第四話
「おはよう…………明日音、ちゃん。昨日は、本当にごめんなさい」
朝の教室、友希は明日音を見つけるなり開口一番にそう言って頭を下げた。
「ううん、仕方ないよ。友希ちゃんの方こそ、大変だったみたいだね」
明日音は特に怒る様子もなく、それどころか友希のことを労ってさえくれた。感謝と申し訳なさで言葉もない。一方で、もし真実が知れたらどう思われるだろうかと考えると胸がキリキリと痛みもするのだが。
昨日、友希はジャンブルとの初めての戦闘を経験した。
戦い自体はこれと言ったケガもなく終えたもののその直後に問題が発生。極度の緊張と疲労、そしてサイズが合っていない強化スーツのよる締めつけからの解放(主にこちらが原因と思われる)によって胃の内容物を盛大にリバースするという恐るべき惨劇を引き起こしてしまったのだ。
その状態から心身ともに回復するために大いに時間を要してしまったわけだが、問題は一緒に帰る約束をしていた明日音の存在だった。
普通に考えればジャンブル騒ぎでうやむやにはなるところだろうが、それでもそのまま放っておくことにはどうしても抵抗があった。しかし携帯電話の番号やアドレスを交換していなかったという致命的なミスもあり、連絡のつけようがなかったのだ。そこで気は引けたが、その場にいた人間で友希を除いて唯一明日音と面識のある歩に、謝罪の言葉を託してその日は決着となった。
生徒会長である歩を伝言役に使うなどこれまた恐縮で胃が張り裂けそうではあったが、その甲斐あって今朝も明日音とは友好な関係を維持している。
「それにしても、昨日はどんな用事だったの? 友希ちゃんがいきなり倒れちゃうくらいすごい用事だったの?」
とはいえ、明日音がそのことに興味を持つことは無理もないことだった。
「えっ? あぁ、うーん……」
もちろん、歩に固く口止めされているのでそれをおいそれと口にするわけにはいかない。もしそれを破った時のことを想像すると、それだけで震えが来るというものだ。しかし明日音の方は、歩にそれとなく諭されたにもかかわらず興味津々の様子だ。
「そ、それはね……」
だが友希も、いつまでも守勢に回ってはいない。こんな状況を想定した歩からそういった相手への言い訳の言葉を授かっているのだ。
「せ……生徒会で、働かないかって誘われたの。いきなり役員ってわけじゃなくて、細々した仕事のお手伝いをって」
「生徒会に!? 友希ちゃん凄い! …………でも、どうしてそんないきなり生徒会なんて……?」
「昨日の昼休みのあれ……見てたらしくて。ほかの生徒を身体を張って助けた私はふさわしい……って言われた」
これは本当だ。自分にはもったいない言葉だとは思うが。
「そうなんだあ…………うん、確かにそうだねよ」
明日音はそれにうんうんと頷いてくれた。
途端に気恥ずかしくなって友希はあらぬ方向に視線を逸らす。
「ところで、それでなんで倒れたりしちゃったの?」
「――えっ!?」
しかしここで、明日音が痛いところを突いてくる。無意識にではあるだろうが、友希にとってはここが最大の肝なのだ。
「え、えーっとお……」
友希はあらかじめ歩から授けられていたその“肝”を口にする。
「い…………いきなりあんなこと言われて、その……緊張しちゃって。それがあまりの緊張で……パッタリと……」
言いながら思う、言い訳としてはあまりにも苦しいのではないか、と。
極度の緊張で倒れる人間など、果たしてこの世にどれだけいるだろうか。
しかし友希が考えたところでこれ以上の言い訳など考えつかなかったのも事実だ。友希は密かに大量の冷や汗をかきながら明日音の様子をうかがう。
「そうなの? そのあとはなんともなかったの? 人が怖くなったりとかしてない?」
信じた。いとも簡単に。
その上心配までされてしまった。今の言葉が紛れもない嘘であるだけに、心苦しさもひとしおだ。
「それは……大丈夫。みんないい人たちだったし」
