ぅ〜……」

 さりとて即座に跳ね起きてこの状況を脱するのも惜し……いやはばかられる。

 そうして止むを得ず明日音の太腿の感触を堪能していると、またも頭上から声が降ってきた。

 「……ありがとうございます」

 「へ……?」

 「助けてくれて、ありがとうございます、一昨日に続いて何度も。危ないことに自分から首を突っ込んで、私が勝手に危険な目に遭ってるのに」

 「あ……や…………そんなこと……」

 「そんなことありますよ! 謝らなくちゃいけないし、お礼も言わなくちゃいけないし」

 明日音は笑っている。それまでとは違って、どこか安らいだような笑みだ。

 そんな笑顔を見ていると、友希は唐突に認識した。

 守ることができたんだと。

 大切な友達、そしてジャンブルの脅威に脅かされた一人の人間を(明日音は自分から危険に飛び込んで来たのだが)。

 友希の胸に温かいものが込み上げてきた。以前助けた時のように胸が高鳴って、明日音と同じく安らいだ気持ちになる。それがとても心地いい。

 (ああ……そうか……)

 ふと思い至る。歩や綾乃たちも、きっとこんな気持ちだったのではないかと。

 この学校の生徒や一般市民、ジャンブルに抗う術を持たない人々を守るアテナの園。しかし彼女たちに陽が当たることはない。それでもそんな仕事に身を削ることができるのはきっと、この明日音のような笑顔をやりがいにしているからではないのか。

 ありがちと言えばありがちだろうが、そんな笑顔を今まさに目の前にするとはっきりとそれを実感できる。そしてそれは、簡単に手にできるものではない。誰にでもできることでも。

 「あっ……もう、大丈夫なんですか?」

 友希はそんな想いを噛み締めながら、身体を起こした。

 「うん……私、もう行かないと」

 「そうなんですか…………あの、本当に、ありがとうございました。いつか、必ずお礼しますから」

 「ううん……」

 「えっ……?」

 友希は小さく首を振りながら立ち上がった。

 チョコレートまみれの明日音がポカンとした表情で見上げてくる。

 友希は、その瞳を真っ直ぐに見つめた。

 「もう…………お礼はもらってるから」

 「え? それは……どういう……あっ!」

 戸惑った様子の明日音が言葉を返してくるより前に、友希は高々と跳び上がった。

 一歩目で校舎の中ほどの壁にまで達し、続く二歩目で屋上へ。それでもう明日音の姿は見えなくなった。

 それでも、明日音の笑顔が友希の頭から離れることはなかった。

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