一瞬綾乃の顔が違和感として浮かんで消えたが、気づかなかったことにしよう。
「それで、結局どうしたの?」
「どう……?」
「生徒会に入らないかって誘われたんでしょ? それで友希ちゃんはなんて答えたの?」
「ああ、うん……」
実は生徒会の件に関しても半分は本当だ。ジャンブルの撃退はあくまで内密な仕事であり、表向きは“雑用手伝い”として生徒会に出入りすることになるらしい。
もっとも、歩の誘いを正式に受ければの話だが。
「実は……まだ返事はしてなくて」
リバース事件のあと、歩たちは後片づけで大わらわ、友希自身もまともに物事を考えられる状態ではなかったのだ。よって返事は今日に持ち越しということになった。
「ふうん、そうなんだ」
「うん……だから、今日の放課後にまた生徒会室に行かないといけなくて……」
「そっかあ…………え、放課後?」
「う、うん……」
なるべく自然に進めたかったが、明日音は思いのほか鋭い反応を示した。
この先の話は、明日音に対しても自分自身にとっても気が重い。
「だ、だから……」
「私、今日も待ってようか?」
「ううん……今日も、時間かかるかもしれないから、先に帰ってて欲しいの」
「でも……」
「あ……明日! 明日はきっと大丈夫だから」
「むう〜……残念」
明日音はそう言って口を尖らせた。
だが、友希はそれ以上に残念なのだ。友達をつくるために高校デビューを目指してこの学校に入学した友希にとって、ようやくできた友達と一緒に寄り道をして帰るということは最重要イベントの一つなのだ。それが実行できないこの状況は何よりも歯痒い。
明日音と寄り道イベント、未だ実行できず。
「ご……ごめんね、明日音ちゃん」
「う〜ん……でもまあ仕方ないよ。また明日、だね」
「うん」
「おはよー……っと、二人ともなんかしんみりしちゃってるわね。どうしたの?」
そこへ瑞穂が登場、今日も朝からハツラツとしている。
そんな瑞穂に、明日音がこれまでの経緯を説明する。
「へえー……そんなことあったんだ。まあ無事で何よりだったわね。でそれはさておくとして、私としては予定がズレ込んでくれてラッキーな感じよね」
「まあ、それは確かに。これで三人一緒に行けるもんね」
「そういうこと。あぁ、無事と言えばさ……」
置いてけぼりを逃れてホッと一息といった様子の瑞穂が、何やら自らの言葉に反応を示した。深刻とまではいかないものの、明るい話題を振ってくるような表情ではない。
「昨日の放課後、校内にジャンブルが出たって話じゃない? 羽谷川さんのこと待ってたっていう明日音は大丈夫だったの?」
話題は昨日出現したジャンブルのことだった。それは真面目な顔にもなる。
「えっと……それなんだけど……」
瑞穂の質問に明日音は口を澱ませた。
無理もない。ジャンブルが出現した時に逃げるどころか止めようとしたなど、驚愕的な事実にもほどがある。それが自分の友達ともなれば、瑞穂の心痛は察して余りある。あの時の友希もそうだったのだ。
それでも明日音は包み隠さず当時のことを瑞穂に話した。
友希もその一部始終を知ってはいるが、ここは初めて聞いたという態度を取っておかなければならない。そうでなければツジツマが合わないのだ。
「あんたは…………またそんなことやったの?」
案の定、瑞穂による小言が始まる。が、友希が予想していたのとは若干趣が違うようだ。
「これまで運よく何事もなかったけど、それがいつまでも続くとは限らないのよ? 少しは自重しなさい」
「うぅっ……ごめんなさい」
「あの、大野……さん、明日音ちゃんはいつもそんなことしてるの?」
「いつもっていうか、その場に居合わせた時にだけど。本当に向こう見ずって言うかなんて言うか……ま、ストレートに言ってバカよね」
「瑞穂ちゃんヒドいっ!」
「何度言っても聞かない娘はバカそのものですっ!」
「あ……ははは……」
明日音の非難の声も瞬時に斬って落とす瑞穂。やはり強い。
「むぅ〜……あ、そういえばその昨日のことなんだけど……」
しかし明日音も気落ちすることなくすぐさま切り返してきた。こちらも強い。
「まだ何かあったの?」
「うん。私昨日、初めて例のヒーローに会ったんだ」
「――えっ! 本当に!?」
「うん」
明日音の言葉を聞いた途端、瑞穂の目の色が変わった。普段より一オクターブ高い声で明日音に詰め寄る。
「それって何? 要するに、助けられたってこと?」
「そういうことに…………なるかな」
「ウッソ! 何よそれ…………先に帰るんじゃなかった……!」
瑞穂は頭を抱え、悲嘆に暮れる。普段の瑞穂からは想像できないその様子に友希はしばし呆然とする。
とりあえず、こういうことは相手のことをよく見知った人間に聞くのがよい、そう考えた友希は明日音にソッと耳打ちをした。
「ねえ…………これって、どういうこと? 大野さん、どうしてあんな……」
「ああ、瑞穂ちゃんってね、ああ見えてヒーロー好きなんだよ」
「ヒーロー?」
「本人は恥ずかしがって公言はしてないけど、特撮とかマンガとかアニメとか……そういうので正義の味方が活躍するみたいなのが大好きなの。それで、実際にいるヒーローに会いたがってるんだけど……会えずじまいでこんな感じ?」
「へ、へえ……」
これはなかなか意外な事実だった。どちらかと言えば大人びている雰囲気を持つ瑞穂がまさかヒーロー好きとは。瑞穂の悲嘆ぶりを見ればそれが相当なものだということもなんとはなしに感じられる。
と、ここでもう一つ疑問が生じた。
「その……実際にいるヒーローって?」
瑞穂が会いたがっている相手、そして昨日明日音を助けた人物、それはイコールであるようでイコールではない。友希は昨日初めて強化スーツを身にまとってジャンブルと戦った。しかし瑞穂が会いたがっているヒーローはそれ以前から存在していたのだ。
「そっか、友希ちゃんは今年こっちに来たんだったよね。知らなくて当たり前か」
「うん……それで?」
「ジャンブルが出現し始めてしばらくした頃だったかな? そのジャンブルと戦う人たちが現れたの。その時々によって違う人みたいだけど、その人たちはジャンブルが出現すると誰よりも早くその場に駆けつけてそれをやっつけてくれた。どこの誰かもわからないけど、町のみんながその人たちをジャンブルから自分たちを守ってくれるヒーローだって称えたの。瑞穂ちゃんが会いたがるのもわかるでしょう?」
「そうだったんだ……」
明日音の解説に感心しながら友希はうなずく。
どうやらそのヒーローとは、これまであのスーツを着て戦ってきた歩たちの仲間なのだろう。一人は入院しているらしいが、ほかの人は卒業したというようなことを言っていたからおそらくその時その時にあの組織に属して戦う生徒たちがいたのだ。丁度、今の友希と同じように。
そうして町に人々にヒーローと慕われている。そう考えると無性に照れ臭くなる半面、想像したより重い役目であるというプレッシャーが圧しかかってくる。
「ところでさあ……」
「――うひゃあっ!?」
そんな風に明日音と顔を突き合わせて話していると、いつの間に立ち直った瑞穂の顔がズイッとその間に割り込んできた。友希と明日音は思わずそろって悲鳴を上げた。
「お、驚かさないでよ瑞穂ちゃん!」
「あら失礼ね。人をお化けか何かみたいに。で、さっきから気になってることがあるんだけど」
「……何? 気になるってることって」
「いつから二人は名前で呼び合うようになったのよ」
「――えっ!?」
「ああ……」
瑞穂の指摘に友希は過敏な反応を示してしまう。一方で明日音は“そういえば”といった風にアッサリと答えた。
「昨日からだよ。放課後、桐沢会長に会う前に」
「ふうん……」
それを聞いた瑞穂の顔がなぜか友希の方に向く。
何故か、悪戯っぽい笑みを浮かべて。
「昨日の今日で随分仲がいいわねえ」
「あ、いや……その……」
「もう…………そういうの止めてって言ったでしょ? 友希ちゃん困ってるじゃない」
「いやねえ、そりゃあ昨日は少し話しただけだったけど、私の立場はどうなってるのかしらって思って」
「えっ……?」
瑞穂の口から思ってもみない言葉が飛び出し、友希は身をすくませた。
そして、明日音も瑞穂に同調する。
「そういえば……そうだねえ」
「――えぇっ!?」
「あら、友希は私のこと名前で呼ぶの嫌なんだ。明日音のことは呼んでるのに……」
「や、それは、その……」
「ねえ友希ちゃん、瑞穂ちゃんも名前で呼んであげて。確かに昨日も一悶着あったけど、私のことはちゃんと呼べてるじゃない」
「あ……え……?」
「いいのよ明日音。そんなに無理強いするものじゃないわ。友希にとって私は、まだ友達と呼べる立場じゃないっていうことよ」
「そ、そんなこと……」
まさかの二人同時攻撃。しかも気づけば、瑞穂はすんなりと名前呼びに切り替えている。羨ましいほどの即断即決だ。
「友希ちゃん、ほら……」
「う……あぅ……」
水も漏らさぬ包囲網に友希は青褪める。
しかしここで呼ばなければ、せっかく知り合った瑞穂と大きく距離を空けてしまうことになる。またそうなることで、明日音との関係までギクシャクしてしまう可能性だってある。
(それだけは絶対に避けないと…………大丈夫、明日音ちゃんのことは呼べたんだから、大野さんだって……)
名前で呼べるはず、いや呼んでみせる。友希はそう心に決めて震える口を開いた。
「み……」
「み……?」
「み……っ!」
「「み……っ!?」」
二人が詰め寄ってくる。友希は――
「み…………っか前の晩ご飯はなんだったかなあ……」
「――だあっ!」
「いやいやいやいやいや……!」
見事にくじけて見せた。
「友希ちゃんっ!」
「ごまかすにしたってもっとあるでしょう!」
もちろん二人からはダブルでツッコミを受けた。明日音も普段にはない勢いで迫ってくる。
「いや、そうじゃなくて……」
「……いいわ。ごまかしじゃないって言うんなら思い出してもらおうじゃない。三日前の! 晩ご飯とやらを!」
「――えっ!? えっと……」
「さあ……! ほら!」
心なしか目がすわって見える。今にも友希のことを取って食わんばかりの勢いだ。
だが、狙いはまさに今この時だ。
「な、なんだったかなあ…………瑞穂ちゃんこそ、覚えてる?」
「私? 私は…………んっ?」
とっさに聞き返してその答えを待とうとした友希だったが、答えが返ってくることはなかった。代わりに瑞穂は、先ほどと同じように悪戯っぽい笑みを浮かべてこちらを見ている。明日音も驚いたような表情だ。
「友希ちゃん……」
「……………………今のは、何かなあ……友希?」
「いや…………その……」
「なあに……? わざわざそういう遠回しなやり方じゃないとダメってわけ?」
「だ、だって……」
瑞穂の執拗な追及に友希はタジタジになる。
友希の目論見は瑞穂の前に呆気なく潰えた。一旦くじけたように見せかけてどさくさに紛れて瑞穂を名前で呼ぶ、これが友希の考え出した妙手だったのだ。しかし、瑞穂の気を引けたのはほんの一瞬といった始末だ。さらにはその様子から察するに明日音にもすぐに気づかれてしまったようだ。
(なんか…………明日音ちゃんには気づかれないだろうって思ってごめんなさい)
友希は心の中で明日音に陳謝した。さておき――
「ほらほら、今度はちゃんと呼んでみなさいよ」
「友希ちゃん、ほら……」
「うっ……」
瑞穂の追及は終わってはいなかった。
「でなきゃずっとここに居座るわよ」
「じゅ、授業が始まっても?」
「むっ……も、もちろん!」
「うぅっ……」
瑞穂の決意は固いようだ。少し間があった気はするが。
「……………………うん。わかった、瑞穂ちゃん」
ついに観念した友希は、今度ははっきりと瑞穂の名前を呼んだ。ただどさくさに紛れてとはいえ、一度呼んでいたことで思いのほかすんなり出てきたのは幸いだった。
「やったあ! 友希ちゃんすごい!」
その一言に明日音はえらい喜びようだ。なんだか逆に情けなくなってくる。
「うむ、素直でよろしい……ってほら、そんなしょぼくれた顔しないの。本当に面白いわねあんたは」
「うん……」
「はいはい、無理強いして悪かったわよ。昨日の分も含めてなんかおごってあげるから。まあ今日は無理なんでしょうけど」
「…………うん」
二度目の“うん”は一度目より力がこもっていた。我ながら現金だが、“おごる”という言葉はかくも偉大なのだ。
そこにおりよく始業のチャイムが鳴った。
教室は一瞬の慌ただしさのあとに静まり返り、担任教師が入ってくる。そうしてつつがなく進んでいく朝のワンシーンに参加しながら、友希はあらためて気を取り直した。
(……こんなところでいつまでも落ち込んでるわけにはいかないよね。放課後の相手はもっと手強いんだから)
友希は来たるべき時に想いを馳せながら、担任の言葉に耳を傾けていた。
***
放課後。明日音たちと別れた友希は人気のない廊下を歩いていた。
せっかく明日音と友達になり、かなり強引だったとはいえ瑞穂ともお近づきになれたというのに一緒に帰ることができない。その点に猛烈に後ろ髪を引かれたが、こちらが先約なのだから仕方がない。友希は泣く泣く目的地を目指していた。
周囲にほかの生徒はいない。放課後とはいえこれは奇妙な光景だった。この状況が、友希の目指している場所がいかに特殊な場所であるかを表しているようだった。
そうして友希は、目的地に到着する。扉に掲げられているプレートは“生徒会室”だ。
友希は何度か深呼吸して、震える手で扉をノックした。
「どうぞ」
するとすぐさま、中から声が返ってきた。
「失礼します」
扉を開けると、歩が昨日は素通りしただけだった机に着いて何やら書き物をしている最中だった。放課後にも仕事が待っているのだから生徒会長とは多忙なものだ。
そんな感慨にふけっていると、不意に書く手を止めた歩が顔を上げる。
「よく来てくれたわね。それじゃあ行きましょうか」
「――へっ?」
そして口を開くなり、そんなことを言ってくる。
「行くって……どこへ……?」
「地下施設に決まっているでしょう? ジャンブルはいつ現れるかわからないのよ、準備は急がないと」
席を立つ歩からは有無を言わせぬ雰囲気が漂っていた。
しかし、ここで流されては取り返しのつかないことになりかねない。友希は勇気を振り絞って歩を呼び止める。
「あの…………私、まだ返事は……」
「あら、今日ここへ来たことが返事なのではないの?」
「そ、そういうわけじゃ……」
しかしそんな勇気はいとも簡単に吹き消された。友希は涙ぐみながら瞬時に身体を縮こまらせる。それほどのプレッシャーが歩から放たれているのだ。
正直なところ、迷ってはいる。確かに恐ろしく危険も伴う役目だが、ジャンブルと戦う者がいない今は友希だけがそれを全うし得るのだ。昨日明日音が襲われたことを思えば、友希としてはことさらその役目が重いものであると理解できる。
だがやはり一方で、その重さに耐えかねている自分もいる。思考は堂々巡りだ。
が――
「ではそれはそれとして、準備だけもしておきましょう」
「準備だけって……?」
「また昨日のようにジャンブルの撃退を頼むことがあるかもしれないわ。そんな時に、不備のあるスーツでは不安でしょう?」
「いやそれはそうですけど…………というか、もう私が戦うのが前提に……」
「昨日は進んで戦うと言ってくれたのに?」
「それは……」
「あの時襲われていたのが友達だったから? ほかの生徒なら助けにはいかなかった?」
「うぅっ……」
歩はその場から一歩たりとも動いていなかったが、心理的にはズズイと友希に詰め寄ってくるようだった。そうして、昨日もこんな調子だったということを今更ながら思い出す。あの時ジャンブルが出なければきっとそのまま押しきられていただろう。今もまさにそんな状況だ。
「――っ!?」
そんな歩が、一歩踏み出してきた。とうとう物理的にも詰め寄ろうという構えだ。
顔はいつもの無表情、それが一歩一歩ジリジリと近づいてくるのだからそのプレッシャーたるやジャンブルをも軽く凌駕するのではないだろうか。
「う…………うぅ……」
「さあ、どうするの?」
歩の石膏像のような顔がヌオッと迫る。
「うぅ……! わ……」
「さあ……」
そしてついに――
「わかりました! 協力させていただきますっ!」
友希は思いっきり目を伏せながら無心にそう答えた。
鼻先にまで迫った歩の顔に、揺れ動いていた振り子は強引に振りきられてしまったのだ。
「…………」
その言葉を聞いた歩はピタリと足を止めた。友希との距離は十センチもない。
歩は、いやに無言だった。せっかく答えたというのに、それに対するリアクションが全くない。
不審に思った友希は恐る恐る歩の顔を覗き込んだ。
すると、世にも珍しいものを目にしてしまった。
(えっ……)
歩は、柔らかな笑顔を友希に返してきたのだ。
「……ありがとう。昨日あんなことがあって、引き受けてくれるかすごく不安だったの。そう言ってくれてとても嬉しいわ」
それは、友希が初めて見た歩の笑顔だった。
歩はわずかに身を引いて友希と適度に距離を離すと、スッと右手を差し出してきた。
「ようこそアテナの園へ。大変だとは思うけど、これからよろしくお願いするわね」
「…………こちら、こそ」
友希はその手を遠慮がちに握ってそう答えた。
その時には、直前までの歩に対する恐れは消えていた。
「おっ、来たわね新入り」
そのあとすぐ、友希は昨日訪れた研究室に通されていた。そこには部屋の主である綾乃と、昨日はオペレーションルームにいた武田という女生徒が待ち構えていた。
「来たってことは、仲間になることに決めたのね?」
「はい…………これから、お世話になります」
「こちらこそ。まあ、基本的にはあなたの方が苦労は多いだろうけど」
「あ、ははは……」
綾乃の歯に衣着せぬ物言いに、友希は苦笑しながら頬をかく。
「雨宮先生は昨日紹介したわね。あと、こっちのこの娘が……」
「武田紅葉。昨日も会ったわよね? この学校の二年で、一応あなたの先輩よ。これからよろしくね」
「は、はい……よろしくお願いします」
さらに、もう一人の女生徒が朗らかに自己紹介をしてくれた。これにて名実ともにアテナの園に仲間入りだ。重い不安が否応なしに友希を包み込む。
そこへ、歩が状況に区切りをつける。
「メンバーはまだいるけど、あとは追々紹介していくわね。それで今日は、強化スーツのフィッティングね」
「フィッティング……ですか?」
「ええ。昨日、スーツがキツいと言っていたでしょう。サイズに関してもそうだけど、細かい設定もあなたに合わせないと」
「なるほど……」
「……と! いうわけだから、とりあえず着替えてきなさい」
歩の言葉を受けて、綾乃がそう指示を出してくる。
「え……? でもサイズが……」
しかしこれは異なことだ。そもそも、サイズが合わないという話から出発したのではなかったか。
「ちゃんと測ってからの方が……」
「いいからいいから」
そんな友希の疑問も無視して綾乃はグイグイと友希の背中を押してきた。
仕方なく友希は、昨日もお世話になった更衣室に入る。
数分後。
「あの……これは、どういうことですか?」
強化スーツに着替えた友希はさらなる疑問を抱えて綾乃たちの前に立った。
「どういうことって?」
「どうして…………昨日の今日でこんなピッタリサイズに……?」
腕を捻ったり腰をねじったりしながら、友希はその疑問を率直に口にした。よもや、友希が気を失っている間に身体のサイズを測られたのではないだろうか、そう思うと顔から火が噴き出るような心境になる。
「それは…………私が測らせてもらったわ!」
「――はいっ!?」
しかし、その予想は違っていた。そしてそれを明かしたのは、なんと綾乃ではなく半歩後ろに控えていた紅葉だった。
「測ったって……どうやって?」
「あのスーツには、いたるところにセンサーが備えつけられているのよ。でもそれだけじゃ足りない、そこで監視カメラの映像からあなたのサイズを割り出したわ。正確に言うと、監視カメラに映った周りの物との対比から計算したの」
「割り出したってそんな勝手な……第一、昨日の時点ではまだここに入るとも決めてなかったのに……」
「備えあれば憂いなし!」
自慢げにそう語る紅葉。どこか綾乃と同じ匂いを感じる。この分だと、どんな秘密を調べ上げられるかわかったものではない。
密かに戦慄する友希をよそに、綾乃と紅葉は着々と次なる準備を進める。
「それじゃあ引き続き各部の調整に入るわよ。モニターは私と武田、桐沢はまあ……立会いってことで。というわけだから羽谷川、ちょっと適当に動いてみて」
「適当に…………というとどういう……」
「適当は適当よ。まあ、ちょっと激しめにね」
「はあ、それじゃあ……」
そう言われて友希は肘や膝を曲げ伸ばしして身体を軽くほぐしながら研究室の一角の開けたスペースへ。
そして――
「――ふっ!」
前方回転から側転、宙返り、体操の床競技のように研究室内を跳ね回った。
「おおっ……!」
「――っ!?」
すると、それを見た綾乃たちから歓声が上がった。
同時に友希の身体が瞬時に縮み上がった。よりにもよって空中で。
「――ふぎゃっ!」
着地体勢を取れなかった友希はそのままものの見事に顔面から着地してしまった。
「ちょっとちょっと、大丈夫?」
「大丈夫? 羽谷川さん」
「ふあい、なんとか……」
鼻をさすりながら友希は顔を上げた。その言葉通り大事はない。頑丈な身体に産んでくれたお母さんに感謝だ。
「一体どうしちゃったのよ? 途中まではよかったのに」
「はい、その…………先生たちに見られてるっていうのを意識しちゃって」
「は……? 話が見えないんだけど」
「私…………人から見られてると身体が萎縮しちゃって、まともに動けなくなるんです。せっかくこんな力があるんだから、部活でもって思っても……そのせいで失敗ばかりで」
「はあ、なるほど……そりゃまた難儀ねえ」
「すみません……」
「別にいいわよ。それじゃあもう一回、今度は黙って見ててあげるから」
「それは、それで……」
「文句を言わずにサッサとやる!」
「――はっ、はい!」
そのあとも綾乃からキツーい檄を受けながら、友希はほとんど駆けずり回るような想いで調整は進んでいった。
***
(それにしても、見事なものね)
綾乃に言われるがまま動いて回る友希を見ながら、歩はあらためてそう思った。
昨日、明日音を助ける友希を見た時、歩は雷が落ちたような衝撃を受けたのだ。これほど常人離れした身体能力の持ち主はそうそういない、と。その時点でのアテナの園の状況も鑑みて即座に決断を下した歩は、その日の放課後には友希に声をかけるに至ったのだ。
そしてあの戦いぶりだ。
あの時友希が見せた動き自体は、歩の知る先輩たちのものと比べてもなんら遜色のないものだったのだ。確かにまだまだ戦いもぎこちなく、気弱で臆病な性格がマイナスに働きもしたが、それは追々鍛えていけばいい。それ以上に、あの優しい心根も得難い才能と言える。
友希はまさに、現在のアテナの園にとってこの上ない逸材だった。その友希が歩の誘いを受け入れてくれたことはとてつもない幸運だった。多少強引ではあったが。
そんな友希だからこそ――
「何を考えているんですか? 雨宮先生」
「えっ?」
生徒会長であり、アテナの園の長でもある自分がサポートしてやらなければならない。
「何って、なんのことかしら〜」
歩の問いかけに綾乃はあらぬ方を向いて口笛を吹く。いや、音は出ていないが。
「雨宮先生……!」
歩は氷河期のような冷視線を綾乃に向ける。
とぼけているつもりだろうが歩の目はごまかせない。直前の綾乃は、指示通りに動く友希を目で追いながら何かを言いたくて言いたくてウズウズしているという様子だったのだ。これはすなわち、友希に先ほどの顔面落ちを再現させようと企んでいるに違いなかった。
「先生、ある程度はコミュニケーションですむとしても、限度をわきまえてください。ああいう性格ですから、ふとしたことで不信を買いかねません」
「あら、随分あの娘のこと気にかけてんのね」
「当然です。何分現状が現状ですから。せめて、月島さんが復帰するまでは頑張ってもらわないと」
「はいはいわかりました。しばらくは加減してあげるわよ、あの娘が慣れるまでは」
「本当に…………よろしくお願いしますね」
こういった舵取りもまた歩の役目だ。少し打算的な気もするが、これもまた生徒会長としての業とでも言うべきものだろう。
そんなことを考える一方で、これはこれでまた心労が増えるのだろうという予感を嘆かずにはいられない歩だった。
***
「それじゃあ……今日は、これで失礼します」
「ええ、お疲れ様」
時計が午後六時を通り過ぎた頃、友希は歩とともに生徒会室に戻って来ていた。
スーツのフィッティングを終えたあと、アテナの園での心構えや生徒会の予備人員としての仕事について歩からレクチャーを受けた。それで今日のところはやるべきことがなくなり、友希はここで下校とあいなった。
「明日からまた大変だとは思うけど、よろしくお願いするわね」
「はい、こちらこそ」
歩の言葉に友希は笑顔を返した。
昨日の事件や歩の話から推察すると確かに大変そうではあるが、仮にも自分の口から。“やる”と言った以上はいつまでも腐っているわけにはいかない。唯一心配なのは人間関係、特に綾乃とは上手くやっていく自信があるかと言えば微妙なところだった。しかしこれもまた友希の高校デビュー計画の一環と思えば、努力をする気合も湧いてくるだろう。
(そういえば雨宮先生、今日は少し大人しかったような……)
しかし油断はできない、密かにそう肝に銘じながら友希は扉に手をかけた。
「それじゃあ…………さようなら」
「さようなら」
歩に負けないくらい折り目正しく別れの言葉を口にし、友希は生徒会室をあとにした。
昇降口を出てみると、そこは茜色の世界だった。陽は傾いて山際に沈みかけ、逆に水平線の向こうからは濃紺の空が迫ってきている。
時は夕暮れ、友希はゆっくりと歩き出した。
部活動をしている生徒などはまだ残っているようだが、友希の周りには誰もいない。いつも通り独りぼっちの帰り道だが、今日ばかりは余計にこのシチュエーションが物寂しく思えた。
やはりその原因は明日音だろう。
二日にも渡って明日音と一緒に帰る機会をふいにしてしまった。文字通り夢にまで見た友達との楽しい学園生活が微妙な所で空振りに終わっている現状が、友希の心に薄らと影を落としているのだ。早々に明日音という友達ができたのにオアズケを食らった状態なのもそれに一役買っているだろう。
「手が届きそうで届かない…………もどかしいなあ」
友希は沈痛な呟きとともにため息を吐いた。
すると――
「あれ……?」
そのため息に吹かれたかのように、側にあった植込みが揺れ動いた。
だがしかし、そんなことがあるはずはない。
「ん〜……?」
猫でもいるのだろうか、そう思って植え込みの中を覗き込む。
しかしそこには何もなかった。ただその植込みには、何やら茶色いものがへばりついていた。ふと香ってきた匂いから察するにチョコレート、誰かが食べきれなくなってここに放り捨てたのだろうか。
「もう……汚なあ」
どこぞのマナーを欠いた生徒(あるいは職員)に対してぼやく友希だったが、さりとてどうすることもできずに植え込みから顔を上げた。
気づくと、ついさっきまで空の大半を占めていた茜色が、早くも夜の紺色に押しやられていた。
「いけない、早く帰らないと」
近づく夜の気配に追い立てられるように、友希は足早に校門を目指して再び歩き始めた。
その時ばかりは明日音のこともアテナの園のことも、唐突に揺れ動いた植込みのことも、頭の中からは追い出されていた。